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ヒコーキマニア人生録・図書室 掲載04/04/30

日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史拾い書き

 

(1) 人間ドラマ
(2) 紙からインターネットへ 
(3) 穴を埋めていく苦労、埋められた喜び
(4) データベースの話
(5) 少し威張らせてください

 

(1) 人間ドラマ

 航空史研究の道筋は、開発や技術や記録などを追っていくものと、人間や社会のドラマティックな面からのアプローチとがあると思います。もちろんその両方がさまざまにまざり合いますので、いずれかに特化というのはあり得ませんが、私は、どちらかというとドラマの方に興味をそそられます。

(1-1)  筋書きのないドラマ

 日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史「F-10 伊豆下田沖の悲劇 航空政策の転換点」で着目したのは永野運輸大臣が「航空支援施設などに予算がつかなかった」と委員会で発言した事実です。

 官庁の予算をかじった人であれば、こういう発言は大蔵省の猛反発を招くとしてタブーになっていることはよくご存知でしょう。それには二つの意味があります。ひとつは、少ないなりに苦労して予算をつけてきてやったのに何たることを言うか、国家財政の厳しさが分らないのかという反発、もうひとつは、お前らの要求が支離滅裂でまともに説明もできなかったじゃないかいういい訳です。

 当時の雑誌を読むと、航空政策の計画性のなさという論文がいくつも出てきますから、大蔵の言い分も分ります。しかし、どっちにしても次回の予算折衝の時に皮肉たらたらの応対をされるのは必定です。だから、公の場ではタブー発言なのです。

  永野運輸大臣の嘆き節がそれを承知で発せらたものとすれば、部下の運輸官僚と大蔵省に対するに対する痛烈な皮肉であるととも、大幅予算獲得のための攻勢に打って出ようという筋書きであったのかもしれません。民間出身の大臣として考えた末の発言とも言えます。

 ローカル路線の悲劇は、起こるべくして起こったのだというごうごうたる非難の嵐の中で、この大臣発言が効を奏したものか、遂には大蔵省を動かすに至ります。私は、そこを捉えて日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史のなかで「JA5045 伊豆下田沖の悲劇 航空政策の転換点」として記事をまとめました。詳しくはそちらをご覧ください

 筋書きのないドラマの中でダグラスDC-3が登場し、そのスポットライトの向こうの暗闇に時代の問題点を浮き上がらせる、犠牲者には申し訳ありませんが、歴史研究の醍醐味を感じます。

(1-2) 複眼で見る

 全日空のJA5045が「一番エンジン停止、羽田へ引き返す」との連絡を最後に消息を絶ったことから、事故原因はエンジン停止とともに真空ポンプも止って水平儀や旋回計が作動しなくなり、暗闇の中で機の姿勢がわからなくなって海面へ激突したというのが定説です。

 私はこの説にはおかしなところがあるなと思いました。1エンジンが停止しても、2エンジンにも真空ポンプがついているのだから、2が回っている限り水平儀も生きているのではないかと。

 そこから、実際にダグラスDC-3を整備した経験のあるにがうりさんや自動車機構に詳しいかつおさんたちとの討論がはじまりました。そして、どうも、一部のDC-3は、1と2の真空ポンプをスイッチで切り替える構造 であったらしいということがわかってきました。それを決定付ける当時の航空局検査課長の論文も後に出てきました。

 では、JA5045の機長はなぜ2へ切り替えなかったのでしょうか。それが次の疑問でした。

 いろいろ見ているうちに、宮本晃男さんが昭和15年に編集したDOUGLUS.DC-3旅客飛行機取扱解説という本に、操縦席の詳しい写真があり、副操縦士席パネルの下方のわかりにくい位置にそのスイッチ(ノブ)が見つかりました。なるほど、初期のDC-3は1と2の真空ポンプを手動で切り替えていたのです。

 全日空の他のDC-3には切替スイッチはついておりませんので、つまり1と2連結なので、事故機のパイロットは、スイッチの場所を忘れていて手探りしているうちに間に合わず海面へ突っ込んでしまった、もしかするとスイッチの存在を知らなかったのではないかというところまで理解できたのです。

