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ヒコーキマニア人生録・図書室 掲載開始06/07/24

いざ往かん防府市へ 弥次喜多道中記

佐伯邦昭

弥次さん にがうり from 羽田空港  to 山口宇部空港 by 全日空
喜多さん 佐伯邦昭 from 広島駅  to 徳山駅 by 普通電車

文章は喜多さん  写真は弥次さんと喜多さん

 

目 次

1日目
 
(1)  プロローグ
(2)  大津島 回天記念館へ
(3)  特攻艦隊留魂碑
 2日目
 
(4) 防府航空祭2006
(5) エピローグ

 

 

一日目 2006年7月15日 土曜日


(1) プロローグ

羽田から山口宇部へ

 弥次さんは、朝早く起きて羽田空港へ駆けつけ、全日空の山口宇部行第1便に搭乗しました。

 定刻に動き出してやれやれと思うまもなく、風向きが変わって滑走路変更というので、この時間たくさんの発便が数珠つなぎで誘導路を引き返す、と、悪いことは重なるもので、機長アナウンス「前方の飛行機にバードストライクがあり、飛行機は無事に離陸しましたが、滑走路が調査のために閉鎖されましたので、その終了するまでお待ち願います。」

 結局、山口宇部空港に着いたのは定刻1時間遅れの9時半でありました。でも、悪いことばかりではないのです。リムジンバスでJR新山口駅へ着き、防府行きの電車に乗ろうとしたらちょうど、オオ、スティームロコモーティブ SL山口号ダ! 懐かしい大きな汽笛に大感激でありました。

 山陽本線の電車で防府駅へ着き、さっそくタクシーで北基地滑走路30エンドのポイントへ。

 その運転手さんが女性であり、なんと帰りに呼び出したら同じ運転手さんでした。どうも、その付近で三沢のF-16の予行を見ていたようで、こんな凄い飛行を初めて見ましたと感激の面持ちだったそうです。 

 予行については、後の祭りになりましたが、防府市役所のホームページに予行のスケジュールが出ていました。騒音等で市民が驚かないようにとの配慮のようですが、1週間くらいにわたって予行演習する航空機とその日時が発表されています。防府北基地のホームページがないだけに、これは来年から要チェックです。

 


広島から徳山(山口県周南市)へ

 一方の喜多さんは、広島駅を8時ジャストに出る山陽本線シティライナーで徳山駅へ。シティライナーといっても岩国まで七つの駅を飛ばすだけで岩国からは各駅停車の普通電車です。 9時48分に徳山へ着きます。

 あらかじめ徳山港の大津島巡航鰍ノ12分後に出る汽船に間に合うことを電話で確かめていたのですが、初めての土地で案の定埠頭を間違えてしまい、乗り遅れました。

 しかし、喜多さんもその効用というか、次便待ちで駅などをうろうろ歩いていて、このページ表題の大きなポスターを見つけたのです。なかなかいいデザインです。ただ、北鮮がミサイルをぶっ放した後だけに、「警戒警備中 徳山駅長」なる札のそばに貼ってあるのが意味深長ですな。考えすぎか!

 

(2) 大津島回天記念館

 大和ブームの中で大量の情報が発せられている昨今ですが、3月末に呉軍港を出港し、4月6日午後3時過ぎに沖縄に向けて特攻出撃するまでの大和ほかの艦隊行動をドライに詳しく触れたものは少ないです。艦内の人間模様については小説や映画でもさまざまに描き出していますけどね。

 例えば、筆者によってこれだけの差があります。
 
吉田 満 戦艦大和ノ最期 3月29日 15:00 呉軍港出港 薄暮三田尻沖仮泊 4月6日 16:00出港
原 勝洋 戦艦大和のすべて 3月28日 17:35 呉軍港出港 兜島南方仮泊 4月6日 16:00出撃
R スパー 左近允尚敏(元海上自衛隊海将)訳
   戦艦大和の運命
3月28日 17:30 呉軍港出港 (当夜の仮泊地記載なし) 4月6日 15:18出港

 通常なら、まずは山口県岩国沖の柱島泊地に集結して艦隊を整えるところですが、米軍機の主要攻撃目標地になっているため、おそらく分散行動をとって、一気に三田尻沖まで行ったものもあれば、付近に仮泊したものもあるのでしょう。だから大和の正確な航跡は、少なくともヒコーキマニアの喜多さんにはわからないのです。

