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ヒコーキマニア人生録・図書室 掲載開始07/09/06

《旅行記》 2007年夏 列島三千キロの航空探訪の旅

佐伯邦昭

2007年夏 列島三千キロの航空探訪の旅

 2007年8月29日から9月2日までの5日間、普通なら「夏の終り」という表現ですが、本年はまさに酷暑の最中、このレポートを書き始めた9月6日の広島市の気温が36度9分で今年の最高を記録したと言っていますので、まさに「未だ夏本番」のおもむきであります。

 しかし、ありがたいことに8月29日から9月2日までの5日間の旅における東日本は割合に涼しくて、暑さにへこたれることもなく、飛行機・鉄道・バス・自家用車の旅の合計距離おおむね三千キロメートルを体験して参りました。広大な飛行場エプロンや、意外に距離のある都内の地下鉄駅HOME・SITEMAP・サイトマップなどを歩いた距離を加算すると優に三千キロメートルを超えていると思いますが、腰痛を抱え疲労困憊で帰宅したものの、気力だけはすぐに回復いたしました。

  以下、次図のような行程の足跡をたどりながら、旅行記をまとめていきたいと存じます。

               

 

目 次

1日目 (1) 広島出発
2日目 (2) まずは金沢八景へ
(3) 河口湖へ向かう
(4) 河口湖自動車博物館飛行機館
(5) 浪速の名匠 高見保市の世界
3日目 (6) 東北新幹線 はやて7号
(7) 八戸から三沢へ
(8) 青森県立三沢航空科学館
(9) 三沢市大空ひろば
(10) 八戸駅前の駅弁当屋さん
4日目 (11)  海上自衛隊八戸航空基地祭 
(12) 海上自衛隊機動施設隊
ニュースフラッシュから転記 八戸展示写真
5日目 (13) 三沢基地航空祭
(14) 三沢空港から帰路へ     完
ニュースフラッシュから転記 三沢展示写真

 

2007年8月29日(水)


(1) 広島出発

  広島駅前から、リムジンバスの第1便で広島空港へ。

 全日空羽田行き第1便ANA672便はJA8099 ボーイング747-481Dでした。1便には過去何十回と乗っていますが、すべて767系または777系でありジャンボに巡り合わせたのは初めてのことでした。水曜日なのに見たところ満席なので、この1便が如何に人気があるか、全日空がジャンボを投入した理由がわかるような気がします。

 JA8099(ダッシュ400としては日本登録の最終号機)は製造後15年を経過しているのでぼつぼつお役御免の運命にある機体であり、滅多に乗ることのない私には最後のダッシュ400体験となったのかもしれません。

 この写真は、もちろん「すべての電子機器の電源をお切りください」というアナウンスの前にデジカメで撮ったものですよ。

 実は、2階席搭乗口から機内へ入って、スチュワーデスにチケット半券を見せたつもりが、カードで購入の領収券を見せていたため、田舎の爺さん扱いとなり、彼女は階段を付いて登ってきて2階の客室乗務員に私を引き渡してくれたのであります。

 以後、彼女たちと目が会うたびに、何かしてあげましょうかというような憐みの表情で問いかけられているようでした。

 

 席は83A、つまり2階の階段のすぐ前の一番左側であります。なぜ左の窓側をとったかと言えば、富士山を写したいためです。しかし、 離陸後すぐに厚い雲に入り羽田の京浜工業地帯が見えてくるまでの75分間、雲の上もしくは雲の中の飛行でそれはかないませんでした。

 羽田の第2旅客ターミナルにスポットインしますと、機体の左側を監視しながら歩いていたグランドハンドリングのお姉さんがボーディングブリッジに駆け上がり、ヘルメットを脱いで運転手になりました。

 しずしずと近ずいてくるボーディングブリッジをこのような位置から見られるのもジャンボ2階席のお蔭です。

 この時間になるとお客はみんな席を離れて通路で待っており、ただ一人着席で窓ガラスに顔をくっつけている私を不思議そうに見ていました。

 しかし、ドアが開きもしない前から通路に行列して、所在なく立っている皆さんの気持ちがわかりません。一刻も早く危険な場所から出たいという心理なのでしょうかね。早く出たところで何分も違う訳ではなく、荷物を預けた人は、引き取りまでに30分近くも待たされるというのに。