 不幸にして片発停止になっても下田沖から羽田まで引き返すことは十分に可能であり、現にそういう例はたくさんあります。この場合は、使うことが極めて稀な1と2の真空ポンプの操作マニュアルが、パイロットの頭の中に入っていなかったというのが結論です。

 大内健二著日本の航空事故90年では、製造後10年以上も経過した中古の機体で、エンジンなど装備品がかなり老朽化した状態であった、と「老朽化」が原因であるような書き方をしております。これは通俗的な見方に過ぎませんし、日本ではこの事故以後15年間もDC-3が活躍した説明がつきません。他国では21世紀になっても飛んでいます。

 下田沖事故を大きく括(くく)るとすれば、貧乏会社が寄せ集めでDC-3を買ってくる、操縦や整備方法が1機づつ違っていても、それに合わせて操縦しろという暗黙の会社命令がある、軍隊帰りのパイロットもそんなの朝飯前だとする、つまりはアナログ時代の運用こそが間接的な事故原因だということになります。

 それにしても、初期DC-3がなぜ真空ポンプを切替式にしているのでしょうか。またJA5045だけが切替式で残っていたのはなぜでしょうか。まだまだ疑問を積み残しています。航空史をこのように複眼で見ているからこその疑問であり、尽きぬ興味でもあるわけです。

(1-3) 全日本空輸株式会社の創立記念日の疑問 

1956(昭和31)年12月28日

合併契約書仮調印

1957(昭和32)年03月15日

両社乗員の相互乗り入れ慣熟訓練、統一オペレーションセンター、社員宿舎の建設等の協議開始

1957(昭和32)年04月15日

次の路線に乗員の相互乗り入れ開始
日ペリ航空
大阪から高知、高松、米子、松山、岩国ー福岡ー宮崎
極東航空
東京から三沢ー札幌、名古屋ー大阪、八丈島、大島、小松、小倉

1957(昭和32)年10月30日

合併契約書調印

1957(昭和32)年11月29日

極東航空株式会社臨時株主総会で合併契約承認

1957(昭和32)年11月30日

日本ヘリコプター輸送株式会社臨時株主総会で合併契約承認

1957(昭和32)年11月30日

この日をもって極東航空は運航の一切の業務を停止する

1957(昭和32)年12月1日

日本ヘリコプター輸送株式会社の商号を全日本空輸株式会社に変更し、旧極東航空の全路線を引き継ぐ

1958(昭和33)年02月08日

運輸大臣が事業合併を認可

1958(昭和33)年02月10日

合併契約による合併期日 全日空が極東航空の財産等引継ぎ

1958(昭和33)年02月27日

全日本空輸株式会社株主総会に合併を報告

1958(昭和33)年03月01日

合併登記を行い、全日空初代社長に美土路昌一氏が就任した

 この表は、@−4 日ペリと極東の合併による全日本空輸の発足から転記しました。詳しくはそちらの方の解説を読んでいただくとして、この経緯の中のポイントをひとつだけ話しておきたいと思います。

 私は会社合併の経験が少しあるので、両当事者をテーブルにつけて話し合わせるのにどのくらい苦労するか、その後に来る主務官庁と公取への説明と手続きにどれほど時間をとられるかよくわかります。いわんや航空事業における戦後初の大型合併である全日空誕生においておやです。この12行の節目節目でどのくらいの汗と涙が流されたことか。

 極東は1対1の対等合併を唱え、日ペリは財務状況からして1対4ないし5を主張します。最終的には1対1の合併となりましたが、中身は極東の資本金を減資して負債を償却し、再び日ペリの資本金と同額になるまで増資するといった複雑な操作をしております。

 この間には、ハンドレページ マラソンなどの代金を払ってもらえない伊藤忠が極東へ資本参加をしてしてきて株主として強硬論を主張するなどの騒動もありました。(これは合併後に年賦返済することで話がついた)

 既に単年度黒字を出していた日ペリにとっては実に迷惑な話だったでしょう。にもかかわらず話しがまとまったのは、仲介の日本航空松尾静馬社長のアイデアらしいですが、まず日ペリが名前を新会社の全日本空輸鰍ニ変え、全日本空輸鰍ェ極東航空鰍吸収合併する形を提案したことによるものと思われます。

