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 国産旅客機YS-11の歴史 

 

試作(準量産)1号機JA8611  試作(準量産)2号機JA8612


 

試作1号機 JA8611
 試作2号機 JA8612

1962年新明和伊丹工場での写真を追加

印は写真募集中

試作1号機 JA8611

試作1号機JA8611の経歴

1962/07/11

c/n1001 YS-11 Proto ロールアウト

1962/08/14

初地上走行 滑走は08/25から

1962/08/30

名古屋空港で初飛行

1962/10/01

JA8611登録   全日空 11期購入の予備契約締結 

1962/12/18

東京国際空港で完成披露式

 

日本航空機輸送株式会社の塗装に変更

1964/08/25 運輸省航空局がYS-11型に型式証明を交付

1968/06ごろ

右翼付根にAPU装着テスト (70号機から採用)

1970

1978年ま地質調査所の空中磁気探査に使用 1978年まで

1977/09/01

東亜国内航空へリース 1977/10返還

1979/04

全日空へリース  (後全日空整備へ伊丹で整備士訓練) 

1982/07/21

日航整備へ返還 試験時代のバラストタンク等を装備改装

1982/07/28

大阪国際空港から成田空港へ最終フライト

1982/08/05

抹消登録

1982/08/01

航空科学博物館に展示 詳細は航空科学博物館屋外展示参照


1962年 初飛行 名古屋空港 初飛行

撮影1962/08/30 幸田恒弘

1962年 大阪国際空港にお目見え  62大阪

1962年9月頃と思われる  ダブは毎日新聞社のJA5005 明星 撮影荻田 守 提供関西航空史料研究会

上記と同じ日と思われる 撮影Toshiyuki  提供かかし   新明和

1962年 試験飛行たけなわ 撮影1962/10/31 名古屋空港 Twinbeech 



1962年 YS-11東京へ初お目見え 皇太子殿下をお招きして公式披露 撮影1962/12/18  にがうり    名古屋

 名古屋でテスト飛行を重ねていた試作1号機(JA8611)が、1962年12月18日に初めて東京国際空港へ飛来し、皇太子殿下ほか政界など関係者多数に公式披露を行いました。
 片発離陸や急上昇などの性能披露と試乗会もあり、次年度以降量産機への補助金獲得に向けて強烈なアピール行動でした。皇太子は、地上で機内を見学されました。

 以下、標準レンズのカメラしか持っていなかったので、証拠写真として見ていただければ幸いです。

ANAのコンベア340(または440)が離陸待機する横で試作1号機が着陸

   完成披露式前後の試作1号機 撮影:赤塚 薫

(注) イカロス出版2004年刊旅客機型式シリーズYS-11の年表に、1962/12/18 日航製 YS-11完成披露式(羽田空港内航空局格納庫・朝日新聞社格納庫)とあるが、写真の日航整備JAMCOハンガーとの関係は不明


   
羽田での初飛行 左エンジン停止  撮影:幸田恒弘

 幸田さんは、奥さんと観光目的で来ていて初飛来に遭遇したのだそうです。空港ビルの展望台から撮影で、フェザリング状態のプロペラがはっきり写っています。

 

 試作1号機JA8611は、機首に長いピトー管をつけているので、試作2号機JA8612と区別できます
 
(注) 月刊エアラインの旅客機形式シリーズI日本航空機製造YS-11のP84左上に羽田空港での完成披露式なる写真が出ていますが、あれは翌年に2号機が飛来した時のものです。(イカロスは、後に月刊エアライン誌上で訂正しました)3

皇太子殿下ご来臨  8ミリフィルムから  かかし

1963年 名古屋空港まつりに展示 撮影geta-o      松島

 1963年10月20日に当時の名古屋空港にて開催された航空ショーで展示用にエプロンにトーイングされるYS-11の1号機の前にどっかりと腰をすえて写真を撮っているのが若き日の下郷松郎氏です。