 逆に、マニアの心理としては、何とか最後まで居ずわって、横に並んでいる飛行機や忙しく走り回るグランドサービスの人間や車を見てみたいのですけどね。

 しかし、憐み多きスチュワーデスから、田舎者さん、席をお立ちくださいね、と催促されそうになったので、ラストで階段を降り、そこで、ちょっと専門用語を駆使して彼女に(この機体のシップナンバーはJA何?ってな具合で)質問を発しましたら、えっ?という顔付きでしたな。にやりと笑って、これが最後の搭乗になったであろうダッシュ400を後にしたのであります。

 田舎者は、第2旅客ターミナルビルが初めてです。一応は見学しておこうと1階到着ロビーから展望デッキまで登ってみました。まさに登るという表現がぴったりの長い長いエスカレーターやエレベーターでした。

 展望台からは、東から西へ向かってひっきりなしに離陸してくC滑走路の旅客機や埋め立て工事の始まったD滑走路の地盤改良タワーらしきものが見えました。長尺レンズを持った同好者らしい人も一人だけいましたが、コンデジしか持ち合わせない田舎者は、登頂の証拠にマップボードだけ撮って辞したのであります。

 再び到着ロビーへ降りて、目の前の京急線で新橋まで乗り、以後東京での一日が始まりますが、それは満洲関係の資料収集という、航空には関係のない用務でしたので、省略します。

                          

 

2007年8月30日(木)


(2) まずは金沢八景へ

  (1)の羽田到着で書き忘れました。A滑走路へ着陸して第2ターミナルへのタキシング中に整備場地区に2機のYS-11が見えました。で本年4月にも確認されいている旧JA8709 JA8720(国産旅客機YS-11〔1〕の13だとしたら、この夏を越してもまだ引き取ってもらっていないのですね。 

 

 さて、この三千キロ大旅行の仕掛け人はご存じにがうりさんです。八戸と三沢の航空祭が連続しているので、一度、東北の航空祭は如何ですかという、マニアがもっとも乗せられやすい誘惑を仕掛けてきたのです。広島から青森へ、うーん遠いなあ!

  ちょうど東京で調べたいものがあったり、長く会っていない親戚を訪ねようかと思っていましたので、いい機会とばかり誘惑に乗りました。彼からは、一日を彼の運転で河口湖自動車博物館へ行こう、帰りに渋谷区の高見保市展へ行こうとありがたい提案もあり、もちろん二つ返事でOKでした。

 2日目は、横浜市金沢区に住むにがうりさんが京急駅に迎えに来てくれるので、少し早めに出て金沢八景駅へ向いました。
 それは《旅行記》 ’07 神奈川・東京遠征記に書いているカメラ設定ミスにより記録しそこなった金沢八景の風景に再チャレンジするためでした。あちこち撮りましたが、そのうちの1枚が下記のとおりです。これなら弁財天にお許しを頂けるのではないでしょうか。

3月4日

8月30日

× 春の失敗作 パーティモードで撮影

× ヒストグラムで平坦化 してもこのとおり

◎ やっとまともに写りました

 

(3) 河口湖へ向う

 にがうりさんのマイカーは、午前10時過ぎ金沢八景を出発して、朝比奈インターから横浜横須賀道路へのって町田インターへ、東名高速を御殿場インターまでノンストップで快調に飛ばしました。途中から富士山が見えてくるはずでしたが、生憎の曇天で、御殿場インターを降りて東富士五湖道路というのを走る時に東富士演習場の上に中腹がちらっと見えた程度でした。

 にがうりさんにハンドル任せの私には、どこをどう走ったのか定かではありませんが、富士スバルラインに入ると、富士桜高原の木立に少しずつ見覚えのある感覚が蘇えってきました。それは、20数年前に研修のために地方公務員共済富士桜荘に10日間ほど滞在したことがあるからです。

 その道路入り口看板も見えました。懐かしいですね。後に日本で初めの三セク鉄道である三陸鉄道を立ち上げた岩手県の部長さんと同部屋であったこと、バスで五合目まで連れて行ってもらったこと、樹林の中を散歩していて不法投棄のごみの山に驚いたこと等々。

 

(4) 自動車博物館飛行機館

 河口湖自動車博物館飛行館の外まわりは、山梨県A3901で紹介している様子とは車などの展示が少し変わっていました。

 バスがいた位置に3翔のプロペラ(詳細不明)があり、三輪トラックと消防車が増えています。その他のF-86の胴体、C-46D、自動車館屋上のF-104DJは変わりなく、向って左側囲い内のF-86FとT-33Aの展示、ビーバー、トラッカー、ビーチC18Dなどの(貴重な)ガラクタもそのままでした。

