日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史全目次t

                                                  

F-1 個別機体解説 JA5015 

              戦後日本の民間DC-3初号機 苦難のスタート


目 次

  製造番号・形式・来日までの主な経歴
北日本航空 JA5015として登録 薬剤散布機として使用
塗装と愛称の変遷
やっと丘珠と道東を結ぶ路線に就航
合併により日本国内航空へ引継ぎ
抹消登録、売却
航空歴史館 (関連写真) 陸自別海駐屯地・空自計根別飛行場への飛来
航空歴史館 (関連写真) 中標津飛行場開きに飛来
(参考資料) 北日本航空のDC-3が降りた西春別飛行場とは

航空歴史館 平木国夫著書の重大な誤り
「日本ヒコーキ物語 北海道篇 冬樹社 1980/02/20第1刷発行」

JA5015の製造番号・形式・来日までの主な経歴

形    式 c/n  2217  
type  DST-217B → C-49E-DO → DC3A-S1C3G


  たいへんに珍しい右ドアタイプです。寝台専用機DSTとして製作された時の右ドアを最後まで残していました。もちろん、日本のダグラスDC-3の中ではこれだけです。なお、米軍発注のC-47は左ドアに統一され、徴用された右ドアタイプもほとんど左に付け替えられています。

1940/05/28 American NC25686 "Mexico City"
1942/06/08 USAAF 42-56106 (徴用されてC-49Eと呼称)
1944/11/12 American NC25686
1945/02/15 American Overseas "Helsinki"
1950/09/25 PanAm
1954/02/12 State Airlines
195*/*/* Hawaiian Airlines N*******

日本

 

北日本航空JA5015として登録

1955/05/06 北日本航空 JA5015として登録

 戦後日本のダグラスDC-3の第1号機は、北日本航空がハワイアン航空から買った中古機です。1955(昭和30)年5月4日羽田に到着し、6日にJA5015として登録されました。

 北日本航空は、客席を25から31に増やし、旅客輸送に乗り出そうとしましたが、北海道内の飛行場が整備されていないことを理由になかなか認めてもらえず、本機が正式に稼動するは約2年間後になります。

 その間、東京から北海道への遊覧やチャーターなどいろいろな使い方をしたと思われますが、記録が残っている中に、洞爺丸台風(1954(昭和29)年)による北見国有林の倒木の害虫駆除の請負というのがあります。

薬剤散布のアルバイト

A北日本航空採用からちよだ号の引退までの概観」で述べたように、1955(昭和30)年に航空局の方針がダグラスDC-3許可に変わり、北日本航空や日ペリ航空に対して購入を認めました。

 日本飛行機全集1955〜56年版の備考欄に
 
農薬散布の場合は胴体内及び翼下面に特別装置を設ける。農薬搭載量は800ガロン(200ガロン
タンク×4)とあります。航空局がこの害虫駆除事業に際して付けた特別仕様でしょう。

 特別装置の取り付けは、富士重工宇都宮工場で行われました。仕様書を見ないと詳細はわかりませんが、タンク4本を胴体内に固定し、翼下面の穴の開いたアルミパイプへ薬液を圧送する方式であったと考えられます。
 図は、にがうりさんに基本的にはこんなものだろうと想定して画いてもらったものですが、実際には薬液の性質その他によりもっと複雑な装置が必要であったかもしれないし、短期間使用ということでもっと簡便な装置であったかもしれません。

 

参考写真 燃料タンクの場合

 米軍C-47のLong Range Fuel Systemでは、100ガロンのタンクを2本、4本、6本または8本積載します。
 写真は2本積載の状態を後部から見たものです。

 

 

 


 なお、駿河 昭著「自由の空(続・大空の証言)」によりますと、1955(昭和30)年9月に20日間くらい、女満別飛行場を基地として北見国有林に三共製薬の(BHC benzene hexachloride)を散布しました。地上から散布の状況を確認するために、薬剤に染料を加えて赤い色をつけたり、苦心したようです。しかし薬剤で機体が腐食するので、これきりでやめてしまったということです。

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塗装

北日本航空における塗装と愛称の変遷

最初期(推定)の塗装

1955年鳳文書林刊「日本飛行機全集」より


第2期(推定)の塗装
  
撮影1959/01/11 東京国際空港 富田肇 出展:飛龍会 


 

撮影1959/03/27 東京国際空港 戸田保紀


1959愛称 「阿寒」「大雪」
 
撮影1959夏 出展:戸田保紀

 

 