 つまり、日ペリは1対1ではあっても極東を吸収するのだということで、まさに実を飲み込んで名を取ったのであります。

 上表のとおり日ペリの社名変更は1957年12月1日です。そして合併の期日は翌年2月10日、合併登記は3月1日です。全日空社史の表現によれば、3月1日ここに名実ともに全日本空輸梶@ALL NIPPON AIRWAYS CO.LTDが発足したとあります。

 にもかかわらず、全日空は後に12月1日を会社創立記念日と定めました。

 12月1日に極東の路線一切を引き継いで全日空路線として運航したということからはその説明もつきますが、2月10日3月1日を退けて12月1日に決めた裏には、先に全日空があり、後から 極東を吸収したのだという日ペリ関係者のプライドが感じられます。

 もし、このような松尾提案がなかったら、日ペリは1対1を最後まで飲まなかったかもしれません。財務条件では合意しているのに新名称をめぐって暗転というのは、例えば町村合併で新しい町名をどうするか役場をどの町に持ってくるかでデッドロックにのりあげているようなもので、最後にはゼニカネじゃないメンツだよであります。

 ちなみに、両社の合併契約書の調印式はホテルなどではなく、なんと日本航空社長室で行われたのでした。

 以上のうち推察の部分はどの本にも書いてありません。私の経験からくるものです。でも当らずとも遠からずだと思っています。無機的なヒコーキをテーマとする航空史ではあっても、こうした人間臭いドラマがあるからこそ興味が尽きないのです。

 

(2) 紙からインターネットへ

(2-1) ぼろぼろになった日本のダグラスDC-3一覧表

 右の表は、30年近く前から書き込みをしてきた一覧表です。折り目が裂けるなどで裏打ちを重ねてご覧のような状態です。

 下手な文字で乱雑に書き込んでいるので、初めのころのメモや色分けは自分でもよくわからず、古文書を解読するよう気分になってしまいます。

 日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史は終了しましたが、私はこの紙を処分する気にはなりません。二度と集めることができないほどこまめに収集した情報が詰りに詰まった世界にひとつしかないお宝なのですから。

 

 (2-2) 研究のきっかけ  DC-3などに注目はしていなかったのに  

 私が広島空港で写真を撮り始めた頃には、全日空はフレンドシップが就航し、徐々にDC-3にとってかわりつつありました。平凡マニアの常としてレンズが向くのは新鋭機であり、DC-3は何かのついでにシャッターを押すという程度で、趣味の対象ではなかったですね。

 その私がDC-3へのめりこんだきっかけは、つぎのとおりです。

 幸田恒弘さんが機関誌の編集発行をしていた1976年に会報が一時的に衣替えしたことがあります。

 既に会の名称はヒコーキの会からJAHS(日本航空史研究会)に、会報名もヒコーキ雲からCONTRAILに変っておりましたが、 そこへ埼玉県の長谷川明さんが乗り出してきてCONTRAILのスタイルをB5版からA4判にするように提案し、自らも大きな紙に三面図やイラストを画き、印刷の割付まで指定してきたのでした。

 幸田さんからどうすべきか相談を受けた私は、当時普及し始めた写植印刷にして、用紙もザラ紙からコート紙に変えてみることにしました。

 1976年5月に改版第1号として出した88が右の写真です。A4判よりもやや大きめで全43ページの堂々たる印刷物です。表紙デザインはすべて長谷川さんによるものです。

 続いて89の編集にかかったのですが、原稿がさっぱり集まらないのです。常連さんは88のあまりの立派さに尻込みし、長谷川さんは表紙絵しか送ってくれないので、大幅に増えた紙幅が埋まらなくなってしまいました。

 結局、幸田さんとふたりで急遽原稿を書いたり大判の図面や写真でお茶を濁すことになり、その中で幸田さんがJAナンバーのダグラスDC-3の数々の写真と原稿を持ち込んできたのです。

