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航空歴史館 エッセイ

  

飯豊連峰・大樽山に死す

飛行第59戦隊 浅野力中尉搭乗一式戦闘機「隼」の墜落事故について


山口県航空史研究会 古谷眞之助

 2020/6/6 

1 はじめに
2 浅野 力 陸軍中尉について
3 陸軍飛行第59戦隊
4 一式戦闘機「隼」
5 事故の経緯
  @飛行目的
  A飛行経路・速度・高度など
  Bトラブル発生
  C脱出
  D視界
6 捜索活動と若干の疑問
7 残骸
8 叙勲と慰霊
9 おわりに
 参考資料・協力

【 浅野中尉 「防人の譜」 資料Dより 】

【 イラスト 古谷眞之助 一式戦闘機T型 】

1. はじめに

  昨年(2015) 4 月に、自分としては 6 冊目となる 本、 「年表 山口県航空史 1910〜2010 」を上梓したのだが、幸いなことに、それが日本経済新聞文化部記者の目に止まり、文化の日にその紹介記事を掲載していただくことができた。これまで地元紙や全国紙の地方版に記事を掲載していただいたことは何度かあるが、全国紙の、それも文化面に掲載されるのは初めてである。さすがに全国紙に掲載された影響力は大きく、仲間内では大きな話題にはなったし、ほどなくして山口県にゆかりのある方、 数人から注文が舞い込んだ。 その後、遠くカナダにお住まいの方からも購入希望のメールが入るなど、その影響力の大きさには改めて驚いたものである。
 その発送処理も済んで落ち着いてきた頃に、新潟県関川村 の平田大六氏より 「記事拝見、ところで萩市出身の浅野力中尉が、昭和 16 年に新潟県北に墜落したのはご存知 ですか?」 という問合せの葉書が届いた 。県内で発生した事故については詳細に調査してきたが、さすがに他県のものまで追いかける余力はなかったから、もちろん、初耳である。「関心があるのであれば 、 然るべき人を紹介します 」とのことだったので、早速お願いしたところ、この墜落事故について長年調査 を続けられてきた 五十嵐力氏の 調査報告 のコピーが折り返し 届いた。続いて、 黒川村誌 ( 現 新潟県 胎内市) に記載された事故の模様 を伝える記事のコピーも届いた。実は 昨年 12 月初旬に東京での講演会 ( テーマは航空史とは無関係) を控えていたため、平田氏にはしばらく待って欲しい旨、葉書を出した。 同時に防衛省 防衛研究所 戦史研究センターに 電話で 「浅野力中尉、隼、昭和 16 年 、 事故 」というキーワードで調査依頼をしたところ、かなり有力な資料があるとの 回答 を受けた 。同センターでは電話でのコピー依頼には 一切 応じていないから、上京の際に立ち寄ることにしていたのだが 、 目黒の同センターでの 約半日の調査 の結果 、五十嵐氏の 著作 にはない生々しい証言記録を得ることが出来た。 すなわち墜落してゆく 浅野機を追い、中尉の落下傘降下地点まで確認した難波 茂樹氏 の体験記である。そして 思いもしなかった浅野中尉の写真も入手できた。さらに、帰宅してみれば 五十嵐氏 による 最新レポートまで届いていた。ことここに至れば 、 何とか一文にまとめねば、という強い 意欲が湧いてきた のである 。
 以下は、五十嵐氏のこれまでの調査資料、そして平田氏よりご提供いただいた資料に加えて同センターで入手した資料をもとに墜落事故の経緯を追ったものである。参考資料名は 【数字 】 で示し、資料 の詳細 は 巻末 に一括掲載 した 。 なお文中 ( 注 ) とあるものはすべて筆者による注書きである。 また 、 資料をそのまま引用する場合は「 楷書体 」を用い 、分かりやすく区別した 。

2. 浅野 力 (ちから) 陸軍 中尉について

 浅野力中尉 ( 事故後 、 大尉 に特進) の経歴について は、「防人の譜」 【D】 に 彼と陸軍士官学校同期の村井信方氏が書 かれた 「浅野 力経歴」 しか見つからないので 、その記述をそのまま以下に掲載する。

 「山口県萩の生まれ。歩兵第 42 連隊士官候補生として陸士本科卒業。航空操縦に転科し、同じく転科した長尾巌と一緒に飛行第59戦隊に着任した。戦隊は97戦を装備して北部仏印進駐作戦、浙東作戦などに参加し、昭和16年年4月に制式採用されたばかりの一式戦闘機に機種改編のため立川飛行場に転進した。昭和機に機種改編のため立川飛行場に転進した。昭和16年6月11日 ( 注・正しくは10日)、彼は3機編隊をもって立川を離陸、中部山岳上空において訓練殉職した。すなわち、同日午後3時頃( 注・正しくは午前9時50分頃 )、新潟県北浦郡黒川村奥胎内の大樽山に浅野中尉の隼機が墜落したのを僚機が確認した。新鋭の隼は秘中の秘であり、軍隊、警察、地元民が捜索した結果、同山中で、樹木に引っ掛ったパラシュートと飛行服を発見したものの、人跡未踏の深山であり、遂に遺体は発見されなかった。浅野君はパラシュートで無事降下したものの、山中をさまよい飢えと寒さで死亡したものと推定された。
 最近新潟県による胎内川総合開発が進められていて、浅野大尉の霊を慰め、工事と入山者の安全を祈ろうという趣旨で黒川村長・伊藤孝二郎氏が中心となって慰霊祭が行われ、姫路在住の舎弟宏氏が招かれ参列した。 ( 中俊町在住58期古保良雄氏が52期生会宛に送って下さった昭和52年11月1日付け朝日新聞記事を参照した)
 一式戦闘機 ( 隼 )は、昭和14年1月、中島飛行機で試作一号機が完成したが、明野で行われた実用審査では、97戦と比べて空戦性能が劣っているため、不合格にされた。また翼構造が弱く、空中分解を起こす可能性もあった。その後改良されて、ようやく制式に採用されたのであり、浅野大尉の乗機も、このように性能的に極めて不安定な飛行機であったので、あるいはそのようなことが原因で墜落したのではないかとも考えられている。
筆者 ( 村井信方 )は浅野と他に、土橋、中嶋と四人同じ飛行班であった。浅野君は資性沈着、あくまで冷静に事を処し、決して慌てるということはことはなかった。思考は柔軟性に富み、よく人の意見を容れており、包容力が豊かな人であった。操縦技量も優秀で、前途有為の青年将校であった。戦場の空ならで、内地における機種改編中に失ったことは、誠に惜しみて余りありと言うべきである。遺族は舎弟宏氏が姫路市大津区に住んでおられる。」【D】