(注) 1963/10/20というと、横安定の悪さの対策として、主翼上半角を2度(4.19→6.19)上げる等の設計変更を行っていた時期にあたり、この後11月、12月にかけて改修が行われ、各種試験を経て1964/08/25に待望の型式証明を得ることになります。(佐伯)

 1963年と1965年 上反角変更前後の写真  提供 丹羽八十      松島

 上反角の変更について1963年11月〜12月に改修が行われましたが、当時の比較できる写真を投稿頂きました。 

 改修前 撮影1963/01/31 名古屋空港 撮影 森脇恵中 写真提供 丹羽八十 


 改修後 撮影1965/02/11 名古屋空港 撮影 森脇恵中 写真提供 丹羽八十 

1964年 横風試験で松島基地に滞在  撮影戸田保紀      5

 海岸線に並行して走る滑走路を持つ松島基地は、以前から横風が強い基地として知られていますが、国産の輸送機、YS-11(JA8611で試作1号機)がその横風を利用してテストを行うためにし1964年3月25日から31日まで松島基地に滞在しました。 

 その期間中の3月26日に記者公開されました。当時東北放送テレビのカメラマンだった私はもちろん志願して取材させて貰いました。仕事が主体ですから16ミリカメラを持っていったのですが、そこは抜け目無くもう1台マミヤC−3という二眼レフを私用に持っていきました。

 一連の写真はこのときのYS-11のテスト風景です。機首に長い計測用のピトー管をつけていましたが、JA8611で試作1号機です。


 ちょうど千歳基地に配属されていたF-86Fの第3飛行隊が、八戸の第81航空隊に編成替えになるまでの間松島に駐留していた当時で、YS-11の後ろ側にはこのF-86Fが並んでいます。








 上空を飛んでいるのは松島救難隊のH-19 ヘリコプターです。


 
タキシングをしているところは私は16ミリカメラで撮っていましたので、マミヤの方は取材車のドライバーの方にお願いして撮って貰いました。


 私の記念写真もドライバーの方にお願いしました。

1964年 名古屋空港まつりか?   6

撮影 戸田俊之

1974年 日本航空機輸送で何かの調査  7 参照F 試作1・2号機 によるリモートセンシング(遠隔探査)について

撮影1974/11/29 厚木基地 GO!NAVY 広江


撮影1975/09 旧帯広空港 中塚 正


 下郷資料によると、1974年当時のJA8611は、次のように記載されています。つまり、日航製造から日本航空機輸送(NATC)に貸出されており、その期間中に撮影されたこの写真には、日航製造の標準塗装に日本航空機輸送の文字とB&Gのマークを入れ、尾部に磁気探知機らしいブームを取り付けています。なお、11月29日には離陸してすぐ戻ってきたのでNIPPIのテストフライトかもしれないということです。

NATC

74-08-15 リース(書類上)

NAMC

75-04-01 リターン(書類上)

