1 ヒコーキ好き復活のきっかけ
この写真を見て「懐かしいなあ」と思い出す人は、佐伯邦昭と相前後する年配です。
パンサーの2機編隊の写真を大きくすえた紺色の素晴らしい表紙デザインに魅せられて、遂に社会主義的反米思想の殻を破り本能的に買い求めてしまったのが1962年正月、私が23歳のときでした。
終戦を境に苦難の生活に転落し、学生-就職初期を通じて社会主義に汚染傾倒し、小さい頃のヒコーキに対する憧れもほとんど忘れかけていた時に、たまたま遭遇したのがこの航空情報第10集「航空ファン読本 特集・グラマン戦闘機全集」でした。グラマン製の全戦闘機のグラビア、堀越二郎さんのグラマン戦闘機論でのワイルドキャットと零戦の比較など、永らく航空空白人間であった私には、乾湖が水を吸い込むようなものでした。
これがきっかけで航空情報と航空ファンを購読するようになりました。
2 航空情報友の会(ARC)へ入会
根がしゃべりたい人間の私は、さっそく航空情報のMail Box(読者投稿欄)に投稿を始めましたし、航空情報友の会(以下ARC)にも入会申込をしました。
写真では手前のパンサーの邪魔をしている小冊子が、入会金100円也と引き換えに送られてきた会員名簿とバッジです。
会員番号つきのカード式会員証は残念ながら行方不明です。
会員名簿は1957年5月の発行ですから、私の入会より5年も前のものです。2900人余りの氏名住所職業が記載され、今ではなつかしいお方の名前も散見されます。
ARCは、図面の頒布とか空港見学などの行事をして航空情報読者の親睦を深めるのが目的でした。各地に支部を設けることができ、実を言いますと、そのことが私のヒコーキマニア人生の方向を決めたのです。
3 広島航空クラブ-ARC広島支部-発足
この古ぼけたB5わら半紙にガリ版刷りの「広島航空クラブニュース 1963・10」が、ただいま見ていただいている「インターネット航空雑誌ヒコーキ雲
」の原点です。下の方に-ARC広島支部-としております。
ARCに入会してから会員名簿やMail Box欄で広島市内の氏名のわかる人たちに連絡をとり、とりあえず1963年9月29日に集まったのが広島や岩国から6人、ARC広島支部設立準備委員会の立ち上げのつもりでした。
ところが翌日の中国新聞をみてびっくりしました。なんと準備委員会どころか「航空クラブ結成」という見出しが躍っております。私が仲良くしていた記者が持ち上げてくれたのでした。
じゃあせっかくなら準備委員会も通り越して、名前も「ARC広島支部」よりも「広島航空クラブ」の方がよかろうとなったわけであります。命名なんてこんなものです。
ただ広島航空クラブというと、自家用機パイロットの団体などに間違われやすく苦情があったような気がしますが、当時は鼻息も荒かったですね。英訳でHiroshima Aero
Clubとして岩国の海兵隊へ手紙を出し、入場しようとしたらラスコム8Eという小型機を保有している基地内飛行クラブの団長さんが出迎えてくれて、面食らったこともありました。我々は軽飛行機の操縦ではなく、軍用機の写真を撮らせてもらうのが目的でしたからね。
さて曲がりなりにも広島航空クラブ-ARC広島支部-が発足し、さっそく毎月1回例会を行うことにし、とりあえず機関紙をと発行したのが、この「広島航空クラブニュース 1963・10」です。表紙を入れて4ページに13人の名簿と会費のことや例会の案内を書いております。(ガリ切も印刷も発送も佐伯一人でやりました)
名簿にはアイウオエ順で3番が幸田恒弘、4番が佐伯邦昭です。F-86研究家の幸田恒弘さんとは爾来40年のくされ縁となり、いまだに切れません。また、縁は薄れましたが、今でも雑誌に写真を投稿している岩国の某マニアの名前も見えます。
こうして、ヒコーキマニア人生録・図書室がはじまります。
4 広島航空クラブの発展
1963年10月に会員13人でスタートした広島航空クラブ(兼)ARC広島支部は、こういう横のつながりに飢えていた時代でしょうか、会員が次第に増え、例会行事も機関紙も順調に伸びていきます。
発足翌年の3月には広島航空クラブニュースは第7号を数え、定期路線の座をフォっカーF-27フレンドシップに譲って引退した全日空ダグラスDC-3を表紙に描いています。機関紙といえばガリ版の時代、羊皮紙を鉄筆でガリガリと切っていくからガリ版ですが、よくもこんな絵が描けたものと我ながら感心して振り返っております。
中身はというと、会員からの原稿はなかなか集まるものでもなく、結局、私の駄文雑文で埋めている号が多いです。その駄文雑文は恥ずかしくていまさら公表できるシロモノではありません。
もう少し広島航空クラブとARC広島支部の関係を記録しておきたいと思います。
ちょっと勢いがつくと有頂天になって舞い上がるのが若さというものですが、広島航空クラブも例外ではありませんでした。ARC広島支部を名乗っているのだから、本部は援助してしかるべきである等々・・・、鼻息荒く申し入れたりしたものです。それに対して会員名簿の中から広島住所の人の名前を知らせてくる程度の答えしかなかったから、たちまちにして「けしからん。ARC広島支部の名前を返上せよ」などの声が出てきます。一番叫んでいたのは佐伯かもしれませんが。
それを逐一機関紙に載せるものですから、酣燈社でもほって置けなくなったのでした。水野社長から私への電話「東亜航空の格納庫開きに航空情報の関川編集長を出張させるので、その機会に広島の皆さんと協議したい」と。
広島の東亜航空株式会社も日の出の勢いでしたね。新築格納庫は3,200uコンベア 240を3機並べて整備できるもので、広島空港のターミナルビルを圧倒する大きさでした。もちろん今はありませんよ。(写真は1964/09/20撮影:佐伯邦昭)
格納庫開きに列席した関川栄一郎さんとの協議は広島平和記念館の会議室で行いました。後年テレビで温厚なお姿をたびたび拝見するようになりましたが、そのときもさすが京大文学部出の教養にあふれる紳士という印象で、航空情報に対する認識を改めさせられたものです。
話し合いの詳しい内容は覚えていませんが、持参のスライドを見せてもらったことと、広島で本格的な映画界をやりましょうとの提案を受けいれたのが結論でした。よって、ARC広島支部を存続となりました。
さて、酣燈社の提案による本格的な航空映画会です。 私がごちゃごちゃ書くよりも手作り入場券や本格的?プログラムを見て頂きましょう。
150席くらいの日立ファミリーセンター3階ホールが満席になったように記憶しています。不肖佐伯が開会の挨拶で関川さんを紹介しましたが、壇上で足と声の震えが止まらず、若き頃のたいへん恥ずかしい思い出です。
関川さんが持参した映画は、YS-11、ノースロップF-5A、ホーカーシドレートライデント、グラマン モホーク、マクダネル F-4B、ナット トレーナー、ヴィッカースバイカウントの7本でプログラムとは異なりましたが、いずれも最新鋭の飛行機でありビデオもない時代ですからみんな食い入るようにスクリーンに注目しておりましたね。
関川さんは、35ミリフィルムのほかに航空グッズをたくさん持ってきて、会場で抽選をやりました。そのときには私の震えも止まり、ヒコーキのシルエットの入った浴衣の反物をあてて今度は喜びで震えたものです。
1-2に続く
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