 館内は、本年の公開終了一日前にしては入場者が少ないように思えましたが、天候の影響もあったのでしょう。入館料1000円を払って「入場券です」と渡されたのが絵はがきでした。裏面のカラー写真は靖国神社へ奉納された零式艦上戦闘機52型を飛行機館前の駐車場で写したものと思います。

 下手な切符よりも人々はこの方を喜ぶと思ってのことでしょうが、山梨県の税務関係の方が見付けたらちょっとした騒動になるような気もします。いや、そんなことには首を突っ込まないのが大人のマニアだよと言われれば、引っ込みます。

 今年の公開の目玉だという2機目の52型は、スピナー無し、エンジンカウリング無し、主脚無し、エレベーターとラダーが骨のままで羽布張り前という状態で低い台車の上に載せられ、我々の目線で水平に観察できるようにしてありました。

 もう1機の白い塗装の22型は、翼端を折り曲げてあり、その断面に熊谷航空工業株式会社 部品番号4611 熊航第649号というプレートが残っています。

 その他、たくさんの機体と発動機・プロペラがあり、初見算の者として一通り写真も撮りましたが、当ホームページへの発表は禁じられたままですので、(何故かたくさん載せている)他のサイトをご覧いただきたいと存じます。

 その件に関し、受付の男性に聞きましたら、ホームページに載せて良いことになったかどうかは知らないので、飛行機館公式ホームページにメールアドレスが書いてあるからそこから聞いて貰いたいとのことでした。帰宅して公式HPを何度ひっくり返してみてもアドレスは見当たりませんです。
 (掲載不許可の件は山梨県A3901の館からの回答参照)

 更に、自動車館の方でトイレを拝借するついでに原田館長がいらっしゃるかどうか尋ねましたら、来客中で30分待ってくれということで、残念ながら東京に帰る時刻が迫っているため、お話しができませんでした。

 でも、受付での物品販売状況くらいなら目をつむって頂けるものと思いますので、零戦の超々ジュラルミン部品が如何に高価なものかという例示までに紹介しておきましょう。確か3万円から3千円まであったように思います。

                                               

 館内の休憩テーブルで、声高に話しをしていらっしゃる方がいて、撮影中にも聞こえてくる内容は、第二次大戦機に大変に詳しく、いろいろな情報をお持ちのようでした。私も、少しの間加わりましたが、北海道深川市にあった全日空のダグラスDC-3 JA5024の結末について、我々が隠し通している事実をさらりと言ってのけたのには驚きました。やっぱり情報というものはどこかで筒抜けになるのですね。
 

 私にとって待望久しかった飛行機館の自己流紹介は以上のとおりです。

 これだけの退役機体や南方島々の残骸スクラップを集めて、殊に零式艦上戦闘機3機分、九三式中練1機を正確に復元している原田さんのご努力には頭がさがりました。欲を言うならば、やや雑然とした館内展示から一歩抜けて、航空史、技術史に区分した歴史の検証の跡を教育的に見せる展示館にしていって頂けるならばいいなと思いました。

 また、富士桜高原という地の利を活かして、全国の航空博物館関係者による「航空機の復元と展示」に関するシンポジュウムを開き、横の連絡がきわめて希薄な航空機展示関係者の問題意識の共有とレベルアップを図っていただきたいです。

 

(5) 浪速の名匠 高見保市の世界 The TAKAMI WORLD of the UNITED STATES NAVY
                       AIRCRAFT in the SOLID MODEL

    於 東京都渋谷区代官山町のアートギャラリー

 小雨が降り始めた富士桜高原を後にして下界へ降りると青空が覗き、一路東京へ向いましたが、快調に飛ばした東名高速から首都高へ入った途端に渋滞になり、にがうりさんはカーナビが示すインターの手前で降りて、細い路地や大きな道路をあちこち回りながら代官山町2-3を目指しました。

 浪速の名匠 高見保市の世界 アメリカ海軍機ソリツドモデル100機展 の会場に一歩入り、すべて1/50で製作されたカラフルなUS NAVYとUS MARINESを概観して驚嘆、1機ずつ見ていってて脚部や折り畳み部の精巧な作りに驚嘆、細かな文字の再現に驚嘆、とオドロキの連続でした。