 ただ、最近、B-29から撮影された出撃5時間前の大和の写真が公表され、北緯33°57′東経131°45′とあり、ここ徳山沖で最後の給油を行い、遺書などを内火艇で送った地点であることが確定しました 。

 このたび、回天記念館のある周南市大津島へ渡ろうと思い立ったのは、海上特攻隊の泊地に「徳山沖」と「三田尻沖」の二説あるのをこの目で検証してみたいという気持ちもありました。

 徳山港は、徳山曹達(現社名はトクヤマ)が使っている半島を境にして東西に分かれます。東は旧海軍第三燃料廠、戦後の出光などの石油コンビナートがあり、西 は、現在は貨物ヤードやフェリーや魚市場の公共埠頭となっていますが、戦中も恐らく軍用桟橋があったものと思います。

 まずい地図で恐縮ですが、最後には三田尻沖と合体した海上特攻隊行動推定図になりますので、我慢してみてください。

  艦隊に最期の給油をした燃料廠側へは行くことができませんが、公共埠頭先端に立って徳山湾を遠望すると、半島と島々に囲まれた海面が平和なたたずまいで夏日に光っていました。喜多さんの立つ足元には、内火艇が特攻出撃に不要な積載品や遺書を入れた行嚢を降ろしていき、はるか左の海面には駆逐艦や油槽のはしけが働いていたのではないか、しばし感慨にふけったのであります。

 大津(おおづと濁る)島の南の州島と岩島の間が深い瀬戸になっており、燃料廠へ出入りする軍艦の通路でした。もちろん現在も同じです。徳山市内の古老が島が動いているようだったと軍艦を表現した話が伝わっています。もしかすると大和も徳山湾内へ進入していたかも知れません。大津島のお年寄りに、大和が通れるのかと聞いたら、馬鹿をいうな、今は10万トンタンカーが悠々と入ってきとるじゃろうが、と一蹴されました。

回天の島

 さて、連絡船「回天」は、30分足らずで大津島馬島港へ着きました。
 めざす回天記念館まで、約10分坂道を上がっていきます。昔、若者たちが駆け足で鍛えられた道にはコンクリート塀や、地獄の坂とかいう急な石段(現在は閉鎖)も残っており、なんとなく身が引き締まってきます。
 回天の記録や記念館については、今秋の映画公開に向けて推奨すべきサイトが何本かありますので、省略します。

 喜多さんの印象は、血書、遺書、遺品の多さでした。よくぞこれだけ集ったものです。話し好きの松本紀是館長から、楠正成を信奉する菊水マークや七生報国の鉢巻や別れの色紙についてご説明にうなずきながら涙もろい喜多さんの目は真っ赤になったのでした。

 生き残りの海軍さんがあちこちのホームページで回顧をしておられますが、基地あるところに花街ありで、結構遊ばれたにしてはそんな話を書いている人がいませんが、ここ大津島に閉じ込められた若者は悲惨でした。
 馬島にはわずかの人口しかなく、もちろん遊郭も飲み屋もなかったでしょう。本土へ渡って遊びたいなどと口にしただけで半殺しにあったかもしれない。
 純粋無垢で達観し、回天のあの狭い空間に乗り込んでいった者たちが、どうか天国で存分に美女たちと戯れていてくれるように祈らずにはおれません。

 

 写真の左は記念館と回天の模型(本物は靖国神社遊就館にしかない)です。
 右は、回天搬入及び兵員通路用に掘ったトンネル中間の開口部から見た訓練発射台です。もともとは、呉海軍工廠水雷部が広島湾の魚雷試射場が手狭なので、ここに設けたもので、回天は93式魚雷を改造したものですから、魚雷試射場をそのまま転用しました。
 釣り人がたくさんいて、しゅっしゅっと竿を動かしているので尋ねたら烏賊のルアーでした。

 喜多さんは、数時間後にこの建物の反対側はるか10キロメートル先の防府市江泊から、この施設を確認しました。両者を隔てる周防灘に妨げるものがないことから、61年前には、海上特攻艦隊の艦影が何隻が見えたはずです。その歴史を刻む岩石のかけらを一つ戴いて帰りました。国立公園法に違反する行為かな?