 残念ながら、事故に関することを除けば、それほどの情報はない。中尉が萩市( 詳しい住所は不明 )の生まれであること、陸軍士官学校を卒業したこと、中尉の弟、宏氏が姫路市大津区に居住であることくらいである。萩から陸士に行くとすれば、恐らく旧制萩中学校の卒業生と思ってまず間違いないだろうが、それ以上の推測をする術がない。中尉の性格については、同期の故人に対するが故の「パイロットの鏡的表現」と言っても良い書き方で、やや美辞麗句に過ぎる感がぬぐい切れない。そこで、彼の性格については、6章で事故後の彼の行動からも推測してみたいと考えている。
 失礼を省みず、電話帳を使用して姫路市大津区内にある浅野姓のお二人に電話してみたところ、この話は全く通じなかったので、宏氏とは無関係と考えて良いだろう。なお資料【C】によれば、事故当時中尉は22歳とあることから、生まれは大正8年( 1919 )と思われる。また資料【A】に、事故後の捜索中に、中尉の婚約者が遺族とともに羽越本線中条駅近くの旅館に滞在して捜索を見守った、とあることから、結婚を間近に控えていたと思われる。また、記事にある昭和52年11月1日付けの朝日新聞を山口県立図書館で当たってみたが、おそらく同紙のローカル版に掲載されたもののようで、当該記事を見つけることはできなかった。

3. 陸軍飛行第59戦隊

 中尉の軍歴は、遺族であれば知る手立てがないことはないが、遺族が不明なため、しっかりしたところは分からない。ただ、中尉は陸軍航空士官学校52期であることから、おおよそよそ以下のことが言えそうである。52期は昭和12年 ( 1937 ) 11月16日入校( 当時は所沢分校)で入学者128名となっている。この時彼は18歳。卒業は2年後の年後の14年9月7日となっているので卒業時は20歳となり、、事故に遭遇するまで2年間の部隊勤務をしていたこととなる。となると、飛行経験はおそらく士官学校時代も含めて3年程度と推測して良いのではないか。しかし、当時の3年間で飛行時間がどれくらいだったか、筆者は知る術を知らない。では、資料【D、@】によって、彼の所属した第59戦隊の動向を追うことで、彼の軍歴を辿ってみよう。資料【D】によれば、彼は、

 「陸士本科卒業。航空操縦に転科し、同じく転科した長尾巌と一緒に飛行第59戦隊に着任した。戦隊は97戦を装備して北部仏印進駐作戦、浙東作戦などに参加し、昭和16年4月に制式採用されたばかりの一式戦闘機に機種改編のため立川飛行場に転進した」 

とあり、この後半部は資料【@】の以下の冒頭部分と一致する。

 「昭和16年5月末部隊( 第59戦隊)は内地帰還の上、一式戦闘機「隼」への機種改編を指示されたが、この一式戦適用は吾部隊が最初の部隊であった。6月初旬、当時の部隊機97戦闘機により主力全員、漢口を出発、南京、北京 ( 一泊一泊 )、大連、京城、大連、京城( 一泊 )、明野を経由して6月5日、全機無事立川に帰還した。」

 したがって、、彼は航空士官学校卒業後の昭和14年から16年まで、中国大陸に派遣されていた第59戦隊の97式戦闘機搭乗員として従軍していたと考えて、まず間違いない。この当時の第59戦隊には、後に名を為すエース黒江保彦中尉、そして浅野中尉墜落時の編隊長・明楽武世大尉( 当時は第1中隊長)、翼端を失いながらも帰還した樫出勇曹長ら、そうそうたるパイロットたちがいた。ただし、時期的に見て、浅野中尉が空戦に遭遇する機会はほとんどなかったと考えて良いだろう。【G】そして昭和16年6月初め、中尉は97式戦闘機に乗って立川に帰還し、福生 ( 現米軍横田基地)で、一式戦闘機「隼」に機種改編のため離着陸訓練を開始する。そしてそれを約一週間で終えた後、いよいよいよいよ能代で射撃訓練に入ろうという移動飛行途中、飯豊連山で事故に会うのである。

4. 一式戦闘機「隼」

   この章では、浅野中尉が事故に遭遇した「中島飛行機」製作の一式戦闘機「隼」について見てみよう。今さらその名機振りを書く必要もないだろうが、浅野中尉の乗機、「T型甲」のカタログデータは以下のようになっている。
 資料【H】