 きっかけというのはこういうものでしょうね。

 原稿を読んでみると、航空再開後のDC-3導入の事情や、中古DC-3の経歴などが私の琴線にぴりっと触れてきたのです。

 これは面白いというので、すべての機体を詳細にあたってみました。また、日ペリ航空とか極東航空とか北日本航空などの歴史も掘り起こしてみました。それを、とりあえずまとめてみたのが写真の日本のDC-3 〔1〕です。

 一応幸田さんの名前で発表しましたが、それはきっかけと骨格をくれた彼に敬意を表したものであって、全面的に私の主観で書き直しており文責は私にあります。

 急ごしらえのまとめですから、かなりの間違いがあるものの、紛れもなく本邦初公開の日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史でした。

 

 

(2-3) 大判化は失敗に終わり、DC-3研究も休眠に

 さて、A4判コート紙写植印刷のCONTRAILは素晴らしい出版物とはなりましたが、印刷費と送料が急増し大赤字を出すことになります。起動に乗ったところで手を引いていた私に対して、印刷屋さんが、金を払ってもらえないと泣きついてきました。(印刷屋は、もともと私の紹介で安く請け負ってくれていました)

 改版して7冊目でしが、再び乗り出して、B5版タイプ印刷に戻し、当分の間、私が編集者になって赤字解消をはかることにしました。2年くらい続けたと思います。

 そんなことで、DC-3研究にも手が回らず、1979年の97に第5回をのせて中断してしまいました。本当は編集も研究も続けたい意思はもっていましたが、ある事情があって、赤字解消の努力が空しいものとなってしまったため、自分から手を引き、ついでにヒコーキマニアの世界からも遠ざかり、約20年間 休眠してしまったというのが真相です。

 

(2-4) DC-3研究が20年後に続編として復活 1999〜2001年

 復活したのは、仕事を定年退職をしてからです。

 ふらりとやってきた幸田さんに盛んに啓発され、じゃあCONTRAILに何か書いてみるかというので、再開発による自宅の二度の引越しで梱包したままになっていた段ボール箱を開けてみると、未発表のダグラスDC-3写真や資料やメモ類がいっぱい出てきました。もちろん上の一覧表もです。

 引き裂かれていた昔の彼女に出会ったようなもので、情念の炎とまではいきませんが、火が点くと同時に、何としてでも完結させなければ、写真や資料を提供してくれた皆さんに対しても申し訳ないという気持ちがおきました。

 それで、1999年から2001年まで続編1〜続編6を書いてCONTRAILに掲載してもらったのです。

(2-5) インターネットへの登場 2000〜現在

 私のパソコン歴は、シャープのX1(BASIC言語)時代からですから長いです。何台も使ってきましたが、Windows95あたりからインターネットが急速に広まり、電話代を気にしつつも、なんとか自分でホームページを作ってみたいと思うようになりました。

 当時は花鳥風月や身辺雑記のホームページが圧倒的でした。私はどうもそれが苦手で何とか骨のある作品をつくってみたいと思い、自然に日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史を紙からインターネットへと向かっていました。

 ホームページ作成にいちばん魅力を感じるは即時性です。年4回発行の機関誌では、ミスの訂正ひとつにしても3ヵ月後というのに対して、ネットでは瞬時にできます。同好者とのやり取りも電子メールで実に手っ取り早いですよね。

 CONTRAILに続編を書いている最中に、ネットの魅力に抗しきれずホームページ日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史会報告開設し、遂にこっちに軸足を置くことになってしまいました。(幸田さん 済みません!)

 次の手紙は、同好の士20人くらいに出したと思います。ネット上に無断で写真を出すことは許されないので、ホームページ開設の紹介かたがた了解を求めたものです。


2000年5月3日

 〜  私、長い空白期をおいて再びというか三度びというか航空機マニアの世界にもどり、CONTRAIL誌上に随想文と日本のDC-3続編を載せております。あまり大口をたたける資格がないことは百も承知ですが、CONTRAIL掲載原稿を再び手がけてみて、CONTRAILよりももっと広く多くのマニアに正しい情報交換ができる手段の必要性を痛感しました。