撮影1959/08/15 中標津飛行場開き 提供飯島実


機首に愛称がない時期  6

丘珠空港で撮影会 提供かかし



最終の塗装 ハワイアンカラー

1960年に派手なハワイアンカラーの僚機JA5058が就航すると、本機も同じ塗装に変えられました。

撮影1961/01/03 富田肇 提供飛龍会


撮影1962/12/18 赤塚 薫 (YS-11完成披露日の写真から切取り)


ソリッドモデル 札幌市青少年科学館 撮影2008/06/06 OKUBO

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路線


やっと丘珠と道東を結ぶ路線に就航


はじめに北日本航空株式会社とは

1953/06/30 設   立 設立時資本金75,000,000
1953/05/13 使用事業免許  
1953/11/19 不定期免許  
1955/05   JA5015取得
1955/09   JA5015により北見国有林への薬剤散布事業に従事 基地は女満別飛行場
1956/06/02 季節運行 火木土日の4日間 〔午前〕丘珠〜女満別 〔午後〕丘珠〜西春別開始(北海道新聞06/02)
1959/06/01 季節運行 丘珠〜稚内 丘珠〜女満別 丘珠〜西春別開始 (北海タイムス05/15)
1959/08/15   中標津飛行場開きに飛来
1959/10/03 季節運行 丘珠〜中標津(計根別飛行場から変更)〜女満別〜丘珠 (北海道新聞10/04)
1959/10/31 季節運行 丘珠〜稚内 季節運行終了 (北海道新聞11/06)
1959/11/05 季節運行 丘珠〜中標津〜女満別〜丘珠 季節運行終了 (北海道新聞11/06)
1959/12 増資 資本金134,000,000
1959/12 チャーター 1959/12/07〜1960/03/31 全日空へチャーター 料金約600万円
1960/04/29   JA5058丘珠へ到着 DC-3 2機体制となる
1960/05/01 路線運行 申請 丘珠〜女満別 丘珠〜中標津 丘珠〜稚内 丘珠〜函館 丘珠〜釧路各直行便 (北海タイムス04/30)
1962/09/01 定期免許  
1964/04/15 合併解散 日東航空及び富士航空との合併による

 北日本航空株式会社は、北海道商工会議所などが中心になって、広い道内の各都市を航空機で結ぼうという目的で設立されました。はじめは、各地の飛行場インフラが未整備のため旅客輸送ができず、使用事業免許によりセスナ170Bと195Bで宣伝飛行などをしていました。
 上記のとおり1956年 から季節運航が認められ、更に7年後に待望の定期航空運送事業免許を得て、DC-3とCV240で積極的に路線を開設しました。しかし、経営は苦しく
1964(昭和39)年運輸省の指導により日東航空及び富士航空と合併して日本国内航空を設立し、一切の路線と機材を同社に引き継ぎました

 薬剤散布事業を女満別飛行場をベースにして行ったということは、女満別にDC-3が離着陸できたということです。それなら、丘珠〜女満別の旅客輸送も可能であったと思われるのですが、1956(昭和31)年6月まで許可されませんでした。このあたりの事情は不明ですが、北海道に生まれた航空会社が大変な苦労をするのは、昔も今も同じようです。

 ようやく不定期事業が開始されたのは、1956(昭和31)年6月2日で す。

 同年6月2日付け北海道新聞によると、 毎週火木土日の4日間、午前中が美幌線(丘珠〜女満別往復)、午後が西春別線(丘珠→西春別 往復)で、回遊飛行の名目で行われるが、実際は不定期航空と同様と書いております。そのあたりの免許の内容は資料によってまちまちであり、1956(昭和31)年6月2日に一番機が飛んだのは確かですが、その後の路線運行の状況はよくわかりません。 西春別(計根別)飛行場については下記北日本航空のDC-3が降りた西春別飛行場とはを参照してください。

 また不確かですが、1959(昭和34)年から翌年にかけての冬場に本機を全日空へリースしたともいわれます。女満別の除雪が困難であったなどの理由が考えられます。

 そして、正規の定期旅客運送事業の免許が交付されたは、不定期免許6年後の1964年9月1日でした。

 女満別空港について

 女満別空港は、旧海軍の飛行場です。女満別町史によると、戦後米軍によって滑走路を爆破されましたが、1952年(昭和27年)11月13日に朝鮮動乱に伴い米軍に接収され、不時着用飛行場として滑走路を修理され、翌1953年(昭和28年)には使用可能となっています。その後、1956年(昭和31年)4月30日に一部が返還され、同年6月から北日本航空が不定期便を運航したとなっています。
 ちなみに全面返還は1958年(昭和33年)7月25日です。(以上、TRONさんからの情報によります。)