  ・ 全幅        11.437m
  ・ 全長         8.83m
  ・ 翼面積     22.0u
  ・ 自重        1,580kg
  ・ エンジン    950HP
  ・ 最大速度   490km/h
  ・ 巡航速度   320km/h
  ・ 上昇時間   5.27分( 5,000mまで )
  ・ 上昇限度   11,750m
  ・ 最大航続距離  1,200km(半径)
  ・ 武装          7.7mm× 2

  一式戦闘機「隼」の総生産機数は、わが国の戦闘機生産数としては海軍の零式戦闘機に次ぐ、5,751機となっている。陸軍戦闘機としては最も名の知れた機体である。ただし、名機であるかというと、意見は分かれるところだろう。格戦性能、いわゆるドッグファイト性能を重視する余り、飛行機開発においてはバランスが取れた機体とは言い難く、貧弱な武装もネックとなっていた。また、この機体は開発時には生みの苦しみを味わっており、初期タイプは構造上の脆弱性があった。それが中尉の事故と直接関係があったかどうかは不明だが、資料【D】の以下の部分に注目したい。

 「一式戦闘機(隼)は、昭和14年11月、中島飛行機で試作一号機が完成したが、明野で行われた実用審査では、97戦と比べて空戦性能が劣っているため、不合格にされた。また翼構造が弱く、空中分解を起こす可能性もあった。その後改良されて、ようやく制式に採用されたのであり、浅野大尉浅野大尉 (注・ママ) の乗機も、このように性能的に極めて不安定な飛行機であったので、あるいはそのようなことが原因で墜落したのではないかとも考えられている」

 これは事実である。資料【@】の難波茂樹氏の体験記から、ほぼ同様の指摘を以下に抜粋する。実際に当該機に搭乗した経験者の証言であり、疑う余地はない。

 「制式採用直後の機であり、航空審査部としても尚様々な検討査察の点が残っており、部隊に対する指導教育訓練も中々思う通りにならなかったが、一応、課程は何とか一週間で一段落したのであるが、然し、この間吾々が最も懸念したことは、空中操作に於いて急降下、急上昇、その他特殊飛行を行うと、その都度何機かが、主翼上面或いは胴体の主翼取付部に必ずと言って良い程、皺を生ずることであった。飛行性能については、機体の大きさに対し極度に軽量化されて居るが、格闘性能は97戦に比べると確かに若干及ばない感じではあるが、航続力の膨大な延びと速度、上昇力については十分ではないが、相当に優って居て、新機種の優秀さは覚えたが、只、前記皺の発生は大きな不安感を抱かせたことは事実であった。」

 また、翼強度不足については、同じ第59戦隊所属で、後にエースとなる小野崎大尉の空戦インタビュー記事に、以下のような同様の証言がある。資料【H】

  「昭和16年6月に立川で機種改編をやって、T型を持って漢口へ帰ったんです。帰って訓練をしているうちに伊藤佐一郎中尉の機体が空中分解しちゃった。あれは射撃訓練の時で (注・中略) 降りてきてみたら、私の飛行機も付け根のところにシワが寄っている。降りてきても伸びないんです。隼は機体にシワが出るという心配がありましたから、ここまで引っ張って、これを引いた時に、行っちゃうんじゃないかという不安がひとつあった・・・」

 さらには資料【G】には、飛行第22戦隊でも昭和17年7月31日、3機の隼が高機動中に空中分解したという記述がある。
 また、資料【C】には、浅野中尉の搭乗機を特定する興味深い記述がある。その出所は「実弟が大切に保管していた軍からの書簡」に基づくとしている。

  「昭和16年6月10日、山口県萩市出身浅野中尉 ( 当時22才)は、射撃教育のため編隊長 明楽大尉 ( 中隊長)の指揮する第3番機《 ( キ-43 )第125号機》となって・・・ ( 注・以下略)」

  これには驚く。第125号機と機番まで特定してあるところを見ると、遺族宏氏に軍より渡されたという「書簡」は、非常に正確を期しているように思われる。戦時中ともなれば秘中の秘は間違いないが、まだ日米開戦前であるから、案外詳しく遺族に報告が為されたのかも知れず、その存在が気になるところであるが、宏氏の消息は現時点では不明であるから、もはや資料【C】の記述を信ずるしかない。「第125号機」というと、試作型から量産に移されて間もない機体と考えられる。時期的には、昭和16年4月頃に生産された機体と見てよいだろう。資料【H】

5. 事故の経緯

@ 飛行目的
  飛行の目的は、資料【A】では「テスト飛行」とあり、資料【E】では「訓練飛行」、資料【B】では、「編隊訓練飛行」 ( 射撃を目的とした訓練)としている。しかし、最も当時のことを知る難波茂樹氏の記述、「射撃訓練の為、秋田県能代飛行場に向け出発した」が、この場合、最も適切と思われる。つまり、飛行そのものはテストではなく、敢えて訓練というのであれば「移動訓練飛行」と言えなくもないが、その真の目的は、能代飛行場に移動し、そこで射撃訓練をすることにあった。事実、能代に移動後、事故の翌々日、6月12日から日本海上で射撃訓練を開始している。なお、能代飛行場とはJR能代駅の北北東3.3kmに位置していた旧陸軍陸軍飛行場で、現在の「秋田能代空港」とは全く別物である。