インターネットはそこに手を貸してくれる現代最良の手段です。60の手習いで技術的にはうまくこなせませんが、何とか広く正しい情報交換の手段をと考えて、このたび「日本のDC-3研究会報告」なるホームページの開設を試みております。同封のものは5月3日現在の制作中の作品です。開設後はリストの完成と以後各機体や会社ごとの歴史を公開していきます。

 今回、あなたにこの手紙を差し上げるのは、過去にいただいた写真・資料・アドバイス等をこのホームページに掲載することがあると思いますので、その事前了解をいただきたいことと、できうれば再び写真・資料・アドバイス等を賜りたいとの願いからであります。 〜

 

  2000年春ごろに開始した「日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史は、以後「航空史探検博物館」、更に「インターネット航空雑誌ヒコーキ雲(付属航空史探検博物館)」と名前を変えて現在に至りました。

 インターネットについては、ただいま公開中なので、このくらいに止めておきます。

 

 

(3) 穴を埋めていく苦労、埋められた喜び

  かって黒部市にあったJA5019の写真を見たときはうれしかったですね。伊藤忠航空を最後に退役してから水戸市の偕楽園と黒部市の宮野運動公園に展示されていたことはわかっていましたが、手元に写真が1枚もなく、どういう状態で置いてあったのかがわからなかったのです。

 飛べない展示機でもその消息がわかるとこれほどうれしいのですから、運行中の不明分が判明したら子どものように飛び上がってしまいます。

 何事も欲求がかなえられた時の喜びは、その前の苦労が長いほど大きいものです。日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史についていえば、未だにその苦労は続いております。高名な先生の学術書にしても、100パーセント完璧な証拠を揃えての理論構成などあり得ず、適度に飛ばしたりごまかしたりする部分があるはずです。いわんや私の研究においておやです。

 個別機体解説JA5058では、さすがにごまかしきれないで正直に次のような断りとお願いを末尾に入れました。日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史 個別機体解説F-12参照

 
 JA5058については非常に推定の多い記事です。JA5058の公式データを始めとして北日本航空と日本国内航空での仕様など情報を提供してください。断片的なものも歓迎します。

 エンジンを150馬力ほどパワーアップし、観光用の大きな窓に改造しているので、外観からすぐにJA5058とわかります。導入した時の北海道の新聞では31席に改造という 記事が見えるので、 内装は僚機のJA5015と同じにしていたのでしょうが、窓は変えようがなかったし、エンジンについても上記F-12に縷々述べているとおりです。

 エンジンが違えば、予備エンジンも同じものを揃えなければならず、北日本航空はその購入から整備まで無理に無理を重ねていたであろうと推察されます。

 それほど大きな違いがあるのに、これまで私が目にした書籍でJA5058の正確な仕様データを書いているものは皆無。ということは 、はばかりながらヒコーキ雲の記述が本邦唯一ということになります。でも、公式データが見つかるまではこの記述の正確性については全く安心できません。

 ですから、公式データが発見されて空白が埋められたら多分私は舞い上がってしまうでしょう。そのくらい喜びが大きいのです。

 

(4) データベースの話

 航空情報の04年9月号に長崎県に展示してあるデハビランドダブのことが載っております。その筆者がある方を介して航空史探検博物館長崎県8302に書いてあるJA5038の経歴を引用させてくれと頼んできました。

 もちろんOKを出しましたが、誌上ではイギリスのダブ保管の記事に重点が移ったのでJA5038は簡単な説明に省略されました。それはそれで結構ですが、私がその時思ったのは、航空情報編集部には、こういう古い機体の資料はないのだろうかということでした。

 ダブJA5058がいつ輸入されて、どこで使われ、いつ廃棄されたか程度のことですら外部に聞かなければわからないというのは、資料がどこにあるのか探す手間が不経済という状態、つまりは取材編集に追われて資料の整理にはぜんぜん手が回らない状態が50年間続いてきているのだろうと勝手に推測しています

 データベースのことを学問的に説明する知識はありませんが、50年以上も飛行機専門書を編集し発刊してきたのですから、そこに蓄積された資料がどのくらいの量になるか、それをデータベース化したときの学術的な価値の偉大さだけは素人にもわかります。 活用不能とはもったいないですね。