 さて、帰りの馬島桟橋の待合室で缶ビールを飲みながら土地の人や乗客と談論していて、意外な抵抗にあったのが、回天のハッチを誰が閉めたかでした。

馬島港待合室
大津島巡航 回天
大津島巡航 鼓海

 回天記念館館長さんが「通説では、外からハッチを閉めたとなっているが、それは断じて誤りである。特攻隊員みずからの意思で内側から閉めたのである」と何度も言われたのですが、ここのおじさんたちは全員が否定しました。

 どっちなのか、ここは人間の本性に係る重要な問題ですから、喜多さんの軽い論評はやめておきます。

2009/06/01修正

 防府へ行ってきました。例によって大量に撮った(あまり使い物にならない)駄作写真の整理は、これからボツボツやるとして、これまた例によって寄り道の方で収穫がありましたので、ちょっと触れておきます。

 防府南基地開省記念日を終えて、夕刻、防府天満宮に参拝し、ぶらぶら歩いて駅付近の飲み屋街の居酒屋に入り、清酒は灘の剣菱しか置いてない(つまりこれが一番旨い)というご亭主の晩酌につきあいながら防府の航空談義をやっていたら、常連の高齢のご夫婦が入ってきたのです。

 話しかけてみて驚きました。ご主人の方は、甲種予科練14期、松山航空隊に入隊し、終戦前には大津島の回天訓練基地に移動し、出撃する頃には回天そのものがな残り少なくなっていため特攻を免れたという経歴、戦後は百姓をしながら地域のリーダーとして多方面で活躍をしておられます。

 いろいろなお話の中で、私が一番聞きたかったことを2点お尋ねしてみました。

・ 回天のハッチは誰が閉めたのか

 まず、回天のハッチは誰が閉めたのかという点です。人生録Z18 “いざ往かん防府市へ 弥次喜多道中記”に書いているように、回天記念館館長は「通説では、外からハッチを閉めたとなっているが、それは断じて誤りである。特攻隊員みずからの意思で内側から閉めたのである」と何度も言われたのですが、帰りの馬島桟橋の待合室で土地の人に聞いてみると全員が強く否定したのでした。そこで、私は、「どっちなのか、ここは人間の本性に係る重要な問題ですから、喜多さんの軽い論評はやめておきます。」と締めておきました。

 ところが、この方は当然のごとく「外からだよ。棺桶と同じですよ。訓練中に速い潮の流れを読み切れずに暴走して壊れることが多かった、救助に行っても殆どは死んでいた‥」と。 「ああいう悲劇は二度とやってはいけないなあ‥」と。悲しいことながら結論が出ました。

・ 回天の若者は童貞のまま死んでいったのか

 もう1点 回天記念館見学記に次のように書きました。 「生き残りの海軍さんがあちこちのホームページで優雅に回顧しているが、基地あるところに花街ありで、結構遊ばれたにしてはそんな話を書いている人がいない。しかし、ここ大津島に閉じ込められた若者は悲惨だ。馬島にはわずかの人口しかなく、もちろん遊郭も飲み屋もなかった。本土へ渡って遊びたいなどと口にしただけで半殺しにあったかもしれない。純粋無垢で達観し、回天のあの狭い空間に乗り込んでいった者たちが、どうか天国で存分に美女たちと戯れていてくれるように祈らずにはおれない。」

 これについても、「徳山の遊郭へ連れて行ってくれたよ‥」と。海軍が漁船で運んでいたようです。山本五十六提督からして港々に女ありでしたから、やっぱり物分かりのいい日本海軍でした。これには安心しました。

 私の道中記は、以上2点について要修正であります。

 

 

 

(3) 特攻艦隊留魂碑 三田尻

 午後4時、JR防府駅構内の防府市観光案内所にきっちりと弥次さん喜多さんが現れました。時間を守ることにかけては二人とも律儀がたいところがあります。

 防州の国府が置かれたことから防府という地名になっていますが、塩田で開けた三田尻(みたじり)という方に馴染みを持つ人は多いです。国鉄の駅も戦後まで三田尻でした。海軍も三田尻沖と呼称しても防府沖とは言わなかったようです。

 防府天満宮、周防国分寺、毛利庭園など観光施設の多い街だけあって観光案内所はとても親切です。あらかじめ、戦艦大和の慰霊碑が、大和出撃地点を見下ろす山の中腹にあるという噂を聞いていたので、その詳しいことを照会しましたら、地元紙の切抜きや地図を送っていただき、その上、車で案内してやろうという人まで斡旋して貰ったのです。