 参照F 試作1・2号機 による空中磁気探査について

1980年 全日空整備で整備訓練機   8

撮影1980/01 大阪国際空港 全日空整備 KUPANBA

撮影1980/11/02 大阪国際空港 MAVERIC 

1982年 航空科学博物館に展示 1982年から 詳細はA3502参照  9

撮影2008/03/04 MAVERIC

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2号機

試作2号機  JA8612 

試作2号機 JA8612経歴

1962/12/28

c/n2002 YS-11 Proto  初飛行

1963/02/07

JA8612登録 日航製造 定置場名古屋空港

1964/09/09

東京五輪聖火輸送機として全日空にリース 1964/09/11返還

1965/03/11

日本国内航空にリース 愛称聖火 1965/11/01返還

1966/05/01

東亜航空にリース 1966/10/01返還

1967/01/15

Philppinas Orientにリース 1967/06/19返還

1967/07/03

日本国内航空にリース 1968/08/01返還

1970/07/09

東亜航空に短期リース 

1970

1978年ま地質調査所の空中磁気探査に使用 1978年まで

1972/06/10

日本航空機輸送へリース 

1976/08/04

中日本航空へリース 

1979/04/18

全日空整備 定置場大阪国際空港

1979/11/12

抹消登録  

1980/11

全日空整備で解体

1963年 気流試験   気流

撮影1963/04 名古屋空港 高橋 豊



1964/07/26 実用試験飛行で広島空港に立ち寄る  佐伯邦昭      広島

 試作2号機JA8612は、主翼上反角2度増加などの大改修を終えて、ようやく1964年7月から型式証明取得に向けて最後のテストである実用試験に入りました。
 小牧から直接広島空港へ飛来したのは、7月26日、暑い夏の午後でした。



 まだ、木造平屋の南観音県営住宅が残る広島空港北側から2号機がダートエンジン音を響かせて進入してきました

 夏は概ね南風なので、広島市内上空を旋回してファイナルアプローチに入ります。初飛来のパイロット(近藤、長谷川)にとって比較的楽だったと思われます。

 逆に海側からだと、厳島(標高500m)を気にして旋回しなければならないため相当に神経を使います。

 大型機といえばCV-240を見慣れていた広島の人々にとって、YS-11は新鮮に映りました。 実物はやはり雑誌の写真とは違います。

 広島空港の1200m滑走路に初タッチダウンです。

 向きを変えて近づいてきました。

 当時の誘導路は、滑走路から直角にエプロンへ入る1本だけでした。

 素人マニアがエプロン脇のこういう位置で撮影することができた広島空港は、今から思えば天国でした。

 資料によれば、試験機にはパイロット2名、検査官、計測員、整備員各1名の最低5人が搭乗していました。まずは、その人たちが挨拶を行っているようです。

 東亜航空の技師さんたちが熱心に見て回ります。 こんな位置からカメラを構えても誰もとがめないよき時代でした。

 空港ビルの屋上にノースアメリカンT-6が見えています。
 

 フェアリングの工作が量産機とは違うような感じです。

 なんだ、脚はCV-240と同じじゃないか、と言っていたかどうかは知りません。

 中学、高校生は服装がきちっとしていました。この二人は、多分航空関係のどこかで中堅幹部になっているだろうねえ。

 

 直径が4。42mという胴体径(2。88m)の1。5倍もあるダウティロートルプロペラ。見ていても、これなら片発でもいけるなという感じを与えます。

 試作機ではリバースピッチの機構もありましたが、写真の0度(グランド ファインピッチ)で十分というので、不採用になったそうです。

 

 真上から照りつける太陽、エプロンの日陰はここしかないもんねえ。

 機内は測定器などの熱も加わってアツイノナンノ。ともかくシャッターを押して脱出しましたが、絞りを開き過ぎて真っ黒でした。

 右後部胴体に立てかけた梯子

 エンジン始動を見届けた日航製造の人が、最後にここから機内へ入り、梯子も機内へ引き上げられました。

 

 ゆっくりとエプロンを回り

 どういうわけかエンジン停止前にフラップを全開にし、ランプアウトでもそのままでした。

 誘導路から滑走路へ

 広島空港滞在は1時間半程度であり、燃料等の地上支援はなく、次の目的地の鹿児島へ向いました。

 
南(海)側へ向って離陸滑走開始です。

 手前の小型機は向って左から

JDAのセスナ170B JA3040

JDAのセスナ172C JA3177

小田億家具のシュペールラリ JA3191 

 