西春別空港と中標津空港について

 西春別空港は現航空自衛隊計根別飛行場のことで、旧中標津空港が修復開港するまでは、根室釧路地区の飛行場として北日本航空が使用しました。

 旧中標津空港の一部は現在「北海道立ゆめの森公園」の「翼とふれあいのゾーン」として整備され、旧滑走路の南側数百mは再舗装されてイベント広場になっています。

 その北西端付近にDC-3を模った飛行機ベンチがあり、その正面右側基礎部には旧中標津空港の由来を記した下のような銘板が目立たないように取り付けてありました。 (撮影と情報2003/06/30 TRONさん)

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195912/07  1960/03/31まで全日空にチャーター   写真募集

JDA

合併により日本国内航空へ引継ぎ

1964/04/15 羽田空港 出展 JAHS

抹消登録 売却

1965/06/04 JA5015抹消登録

 JA5015は、日本国内航空へ引き継がれてから札幌〜函館〜秋田線に使用されましたが、2ヵ月ほどで保有構想からはずされ、羽田の片隅に保管されました。
 そして1965(昭和40)年に僚機のJA5058とともにフイリピンのサザンエアラインズへ売却され、約10年にわたる日本での“やや不本意な使われ方”に別れを告げ ました。

1965/06/04 Southern Airlines PI-C716

東京国際空港 撮影1965/05/08 戸田保紀 

拡大 エンジンテスト中らしい


東京国際空港 撮影1965/05/23 出展:
あきあかね

 

1972 Swiftairに社名変更  RP-C368 "Fate"  
2000 Swiftairは軽飛行機専門会社へ移行 RP-C368の抹消日不詳

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5-1

 

関連写真 陸自別海駐屯地・空自計根別飛行場への飛来  提供 飯島実

 撮影者は不明 所有者不明のアルバムの写真
陸自別海駐屯地・空自計根別飛行場(北日本航空は西春別飛行場と呼称)の風景
   
撮影日不詳

1200メートル コンクリート滑走路のダグラスDC-3 北日本航空 JA5015


出展及びその他の風景についてはA1112参照

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関連写真 中標津飛行場開きに飛来  提供 飯島実


 中標津飛行場は、朝鮮戦争当時に米軍が不時着用飛行場として修理した旧海軍飛行場で、町民が再び整備して、1959年8月15日に飛行場開きを挙行し、北日本航空のJA5015ほかが記念に飛来しました。飯島流に表現すると『ほこり高き手づくり飛行場』のオープンです。

 北日本航空は、遊覧飛行の名目(実質的には旅客輸送)で行っていた丘珠との連絡を計根別から中標津に切り替え、10月には不定期免許を得て季節運航を開始しています。正式な運航は、1962年に1200mの滑走路による第三種空港となってからでした。

1959/08/15 中標津飛行場開き
影者は不明 所有者不明のアルバムの写真


出展及びその他の風景についてはA1021参照

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西春別     

北日本航空のDC-3が降りた西春別飛行場とは

 
はじめに編集者から

 日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史F-1で、北日本航空が1959年に丘珠空港を発着する不定期路線免許を得て就航させた路線のうち、西春別飛行場というのが謎でした。

 次の日替わりメモ425番は、その疑問の一部です

日替わりメモ425番 2004/04/18から転記

 
西春別飛行場の謎

 日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史で問題提起の北日本航空片道周回コースの西春別ですが、いまだにどの飛行場かわからず、中標津との混同ではないかなどと推定しております。

 このたびネットオークションで入手した航空情報1956年10月号に国内飛行場一覧表(1956.9現在)があり、次のような記載がありました。 このリストには西春別も中標津もなく、計根別(けねべつ)に米軍管理で1600mの滑走路があります。これは現在の航空自衛隊計根別飛行場に引き継がれているものだと思います。

 

 計根別駅から4Kmというのが曲者で、佐伯には土地勘がないのでよくわかりません。ここを西春別飛行場としてDC-3が降り立ったのかどうか、ますますわからなくなります。 

 これに関して、札幌のOKUBOさんが釧路根室地方の町村史と当時の新聞ニュースを丹念に調査し、その結果を次のとおりまとめました。


 
なおOKUBOさん作成の詳細な地図がありますが著作権の許可が必要なため、大変僭越ですが佐伯がこのような概念図を画きました。これを参考にしてまとめをお読みください。

 

 