 その末松一彦さんのカローラに載せていただいて、防府市内を東に走って江泊地区に入り、まずは、子どもの頃、海軍さんに乾パンを貰って食べた経験を持つ方の事務所へ行き、お話を聞きました。

 この地図の堀越三神社というのが、その方たちの遊び場で、そこへカッターで乗りつけた海軍さんが乾パンをくれたというのです。ご年齢からして小学校4〜5年頃と思われますが、それ以上の詳しいことは記憶に無いということです。

 ですから、それが大和から来たものか、そもそも特攻艦隊の艦艇からなのかも裏づけは取れませんが、特攻艦隊との結びつきで語られているので、可能性が無いことではないでしょう。

P ラッセルの著書に次のくだりがあります。


 古村少将は泊地の周りを見ている。正横半マイルの所に小さな漁村である三田尻があり、もみの木で覆われた丘で囲まれている。漁船は海岸に引き上げてあり、手拭を頭に巻いた女たちが座って網の修理をしている。彼女たちの後ろには灰色をした家が雑然と並び、桜の花の色取どりで救われている。

 古村少将とは軽巡洋艦矢矧に搭乗した第二水雷戦隊の司令官です。「正横半マイル」というのが少々疑わしいですが、矢矧が三田尻に相当接近して停泊していたことをうかがわせます。そして矢矧と大和は常に行動を共にしていますので、この付近に大和がいてもおかしくはないわけです。

 堀越三神社付近へカッターで乗りつけた話が非常に信憑性を帯びてきました。

 それから、艦隊は、出撃に当って新米の幹部候補生や病弱な隊員を本土へ返しましたが、資料によっては、その行き先が徳山港であったり三田尻港であったりします。しかし、三田尻港は江戸時代から山口藩の海軍所があったそうで、帝国海軍も使用しているので、三田尻港も確実でしょう。

 防府天満宮前の御菓子屋さんが、大和特攻出撃前に羊羹6千本を納入したという話も伝わっています。事実なら、その引渡し場所に三田尻港が使われた可能性は大きいわけです。

 

 さて、末松さんのカローラは、戦後林道として整備された道を登っていき、目指す特攻艦隊留魂碑へ到着しました。

 銅板の説明を要約すると、眼下の三田尻沖は連合艦隊が度々集結したゆかりの地であり、大和を旗艦とする海上特攻隊もこの母なる海を抜錨し出撃していった。また大津島などの回天練習海面でもあった、未曾有の平和と繁栄を得た今、特攻という高貴な犠牲的精神と行動を深く銘記したい、というものです。平成5年4月地元の方々によって建立されました。

三田尻沖泊地

 さて、留魂碑の正面の海を見てみましょう。

 中央に三個の島影を見せる野島の両側に海が広がります。水深も深いそうです。野島の行政区は防府市であり、ここを境として徳山沖と三田尻沖に分かれていることがよくわかります。野島を南下すれば大分県の姫島、すなわち豊後水道に出ます。

 ということで、次の地図を完成させました。

 

  3月29日から4月6日までの間、第2艦隊第2遊撃隊(海上特攻隊)は、広島湾から西進し、野島を中心とする広い海面、すなわち三田尻沖と徳山沖で訓練や対空戦闘などを繰り返しながら仮泊、警泊を繰り返しましたが、主たる投錨地は、図の丸印の二地点であったと推定します。

 4月5日、東京日吉の連合艦隊司令長官から発せられた天一号作戦命令を受け、大和は三田尻沖仮泊地で酒保開けの最後の宴会を済ませて、徳山沖へ向かい、早朝の給油を終え、午後3時18分抜錨し、有賀艦長の両舷微速前進の指示のもと、死出の旅に出たのであります。

 

 喜多さんの海上特攻隊の仮泊地に「徳山沖」と「三田尻沖」と二説あるのをこの目で検証したいという願いの目的はかくて達せられました。もちろん、一ヒコーキマニアの我流の遊びに過ぎず、学問的根拠は一つもありませんが、当らずとも遠からず、心に一応の区切りをつけました。