A 飛行経路・速度速度・高度など
  資料【C】によれば、浅野中尉は編隊長明楽大尉 (中隊長 )の3番機だった。また資料【@】では「私の編隊について居た浅野中尉は・・・」としている。また資料【E】には「第3編隊( 難波中尉 )は援護に向ったが・・・」とある。このことから、編隊構成は以下のようだったと推測する。つまり、この編隊は第1、2、3編隊で構成される全部で12機であり、編隊長兼第1編隊長が明楽 ( あけら)大尉、そして第3編隊編隊長が難波中尉というわけである。もっとも、そうなると難波茂樹氏の発言「私の編隊について居た」という表現が気にはなる。もし「浅野中尉は明楽大尉率いる編隊の第3編隊難波中尉の3番機」というということであれば一番すんなり理解できる。しかし第1編隊の3番機が、第第3編隊編隊長機の後に着くということはありえない。そこは矛盾するが、事故が発生した時、明楽中隊長は、経験ある第3編隊編隊長の難波中尉にそのフォローを指示し、自分は残りの9機を率いて能代に向ったと考えるのが、この場合、一番妥当ではないだろうか。

福生飛行場と能代飛行場 飛行経路および墜落地点

 上図は、福生飛行場と能代飛行場を結んだ線である。墜落地点は、直線上のわずかに西側であり、のわずかに西側であり、編隊は福生を離陸後、方位5度をキープして最短距度で能代を目指していたと思われる。また、福生の離陸時刻に関しては、資料【B】【C】が、「午前9時○○分」「午前9時」としている。資料【@】には離陸時刻の記載はない。そこで、念の為、以下のように推測してみた。離陸後最短距離の方位を取っていることから、おそらく、離陸後徐々に高度を上げながら、巡航速度で飛行したと思われる。福生と墜落地点の距離は約240kmであり、これを巡航速度の時速320km/hで飛行したとすると、約45分となる。事故発生時刻は、資料【B】【C】ともに午前9時時50分としているから、飛行時間45分に離陸後のロスタイムを加えれば、ざっと50分。即ち午前9時ちょうどに離陸したと考えて、まず間違いない。福生―能間は約500kmであり、当初、1時間35分程度の飛行時間を予定していたはずだ。
  では、、高度はどれくらいだったのだろうか。これについても記載があるのは資料【B】【C】で、ともに2,500mとしている。墜落地点付近は、飯豊山としている。墜落地点付近は、飯豊山( 2,105m )、烏帽子岳( 2,018m )、北股岳( 2,025m )と2,000m級の山々が連なっており、2,500mでの飛行はでの飛行は妥当と思われる。おそらく、遺族の宏氏に軍から渡されたという書簡に、そのような記載があったものと考えてよいだろう。ここまでをまとめると以下のようになるだろう。
  「昭和16年6月10日、能代飛行場で射撃訓練を行うために午前9時ちょうどに福生時ちょうどに福生を離陸した第59戦隊の隼12機編隊 ( 編隊長兼第1編隊長・明楽大尉+3番機・浅野中尉、および第2編隊《編隊長名不明》、第3編隊長・難波茂樹中尉 )は、離陸後巡航速度で高度を上げつつ方位5度で能代飛行場に向けて約50分飛行し、新潟、福島、山形県にまたがる三国岳( 1,631m )付近上空2,500mに到達した」

B トラブル発生
 では一体、浅野機はどのようなトラブルで墜落するに至ったのか。残念ながら一番近くで見ていたはずの難波中尉は、事故発生の模様を以下のようにしか記していない。資料【@】

 「山形県下の山岳地帯にかかって間もなく、私の編隊について居た浅野力中尉山形県下の山岳地帯にかかって間もなく、私の編隊について居た浅野力中尉( ( 陸士陸士5252期期 ))機が突然編隊を離れ、降下を始めたので、私は直ちにこれを追尾したが、間もなく彼機が突然編隊を離れ、降下を始めたので、私は直ちにこれを追尾したが、間もなく彼は落下傘降下をして・・・」

 この表現からは、第4章で述べた翼の強度不足によるトラブルとは考えにくい。もし翼に何に何らかの異常が発生したとしたら、機体はバランスを失ってらかの異常が発生したとしたら、機体はバランスを失って激しい振動が発生し、その後には空中分解となるだろう。しかし、この表現では「突然編隊を離れ、降下を始めたので」とあり、急激な異常と言うよりも、トラブルの推移が見て取れるくらいのゆっくりした進度で異常が進行したように受け取られる。そしてもう一つ思い出すべきは、この時、間違いなく隼は、編隊を組んで水平飛行を維持しながら巡航速度で飛行していたと推測できることである。つまり高機動を行うなどして急激に翼に負荷をかけていたわけではないのである。
 一方、軍からの書簡をもとに書いたと思われる資料【E】には、「三国岳付近でエンジンに不調を来たし・・・」と明確にエンジントラブルが発生したとしている。追跡した難波中尉が何故編隊を離れ、降下して行ったのか、その理由を書いていないのは何とも解せないのだが、ここはエンジントラブルとしておくしかない。航空機のトラブルの中でもエンジントラブルは致命的で、速度を失えば墜落するだけである。一つ不思議なのは、零戦などに比べて比較的無線機が使えたといわれている隼なのだから、何故浅野中尉は無線機を使って状況報告を遼機に対してしなかったのだろうか、という点である。あるいは、その余裕がないほど事態は逼迫していたのか・・・。

C 脱出
 下図をご覧いただきたい。三国岳付近でトラブルが発生したと考えると、浅野中尉がまず考えたのは「どこかへ不時着できないか」ということであったろう。パイロットとしての本能である。しかし、能代への進行方向は山また山である。だからその時、彼の視野に入ってきたのは、そこから300度方向に見えた日本海だったはずだ。仮に視界不良で見えなかったにしても、航空図によって、そちらには平野部が広がっており、また海岸線に不時着地を見つけられると考えたに違いない。それ故 彼は、速度が低下していく中で、ゆっくりと操縦桿を左に倒して300度方向に機首を向けたものと思われる。というのも、以下に述べる浅野中尉の落下傘降下地点、機体の墜落地点から、下図のように飛行したと考えられるからである。両地点を結んだ先には海岸線があり、そこに向って最短距離となる方位を取っているのが分かる。

