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命拾いの記 51年前のグライダー体験搭乗

目 次

命拾いの記 51年前のグライダー体験搭乗  かつお  
感想1 索切れについて 大石直昭 2005/06/18
感想2 曳航索の脱落について 伊藤憲一 2005/06/18
感想3 グライダー訓練の思い出 超空豚はねぶた  2005/07/12
 
 

命拾いの記 51年前のグライダー体験搭乗  かつお

 

 
1954(昭和29)年6月20日 高知市郊外 体験搭乗の料金は確か200円

 写真は私がグライダーの後席に搭乗し出発直前のものです。実は2〜3分後にはこれが生ある最後の写真となっていたかもしれないというすごいアクシデントが待ち受けていました。

 このセカンダリーのスタートは、固定された高速ウインチによる巻上げではなく、自動車による曳航(曳行?)でした。

 飛行コースは凧揚げの要領で急上昇し、所定高度でワイヤー離脱。地上ではワイヤー落下時にシューーというかなりの風切り音が聞こえます。右に大きく旋回して徐々に降下しながら上昇時の直線コースを斜めに横切り、スタート地点を左手に見ながら通過。こんどは左180度旋回してスタート位置近くへ着地と言う「8の字」コースです。


以下 命拾いの記です。

1 スタート位置につくと両翼端を係員が支えて水平を保つ。・・曳行自動車が徐々に前進しワイヤーがピンと張ると同時に大きな赤旗でストップの合図。もちろん当時はトランシーバーも無く、総て旗振り目視が合図でした。

2 パイロットが合図すると大きい白旗が振り降ろされて「GO!」 動き始めた両側には係員が翼端を支えながらしばらく走る。車輪ではなく橇で地面を引きずられる衝撃が板張りシートに座った腰にもろに伝わってくる。

3 地面を離れると急加速し、かなりの迎え角で急上昇。ぐんぐん上昇するが、この時ピンと張ったワイヤーの牽引力を体に感ずる。

4 かなり上がったところで曳行自動車はどの辺に、と右側に身を乗り出して真下を眼で探していたその時!「ガクン!」と初体験の身にも明らかに異常と感ずる異様なショック!
 次の瞬間音も無くすーっと急降下!これを無重力と言うか腰が浮き上がって総ての内臓が口元へせり上がって来るようなあの不快感はたとえようも無く、耐えるためには全身がこわばり正に息も詰まった状態のほんの数秒間。

5 やっと水平飛行にもどるとパイロットがザーッいう風切り音に抗した大声で「びっくりしたでしょう。済みません。ワイヤーが切れました」と。

6 その後は順調にコースを辿り、予想外に大きく聞こえる張り線の風切り音を耳にしながら空からの田園風景を満喫したことでした。



 事後の素人推測ですが、あれは急角度での上昇中のワイヤー切断ですから、機首上げ状態での失速ーほぼ垂直落下ー機首下げ加速ー水平復帰 だったと思います。
 予想されていて心構えが出来ていればもう少し違った感じだったかも知れませんが、全く予想無し、しかも身を乗り出すようにして真下を見ている時のことですから、ほんの数秒とはいえ文字通り息詰まる数秒でした。
 

 今では考えられないことでしょうが、ワイヤーロープが時々切れることがあったようです。途中には繋ぎ目がありましたからね。それもワイヤーロープ独特の組み込み撚り合わせ(牽引力が大きいほど強力に締る)ではなく、普通の結び目のように見え、それが複数あったように思います。

 経費をケチったか戦時の資材枯渇が未回復時代だったかも知れません。加えて保安基準などあっても十分に浸透・徹底していなかったかも知れません。

 生死を分ける一瞬がグライダーの翼面過重のおかげなのか、教官の冷静な操縦によるものであったかは確認しようもありませんが、先日も九州でグライダーの死亡事故があったように、人間いつどんなところにアクシデントが待ち構えているか分からないものですね。
 

感想1  索切れについて 大石直昭

索切れ:


  かつおさんの体験記に「命拾い」とありますが、それをそういうのであれば、わたくしぐらいでも200回以上「命拾い」していることになります。

 グライダーは現在でもウインチ曳航をやっているところが多いのですが、ウインチ曳航では「索切れ」「ウインチトラブル」は、あって当然という前提で訓練をやり、緊急事態対処については、じゅうぶんな訓練を行っています。

 それで訓練生をソロに出すのですよ。旅客機の離陸直後のエンジン停止対処とまったく同じです。

 もっとも、お金を取って不特定多数(みたいです)に対し、体験飛行していたというのが??で、旧きよき時代と感じさせます。先月の九州のグライダー事故は、飛行経験が豊富な教官が乗っていて、なぜあの状況になったのか?ということが中心となっています。
 昨日も旅客機が前輪のタイヤをふっとばし、あるいは米国で遊覧飛行のヘリコプターが不時着水し、邦人1名重態とか事故があります。でもやっぱり空を飛ぶのですから、リスクはあります。
 交通機関としては、利便性とリスクの比較ということでしょうか。どの交通機関にも適用できますけど。
 あと、米国で不時着のDC-3は、処置が非常に良かったと思います。そのパイロットは、非常事態を常に意識し、「どこでどうなったらどこに降ろす」という心積もりがあったのでしょう。
 それが操縦士の責任であり、存在理由です。
 