 その後、末松さんにはホテルまで送っていただきた恐縮しました。やはり船が好きで、こういう歴史にも興味をもたれているご様子でしたが、ヒコーキマニアとしては「防府北基地の練習機がメンターやT-3からT-7に変ってずいぶん静かになった、飛んでいて分からないことがある」というお話しに大いに意を強くしたのであります。この市内には反自衛隊という空気がほとんどないそうです。

補足    二日目    

 回天記念館で聞いた話しですが、呉の大和ミュージアムにも回天と称する物体(特攻使用のもとは別形式らしい)が展示してあるが、そこの職員が大津島へ調査に来たことはないそうです。ただ、ボランティアガイドが一人だけ見て帰っただけとか。大和の最後の出港航跡すら検証もせず、入渠の歴史を捏造し、展示物の調査もしない博物館が賑わっていることについて、海底に眠る特攻兵士達はどう思っているでしょうか。

 

     

二日目 2006年7月16日 日曜日

(4) 防府航空祭2006

 昨日の末松さんと会話で、20年位前に米海兵隊のファントムUが防府北基地に降りたのを覚えているというお話しがありました。喜多さんも、誰かが写した証拠写真(157269)を見たことがあります。岩国からスターターエンジンを運んできて離陸させたとのことですが、防府〜岩国基地間は直線距離で約65q、海上迂回コースでも約100qで、F-4ならひとっ飛びの距離でしょうが、わずか1480mの防府北基地滑走路へ降りなければならなかったのは、余程緊急事態だったものと思われます。

日替わりメモ2006/07/28から転記

  「いざ往かん防府市へ」 の二日目冒頭に紹介した、ファントムUの防府北への着陸は、スターターを岩国から運ばせているところから緊急着陸に違いありませんが、以前、どなたかに見せていただいた写真とSeagullさんのホームページMCASイワクニから次のことが判明しました。
 機体は、マクダネルF-4J 157269 VMFA-235 DB-08です。DBレターのF-4は1977年から1987年までJ型とS型が岩国基地に7回駐留しています。そのうちの157269 モデックス(機首ナンバー)DB-08は1977年10月から1978年4月まで駐留した中にしかいませんので、防府北へ緊急着陸したのは、この時期だと判定できます。当時の地元紙に詳しく出ているかもしれません。

 その防府北基地は、自衛隊山口地連の説明によると「1944(昭和19)年4月、旧陸軍の防府飛行場として発足し、戦後英豪連合軍の進駐を経て返還され1955(昭和30年)11月に航空自衛隊操縦学校が新設され1959(昭和34)年6月、第12飛行教育団、防府管制隊及び防府気象隊が所在する防府北基地 」として誕生しました。

 太平洋戦争中に日本陸海軍が建設する飛行場の多くはメインと横風の2本滑走路を設けようとしていましたが、戦後、再び飛行場として復活したときには殆どが1本滑走路に縮小され、2本 の滑走路をもつ防府北飛行場は珍しい部類に入ります。

 もともと、米作地だったそうですが、農地返還や開拓団への払下げ要求が強くなかったのでしょうか、すぐ南にある防府南基地(1943(昭和18)年海軍通信隊)とともに広大な土地が国有地として残りました。

 

 さて、いよいよ防府航空祭2006の当日の朝がやってきました。7時半に防府駅みなと口側から専用バス第1便が出るので、弥次さん喜多さん、早起きでサン防府ホテルのおいしい和朝食600円を済ませました。その時感じた雰囲気では、富士重工業の人が多いようでしたが、T-7やUH-1Jが常駐する防府ならではで、聞いてみるとやはり定宿にしているそうです。

 実際、基地内の格納庫には、こんな表示の出入り口がありますから、ちょっと「ご免下さい」と入ってみたい誘惑にかられますよね。
 ただし、この写真は3年前のものであって、今年もあるかどうかは見落としました。

 

 防長交通のバスは、400円で基地内まで直行です。同じ山口県内なので、どうしても岩国フレンドシップデーと比較してしまいますが、岩国市営交通の配車はもとより係員の大量動員、岩国警察のバス優先誘導による見事な交通整理と、どれをとっても岩国がはるかに上手で、悪いけど防府は非常に泥臭い感じです。帰りの駅行き直行便が、こともあろうに防府警察署の前から動かなくなり、600メートル先の終点まで20分もかかったので尚更でしたな。