墜落地点と海岸までの距離

 トラブル発生推測地点から墜落推測地点までは約10kmであり、海岸線までは約40kmである。エンジンが停止した時の隼の滑空比がどれくらいかは皆目見当がつかないが、仮にそれをにそれをプライマリーグライダーの10程度程度と見積もると、高度2,500mであればであれば、25km先まで滑空できることになる。もし仮にそれ以上だとすると、少なくとも画面左下の平野部には到達できた可能性がある。彼はそれに賭けたと思いたい。しかし、向かい風が強ければ到達距離は短くなるし、滑空比が10以下であれば、同じく短くなる。ましてや、最良の滑空姿勢に入れる時に時間をロスしたとすると、到達距離はぐっと短くなる・・・。結果から言うならば、能代への飛行ルートから墜落推測地点までの距離10km程度であることから、何らかの理由で予想以上に急激に急激に高度が失われて行くのを知った浅野中尉は、平野部への不時着を断念し、たぶん5分も滑空しない間に機外に飛び出したものと推測される。なお、飛行ルートについては降下推定地点、墜落推定地点と資料【F】をもとに推定した。

D 視界
 この時の視界がどの程度のものであったか、資料【@】と【E】では、かなりの食い違いが見られるので検討してみよう。【E】では、「天候極めて悪く視界が狭く、降下地点を的確に標定できなかったが・・・」と非常に天候が悪かったことが強調されている一方で、資料【@】の難波茂樹氏の手記によれば、かなり詳しく墜落脱出後の浅野中尉の模様が書かれており、それが確実に視認できる程度に視程は良かったのではないかと思われる。次章の「捜索活動」にも関係する部分なので、以下にそのまま引用する。

 「・・・浅野力中尉 (陸士52期)機が突然編隊を離れ、降下を始めたので、私は直ちにこれを追尾したが、間もなく彼は落下傘降下をして、その山岳の七合目付近で森林地区を外れた中、孤立した大樹木付近に降下、落下傘はその大樹木に引っ掛り乍ら無事着地して、私の方へ合図することを確認した上、救援対策もあり、間も無く主力を追及して能代に急行したのである。
 当時の記録もなく、地名、山名、河川名等具体的な位置名はどうしても記憶に残らず、明示できないが、位置としては、山形、宮城、秋田の県境付近であったように想うし、降下地点は、その山の七合目付近で、森林に覆われた山岳地にあり乍ら、丁度その森林の空白化して居る地区であり、谷間を通る水系は、その地区で判然目認できたが、この水流は、約十数粁北方を西側に向って流れる河川に通じて居る状況で、上空より見る限り、下山も左程困難とは見えなかったのが、その時の印象であった。
 能代に着いた私は、上司に対し直ちに此の状況を報告して対策討議を行った上、先ず仙台飛行場に赴き、所在部隊の支援も依頼したのだが、勿論その時点では、地図上でも現場は判然、確認出来て居た。仙台での依頼を了えた私は、再度現場に赴き、上空から探索視察すると共に、浅野中尉に対する激励、注告 ( 注・ママ )、支援状況等の文書を数ヶ所に、投下したりしたが、その時点では既に彼の姿を発見、確認することは出来なかった。勿論、部隊としては、この間 能代を基地に各県各機関を通じ、特に事故現場周辺の町村を中心に支援を依頼したが、それ等の地区よりの連絡によれば、現場付近は所謂、人跡未踏の地区で、捜索は決して容易ではないが、地元消防団員他で直ちに現場捜索に出発して呉れたことを聞き、大いに驚いたのである。地元の人の話から、降下地点周辺は既述のように意外にも人跡未踏地で、この地点に見た谷間を流れる川は北向きに流れて森林地帯を貫いていているが、山麓に至る間、数ヶ所にわたり地下水道的な流れとなって居るとのことであった。
 落下傘降下後の彼が森林地区手前でその谷川を西から東側に渡ったところ迄は確認している私としては、二度目の現地上空に達した際、落下後の姿は大樹木にそのまま見えたが、彼の姿は既になく、恐らく谷川沿いの下山で森林地帯に入って居たのであろうから何とか下山を達成して呉を達成して呉れるのではないかと希望を抱いたのであった。直接現場捜索に赴かれた地元の人達は何とか現地に到着、残った落下傘を確認、収容の上、その周辺から下山コー地元の人達は何とか現地に到着、残った落下傘を確認、収容の上、その周辺から下山コース付近の捜索を続け乍ら下山したが、遂に彼の姿は発見できなかったと言う。数日後、その谷川下流で、靴、飛行帽、その他数点の遺品が発見されたと聞き、残念乍ら彼の生存の可能性は極めて薄くなって、無念さと悲しみに打ちひしがれたのであった」