 小型機によるグライダー曳航索は直径9ミリくらいのナイロンロープで、切り離しはグライダー側のフックを解除し、昔は曳航索を滑走路に落としてましたが、いまは曳航機側の巻き取り式です。また、ウインチ曳航は4.5mmの特殊鋼ワイヤーです。航空科学博物館のスーパーカブJA3117に、オールドタイマーの姿が残っています。


参考 航空科学博物館のスーパーカブJA3117のフック  佐伯邦昭

 文中、「つなぎ目がいくつもあった」と書かれています。これがすべて曳航中に切れたのでは決してありません。この曳航索は、グライダーを曳航する際に重要ですので、毎日決まった飛行回数ごとに点検します。これを「索点検」、略して「索点」といいます。グライダーをやるところではその当時から標準的な手順として決まっていたはずです。

 ウインチあるいは自動車曳航に使用するワイヤーロープはおおむね直径4.5ミリくらいですが、このワイヤーロープは非常に細い炭素鋼の線をより合わせています。で、何回も地面上を引くと、その細い線(素線といいます)がだんだん擦り切れてきます。この点検では、この素線の摩滅や軽微な切れを見つけて、逆にそこで切断し、強度が証明された方法で結びます。当時のその方式でも、もとと同じくらいの強度となります。ただし、その結び目が増えてきた場合、ワイヤーロープとして空気抵抗は大きくなるでしょう。

 最近は結び目を特殊な工具で機械的に圧着し、結び目そのものの寿命向上と空気抵抗の減少を図っています。

 現在でも私のいるクラブでは「ウインチ曳航」をやっています。その場合、曳航25回ごとにメンバー総出で、曳航索をよく見ながら1500メートルの長さを手分けで点検します。最近はロープの材質の向上などで、ほとんど「切れる」ようなトラブルはありませんが、たとえ1/10000の確率でも、いつでも対処を心がけて離陸しています。


感想2  曳航索の脱落について 伊藤憲一


写真は 1986/04/05関宿滑空場で スーパーカブJA3272の曳航索  伊藤憲一


曳航索の脱落について

  30年ぐらい前の話ですが、曳航機からの索の脱落を偶然目撃したことがあります。グライダー側から切り離された瞬間に、同時に曳航機側からもはずれ、飛行場外へふわりふわりと落ちていったのですね。
 記憶の範囲では、テレビ、新聞などでニュースにならなかったので、怪我人などはいなかったようでした。こんなことは、当時、よくあったことなのでしょうか。索自体の形などの、また、着脱の方式などの、今の方式との違いもあったとは思うのですが。


感想3 グライダー訓練の思い出 超空豚 はねぶた 2005/07/12

 グライダーの話題を、学生時代を思い出しながら読みました。私も卒業までに、ソロフライトまでは何とか辿り付きましたので、「索切れ」対処の訓練も経験しました。(我々は「ダミー」と称していた)

 まだ飛び始めて間もない頃に、一度"自然離脱"に遭遇して対処に失敗した経験があり、それ以降「縛帯の締め方」や「予想し得るトラブルについてのイメージトレーニング」といった点で多少は成長していた事もあり、後席がいきなり曳航索を離脱した瞬間から、冷静に対処できたと思っています。

 まあ、高度もそこそこありましたので、普通に場周経路を廻って降りることが出来ました。

 結果、暫く後に無事初ソロと相なった訳ですが、その頃接地時のフレアーが上手くなかった私は、記念すべき初の単独飛行着陸後「予定通り」笑われる結果となりました。

 待つ、沈む、と言った感覚が上手く掴めず、接地寸前にガク引きしてしまい、機体は大ジャンプ。

 翼端を取りに来た仲間からは 「そのまま降りれば良かったのに」 「よっしゃナイスランディング、と思たら跳ねた」

 担当教官は開口一番 「やると思ったけどやっぱり跳ねたな」

 ウィンチ担当者(滑走路の先で正面から目撃)は 「タッチアンドゴーかと思った」

 ジャンプの頂点からは、上手くコントロールできたと思っているのですが… その後は、まずまずのフライト数回で卒業を迎え、人生最良の4年間が終わりました。


 卒業後何年か経って、グライダーで飛べる機会がありました。後席にはフレアに不安があることを申告して飛びましたが、自分でも驚くほどの会心の着陸ができ、「あの頃は、何とか掴もうと必死になり過ぎて見えなかったのだろうなぁ」と感じたものです。