 YS-11が宮島方面に消えていくと、皆さん引き上げますが、まだ名残り惜しげに彼方を見ている人もいます。

 そして、待機していたアジア航測のエアロコマンダー680F JA5074がタキシングを開始しました。

 その向うのスポットには、東亜航空のデハビランド ダブ JA5007ダブルオーセブンが待機しています。

 宮島と江田島の間の上空を抜けていったはずのYS-11が、思いがけず帰ってきて低空で翼を振り、挨拶を行いました。

 エアロコマンダーとのツーショットという願ってもないチャンスに恵まれて、この日の実用試験飛行広島の巻の取材を終えることができたのであります。

1964/09 八尾航空ページェンント 撮影1964/09/27 飛松克弘    八尾

機首にYS-11と書き入れ、尾翼の2を消しています

1964/09 東京オリンピック 聖火輸送YS-11 撮影1964/09/07  にがうり  五輪

 若アユのようにピカピカしていた当時のYS-11が、最も晴れやかな舞台に登場した思い出の聖火輸送について書いてみよう。 (モノクロ写真はいずれも1964年9月7日羽田到着時の撮影)

 1964年、東京オリンピック開催の聖火輸送には 、完成して間もない国産旅客機YS-11を使うことにより国内外へのPRや国民の期待に対する絶好なお披露目の場であるということから関係者たちが熱望して各方面との調整の結果実現のはこびとなった。
 国内は 、沖縄から千歳までの国内聖火輸送に日航製所有のYS-11(JA8612試作2号機)を全日空がチヤ一夕ーし聖火を運ぶというものである。海外聖火輸送のアテネから沖縄まではJALのDC-6Bで行われた。
 
 その時 は、全日空はYS-11実機受領前 であり、さっそくパイロット2名、整備士2名が決まりYS-11教育を実施して資格の限定変更を行い、機体も 全日空塗装され機首には大きなオリンピック・マークを貼付し、YS-11の文字も大きく描いた。

 機内も改修されたが、一番大切なことは航空機用特注の<聖火灯>の開発であった。聖火灯はオリンピック組織委員会が開発したが、火そのものを機内に持込むことは航空法で禁止されているので、各種検討の結果、炭坑用カンテラを改修してトーチランプ型の<聖火灯>に決まった。

 そして<聖火灯>を固定する聖火台は、全日空が大丸百貨店(YS-11内装担当)と共同で開発した。形は地上聖火リレーに使用する聖火トーチを参考にし、通路中央の客席固定用のシートレールに固定した。予備のトーチは左最前方客席を外してトーチランプ台を設置した。

聖火台

聖火トーチランプ (国立科学博物館)

 1964年9月8日 、聖火受け入れのため沖縄に向けて出発するYS−11のために 、羽田空港において盛大な壮行会が行われ、オリンピック組織委員会、 全日空、日航製、報道の関係者を乗せて羽田を出発し 、夕刻沖縄那覇空港に到着した。当時の沖縄は未だ日本への返還前で鹿児島空港では出入国手続きが必要であった。

 翌9月9日朝、那覇空港でも盛大な出発式が行われ、米軍楽隊演奏の中、式台上では海外から国内への聖火輸送の引継ぎ式が厳かに進んだ。国内聖火リレー団長より力強い「国内聖火リレーに全力をつくします」との宣言があって大観衆のどよめきと取材ヘリ、小型機の飛ぶ騒音の中、一行は団長のかざす<聖火>を先頭にYS-11に乗り込んだ。

 団長は<聖火灯>を高く頭上に掲げて 手押しのタラップをのぼって搭乗した。<聖火灯>は機内の聖火台に安置され、興奮を後に沖縄那覇空港を出発した。



 途中奄美大島からYS−11の主翼端すれすれに4機の航空自衛隊のエスコート歓迎を受け 、鹿児島空港に着陸して<聖火火種>を大観衆の中、子ども達が打ち振る日の丸に囲まれ地元聖火リレー者への点火式を行う。

 鹿児島空港を離陸するとまたもT−33Aがエスコートしてくれて宮崎空港に着陸、ここでも同様な点火式を実施。

 その後名古屋空港で給油して千歳に向かったが、コースは金沢〜新潟〜秋田〜札幌の裏日本コースであった。途中で前線に遭遇して機体は大揺れに揺れ3〜4名が気分を悪くしたが、聖火台と<トーチランプ火種>は無事であった。またこんな揺れる事も心配して組織委員会の同乗者に<トーチランプの火種>が消えないかを確認したら、<念のため白金懐炉に予備の火種>を持っているとのことであった。

