1 全国組織結成の呼掛けと挫折
全国組織については、幸田恒弘さんがとても熱心でした。
彼は、航空自衛隊員であった当時からTSPCの会員として、彼らの目的などを熟知しており、広島に帰ってからも、青少年たちに写真術や記録の重要性などを普及させたいと考えていました。
前記のように、広島航空クラブに注目が集まってくると、そこに日本という名を冠すべきだと彼が考え始めた節があります。それが全国組織へ、そして、遂に彼の念願の日本航空史研究会 Japan Aviation Historical Society JAHS の名跡を引き寄せたのでした。
たしか、1964年の暮れ頃から度々我が家へ来て、時には夜更けまで話し合って、考え方を1965年7月発行の広島航空クラブニュース22に発表して全国のクラブに呼びかけました。
少々長いですが、本旨は今現在も通用しますので、記録として載せておきます。
さて、各地の同志と協議を開始しましたが、両名の熱意が各地のマニアに聞き届けられたかどうか。その反応は、積極的な人、消極的な人、迷う人等々さまざまでしたから、調整案を作っては手紙で呼びかけるを繰り返し、最終的には、次のような骨子の案にまとめて有志に提示しました。
・ 全国の組織を一本化して、その主体は東京に置く
・ 各地の情報や研究を東京に集めて統一機関誌を編集する
・ 機関誌のタイプ印刷と発送は広島で引き受ける
しかし、結局まとまりませんでした。特に長谷川明さんをはじめとする首都圏の人々のああでもないこうでもないには、私の方で精神的にも参ってしまいました。
その結果、1年後の1966年夏、比較的友好に話し合いに応じてくれていたKAPC関西航空機写真クラブの代表上田新太郎君だけを残して協議を打ち切ったのです。
余談ですが、打切りを宣言した途端に最も手を焼いていた長谷川明さんから佐伯の提案どおりにするから思い直してくれという手紙が来たりしたものです。振り回された私にも原因があるのでしょうが、振り回した人間もいい加減なものです
。
この挫折で得た教訓は、地方の人間が東京を中心に据える組織づくりを主導してはいけないということでした。
以後、貴重な人生教訓として、ヒコーキの世界以外の分野でも心している次第です。
2 KAPCとHACの合同 ヒコーキの会誕生
一方で、大阪や神戸の諸君とは岩国三軍や八尾の航空祭など相互に行き来して、飲んだり泊まったりしているうちに人間関係が深まったように思います。KAPCの主力メンバーである上田新太郎君、山内秀樹君、
中井潤一君、佐藤雅三君、倉本信章君らです。
会報The Cormorant Eyesを発行しながら高見保市さんが会長をしていた彩雲会に外国機の情報を提供するなど、活発に活動していました。しかし、彼らはみんな学生であり、いずれは、卒業して離れ離れになる運命ですから、KAPCの存続という問題に直面します。現実に勉強と飛行場通いと機関誌発行の時間調整も難しくなっていたようです。
そこで、私とKAPC代表の上田新太郎さんと
が協議し、大げさな目標を掲げる全国組織はあきらめて、もっと自由にヒコーキマニアが遊べる広場のような機関誌づくりをやろうじゃないかということで意見が一致しました。
かくて、1967年1月KAPCとHACはめでたく合併し、ヒコーキの会となりました。そして会報ヒコーキ雲を発刊したのであります。タイプ印刷18ページの終わりに私が書いた編集メモにヒコーキの会の表情がよく出ております。
交互編集の例
合併は成功でした。このように交互に編集しながら定期発行を続け
ましたし、東京の添田正喜さんや仙台の小山さんらが積極的に協力してくれて、別冊の飛行場ニュースやナンバーズリストなども発行していました。
しかし、数年もするといろいろと紆余曲折を経験します。関係する人の思惑や生活環境の変化に大きな影響を受けるからです。私自身、遂には会報ヒコーキ雲の編集から離れることになりました
。
3 その後のヒコーキの会とヒコーキ雲
その紆余曲折に触れておきます。
ヒコーキ雲は、広島編集部(責任者佐伯)と大阪編集部(同上田)が交互に発行しました。広島はタイプ印刷、大阪はガリ版印刷でしたが、間もなく学生である上田君も多忙になり、広島でまとめる方に傾斜していきます。更には、2年後の1969年に佐伯自身も職場の関係で手が取れなくなりました。
(注) 余談ですが、1969年4月の人事異動で簿記の知識を必要とする部署に配属され、簿記のボの字も知らないために企業会計を一から勉強することになり、ヒコーキどころではならなくなった訳です。