 これを読む限り、視程が悪かったとは思えない。特に「私の方へ合図することを確認した上・・・」という記述があることは注目に値する。と言うのも、筆者はグライダーパイロットとして空を飛んでいるが、合図が確認できたということは、少なくとも浅野中尉の上空200m以下で飛んだことは確実だからだ。しかも、周囲は山岳地帯である。尾根への激突を避けるには十分な余裕高度を取るのが基本だが、そうすると「合図を確認」することは不可能である。確認できる高度にまで降下したとすれば、余程視界視程が良くて尾根や谷をしっかり視認できなければ、腕の良いパイロットでも、とても飛べるものではない。またもう一点、難波氏が「この水流は約十数粁北方を西側に向って流れる河川に通じて居る状況で・・・」と書いていることに注目したい。ということは、事故現場付近上空を飛ぶ難波機からは、当時の関川小学校のすぐ側を東に流れる「荒川」が見えたということを示している。十数キロ北とあるが正確には、約20キロ北になる。ともかく、「荒川」が確認できたとすれば、飛行には特段問題のない十分な視程と言わねばならない。 もう一つ、当日の天気図から推測してみよう。下の天気図は、左側が昭和16年6月9日午後6時、その右側が、翌10日の午後6時のものである。【I】

天気図 昭和16年 6月 9日午後 6時            天気図 昭和16年 6月10日午後 6時
   

   9日夕刻は、小笠原気団による高気圧が朝鮮半島付近まで張り付近まで張り出した典型的な夏の気圧配置で、特に関東から東北にかけては快晴となっており、風も穏やかだったと思われる。また翌10日午後6時には、低気圧が沖縄付近に近づいてきて、四国紀伊地方は雨域に入っている。関東から東北にかけては曇りとなり、風も強くなっていることが分かる。では、事故の発生した午前10時頃はどうだったろうか。視程については、局地的なものがあるため何とも言えないが、全体的に天気は下り坂傾向にあるものの、この時刻ではまだ高気圧圏内にあり、まずまずの天候だったと推測する。少なくとも「天候極めて悪く視界が狭く、降下地点を的確に標定できなかったが・・・」という状況ではなかったと思われる。
 ともかく、以上から考えてれば、「軍からの書簡」に基づいて書かれたと思われる資料【E】の天候に関する記述は誤りとと考えて良いのではないか。というのも、次章でも述べるように陸軍は浅野中尉の救助どころか、遺体すら収容することが出来なかったから、遺族への報告の中で、捜索の困難性を強調し、その中で、陸軍および関係者は万全を尽くしたのだ、と言いたかったのではないかと考えられなくもないからである。

6. 捜索活動捜索活動と若干の疑問と若干の疑問

  資料【A】によれば、僚機( 注・難波機と思われる) が墜落付近の見取り図を書いて通信筒に入れ、関川小学校の校庭に投下したと書かれている。これは資料を提供いただいた平田氏も記憶されているとある。しかし、当の難波中尉は、「浅野中尉に対する激励、忠告、支援状況等の文書を数ヶ所に投下したりしたが・・・」と記していて、校庭に通信筒を投下したのではなく、浅野中尉の墜落現場付近に投下したと書いている。冷静に考えれば、山岳地帯の数箇所に投下しても浅野中尉がこれを手にするチャンスは極めて低いはずで、むしろ「正確な見取り図」を小学校の校庭に投下した方が、今後の捜索を考えればはるかに有効と思われる。実際のところどうだったのだろうか。

 当時の陸軍最新鋭機が墜落したのである。軍部の要請によって、すぐさま山形、新潟、福島の警察、憲兵隊が動き、かつ事故現場に詳しい地元民による捜索が開始された。墜落地点である、大樽山直下から下ったところに設けられている慰霊碑までは、今でこそ胎内川沿いに車ですんなり入れるようだが、当時、胎内川の谷筋は人跡未踏と言ってよく、このルートから墜落現場へのアプローチは不可能だった、とは五十嵐氏が強調されていることである。そのため、胎内川の東を流れる鹿俣川を攻めて南進し、途中から天狗の休場という尾根を西側に越えて、現在胎内ヒュッテ近くの椿平に入り、ここをベースにして捜索を行ったという。山慣れた専門家でも、椿平に入るまで優に丸一日は要したというから、如何に人跡未踏の地であるかが推測できよう。一週間の捜索の結果、捜索エリアを胎内川本流から、支流の頼母木川に変更したところ、やっと飯米沢、( はんまいざわ) 上部で機体の残骸が、また「足の松尾根」で大木に引っ掛ったパラシュートが発見された。その後の経過については「軍からの書簡」にもとづくと、以下のようになっている。資料【B】
  ・ 6月19日 山中において浅野中尉の飛行記録板が発見された。
   ( 注・飛行記録板とは、現在で言うところのニーボード・バインダーのことだろう)
  ・ 6月24日 落下傘と靴、航空マフラー、戦闘帽が発見された。
  ・ 7月24日 飛行服上着が胎内川橋上流400mの河岸に漂着しているのが発見された。
    飛行服内にはハモニカと印鑑が入っていたらしいという情報も残っている.

新潟県胎内市黒川村 奥胎内ビュッテ付近

 これらの報告から見ると、墜落後約1ヵ月半にわたって捜索が行われたことが分かる。おそらく、軍の威信にかけてもという意味合いはあったことだろう。しかし、ついに浅野中尉の遺体は発見されなかった。資料【C】には以下のような推測が記載されている。

 「浅野大尉( ( 注・ママ) は落下傘降下した後、直ちに行動を開始、谷川に沿って下ったが、途中、谷を渡ったため濡れた飛行服を脱ぎ、あるいは捨てたものか、断崖で転落し、川の中で空腹と疲労のため立ち直ることが出来なかったか、あるいは谷川の水は5分とも入っていられない水温の雪解水のため、そのまま心臓麻痺を起こし谷川に流されたのではないだろうか」