計根別飛行場と西春別飛行場について 大久保 宏

1 計根別(けねべつ)飛行場について


 航空情報(昭和31年9月号)掲載の「国内飛行場一覧表」のうち、計根別飛行場の項で計根別駅からの距離4kmは正しくありません。多分当時の編集者の錯誤だと思います。

 終戦時、道東の別海町(当時は別海村)には、旧陸軍が建設した計根別第1から第4の4飛行場が存在しましたが、周辺各町の町史によれば、主力をなしていたのは第1飛行場で、第2および第3飛行場は偽装が目的の飛行場、第4飛行場第1飛行場の代替離着陸場が目的であったとされています。

 特に標茶町史や中標津町史では、第1飛行場が付近の地名・駅名の「計根別」(隣接の標津村に所在)から、この1群4飛行場を総称して計根別飛行場とよび、単に計根別飛行場といえば第1飛行場のことをも指したとも記述されています。

 戦後はすべての飛行場は米軍によって破壊され、跡地は農地として払い下げられました。しかし、西春別駅から最も近いところにある第4飛行場(現空自計根別飛行場)は破壊の程度が少なかったのか、周辺農地の払い下げ、入植が遅れたのか1951(昭26)年まである程度の滑走路が残存していたらしく、朝鮮戦争開戦で米軍に不時着飛行場として接収され、整備をおこない航空機の離発着を可能としました。その後1956(昭31)年の一部接収解除、さらに1958(昭33)年の全面返還など曲折を経て航空自衛隊が引き継ぐことになります。

 そこで「国内飛行場一覧表」の誤りについてですが、まず名称の「計根別飛行場」は、前述のとおり第1から第4飛行場の総称でもあるので、これはよしとしても、表を作成した1956(昭31)年9月では、4飛行場のうち使用できる滑走路があったのは米軍管理下の「計根別(第4)飛行場」のみであったと考えられます。滑走路の数値からいっても表作成者が意識したのは間違いなくこの飛行場です。

 つぎに計根別駅からの4kmはあてはまりません、あえて計根別駅にこだわると、第4飛行場に近い西春別駅までは鉄道で9.4kmもあるので、たぶん駅名記載の誤りだと思います。これは、現地に「計根別飛行場の近くの駅はどこ?」と問い合わせても、計根別がついている限り「計根別駅です」以外の返事はもらえなかったのではと思います。
(注) 計根別駅から第1飛行場までの距離は4kmの範囲内、西春別駅から第4飛行場までの距離は1kmの範囲内です。

 以上の経緯から表の「計根別駅」は「西春別駅」と読み替え、「4km」は間違いとするのが妥当かと思います。

 なお、米軍管理下で第4飛行場計根別飛行場と呼称していたのかどうかはわかりませんが、西春別地区にあることから北日本航空も運輸省もまぎらわしい計根別よりも西春別をとったのだと思われます。
 

 

2 北日本航空DC−3の道内旅客運送初便の行き先
 
 北海タイムスの1959(昭34)年5月30日号に北日本航空の広告が出ています。丘珠から〔釧路・弟子屈・中標津〕〔阿寒・網走・北見〕〔稚内・利尻 ・名寄〕の3方面路線毎日1便です。

 既に不定期免許で週何便かの丘珠ー女満別ー西春別の回遊飛行を2年前から行っていた北日本航空が、待望の二地点間定期路線を6月1日から開設したのです。

 ここで問題になるのは〔釧路・弟子屈・中標津〕線の到着地が西春別飛行場(旧陸軍の計根別第4飛行場、現空自の計根別飛行場)ではなくて、現在の中標津空港(旧海軍の標津第2飛行場)ではなかったのかとの疑問です。

 結論をいうと、これは間違いなく西春別飛行場です。

 中標津飛行場は、1945(昭20)年8月24日米軍によって他の飛行場同様に施設が焼却破壊され、土地は農地として払い下げられました。しかし、破壊された滑走路はそのまま放置されていたらしく、1957(昭32)年8月に北日本航空が残存している滑走路の一部を利用して、セスナ195型機による根室一円の遊覧飛行を行い滑走路が使えることを立証しました。 北日本航空としては、もともと米軍管理の別海村の飛行場よりも中標津町を定期便寄港地として使用したい意向をもっていたものと推定されます。

  そして1959(昭34)年に中標津町と北日本航空が共同で滑走路の修理をおこない、完成後の10月1日から北日本航空が丘珠ー中標津ー女満別線を開設して西春別寄航を廃止しております。

 このことから西春別飛行場は中標津の滑走路が完成するまでの暫定使用であり、したがって 北日本航空DC−3型機の当初の行き先は間違いなく旧計根別第4飛行場即ち西春別飛行場でした。


 