それで、1969年8月No.61発行分(画像a)から間接的に手伝う条件で編集を幸田恒弘さんに委ねました。
未経験の仕事で苦労したとは思うのですが、むしろ佐伯という呪縛(重し)がとれた思いだったようです。もともと日本を冠した全国組織を強く志向していた彼のことですから、次第に彼の思い通りに形が変わっていきました。まず、4冊目(画像b)から大阪編集部の文字がはずされ、8冊目(画像b)からは、会の名称にJAHSが入り、更には、彼の個人編集の別冊販売を始めたのです。
(注) JAHSとは、Japan Aviation
Historical Society つまり日本航空史研究会です。
幸田さんは、既に活動を停止していた日本航空史研究会JAHSの名跡を譲り受けたと言っています。
そして、遂に24冊目である1975年1月のヒコーキ雲No.84の表紙(下)からヒコーキの会の名も消えてJAHSとなりました。
その間、私はどうしていたかというと、彼に発行を委ねた以上は彼の行動に異を挟めませんので、彼の意思を体して編集や校正を手伝いましたが、内心では、あまり愉快なものではなく、また会員組織であるのに写真や別冊販売を含めて一切の会計報告がないこと等の独断運営に危惧は持っていました。
(注) 会計報告に関する幸田さんの考えは、JAHSは年中赤字なので、報告などする必要がないということでした。年中赤字なのかどうか、私には、現在に至るも全く知りません。
4 長谷川明さんの介入によるCONTRAILへの衣替えと赤字発生
長谷川明さんは埼玉県の人で、第一世代のつばさ会とMach
Clubの会報にもいろいろな絵を出している古いマニアです。兄上が航空雑誌に彩色イラストを画いておられまして、長谷川明さん自身も描画と三面図に非凡な才能があり、加えて撮影や文献の研究も一流でした。
ただし、失礼ながら彼についてはネガティブな評価を口にする人も居ますし、特に首都圏では一匹狼に近かったのではないかと思います。全国組織の件で私を振り回したのは、
私の提案の「東京に本部と編集権を」に乗ると、彼と仲の良くない人達によって発表手段が制限されるという危機感を持たれたからかもしれません。
ですから、
広島という田舎で定期発行を続けているヒコーキ雲は、彼にとって格好の発表手段だったのです。編集人が私から幸田さんに変ると、更に投稿がエスカレートし、遂には編集への介入も始まりました。
機関誌の表題を「ヒコーキ雲」から「CONTRAIL」に変えさせ、その表紙のイラストをA4判のケント紙に画き、併せて記事の方も写真や豊富なイラスト入りのものを20枚くらい送ってきたのでした。
まるで長谷川明『本』です。
それを受けざるを得ない幸田さんが困って私に相談に来ましたが、口頭で指導していても埒があかないので、再び私が編集作業に戻って、長谷川明さんの原稿が活かせる手段を考えました。
先ずは、大きさを従来のB5判から原稿原寸のA4判とし、ザラ紙へのタイプ印刷から上質紙の写植印刷に切替え、文章は従来の2列から3列にして読みやすくするように工夫しました。それが、1976年5月から衣替えしたCONTRAILです。(右画像) 表紙の文字イラストと割付もすべて長谷川明さんの手になります。立派なものです。
・ 赤字発生とその解消努力
しかし、このA4判上質紙写植印刷は7冊目で終りを告げました。幸田さんがきちんと会計報告をしてくれていれば、早く手が打てていたのですが、或る日、印刷屋の営業員が私のところへ来て、
幸田さんから入金が全然ないので困っているというのです。
その印刷屋は身障者授産施設で、従来から格安料金で受けてくれていて恩義がありますので、ここは経費を大幅圧縮して、借金を返済するしかないと決断しました。1978年8月のNo.95(左画像)から、元のB5判ザラ紙タイプ印刷に戻しました。もちろん
長谷川明さんの作品も縮小しましたが、彼も納得したらしく、以後もたくさんの原稿と図版を送ってくれています。
ただ、やはりB5判ザラ紙印刷では飽き足らなかったのか、一時期、彼自身がJAeHSと称する会を名乗ってA4判上質紙写植印刷でPictorial Air Reportなる会報を発行しています。もちろん、3号でつぶれましたけど。
一方、復帰した私は再び油がのってきて、例えば、100号の記念誌となった1979年AUTUMN号に次のように書いています。
