F-1 個別機体解説 JA5015 戦後日本の民間DC-3初号機 苦難のスタート |
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JA5015の製造番号・形式・来日までの主な経歴 |
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形 式 |
c/n 2217 type DST-217B → C-49E-DO → DC3A-S1C3G
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1940/05/28 | American NC25686 "Mexico City" | |
1942/06/08 | USAAF 42-56106 (徴用されてC-49Eと呼称) | |
1944/11/12 | American NC25686 | |
1945/02/15 | American Overseas "Helsinki" | |
1950/09/25 | PanAm | |
1954/02/12 | State Airlines | |
195*/*/* | Hawaiian Airlines N******* |
1955/05/06 | 北日本航空
JA5015として登録 戦後日本のダグラスDC-3の第1号機は、北日本航空がハワイアン航空から買った中古機です。1955(昭和30)年5月4日羽田に到着し、6日にJA5015として登録されました。 北日本航空は、客席を25から31に増やし、旅客輸送に乗り出そうとしましたが、北海道内の飛行場が整備されていないことを理由になかなか認めてもらえず、本機が正式に稼動するは約2年間後になります。 その間、東京から北海道への遊覧やチャーターなどいろいろな使い方をしたと思われますが、記録が残っている中に、洞爺丸台風(1954(昭和29)年)による北見国有林の倒木の害虫駆除の請負というのがあります。 薬剤散布のアルバイト
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最初期(推定)の塗装 1955年鳳文書林刊「日本飛行機全集」より 第2期(推定)の塗装
撮影1959/03/27 東京国際空港 戸田保紀
1959年の愛称 「阿寒」と「大雪」
撮影1959/08/15 中標津飛行場開き 提供飯島実 機首に愛称がない時期 6
丘珠空港で撮影会 提供かかし 最終の塗装 ハワイアンカラー
撮影1961/01/03 富田肇 提供飛龍会 |
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195912/07 | 1960/03/31まで全日空にチャーター ▼写真募集 |
1964/04/15 | 羽田空港 出展 JAHS |
1965/06/04 | JA5015抹消登録
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1965/06/04 | Southern Airlines PI-C716
東京国際空港 撮影1965/05/08 戸田保紀 |
1972 | Swiftairに社名変更 RP-C368 "Fate" |
2000 | Swiftairは軽飛行機専門会社へ移行 RP-C368の抹消日不詳 |
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北日本航空のDC-3が降りた西春別飛行場とは
はじめに編集者から日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史F-1で、北日本航空が1959年に丘珠空港を発着する不定期路線免許を得て就航させた路線のうち、西春別飛行場というのが謎でした。
次の日替わりメモ425番は、その疑問の一部です
日替わりメモ425番 2004/04/18から転記
西春別飛行場の謎日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史で問題提起の北日本航空片道周回コースの西春別ですが、いまだにどの飛行場かわからず、中標津との混同ではないかなどと推定しております。
このたびネットオークションで入手した航空情報1956年10月号に国内飛行場一覧表(1956.9現在)があり、次のような記載がありました。 このリストには西春別も中標津もなく、計根別(けねべつ)に米軍管理で1600mの滑走路があります。これは現在の航空自衛隊計根別飛行場に引き継がれているものだと思います。