 私が、ファントムUというものに初めて接したのは1964年5月16日岩国基地三軍統合記念日であり、機体は、F-4B 151013 VMFA-314 VW-2でした。43年ぶりに東京で再び対面し、今度は上から見て主翼に2VWなんて書いてあるのを知りました。高見さんは一体どうやってそれを確認したのでしょうか。 

  人生録のその2に、当時の各地のマニア組織のことを書きましたが、大阪では模型の彩雲会と写真記録のKAPCがあり、その会員はだぶっており、彩雲会の例会にKAPC会員が参加する時は、手持ちの模型がないので、伊丹などで撮った写真や外国雑誌などを持参して、高見会長さんのお許しを頂いていたそうです。そして必ず二次会の当番を仰せつかったとか。

 実は、そんな話しを会場で旧KAPCメンバーの佐藤雅美君と中井潤一君から聞いたのです。ファントムU並に40年ぶりに会った二人との思い出話で、この素晴らしい展覧会のアイデアを出し、実現にこぎつけた赤塚薫君には申し訳ないのですが、模型を見る時間よりもその方が長かったように思います。

 よって、全貌を知りたい方は彩雲会公式ホームページの高見氏展示会サイトに9月1日に撮影された30枚ばかりの写真がのっていますので、そちらをご覧ください。
 また、山内秀樹君による全100機を彼独特の正確無比でかゆい所に手の届く解説パンフレット(800円)が売れ残っているようなら、私から赤塚君に頼んでみますので、メールしてください。

 40年前の広島航空クラブ時代には、岩国三軍の開門1時間前の早期入場のために、KAPCメンバーが前日に広島の我が家へ泊っていました。その頃の佐藤君が高校生、中井君が大学生でした。
 なかなか起きない佐藤少年を引きずりだして、広島駅まで走りに走って汽車に間に合ったなど懐かしい思い出です。

 紅顔の面影が残ってはいるものの、お互い年輪は隠せず、ただ、ヒコーキが好きだという一点において時空を超越するものがあります。

 
 さて、航空ファン10月号で三井編集長が「デフォルメの妙 省略の美」と絶妙の表現で高見さんの腕を紹介していますが、それを広く世に示す展覧会が開かれたことも大きな意義があります。プラモデルではなくソリッドモデルの世界で。

 赤塚君の言葉でそれを締めくくっておきましょう。

 ヒコーキ趣味文化が、ほかの乗り物趣味の世界から大きく水を開けられている現在、少しでも「ヒコーキの世界」が活性化できれば幸いと思っている次第です。

                                                        続く

 

2007年8月31日(金)


(6) 東北新幹線 はやて7号

 この旅行には大きな日程変更がありました。はじめは、せっかく東北へ行くのなら、平泉など古跡もまわり、宇都宮にいる姪のところにも寄って、27年前に出張の合間を利用して南から西回りに柵外を一周した陸上自衛隊北宇都宮駐屯地の変わりようなども見てみたいと思っていました。 

 しかし、高見保市展が8月29日から9月2日までと決定され、それを見るためには八戸と三沢の航空祭の前に上京しなけらばならなくなり、 9月2日の三沢後の東北と北関東遊覧は中止、前倒しで東京へとなった訳であります。

 そんなことで、31日の東北新幹線は当日になって買えばいいとタカをくくっていました。しかし、朝7時に新橋駅みどりの窓口へ行って驚きました。東京から八戸へいく列車は昼前の分まですべて満席とのこと。

  JAL機で行くにがうりさんと三沢で落ち合うためには、はやて7号がぎりぎりであり、それなら自由席をくれと言ったら、「はやてには自由席はありません。立って行かれるなら立席特急券を発行します」とのこと。

 早めに買わなかったこっちが悪いのですから、あきらめて、その立席特急券とやらを求めました。立つなら何号車でも構わないようなもんですが、ちゃんと3号車と指定してあり、わざわざ「着席はできません」と右のごとし。

 中の通路へ立てば通行の邪魔になるし、座った人の迷惑げな憐みの視線を浴びるのが嫌なので、デッキに立つハラを固めて東京駅21番ホームへ急ぎ、3号車表示の先頭に並びました。デッキにも人があふれるかと考えて急いだのですが、東京始発では3号車デッキには3人だけでした。

 大宮を過ぎると仙台までノンストップ、仙台で席が空けば座ろうと思っていたら、何と降客よりも乗客の方が多くてデッキは6人になり、盛岡で減ったものの、そこから八戸までの28分間は4号車のトイレへ行くご婦人がたが大行列で、遂に3時間04分立ちん坊とは相成りまして、腰痛が再発してしてしまったのであります。  