 或る方が1枚の写真を雑誌社に持ち込んだとします。

 手に取った記者にひらめくものがあったが、社内で調べようにもどこに関連資料があるかわからない、もしかすると捨てられているかも、というのであちこち有識者に電話して聞くということになります。

 それは 多かれ少なかれ当方でも同じことなのです。

 しかし、(1)の冒頭に書いた黒部のDC-3の写真、幸いに撮影年月日がきちっと記録されているので、私のつくった資料に照らし合わせているうちに、いろいろなことが新たに判明しました。これを見た人から感動しましたという反応すら頂いたケースのひとつとなったのです。

 こうして蓄積してきた日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史は、立派なデータベースになっているものと自負しています。間違いがあれば、直ちに訂正しますし、このデータベースが引き金になって新しい資料が寄せられ充実していくのです。


 そういえば、航空史探検博物館の各県各地の保存・展示機情報はそれ以上の広がりをもつデータベースともいえます。

 施設は47都道府県の約400箇所に及び掲載画像は2000枚に達します。ただし発表第一主義をとっているので、施設の住所電話、観覧情報、現役時の所属その他基本的なデータまで手が及んでおりません。その意味では欠陥データベースの域を出ていないといわざるを得ませんが。

 日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史からはじめたホームページ作りが、いつの間にか航空史探検博物館に主体が移り、そしてヒコーキ雲としてインターネット航空雑誌へ発展しました。

 世界の隅々まで航跡を印したダグラスDC-3 ダグラスC-47 ダグラスR4Dにとりつかれた男が、その影響なのか、とてつもない広い世界へと押し出され、毎日々、皆さんから寄せられるヒコーキ情報と格闘しながらホームページ更新を続けております。

 いつまで続けられるかわかりませんが、グーニーバード(C-47の愛称 頓馬な鳥という程度の意味)のように長続きをさせたいものと考えております。

 

(5) 少し威張らせてください

 もう十分に威張っているじゃないかと言わないで、もう少し威張らせてください。参考文献の話しです。

収集した図書類

同じくマニュアル 取扱説明書 類

 戦後の日本ではダグラスDC-3を正面から取り上げた書籍(単行本)は見当たりません。殆どはC-47や零式輸送機とあわせて民間型にページを割いているという感じです。

 写真左の中央上に見えるDOUGLAS.DC-3旅客輸送機取扱解説(碧南市の板倉さん所有)は、(1)でも触れましたが、ダグラス社マニュアルを丁寧に翻訳して1冊にまとめてあり、 私の知る限り戦前戦後を通じて唯一の本格的日本語DC-3本です。実に貴重なものです。

 全日空でも整備関係が米軍マニュアルを翻訳して1枚ずつのシートをつくっていますが、もう入手困難です。

 目を海外に転じるとDC-3ファンによる書籍は豊富です。私は寄贈を受けたり、ネットで買ったり、海外グループの会員になったりしてそのほんの一部を収集しております。各機の個別解説で示している経歴はそれらによるものです。

 戦後、アメリカ文化に接した技術者が驚いたもののひとつにマニュアル(取扱説明書)があります。文章と懇切丁寧なイラストで取扱方法を示し、一定レベルにある人間なら誰が操作しても同じ操作ができるというので、ぶんなぐられながら技術を習得させられてきた 日本人が驚嘆したのも無理はありません。

 私が集めたのはFAAのスペックを入れて7種類あります。米軍のテクニカルオーダー(T.O.)が多く、C-47からC-117までの操縦と整備点検がほぼ網羅できています。

 右写真左上のOPERATIONAL SUPPLEMENT MAINTENANCE USAF SERIES C-47,C-47A,C-47B,C-47D,C-117A,C-117B AND C-117C AIRCRAFTは、最終1971年7月27日の改訂版で図面一部カラー印刷で厚みが6センチもあります。7種類ぜんぶ足すと33センチにもなり、ああ、これが日本語ならなあという歎き節で必要なところを探しているのです。