 しかし、これはあくまで推測である。ここで、第2章述べた浅野中尉の性格について少し言及してみたい。少なくとも浅野中尉はパラシュートで降下後、上空を旋回する難波機に合図を送っていたほどであるから、その時に負傷していていたとは思えない。となると、ほぼ五体満足な状態で脱出行が始まったと思われる。そして、とりあえず水は豊富にある。おそらく暖を取るためのライター位は持っていただろう。もしライターがないとしても、将校だから拳銃は持っていたはずで、その火薬をうまく使えば火を起こすこともできただろう。周囲の状況、そして機上からの推測から、浅野中尉は、脱出行が相当に厳しいものであることを覚悟したに違いない。陸軍の航空士官がどれくらいのサバイバル技術を持っていたかは知らないが、少なくとも体力的には厳しく鍛えられていたはずである。
 そのような前提で考えてみると、何とも理解に苦しむことがある。第一は、靴や飛行服が遺体と一緒にではなく、別々に発見されていることである。靴は山歩きには不可欠であり、これを脱いでしまうとは一体どのような事態が生じたのだろう。資料【C】が言うように、雪解け水はとんでもなく冷たい。おそらく5度以下だろう。これが流れる川を渡るとすればかなりの覚悟がいる。後々のことを考えて靴を脱ぎ、服を脱ぐ可能性がないこともない。しかし、濡れることを恐れる余りにそのような処置を取ったとしても、川を渡る時に、万一流されてしまえば、事態はもっとひどい。決定的に無残である。濡れた衣服も靴も乾かせるが、流してしまえば、靴も衣服もなく山を降りねばならないのである。これはどう考えても冷静な行動とは思えない。同期は彼を評して「沈着冷静、決して慌てることなく柔軟な思考の持ち主」としているのだが、この冷静さを欠いた行動から推測して、一種の極限状態に陥った彼は、パニックに陥り常軌を逸していたように思えてならない。
 パラシュートをはずした時点で、彼は尾根の上にいた。視界が効けば周囲に状況は見えたはずである。これからの脱出行が容易でないことは見て取れたはずだ。パラシュートに包まれば体温を保つことも出来、しっかりした飛行靴もマフラーもあった。しかも、僚機は墜落地点を確認してくれているのである。もし筆者がこの立場であれば、まず一日は現在地に待機してみるだろう。空腹には耐えねばならないが、沢筋には水もあり、知恵を働かせれば、火を起こして暖を取ることもできなくはない。そして翌日になればもっと火を大きくして「狼煙」が上げられないかトライしてみるだろう。もし、救難機が飛べば、発見される可能性はぐっと高くなる。時期を見て拳銃一発撃って、捜索隊に生きていることを知らせる。それでも救出行動の気配がなければ、自力での脱出を考える。ただ、基本的に未知の場所で谷を下ることを避けなければならないのは山登りの常識である。取り敢えずは尾根を登って道を見つける。これは結果論だが、当時であれ飯豊朝日の連峰の回廊に辿り着けば、獣道くらいはあったろう。そちらの方が助かる可能性がはるかに高いだろう。中尉の遺品が発見された経緯を考えると、何となく慌てた様子が見て取れないだろうか。沈着冷静なはずの浅野中尉は、極限状態に置かれて冷静な判断ができなかったのではないかと思われてならないのである。もちろん、これも筆者の推測に過ぎず、とんでもない状況が彼を襲っていたかも知れない。生と死の分かれ目は、いつも厳しく冷酷である。
 もう一つ。当時の陸軍にSearch & Rescue ( 捜索救難) という思想はなかったのだろうか。戦記には何かと言えば「もはやこれまで、自爆する」という言葉が見られる我が国陸海軍のことであるから、期待はできないかも知れない。その点、米陸海軍は徹底していて、潜水艦が常時待機し、また水上飛行艇もパイロット救出に活躍していた。それだけに逆に米軍パイロットの士気は高かったともいえる。それにしても、難波茂樹氏は墜落現場を視認しているのであるから、捜索難航が予想されたのなら、翌日も翌々日もその付近上空を旋回することで、捜索隊におよその位置を知らせることはできたはずである。何故そのような行動を軍は指示しなかったのだろうか。彼の体験記では、事故の翌々日には能代での射撃訓練を開始しており、再度捜索に加わった気配はない。よく言われるように捜索でのは72時間が勝負なのである。もし捜索救難飛行を継続していれば、少なくとも、捜索隊が当初、別の流域一体の捜索をして一週間を無駄にするというような時間の無駄は回避できたはずなのである。ただただ闇雲に深山渓谷を1ヵ月半も探し続けるのは、ある意味、無謀無策とも言える。
 以上は、あくまで結果論であり、また現在の視点によるものだが、それでもなお、地元民はさておいて、少なくとも当時の陸軍、憲兵隊、警察などが総力を挙げて捜索したとは、筆者には到底筆者には到底考えられないのである。

7. 残骸

 【ジュラルミン塊写真 五十嵐氏提供】

  資料【B】には興味深いことが書かれている。この機体の残骸を保有している人がいるというのである。その人は「これは、ずいぶん昔に胎内に墜落した飛行機の残骸だ」と言われてそれをもらった由。その経緯が詳しく書かれ、かつ五十嵐氏はバスケットボール大【ジュラルミン塊写真 五十嵐氏提供】のその一部を近隣の化学工場に持ち込んで成分分析を依頼し、間違いなくジュラルミンであるとのお墨付きをいただいたことも記載されている。
  資料【A】に、大樽山の尾根上で浅野機の残骸を発見した時の模様が、聞き語り調で書かれている。それによると、軍は爆破のためのダイナマイトを持たせたとあるから、それだけ軍秘だったのだろう。しかし、爆破はしたとは書かれておらず「主だった部品は若い衆が担いで帰った」ともあるから、もしかすると、その一部がこのジュラルミンなのかも知れない。別の方の証言では「部品は戦後、どこかの屑鉄屋に払い下げたので、その会社の若い衆が大半持ち去った」と記されている。この証言が正しいとすれば、陸軍もダイナマイトなど持ち出している割には、案外と管理はずさんだったようにも思えなくもない。

