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  航空歴史館 

満洲奉天(瀋陽)の飛行場の思い出

 


1945年までの奉天の飛行場概図

 

目 次

  東塔飛行場 奉天飛行場 奉天東飛行場

 

@ 張作霖が建設  A 満航設立   B 北陵飛行場へ  C 瀋陽空港

 

D 奉天東(東塔)飛行場に隣接する満州航空株式会社奉天航空工廠の写真

  北陵飛行場 奉天北飛行場

  更 馮庸大学飛行場 鐵西飛行場 奉天西飛行場 鐵西滑翔場

  于洪屯飛行場

 

@ 故吉良正士さん作成の于洪屯飛行場要図

 

A 故吉良正士さん作成の于洪屯飛行場 場周飛行要図 

  文官屯飛行場 

付録  満洲の絵はがき


感謝 : このページは、大阪産業大学大学院工学研究科環境デザイン専攻 宋昊鵬さんの協力を得て作成しました 

 

 

1 東塔飛行場 奉天飛行場 奉天東飛行場
 

@ 張作霖が建設
 1921(大正10)年、奉天軍閥張作霖大元帥が東三省航空処として、東塔のそばに飛行場を設けました。張作霖亡き後は張学良東三省保安司令官に引き継がれ、 東北軍飛行場として拡張され、兵工学校や修理工場など も設けられます。軍用機の操縦や修理の指導は日本人と、日本陸軍士官学校などで学んだ東北軍将校が当たりました。(東塔=ラマ教の塔)

A 満航設立
 1931(昭和6)年満州事変、1932(昭和7)年満洲建国の後、 関東軍司令官本庄繁中将と満州国国務総理鄭孝胥との協定により満洲航空株式会社が設立されます。満航は関東軍航空の一種のダミーともいうべき もので、東塔飛行場の軍事施設に本社を置き、合わせて満航航空工廠を設けました。

 

 

 

 

 

 満航は1932(昭和7)年11月3日からフォッカー スーパーユニバーサルとフォッカーF7/3mで満洲各地への運行を開始し、航空工廠では、スーパーユニバーサルの組立てや軍用機の修理などをはじめました。隼型旅客機を自主設計して生産するなど、高い技術力をもち、自社で航空機製造を行うという世界でも例のないユニークな航空会社でした。

 

 

 

 

 

 

B 北陵飛行場へ
 後に路線運行の主力は北陵飛行場へ移り、航空工廠も1938(昭和13)年に満洲飛行機製造株式会社として独立し北陵飛行場へ移ります。しかし、工場設備は存続して引き続き戦闘機の生産に当たったほか、同年3月に満航乗員養成所を開いて路線乗務員の訓練に当たりました。

 東塔飛行場は、文献によって東塔飛行場、奉天飛行場 、奉天東飛行場 、城東飛行場の四種類の名が出ています。1945(昭和20)年8月通河から到着した溥儀がソ連軍に連行されたのが 奉天東飛行場と言われています。

 

 

 

 

 


C 瀋陽空港
 第二次大戦後は、1950(昭和25)年、中国の軍民共用飛行場となり、トライデントやMD-82なども就航していましたが、1989(平成元)年に瀋陽の南に桃仙国際空港 が開港するとともに民間機の乗り入れは中止されました。

  今は、軍のヘリコプターが使っているということですが、航空関係者の住宅が建設されているので、大きな飛行場としての機能は存続していないように思われます。2005年、空港管理権が民航瀋陽管理局から瀋陽市に移管され、地元の大東区政府が航空博物館を建設する計画も発表されています。

 また、この地域は、鐵西とならぶ工業地帯でもあり、兵器廠や航空生産工場の面影を残す航空関連の工場や研究所の名前が地図上に見受けられますし、東塔付近の道路に空港西路というような飛行場ゆかりの名称も残っています。



D 奉天東(東塔)飛行場に隣接する満州航空株式会社奉天航空工廠の写真  杉山弘一

九一式戦闘機展示風景

裏書 昭和8年12月20日 航空廠二期落成式 当日展覧の数々

説明板クローズアップ

           
    



   九二式戦闘機前集合写真 

裏書 昭和9年6月6日第一回見習工卒業記念写真 1列目中央 高橋常四郎少佐

八八式偵察(又は軽爆撃 )機

九三式単発軽爆撃機

 

 


 

2 北陵飛行場 奉天北飛行場 
 

 1929年ごろ張学良東三省保安司令官によって建設されました。張司令官は満洲の鉄道の利権をめぐってロシアと争っており、奉天〜新京線が通る北太営の近くに航空基地の必要性を感じたのかもしれません。

 ここも、満洲事変後日本が奉天北飛行場として整備拡張しました。 昭和10年代には、奉天東飛行場に代って満洲で有数の民間航空拠点になり、日本で始めての無線航法の訓練も開始されたと言われています。

 前述のとおり、1938(昭和13)年に満洲飛行機製造株式会社が移転しました。主として民間機の製造修理を行っていた模様です。

 筆者(佐伯)は、国民学校4年生か5年生かの時に、親に連れられて航空機と戦車の献納式に出かけ、目の前で飛ぶ戦闘機に感激した覚えがあります。潜在意識の底では、どうもこの北陵飛行場のような気がします。

 第二次大戦後は、牡丹江航空学校が移転し、現在は、瀋陽飛行機製造公司があります。

 

 

 
 

 