 航空祭の展示機や展示飛行についてはニュースフラッシュ316にある諸画像が雄弁に語ってくれますので、ここでは省略します。

 その全体的な感想としては、

@  今年の防府航空祭は、ここ数年の行事からみるとかなり圧縮して計画された感じ です。どういう訳か基地に同居する陸上自衛隊第13飛行隊の消極ぶりが目立ちました。

 @-ア 陸上自衛隊の去年あって、ことしなかったものを列挙すると、明野のOH-1とUH-60JAが不参加、OH-6、UH-1、AH-1によるオープニング、機動飛行や消火訓練、山口駐屯地の戦車・高機動車の展示と体験搭乗がすべて無しという具合で、静かなる陸上自衛隊の体でした。

 @-イ 航空自衛隊も去年あって、ことしなかったものを列挙すると、三沢のE-2Cが不参加、新田原のF-15の機動飛行無しで、ブルーインパルスが築城基地離陸直前の雷雨のため中止ということで、やや肩透かしの航空自衛隊でした。

 @-ウ 海上自衛隊は岩国のUS-1の航過飛行も無く、徳島と小月の練習機を1機づつ見せるだけです。そういえば、海上自衛隊岩国航空祭には防府のT-3もT-7も出していませんね。やっぱり仲が悪いのか。

 @-エ 米軍関係は、三沢のF-16はやはり岩国から飛んできて華麗なアクロバットを披露してくれました。

 そのアナウンスたるや全部英語でした。闘いすんで会場内を歩いている3人のうちの誰かがマイクを持ったものと思いますが、英語はわからなくともやっぱりかっこいいですね。ちなみに、つなぎ服の背中の文字は、 F-16の正面形をはさんで、
上が PACIFIC AIR FORCE  
下が DEMONSTRATION TEAM です。

 なお、岩国駐留部隊は、去年はハリアーの昼間型と夜間型を展示して度肝を抜きましたが、今年は何もありませんでした。

 

その他の感想も書いておきます。

A エアロック
 復活エアロックは、熱心な追っかけファンに支えられて単機飛びました。運悪く雨が降り出しましたが、精一杯の演技のようでした。ただ、喜多さんは事故前の一昨年のロック岩崎の極限に近い飛行を網膜に焼き付けているので、女性アナウンスの叫び声が少し空しく聞こえたのでした。少しニュアンスを変えてみるとか一工夫ほしいですね。

B 史資料展示
 基地内に教育学生教育本部という看板を掲げた建物があります。その1室が2003年のチラシでは「戦史展示」、2004年には無記入、2005年には「歴史資料室」、2006年つまり今年は無記入で現地も立入禁止でした。名称がころころ変ったり、見せたり見せなかったりするのは教育上はなはだ宜しくないです。航空史探検博物館の防府北基地に一部紹介しているとおり貴重な史資料が展示してあり、ここを卒業したロック岩崎が贈ったものもあるのですから、公開日には開放すべきです。

C 困ったBGMの音量
 スピーカーは、通常業務において行き届くように配置され音量も決めてあるのだと思います。航空祭における案内や紹介アナウンスはそれでいいのですが、BGMの音量まで行き届くようにしてあるのは閉口です。特に、ラジコン・グライダー展示場のところでは、すぐ後ろに拡声器があるため説明者も質問者も大声でやり取り。来年からは、心地よいBGMにしていただきたい。

D 教育的配慮?
 去年指摘しておいたF-104Jの腹びれですが、まだ修理してありませんでした。左が一昨年の状態、右が去年と今年の状態です。誰かが腹立ち紛れに蹴り上げた姿を保存しておく学校当局の配慮か?

E T-1A その1
 正門通りのところにある常設展示機のうち、T-1Aにはコックピットが見られるように架台がつけてあり、そこを通る子どもさんの9割まで登っています。が、マイカー座席のような見慣れた風景があるわけではなく、なんじゃこれという顔で、訳も分からず降りていきます。そのT-1Aのそばに来賓受付テントがあって10人くらいの男女隊員がたむろし、あまり忙しそうにはありませんでした。1人でも架台の上で、質問に答えてあげたらなと思いました。もっとも、みだりに持ち場を変えてはいけないのでしょうけど。