 東海道新幹線や山陽新幹線では、お盆などの繁忙期を除いては金曜日でも午前中の指定券がとれないということはまず無いと思うのですが、皆さん東北旅行では要注意です。

 

(7) 八戸から三沢へ

 立派な八戸駅を出ると小雨模様なので、駅ビルに連なる手軽な食堂へ飛び込んで、経費節減のため、≪ごっちょ寿司≫ランチメニューの中の一番安いごっちょランチ950円也を注文しました。

 ごっちょランチのかっこ書きは(にぎり&かんとのり巻)とあります。首をひねって考えた末、&が8であると思い着くまでに5分かかりました。Do you understand ? 右の絵がヒントですね。ちなみに、店名は炙屋(たきぎや)と申します。Can you read ?

 隣の床几に荷物を置いていたら、立て込んできますから後ろへ置いて下さいと注意され、なるほど隣に八戸の工業地帯にある大企業へ出張に来たらしい二人連れが坐りました。彼らが躊躇せずに注文した三色丼(生うに いか いくら)の盛り付けをカウンター越しに見ていたら、しまったと思いました。1800円出してもあれにすべきであった!

 

  八戸から東北本線三沢までは在来線特急で10分です。改札のきれいな女性駅員にせかされて白鳥何号かに飛び乗ったら、これがぎゅうぎゅう詰めでした。ドアガラスにへばりつく格好で三沢までを耐えました。

 広大な米軍基地のある三沢のイメージは、大都会とはいかないまでもしゃれた町を想像していたのですが、電車が近付くにつれて山林がせまり人家はまばら、降りてみると駅前は閑散として、空港方面へ行くバスは無いに等しく、タクシーばっかりであります。

 タクシーで三沢航空科学館へ走る道だけがそうなのかもしれませんが、都会らしいという感じはしませんでした。それだけ長く感じるし、運転手さんも、あまりわが街の自慢をしてくれませんでした。

 ところが、着いた青森県立三沢航空科学館は、そんな感情を吹き飛ばすに十分なものでした。広々とした空間にでかい建物です。翌々日訪れた基地内の米軍と自衛隊の諸施設と並んで、まさに三沢の別世界です。

 

(8) 青森県立三沢航空科学館

 科学館内の展示物と大空ひろばの展示機については、もちろん一通り撮影しましたが、青森県A2110に詳しく出ていますので省略します。

 館内では、広報営業課長の中島賢治さんに案内していただき、まだ公表できない歴史的名機(エンジン)など見せていただきました。その名機とウエストランドシコルスキーS-51 JA7014が置いてある倉庫は同じ建物の中にあり、普段は団体さんの休憩などに使っているそうですが、私には見覚えがありました。 

   出発の前の日、8月28日のNHKふるさと一番「大人も夢中 紙飛行機の極意」にこの 倉庫から中継があったからです。
 紙飛行機といっても馬鹿にできませんよ。名人という人がゴムで打ち出した紙飛行機が旋回してきて足元へ着陸するんです。ライオンの輪くぐりのように、ぐるっと旋回してきた紙飛行機がゲストの持つ輪の中を見事に潜り抜ける。

 最後には、3人の名人が放った3機が編隊飛行をして戻ってくるなんて信じられないようなシーンをこの部屋で見せてくれたのです。写真は、八戸航空祭で買った紙飛行機のキットを組み立てたもので、三沢のも同形と思います。

 たかが紙とバルサの模型ですが、名人たちは、三舵の理論を熟知して、主翼のカンバーと尾翼の角度を微妙に調整し、ゴム張力の加減を十分に身に付けているから、ああいう飛ばし方ができるのだろうと想像します。

 これは、立派な航空技術であり航空文化です。しかも、子どもたちに興味をもって航空を知り、航空の世界へ没入させるという隠れた教育効果をもたらすものです。

 

大量のプラモデル
 JACのYS-11などを見降ろす2階デッキを利用して、無数のプラモデルが展示してあります。ライト兄弟から系統的に並べてあるものとは思われますが、あまりにも数が多いし、縮尺が統一されていないので、それこそ教育的効果は感じられず、少々うんざりします。