 ところで西春別飛行場から中標津空港に航空路をシフトした場合、時間的にどれ位のメリットがあるのかを試算してみました。

 札幌から根室に至る所要時間は、手元にある当時の時刻表(注 NJAは1959年,鉄道は1961年)よると
【列車のみ】 札幌から滝川経由の急行列車に乗り,さらに釧路で急行列車を乗り継いで10時間04分の長旅でありました。
【空路と列車】札幌/丘珠一西春別線利用の場合、根室までの所要時間は鉄道経由で10時間19分で列車利用と大差がありません。
また、札幌/丘珠一中標津線利用の場合、根室までの所要時間は鉄道経由で7時間24分で約3時間短縮し、効果は大のようです。

 中標津線が開設されてからはその恩恵にあずかることができましたが、料金は丘珠一西春別間が片道4,500円で、当時の新聞によると急行列車の3等寝台並みと書かれており、これに中標津からの鉄道運賃を加算すると一般市民が気軽に利用できる乗り物ではなかったと思います。

 ちなみに現在は丘珠一中標津間を航空機、ここからはレンタカー利用で、札幌から根室まで約3時間20分、日帰り圏に入り、航空機を利用しても片道で1日もかかったのが嘘みたいな話になりました。でも旅はゆっくりと楽しむのが一番ですね。
 

参考資料:別海町百年史、中標津町史,中標津町五十年史、標茶町史考,標茶町史、女満別町史、女満別小史、日本民間航空史話、JMAS2004,守屋憲治:北の翼-千歳航空史、北海タイムス、北海道新聞

 

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日替わりメモ 2004/05/31466番から転記 

西春別飛行場について

 1950年代の北海道網走、根室、釧路地域の飛行場について、北日本航空のダグラスDC-3寄航に関連してOKUBOさんとともに研究を試みてきましたが、ひとまずペンを置きます。

 終戦直前の計根別第1〜4飛行場、戦後の計根別飛行場、西春別飛行場、中標津飛行場の姿がはっきりしましたし、北日本航空が5月または6月から10月まで季節運行をしていた飛行場は、女満別とともに計根別(西春別)飛行場であり、その計根別は中標津が使えるようになるまでの暫定寄航であったことも 確定しました。

 なお、当時の文献が発表している道東の飛行場一覧を末尾にまとめておきました。悪い意味でいうのではなく、当時の東京人から見て北海道の東部などは情報未開地域であったとしか思えません。

 

北海道東部地区(網走・根室・釧路)の飛行場 資料転記
書   名 世界の翼1955 航空年鑑1956 日本飛行機全集1958 航空情報1959/10 航空年鑑1963
表   名 日本の航空路図 飛行場一覧表 全国飛行場一覧表 国内飛行場一覧表 全国飛行場現況表
調査時点 1954/05/01現在 1955/12/31現在 1957/11/01 1956/09現在 1963/02/01現在
出   典 運輸省航空局 不明 航空局飛行場課 不明 運輸省航空局
美  幌 記載なし 700×30
大蔵省
記載なし 記載なし 記載なし
美幌第一 記載なし 記載なし 500×20
防衛庁
記載なし 記載なし
美幌第二 美幌第二 (名称のみ) 記載なし 記載なし 記載なし 記載なし
女満別 記載なし 記載なし 1200×80
民間使用
800×40
北海道財務局
1200×30
北海道
計根別 計根別 (名称のみ) 計根別 (名称のみ)
駐留軍
1500×60
駐留軍 民間使用
1600×60
米空軍
1560×60
大蔵省
根  室 記載なし 記載なし 1200×30 記載なし 記載なし
釧  路 記載なし 記載なし 記載なし 記載なし 1200×30
運輸省
中標津 記載なし 記載なし 記載なし 記載なし 1200×30
中標津町

平木

平木国夫著書の重大な誤り

著書の訂正をお願いします

平木国夫著 「日本ヒコーキ物語 北海道篇 冬樹社 1980/02/20第1刷発行」

    146ページ           145ページ
 

間違い 1 JA5015に「北星」号を付した証拠は見当たらない。「大雪」又は「阿寒」号の写真はある。
 (上記愛称の変遷参照)
間違い 2 第二号機JA5058が到着するのは「半年後」ではなく、約五年後である。
間違い 3 JA5068という北日本航空機は存在しない。JA5058の誤りである。
間違い 4 「阿寒」号は一号機に付された。二号機に愛称が付された証拠は見当たらない。

 このように北日本航空のDC-3について、愛称、到着時期、JAナンバーに大きな誤りを犯しています。それを平木氏に何度も申し入れましたが、無視されたままです。ミスの原因は、新聞書籍の記述を何ら裏付けをとらず、そのまま信用し断定して書いたためであり、氏の手になる航空史は、すべてを疑ってかかる必要があります。

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F-1 完