湘南という言葉からは、江の島に代表される観光地、温暖な気候と明るい海に関連する垢抜けた若者たちのイメージなどが浮かんできます。
しかし、その海にまつわる歴史の中の一時期に、アメリカ軍が徹底的にマークした十数年があり、その歴然たる事実を忘れるなと叫んでいるのが、この本の内容です。
米軍の日本本土攻撃の戦略戦術の中で、藤沢は京浜工業地帯につらなる重要工場がある地域として空襲の大きな目標とされ、湘南海岸からの上陸作戦も具体的なプランとして練られていました。
そういう作戦を振り返る時に、いつも日本人が驚くのは空撮写真とそこに書き込まれた工場などの正確な位置や名称、そして詳細な地図が作られていたことで、もちろん京浜と湘南の全体もその例にもれません。本書のプロローグでは、「高度10,000メートル 眼下の藤沢」として、その資料写真がずらっと出てきます。落ちてきた爆弾で工場が破壊され、逃げ惑う工員の姿が目に浮かんでくるような気がします。
1945年8月15日を境にして、藤沢も一変します。厚木飛行場に降り立った占領軍は藤沢を経由して横浜、東京へ向かいますから、相模湾からは軍艦が睨みを効かせるという訳で、表紙写真の江の島沖を遊弋する戦艦ミズーリがその一例です。
占領政策の中で面白いのは、軍需工場の多くが再開を認められませんでしたが、藤沢の日本精工だけは、爆撃を免れていたばかりか、戦後いち早く生産を認められたことです。なぜかというと、あらゆる機械の必需品であるベアリングの製造工場だったからということです。戦略のしたたかさを裏付ける歴史です。
いま、サーファーや海水浴で賑ぎあう辻堂海岸は、もともと日本海軍が演習場としていた臨海部でした。朝鮮戦争が始まると、出動する部隊の重要な訓練地となり、近隣や漁業者の被害などなんのその、連日猛烈な訓練が行われました。
朝鮮動乱が終結し、日米安保の協議が進む頃には、休暇を楽しむ兵士や将校の奥様がたが、江の島や鎌倉を訪れますし、日本人との交流も生まれます。そこから湘南独特の風俗が生まれていったのかなとも思います。彼らが、写した風景写真も豊富に掲載されています。
さて、それらの写真は、米国立公文書館や米議会図書館から藤沢市の職員が発掘してきたということです。副題の「アメリカ軍の見た藤沢」 はそこから来ている訳です。
その中に、発行時点で藤沢海軍航空隊の本部や地下壕を写した写真も混じっていますが、ヒコーキ雲が取り上げている燃料庫(A3723-2参照)がありません。戦争遺跡を端的に象徴する施設のひとつであり、編集者の調査不足が惜しまれます。
総じて、藤沢市役所が、戦中戦後の歴史を残そうとしている姿勢は、教育委員会の博物館建設準備担当が本書を編集したことから熱意が伺われるのですが、発行から15年を経た今日どのように進捗しているのでしょうか。関心ある市民のご意見ご感想を聞きたいところです。