計根別駅から4Kmというのが曲者で、佐伯には土地勘がないのでよくわかりません。ここを西春別飛行場としてDC-3が降り立ったのかどうか、ますますわからなくなります。
これに関して、札幌のOKUBOさんが釧路根室地方の町村史と当時の新聞ニュースを丹念に調査し、その結果を次のとおりまとめました。
なおOKUBOさん作成の詳細な地図がありますが著作権の許可が必要なため、大変僭越ですが佐伯がこのような概念図を画きました。これを参考にしてまとめをお読みください。
計根別飛行場と西春別飛行場について 大久保 宏
1 計根別(けねべつ)飛行場について
航空情報(昭和31年9月号)掲載の「国内飛行場一覧表」のうち、計根別飛行場の項で計根別駅からの距離4kmは正しくありません。多分当時の編集者の錯誤だと思います。終戦時、道東の別海町(当時は別海村)には、旧陸軍が建設した計根別第1から第4の4飛行場が存在しましたが、周辺各町の町史によれば、主力をなしていたのは第1飛行場で、第2および第3飛行場は偽装が目的の飛行場、第4飛行場は第1飛行場の代替離着陸場が目的であったとされています。
特に標茶町史や中標津町史では、第1飛行場が付近の地名・駅名の「計根別」(隣接の標津村に所在)から、この1群4飛行場を総称して計根別飛行場とよび、単に計根別飛行場といえば第1飛行場のことをも指したとも記述されています。
戦後はすべての飛行場は米軍によって破壊され、跡地は農地として払い下げられました。しかし、西春別駅から最も近いところにある第4飛行場(現空自計根別飛行場)は破壊の程度が少なかったのか、周辺農地の払い下げ、入植が遅れたのか1951(昭26)年まである程度の滑走路が残存していたらしく、朝鮮戦争開戦で米軍に不時着飛行場として接収され、整備をおこない航空機の離発着を可能としました。その後1956(昭31)年の一部接収解除、さらに1958(昭33)年の全面返還など曲折を経て航空自衛隊が引き継ぐことになります。
そこで「国内飛行場一覧表」の誤りについてですが、まず名称の「計根別飛行場」は、前述のとおり第1から第4飛行場の総称でもあるので、これはよしとしても、表を作成した1956(昭31)年9月では、4飛行場のうち使用できる滑走路があったのは米軍管理下の「計根別(第4)飛行場」のみであったと考えられます。滑走路の数値からいっても表作成者が意識したのは間違いなくこの飛行場です。
つぎに計根別駅からの4kmはあてはまりません、あえて計根別駅にこだわると、第4飛行場に近い西春別駅までは鉄道で9.4kmもあるので、たぶん駅名記載の誤りだと思います。これは、現地に「計根別飛行場の近くの駅はどこ?」と問い合わせても、計根別がついている限り「計根別駅です」以外の返事はもらえなかったのではと思います。
(注) 計根別駅から第1飛行場までの距離は4kmの範囲内、西春別駅から第4飛行場までの距離は1kmの範囲内です。以上の経緯から表の「計根別駅」は「西春別駅」と読み替え、「4km」は間違いとするのが妥当かと思います。
なお、米軍管理下で第4飛行場を計根別飛行場と呼称していたのかどうかはわかりませんが、西春別地区にあることから北日本航空も運輸省もまぎらわしい計根別よりも西春別をとったのだと思われます。
2 北日本航空DC−3の道内旅客運送初便の行き先
北海タイムスの1959(昭34)年5月30日号に北日本航空の広告が出ています。丘珠から〔釧路・弟子屈・中標津〕〔阿寒・網走・北見〕〔稚内・利尻 ・名寄〕の3方面路線毎日1便です。既に不定期免許で週何便かの丘珠ー女満別ー西春別の回遊飛行を2年前から行っていた北日本航空が、待望の二地点間定期路線を6月1日から開設したのです。
ここで問題になるのは〔釧路・弟子屈・中標津〕線の到着地が西春別飛行場(旧陸軍の計根別第4飛行場、現空自の計根別飛行場)ではなくて、現在の中標津空港(旧海軍の標津第2飛行場)ではなかったのかとの疑問です。
結論をいうと、これは間違いなく西春別飛行場です。中標津飛行場は、1945(昭20)年8月24日米軍によって他の飛行場同様に施設が焼却破壊され、土地は農地として払い下げられました。しかし、破壊された滑走路はそのまま放置されていたらしく、1957(昭32)年8月に北日本航空が残存している滑走路の一部を利用して、セスナ195型機による根室一円の遊覧飛行を行い滑走路が使えることを立証しました。 北日本航空としては、もともと米軍管理の別海村の飛行場よりも中標津町を定期便寄港地として使用したい意向をもっていたものと推定されます。
そして1959(昭34)年に中標津町と北日本航空が共同で滑走路の修理をおこない、完成後の10月1日から北日本航空が丘珠ー中標津ー女満別線を開設して西春別寄航を廃止しております。
