福生駅からは牛浜、拝島と過ぎて、あっという間に昭島駅に着きました。
駅の観光案内所で昭島お楽しみマップという親切な観光パンフレットを貰い、かって零式輸送機が工場から引き出されたであろう飛行場跡を、そんな面影が全く見られない情けなさを押し隠してフォレスト
イン昭和館(ホテル)へ向かいました。
昭和13年ごろ、日本海軍は、大日本航空が飛ばしていたダグラスDC-3旅客機の優秀性に目をつけ、三井財閥をけしかかけて昭和飛行機工業株式会社を設立させ、DC-3の軍用輸送機化を図ったのでした。エンジンをライトSGR-1820(850馬力)から三菱金星(900馬力)に換装し、そのために本家のDC-3よりも性能が優れていると言われる海軍零式輸送機L2D1、L2D2が、かくて生まれました。
昭和飛行機工業は敗戦後に接収工場となり、米軍機の修理を手掛けていましたが、接収解除後は航空機の生産から手を引いてしまい、広い敷地をゴルフ場などに転用してしまったのです。
その反省かどうかは知りませんが、跡地に建てたフォレスト イン昭和館(ホテル)の13階のレストランをラウンジ ダコタと名付けて大型旅客機のキャビンを模した作りにしています。
フォレスト イン昭和館
ラウンジ ダコタのシンボルマーク
LOUNGE
DAKOTAは、洒落たネーミングという観点から命名したのでしょうが、歴史派マニアとしては、ダグラスDC-3でもなく、しかも英空軍名というのが、どうにも気に入りません。
400機あまりも造った零式輸送機にちなむネーミングじゃいけねえのか! と吠えてみたところで、大型旅客機のキャビンを模したというラウンジに、泥臭い名前は似合わねえじゃないかと返されるのがオチでしょう。
余談
アメリカ陸軍兵は、C-47を親しみを込めて”グーニーバード(とんまな鳥)”と呼んでいました。防衛庁が、海上自衛隊のダグラスR4D(C-47)の愛称を”まなづる”としましたが、誰一人そんな名前で呼ぶことがありませんでした。全日空のダグラス DC-3は、社内で”サンガタ”と呼ばれていたそうです。
ラウンジ ダコタの掲示 零式輸送機一号機の初進空時の写真
ラウンジ
ダコタの掲示 スーパーDC-3 N30000の有名な写真
ラウンジ ダコタの掲示 アメリカ古典機の切手シート
ラウンジ
ダコタのダグラスDC-3模型
横田基地が見える窓際のテーブルに案内してもらいました。男性ウエイターに今日は輸送機が5機いますよと言われて初めてその方角に横田のエプロンがあることが分りました。安物カメラでガラス越しに精一杯望遠にしてこの程度の写りです。
拡大しても、このとおり。冒頭の富士山撮影空振りで書きましたが、5月の晴天では遠方の撮影は不可です。モヤっていなければ赤城山も見えるそうですが。
ここからは滑走路が見えないので、離着陸の様子は分りませんが、40分ぐらい居た間に飛んだのは横田所属のUH-1ただ1機でした。
ビールとおつまみは安くないですから、横田と立川からばんばん飛んでくれなければ、それを目的にするならば、元は取れませんね。
それにしても、こんな高級レストランに昼飯を食べに来て、長時間ダベリあっているじじばば(特にばば)が多いのに驚きます。昭島駅とホテルの間は、歩いて10分くらいですし、無料の循環バスもあるので、皆さん気兼ね無しにホテルを活用しているのでしょうね。
たった一人で、飛行場と空を注目しながらビールを飲んでいる男は、奴らからみれば異星人でした。
というような訳で、そそろ東京駅へ向かわないと広島までの新幹線に間に合わなくなりますので、武蔵野よろめき紀行に終止符をうつことにしました。
しかし、昭島駅から快速というのに乗って驚きました。東京駅まで1時間1分しか掛からないのです。最終便にしていた乗車券をみどりの窓口で早い便に変える手続きをし、修学旅行生も加えてごったがえす新幹線コンコースでしばしの休憩をとったりして、のぞみ53号に乗車、午後9時半、左足の魚の目の痛みをかばいながら、ようよう自宅に帰りついたのでした。
ともあれ、懐かしいYS-11をじっくりと写して回れたし、横浜の展覧会、調布のカフェ、地震に遭遇、福生、昭島と、思い出せば数多くの経験が足を通じて体内に蓄積した今回の旅でありました。
ここまで駄文を読んでいただいた諸氏に感謝を申し上げて終わります。ありがとうございました。
2015/07/04 佐伯邦昭
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