 その中の唯1機だけは、次項に述べる安田さんが製作したというので、写真に撮っておきました。

 ノースアメリカンF-86F-40 72-7727 第3航空団第8飛行隊時代の鯱マーク付きです。 ダッシュ40の特徴である6-3ウイング、翼端1フィート延長、前縁スラット、サイドワインダーランチャーと航空自衛隊供与型の特徴を余すところなく伝えている良い模型です。
 (実機は退役後佐賀県鳥栖市の光琳飯店に展示されていました。)

 ただし、説明に「F86Fセイバー US 1947」とあるのが気になります。確かにXP-86が初飛行したのは1947年ですが、F-86A、F-86Eを経てF-86Fが初飛行するのは1952年であり、更にこの模型のダッシュ40は1955年以降であります。

 安田さん、せっかくいい模型を寄附したのですから、説明にも口出ししておくべきと思いますが如何でしょう。

                                                      

(9) 三沢市大空ひろば

 さて、館外の三沢基地に向かって広がる大空ひろばには、ここの主である安田孝治さんがいます。名刺には大空ひろば展示航空機説明員と書いていますが、航空ファンの『KF VOICE 飛行機好きで過ごせた我が人生』の安田さんという方が名が売れているでしょう。

 私は、彼とも40年ぶりの再会でした。広島航空クラブ時代に、岩国三軍の前か後かに広島市公会堂の小部屋で例会を開き、まだ航空自衛隊員であった安田さんがスライドを持参して鑑賞させてくれたのでした。

 今は、恰幅のよい精悍なおじさんになっています。F-104J、P-3A、T-3、LR-1、OH-6Dは機内へ入ることができるので、マルヨンの狭いコックピットに入る時などはどっちの足からというように懇切に手伝ってくれます。もっとも、彼がいなかったら キャノピーの開閉などは危険ですけど。

  一緒に見て回っていると、「あっ! ○○が無くなっている」というような悲鳴があがります。見物のしるしに何かを頂いて帰ろうという不心得者が多いので、こういう場所でのボランティアの役割は大変です。

 P-3の操縦席には防犯カメラが付けられたり、客席シートの灰皿は蓋が固定されたり、 実際に使う奴がいるので機上トイレを閉鎖したりと、つまらぬところでお金と神経が使われているのが情けないです。

 その上、教育ママたちのトラウマにも悩まされます。ちょっとした可動部があれば、動かしたくなるのが人情でしょうが、「子どもが指を挟まれたら、どうしてくれるのよ!」等々、親としての監視や指導や教育を棚上げにして、施設側の責任を追及してくる馬鹿女のために、操縦の原理を知るべき可動部やヘリの回転翼などはどこもかしこも動かなくしていくのです。

 盗難と馬鹿女対策は、何も航空博物館に限らずいずこの管理者も頭痛の種のようです。

 まあ、批判はこのくらいにして、皆さん、大空ひろばへ行ったら必ず安田さんに挨拶してください。親切に教えてもらえるし、現役時代の隠れたエピソードを引き出すこともできますよ。

 そしてF-104やT-3のコックピットに入れて貰って、束の間のパイロット気分を味わってください。にがうりさんと私の喜んでいる写真もありますが、公開は遠慮しておきましょう。

                            

(10) 八戸駅前の駅弁当屋さん

 明日は、三沢航空祭を前にしてブルーインパルスジュニアが科学館へ来るなど何かと忙しそうなので、いい加減に辞することにし、再びタクシーで三沢駅、特急白鳥で八戸へと帰り、ひと風呂浴びた後は,例によって、にがうりさんと一杯ということになります。

 ご承知のように、東北本線八戸駅は市の中心からはずれたところにあり、賑やかな市街地は支線の本八戸駅前になります。本線が敷設されるときに、汽車が疫病を運んでくるというので、市街地を避けたという、明治時代の各地にあった反対運動のおかげだそうです。

 そんな僻地の八戸駅前にいちはやく弁当屋を開いたのが「よしだや」でした。明治25年開通と同時に創業したということですから百十余年の歴史をもちます。駅のまん前にありますが、古い旅館様の大きな建物の座敷を利用して料理屋さんになっています。

 活ホタテのにんにくバター焼き630円や大間マグロ680円なんてのを食べたと思いますが、疲れで酔いが回るのも早く、ほとんど忘れてしまいました。しかし、一品料理でも手のこんだつくりであったように思います。

 明日の朝が早いし、カメラと電話機の充電などの大切な作業がありますので、今宵はこのあたりでと‥。

                                      2007年9月1日(土)へ続く