このことから西春別飛行場は中標津の滑走路が完成するまでの暫定使用であり、したがって 北日本航空DC−3型機の当初の行き先は間違いなく旧計根別第4飛行場即ち西春別飛行場でした。
ところで西春別飛行場から中標津空港に航空路をシフトした場合、時間的にどれ位のメリットがあるのかを試算してみました。
札幌から根室に至る所要時間は、手元にある当時の時刻表(注 NJAは1959年,鉄道は1961年)よると
【列車のみ】 札幌から滝川経由の急行列車に乗り,さらに釧路で急行列車を乗り継いで10時間04分の長旅でありました。
【空路と列車】札幌/丘珠一西春別線利用の場合、根室までの所要時間は鉄道経由で10時間19分で列車利用と大差がありません。
また、札幌/丘珠一中標津線利用の場合、根室までの所要時間は鉄道経由で7時間24分で約3時間短縮し、効果は大のようです。中標津線が開設されてからはその恩恵にあずかることができましたが、料金は丘珠一西春別間が片道4,500円で、当時の新聞によると急行列車の3等寝台並みと書かれており、これに中標津からの鉄道運賃を加算すると一般市民が気軽に利用できる乗り物ではなかったと思います。
ちなみに現在は丘珠一中標津間を航空機、ここからはレンタカー利用で、札幌から根室まで約3時間20分、日帰り圏に入り、航空機を利用しても片道で1日もかかったのが嘘みたいな話になりました。でも旅はゆっくりと楽しむのが一番ですね。
参考資料:別海町百年史、中標津町史,中標津町五十年史、標茶町史考,標茶町史、女満別町史、女満別小史、日本民間航空史話、JMAS2004,守屋憲治:北の翼-千歳航空史、北海タイムス、北海道新聞
日替わりメモ 2004/05/31466番から転記
西春別飛行場について1950年代の北海道網走、根室、釧路地域の飛行場について、北日本航空のダグラスDC-3寄航に関連してOKUBOさんとともに研究を試みてきましたが、ひとまずペンを置きます。
終戦直前の計根別第1〜4飛行場、戦後の計根別飛行場、西春別飛行場、中標津飛行場の姿がはっきりしましたし、北日本航空が5月または6月から10月まで季節運行をしていた飛行場は、女満別とともに計根別(西春別)飛行場であり、その計根別は中標津が使えるようになるまでの暫定寄航であったことも 確定しました。
なお、当時の文献が発表している道東の飛行場一覧を末尾にまとめておきました。悪い意味でいうのではなく、当時の東京人から見て北海道の東部などは情報未開地域であったとしか思えません。
北海道東部地区(網走・根室・釧路)の飛行場 資料転記 書 名 世界の翼1955 航空年鑑1956 日本飛行機全集1958 航空情報1959/10 航空年鑑1963 表 名 日本の航空路図 飛行場一覧表 全国飛行場一覧表 国内飛行場一覧表 全国飛行場現況表 調査時点 1954/05/01現在 1955/12/31現在 1957/11/01 1956/09現在 1963/02/01現在 出 典 運輸省航空局 不明 航空局飛行場課 不明 運輸省航空局 美 幌 記載なし 700×30
大蔵省記載なし 記載なし 記載なし 美幌第一 記載なし 記載なし 500×20
防衛庁記載なし 記載なし 美幌第二 美幌第二 (名称のみ) 記載なし 記載なし 記載なし 記載なし 女満別 記載なし 記載なし 1200×80
民間使用800×40
北海道財務局1200×30
北海道計根別 計根別 (名称のみ) 計根別 (名称のみ)
駐留軍1500×60
駐留軍 民間使用1600×60
米空軍1560×60
大蔵省根 室 記載なし 記載なし 1200×30 記載なし 記載なし 釧 路 記載なし 記載なし 記載なし 記載なし 1200×30
運輸省中標津 記載なし 記載なし 記載なし 記載なし 1200×30
中標津町
平木国夫著書の重大な誤り
著書の訂正をお願いします
平木国夫著 「日本ヒコーキ物語 北海道篇 冬樹社 1980/02/20第1刷発行」
146ページ 145ページ
間違い 1 JA5015に「北星」号を付した証拠は見当たらない。「大雪」又は「阿寒」号の写真はある。
(上記愛称の変遷参照)間違い 2 第二号機JA5058が到着するのは「半年後」ではなく、約五年後である。 間違い 3 JA5068という北日本航空機は存在しない。JA5058の誤りである。 間違い 4 「阿寒」号は一号機に付された。二号機に愛称が付された証拠は見当たらない。 このように北日本航空のDC-3について、愛称、到着時期、JAナンバーに大きな誤りを犯しています。それを平木氏に何度も申し入れましたが、無視されたままです。ミスの原因は、新聞書籍の記述を何ら裏付けをとらず、そのまま信用し断定して書いたためであり、氏の手になる航空史は、すべてを疑ってかかる必要があります。
F-1 完