この文章に偽りはありませんし、気持ちも相当に高揚していました。事実、95号から109号までの14冊は、ヒコーキ雲とCONTRAILを通じて最高の編集内容になっていると思います。21世紀の現在、航空書籍に名を出している多くの人が当時のJAHS会員名簿に名を連ねていたことも、その傍証になります。
よく言えば、私の努力のお蔭、しかし、悪く言えば私の思い上がりでした。赤字解消を名目の編集復帰、内実は、編集の面白さに再び我を忘れてしまって、そのツケが5年後にやってきました。
5 赤字解消の努力を無視され、即刻編集から手を引く 3-5
13冊ほど(1982年1月No.109まで)続けて、そろそろ印刷屋への赤字も解消したころではないかと、営業に尋ねましたら、赤字どころか、幸田さんが私には内緒で別冊を印刷に出しているというのです。
印刷屋と幸田さんとでどういう経緯があったのか、両方とも私には明かしませんでした。多分、有頂天になっている私を引きずり降ろすことができなかったのでしょう。
必死で赤字解消に努力してきたのに何たることか、お人好しにも程があると我ながらあきれました。
即刻、編集から手を退く旨、幸田さんに告げました。この109号が19年間にわたる機関誌編集作業の最終号となった訳です。
というと、一方的に幸田さんが悪者になりますが、私自身も、仕事の方で、広域市町村圏つまり広島市と近隣町との合併推進という重い職責を課せられており、趣味との両立生活が重荷になりつつあり、編集後記に若い後継者出でよなんて書いていますから、退任のチャンスを与えて貰ったというべきかもしれません。
6 空白の約二十年間
以後、多少の手伝いはしても、CONTRAILの編集発行には基本的にタッチしておりません。
その事情を知らない会員から、編集内容に対する不平不満
が私に寄せられました。ありていに言えば幸田さんの会の運営や編集に対する不満です。例えば、あの全国組織騒動で私を振り回した長谷川氏からして次のような手紙をよこしています。
下郷松郎さんなどは、これよりももっと過激な表現で幸田編集を批判する抗議文を私に送ってき来ているし、例えば年賀状にまで添え書きしています。
要するに、幸田さんには文章と編集才能が掛けているしそれを補うように努力しない姿勢が見破られているということでなのですが、しかし、私は、やめると宣言した以上、
ずっとノータッチを貫いています。
1980年代末から、職場の方でも重責、多忙の毎日を送るようになり、ヒコーキマニアの世界からも次第に遠のかざるを得なくなっていました。仕事柄、東京などへの出張が増え、好きな飛行機に乗ることが多くなったにも拘らず、マニア的な眼で楽しむ心の余裕があまり生じなかったように思います。
もし、いろいろなことを観察していれば、相当の写真や知識を溜め込んできたであろうにというのは、後にして思うことで、長いヒコーキマニア空白期間と相成った次第です。
6 ヒコーキ雲は、インターネット上に復活
長い間足を洗っていても 、子どもの頃からのヒコーキ好きと機関誌を編集印刷していた当時の熱意は心の底に生きています。
退職後、完全に家庭の人となってからパソコンをいじっているうちに、再びヒコーキの虜(とりこ)になりました。
その経緯は、日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史拾い書き(2-4)Z09に書いておりますが、日本のダグラスDC-3研究をネット上に復活しているうちに、予期せぬ反応というか、見知らぬ人々から各地の新鋭機の情報などを頂くようになり、その発表手段としての雑誌、即ちインターネット航空雑誌ヒコーキ雲を発刊するに至ったわけであります。
日本何々、Japan何とかの名称に私は興味がありません。従って、幸田さんが継続している日本航空史研究会JAHSの機関誌CONTRAILとは別の道、上田新太郎君と始めた時のようにヒコーキマニアなら誰でも気軽に寄れる広場とし、その上で歴史に残せる責任ある航空雑誌にしていきたいとしてヒコーキ雲を再び名乗った次第です。
このページの冒頭に掲げて赤線を引いている文節の気持ちを、いま体現しているのであります。
終りに、いちいちお名前をあげ得ませんが、1963年に広島航空クラブニュース第1号を出してからの数えきれない多くの人々からのご支援なくして、今の私は存在しないと言っても過言ではありません。
既に先が見えだした残り少ない人生ですが、その皆さまの重みを常に感じながらこれからも精進していきたいと存じます。ありがとうございました。
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