千歳のF-86Dが出迎え
全日空社内誌 国領茂満さん提供

 F-86DとT-33Aを従えて千歳空港へ
千歳飛行場を造った村民顕彰の碑建立実行委員会発行のパンフレットから KENさん提供

 青森からは、千歳基地第2航空団のジェット機が出迎えて左右2機の編隊飛行をしてくれた。左の写真提供者は、左右に2機ずつF-86Dがエスコートしてくれたと記憶されているが、右の写真では、3機のF-86Dに1機T-33Aとなっている。
 T-33Aが随行しているのは、後席から写真撮影のためとも考えられるが、はじめから居たのか途中からF-86Dと交代したのかどうか、そのあたりは不明である。

 自衛隊機は、速度が違うので苦労した飛行ぶりであった。余裕をみたフライト・プランだったので千歳には約50分も早く到着しそうになったが、地元歓迎式に合わせるべくホールディングして予定時間に無事千歳空港に着陸して大事な任務を完了したのである。

 この後聖火は各地から国内をリレーされて東京オリンピック会場に向かった。そして東京オリンピックは 、10月10日から華やかに開催され、開会式会場上空では「ハチロク  ブルー」が見事な五輪のスモークを引いて花を添えた。この聖火輸送を記念してANAのYS−11は<オリンピア>の愛称で呼ばれ、機首にも< オリンピア>と書かれたのである。









内蔵自動式タラップはなかった (注 後に航空会社の苦情を受けて設計変更)


 

1965/03 聖火号の名で日本国内航空の路線に就航   

 路線就航1番乗りをねらう日本国内航空は、量産機の引き渡しを待たずに1965年3月に日航製造と試作2号機のチャーター契約を結び、4月1日から東京-徳島-高知線に就航させました。
 同機は、約半年間日本国内航空にリースされ、羽田では日本航空のハンガー前に駐機していました。

撮影1965/05/09 JAMCOの格納庫の前 戸田保紀

1966/05〜 東亜航空へリース   1966東亜

撮影1966/01 名古屋空港 高橋 豊

 

 撮影1966/09/01 名古屋飛行場MHIエプロン 故森脇敬忠 提供 丹羽八十

 撮影1966/09/12 名古屋飛行場 故森脇敬忠 提供 丹羽八十

 撮影1966/09/16 名古屋飛行場 故森脇敬忠 提供 丹羽八十

1967/01〜1967/06 Philipinas Orient Airwaysへリース   PHI

Philipinas Orient Airways塗装完了 撮影1967/01 名古屋空港 高橋 豊

 

1967/07〜1967/09年  日本国内航空へリース  1967国内

リースバック後に社名を消した常態か? 撮影1967/09頃 高田和彦


1969年 日航製造  1969日航製造

撮影1969/08 名古屋空港 高橋 豊

▼ 1970/07 東亜航空へリース

1971年 日本航空輸送  1974輸送

NATCを書き入れ 撮影1971/01 名古屋空港 高橋 豊

1972年 GEOLOGICAL SURVEY OF JAPAN      磁気

    参照F 試作1・2号機 によるリモートセンシング(遠隔探査)について 

 日本航空機輸送が、通産省地質調査所が行う大陸棚開発5か年計画に使用するために試作2号機にバードと呼ばれる地磁気探知装置を付けて調査飛行を行いました。

撮影1972/08 厚木基地 PAPPY





  

1972/08/09 厚木基地 GO!NAVY 広江 

MAD

磁力測定装置バード

 

1977 中日本航空へリース

    参照F 試作1・2号機 によるリモートセンシング(遠隔探査)について

富山又は丘珠空港 撮影1977/05 T67M

 


 

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