3 奉天西(鐵西)飛行場  奉天西
 

 鐵西地区は、1927年に東北航空司令の馮庸将軍が馮庸大学を開設し、満洲事変後に関東軍が接収し奉天西(鐵西)飛行場と航空機製造工場として使用しました。

 太平洋戦争後は、一時期、鐵西滑翔場としてグライダーの訓練飛行に使われましたが、やがて廃止されて住宅団地になりました。


3-1 馮庸大学


3-2 奉天西(鐵西)飛行場

提供 杉山弘一

                  
  下部の航空機部分を拡大
               
          


3-3 鐵西滑翔場




3-4 飛行場閉鎖後

飛行場跡地






住宅団地化 撮影2018/09 GUNDAMZAK

 

瀋陽市歴史建築リスト中の「奉天西飛行場付設航空技術部野戦航空修理工場」

 撮影2018/09 GUNDAMZAK



馮庸大学にあった張作霖と張学良の獅子像  何度か移転し現在は瀋陽ガス会社に設置
撮影2018/10 GUNDAMZAK

 

4 于洪屯飛行場 

 

 東北軍が開発したものか、関東軍が設けたのか不明ですが、ずっと軍用飛行場であり、現在は瀋陽軍区空軍第4独立航空団が駐屯しています。

@ 故吉良正士さん作成の于洪屯飛行場要図
               

 この見取図の作成者は吉良正士さんです。奉天市于洪屯飛行場にあった教育飛行隊の操縦訓練で、地上目標を覚えるためにスケッチしたものと思われます。作成は1944年(満洲国年号で康徳11年、昭和19年)前後のようです。   原図はB4のザラシに色鉛筆で記入  (文字が不鮮明のためパソコンで上書き)

 図にあるように農家や牧場が点在する農村地帯の中に、縦横約2キロメートルの飛行場があったようです。

【于洪屯は日露戦争で歩兵第33連隊が全滅、第6連隊が2千数百名の犠牲を出しながら辛うじて占領地を死守したという奉天会戦最大の激戦地と言われています。于洪屯の文字の右に記念碑状のマークがあるのは第6連隊のものでしょうか。】

A 故吉良正士さん作成の于洪屯飛行場 場周飛行要図 
 次の図は、第一斑第三組吉良正士の署名がある場周飛行のプログラムです。教官が黒板に書いていくのを一生懸命に書き取り、自室で清書されたのでしょうか。紙は黄変していても青インクで丁寧に記入し、赤鉛筆で強調した場周経路の注意点は、基本的に六十数年後の今でも通用すると思います。

この二つの図面の作者の吉良正士さんは殉職と判明しました 2007/01/12 佐伯邦昭

 スケールアヴィエーション誌2002年7月刊の「海鷲陸鷲あっとらんだむ 第10回「ああ満州国軍航空隊 番外の2(続) 満洲国軍航空隊の歴史と戦闘の記録」(さんぽんさん提供)に、次のような記載がありました。

康徳12(昭和20)年3月9日、奉天航空学校所属の梶田繁寛(軍官学校一期転科学生)と吉良正士(軍官学校二期転科学生)は、ともに九七式戦闘機で編隊訓練中に接触し、墜落して両名とも殉職した。

 軍官学校とは、満洲第二航空軍の航空学校のことで、転科学生とは、他の兵科から転科して操縦の速成教育を受けた学生を示します。自ら応募して九七戦の訓練に励んだ若者が、手作りの于洪屯飛行場要圖と場周飛行要圖を再び手にできない無念を思うと、涙せざるを得ません。


5 文官屯飛行場 

 

 文官屯飛行場という名が通称か正式名称かは分かりません。満州国軍第二飛行隊と新妻東一さんの思い出航空歴史館 1-03に櫻井清さんが記述しているように、北陵飛行場の地続きで東北端に満洲国軍飛行隊の基地があ ったことは確かです。
 1944年頃には九七式戦闘機や屠龍戦闘機がいました。1944(昭和19)年末の空襲でB-29に体当たりを敢行して戦死した蘭花特別攻撃隊の西原少尉、松本上校、春日中尉らが駐屯して おり、出撃は奉天北飛行場から離陸したものと思います。

 櫻井さんが持ち帰った九七式戦闘機の主翼の下で陽射しを避けている写真の遠景に、格納庫やその他関連と思われる建物が写っています。
 時刻は正午ごろ、太陽は南から飛行機の正面に当っていますので、遠景の方角は北東、つまり連京線文官屯駅方面と推定されます。

 ややこしい解説で恐縮ですが、トップ図面の2と5の関係にほぼ間違いないはずです。(ただし滑走路は現在のものであって、当時は舗装路があったかどうか不明)

 私は、近所の子ども達と遊びに行き、たしか屠龍の細い胴体に上がったりした記憶があります。廃品置場から風防ガラスの破片を持ち帰り、こすって甘酸っぱい匂いを楽しんでいたものです。

 

 

 

付録 満洲の絵はがき 解説: 横川裕一 佐伯邦昭 

八八式偵察(又は軽爆撃 )機

 杉山弘一

九三式単発軽爆撃機     東塔飛行場と思われます。

 杉山弘一

愛国第1号(ユンカースK-37)軽爆撃機 横川 裕一 

 昭和72月の撮影です。飛行場はチチハル。健闘した愛国号ですが、1機だけではいかんともしがたく、九三双軽というコピー機の登場を促すわけです。3月には内地環送が決まり、九段下(国防館)で展示されるのですが、それが決まる前後の撮影です。 

 RENAT


満州事変で爆撃部隊編隊長機として活躍、尾翼に命中した弾痕

 

ポテ25A2(保貞)偵察爆撃機

 下部に書かれている奉天東北飛行場とは、張学良の東北航空軍の根拠地である奉天東(東塔)飛行場を占領後そのように呼称していたものと思います。

 RENAT