 これらの書籍とともに、航空情報、航空ファン、航空技術、世界の航空機、世界の翼、日本航空機全集、世界航空機年鑑、航空年鑑などにも随分お世話になりました。書籍や雑誌を1950年代から購読していたわけではないので、上京した折に文華堂で買ったりネットオークションで落札したりしました。ダグラスDC-3研究のために投じた書籍の代金は我が家にとっては天文学的数字であり、家族に言える金額ではありません。

 実は、先日某誌の1950年代の本にダブりがでたので広島市内の古本屋へ持ち込んでみましたら、1冊数十円だといわれました。ため息が出ますね。

いい加減なプロに腹をたてる 

 さて、本を持っているというだけで威張ってはいけません。如何に活用しているかが問われます。私は100%とはいかなくとも、日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史に精一杯反映させていると断言します。

 貧乏家庭の天文学的投資を無駄にするわけには参りません。それだけに買ってきた本の中にプロ作家がいい加減なことを書いていると猛烈に腹が立ちます。

 必要なときには手紙を書いて尋ねますが、それを無視するプロがいます。これに対しては、私は厳しいです。航空機世界があまり一般的でないのをいいことにしてアマチュアをだまして知らん顔のプロを許すわけには行きませんでしょう。こと、日本のダグラスDC-3に関しては、私にはそれが許される資格があるものと自負しているからであります。

 

 

参考までに

日替わりメモ420番 2004/04/13  空白地帯の解消に向けて


日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史に寄せられたお言葉

 あらためてDC-3研究の全面復活を祝い!そして喜んでいます。 永年佐伯さんの地道な調査には頭が下がります。 最近見始めた読者も驚いたと思います。

 日本に在籍した機体のことをいろいろ調べていますが、いまだによく分かりません。佐伯様の 日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史を見つけて食い入るように拝見させていただきました。

 DC-3研究の復活、おめでとうございます。これで当HPはその存在感を一段と増す上、 編集管理人の「間違いは絶対に許せない」基本に徹した真摯な取り組み姿 勢がより一層鮮明になり、やがては航空マニアの中では知名度が「常識化」さ れることでしょう。 今後はカウンター表示数の上昇速度が一層加速されるでしょう。注目!です。

 有頂天になってはいけませんが、率直にうれしいです。

 まだまだ書き足りないところや細かなミス、表記の不統一などが目につくものの、日本のダグラスDC-3について今後これを越える研究が現れることがないだろうなという感じをいだきます。

 それは、もう絶対に入手することのできない貴重な写真数百枚を克明に観察し、雑誌、新聞、年鑑、年表、社史、記念誌、マニュアル、展示品、同好の士など当れるものにはすべて当って照合し史実を掘り起こしてきたからです。

 1枚の写真が発する情報は無限と言ってもいいくらいです。しかも書籍と違って事実を曲げません。民間機と海上自衛隊機を合わせて22機のダグラスDC-3が、極端に言えば1機として同じ形状、同じ塗装をしておりません。写真を見比べているうちに、無数の何故?が発生します。

 その何故?を解明していくうちに、ダグラスDC-3の細かな技術とともに日本の航空界がたどってきた歴史も見えてくるのです。その分野に踏み込んで戦後航空史に新たな光を当て得たと思っています。

 お名前をあげるときりがなくなるので失礼しますが、私を日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史に導いてくれた人、北海道の展示機や羽田の展示品をはじめDC-3技術全般を指導してくれた人、定評あるDC-3研究家オーサーピアシイの本や戦前のDC-3取扱説明書を提供してくれた人、そして1950〜1960年代にあの地味なDC-3を各地の飛行場で撮影した写真をを快く提供してくれた人々に感謝します。

 私は単なるコーディネーター役でした。上の賞賛はその人たちにこそ与えられるべきものです。ありがとうございました。 

 日本のプロペラ式旅客機のストーリーでは、やはり国産YS-11に関する雑誌特集や単行本が圧倒します。というよりも他の機種の詳細な文献が皆無という現状ではないでしょうか。日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史はまさにその空白地帯に踏み込みました。今後、空白地帯の解消に向けて皆さんが努力されるように期待するものです。