8. 叙勲と慰霊

 死亡と判断された浅野中尉には、以下のような叙勲が為された。日付が墜落当日付けというのはいうのはやや不可解だが、そのように取り扱われるのが通例だったのかも知れない。この褒章は浅野宏氏が所蔵されているという。なお、旧漢字は現在のものに直している。

 「陸軍大尉 浅野力 支那事変ニ於ケル功ニ依リ功五級金鵄勲章並ニ勳六等単光旭日章及金参千円ヲ授ケ賜フ 昭和十六年六月十日  賞勳局総裁従四位勲三等  瀬古保次」

【 慰霊碑 】 五十嵐氏提供

 昭和50年夏、五十嵐氏はじめ中条山の会の有志と、当時捜索に加わった井上藤七氏とが飯米沢の墜落現場に登り、現地で供養祭を執り行ったと資料【B】にある。それに引き続いて、この年10月31日、黒川村では浅野中尉の慰霊碑が、伊藤孝二郎村長により建立された。上がその写真である。除幕式では、これまで長年浅野機の調査に当たってきた五十嵐氏の記録が配布されたという。除幕式には中尉の弟、宏氏も参列され、出席が叶わなかった五十嵐氏宛てには、後日丁寧な礼状が届いたそうである。慰霊碑には以下のように記されている。

表面
 「故陸軍航空大尉 浅野力 慰霊碑」

裏面
 「故浅野力大尉は山口県萩市出身なり昭和十六年六月10日この地に於いて隼戦闘機試験飛行中墜落事故により殉職す 頼母木川砂防前まで道路開削に当たり現地に碑を建て冥福を祈る 昭和五十二年十月建立 胎内川総合開発事業促進期成同盟会 会長黒川村長 伊藤孝二郎 株式会社本間組株式会社 取締役社長 本間茂」

 それから38年が経過した戦後70周年の平成27年6月29日の山開きの日、事故の風化を恐れた五十嵐氏を発起人として、献花、慰霊祭が執り行われた。これには、地元紙・新潟日報社、風間新発田局長、吉田和夫胎内市長のサポート、参列もあったという。

吉田市長 (左)と五十嵐氏 】  五十嵐力氏 提供

【五十嵐氏による 事故の説明】 五十嵐力氏 提供

9. おわりに

 平田氏からの一通の葉書をきっかけに全く知らなかった萩市出身の浅野中尉のことを不十分ながらも調査し、知ることができた。浅野中尉とは直接的には縁もゆかりもない新潟県の方々が、このように熱心に調査され、記録を残され、慰霊までされていることに深甚なる敬意を表したい。地元の航空史を調べてきた者にとって、この上ない喜びである。
 筆者は戦後生まれの戦争を知らない世代だが、それでも、実際にそれに遭遇した父母や、叔父伯母たちから戦争当時の厳しさ、悲惨さを何度となく聞かされて、それは今も心に残っている。戦後70年の今日、直接戦争で戦い、それを生き抜いてきた人たちの高齢化とともに、その方たちから直接お話を聞く機会は少なくなり、やがては不可能になっていく。
 筆者は山口県下でも、陸軍戦闘機の事故で亡くなった方の慰霊碑を訪ねて詳しく調査をしたことがあるし、また墜落した米軍爆撃機搭乗員の慰霊の模様を調べたこともある。このような戦争犠牲者の慰霊は、航空関係に限らず、全国各地で様々に行われてきたに違いない。しかし、五十嵐氏が危惧されているように、次第にそれらの風化は避けられない。
 歴史は繰り返す、と言うが、戦争の歴史だけは繰り返してはならない。その戒めの意味でも、このような史実が史実が厳として存在したことを記録していくことは、決して無駄ではないと思っている。今回、拙著紹介記事が全国紙に掲載されたことをきっかけに、このような未知の事実に触れることが出来た。微力ではあっても、これからも地元航空史発掘に真摯な姿勢で臨んで行きたいと思っている。 ( 2016.1.8 記)

参考資料・協力

  本文作成に関しては、以下の資料を参考にし、協力者の方々にお世話になった。深く感謝し、御礼申し上げる次第である。

《資料》
@ 「飛行第59戦隊中隊長体験記」難波茂樹
A 「奥胎内に墜落した軍用機追跡調査」五十嵐力  1977
B 「奥胎内に墜落した隼 ( はやぶさ)戦闘機・追跡調査のこと(最新版)」五十嵐 力  2015.12.25
C 「最新鋭軍用機胎内山に墜落」 (黒川村誌掲載) 1979 編纂者・小野昭治
D 「防人の譜」任官40周年記念 陸軍士官学校航空士官学校第52期生会  1979
E 「新潟日報 記事」 2015.6.30
F 「関川村山岳マップ」等の地形図  (平田大六氏提供)
G 「日本陸軍戦闘機隊」伊沢保穂 1977
H 「世界の傑作機・陸軍一式戦闘機『隼』」文林堂編集部 1988
I 「大阪朝日新聞」 天気図

《協力》
・平田大六氏 新潟県関川村村長
・五十嵐力氏 中条山の会  名誉会長
・防衛省  防衛研究所  戦史研究センター史料室