F T-1A その2
 富士T-1A/B研究の書評のところで話題になったT-1の12.7ミリ機銃の銃座ですが、島田商工会前の展示機は機銃に替わる109.3LBSのバラストを残しています。オーバーホールのたびに変化する左右の重量のバランスをとるために、金属の重しや時には新聞紙の束を積んだりするそうです。そこで防府北のT-1Aの前脚室にもぐってみました。

 向かって左上の黄色(エアダクト)が見える空間が機銃座ですが、残念ながらバラスとは取り除いてありました。ご報告まで。 
 


風 景

 毎年、炎熱の防府航空祭でしたが、ことしは、晴れたり降ったりで風もありました。航空祭での主翼下は絶好の日陰や雨宿りになりますが、T-33Aでの雨宿りは初めて見ましたね。低翼でなんと窮屈そうな。
 暑かったのはパラシュート係りの隊員さんでした。ブランコのようにひっぱるのですから。

 

既発表の日替わりメモ164番165番 弥次喜多道中記のサワリ から転記

中国航空協会のグライダー展示会場にて

左 : 戦時中は中等学校のグライダー訓練が必須科目に近いものでしたが、喜多さんは間に合わず、本日始めてグライダーなるものに搭乗し ました。足がフットペダルに届かず赤面状態。
右 : 弥次さんは、重量オーバーの危険性を無視して乗り込みましたが、古谷眞之助さんから「55kg以上、110kg以下なら許可される」と聞いて、やや安心の面持ちで した。古谷さんが握っているのが、主翼スピードブレーキのハンドル、着陸降下の時に使います。

  航空祭で日米国旗を緑テントの両側に掲げて、本物の自衛隊グッズですよと売っている店を見つけたら、写真の大柄なおっさんに声をかけてみてください。気さくに応じてもらえます。

 

 このおっさん(失礼)、有限会社れんがはうす代表取締役松田幹生さんは第5期操縦学生の代表でマルヨンライダーだった方、知る人ぞ知る元航空自衛隊幹部であります。そのでかい体でF-104のコックピットに納まっていられたのかと、でかい体の弥次さんが聞いていますよ。

 ちょうど,三菱F-2が爆音をとどろかせているときで、その旋回半径の短さに喜多さんが驚きの声を上げていたら、松田パイロットは「マルヨンは6Gまで耐えるというが、旋回はせいぜい4Gまででした。あの翼では揚力がないからです」と教えてくれました。

 


 長くなるので、喜多さんの藪睨み感想はこの辺にとどめ、最後にチラシについて。
 徳山駅のポスターをなかなかいいデザインだとほめておきましたが、たしかに自衛隊の中では一二を争うものではないでしょうか。

 しかも、そのポスターと同じ絵柄で裏に展示飛行予定と会場案内図を入れたA4版のちらしを観光案内所などに大量においてありますし、当日は、別にB4版二つ折りのプログラム(下の写真)を総合案内所に用意しています。その表紙デザインもいいですね。ただ、大量に残った2種類のパンフレットをどうするのか、余計な心配か?

 

(5) エピローグ

 「ブルーインパルスの飛行は、築城基地が雷雨のため中止となりました」
 いとも簡単に放送があったところで、本年の防府航空祭の終幕となりました。外来の帰投まで粘ったマニアも居るでしょうが、遠来の弥次さん喜多さんはここで見切りをつけ、すぐにバス乗車場へ向かいました。幸いにあまり待たずに乗れたのですが、前述のように、駅へ着く寸前から大渋滞に遭遇したのが玉にキズ。

 でも、ブルーインパルスは、5月5日快晴の岩国で十分に堪能していましたし、展示機が少なくとも、普段近寄ることのできない飛行機を間近で見れたのですし、また、人出もあまり多くなく、こじんまりとした航空祭として満足しなければならないでしょう。喜多さんの苦言に賛同するところがあれば、次から改善してもらえばいいということです。

 防府駅構内のうどん屋さんで、一杯500円也の中ジョッキを数杯ずつ傾けて、2階HOMEから弥次さんは下り新山口へ、喜多さんは上り広島へと普通電車に乗り、それぞれ帰路につきました。

 二日間の旅は、大和の最後の停泊地を確認したことを含めて、大変に充実したものでした。敢えて旅行記を書こうと思い立ったのもそのためです。

 終わりに、お世話になった方々にお礼を申し上げ、全国の皆様にどうぞ「おいでませ山口へ」と申し上げておきます。


 HAWK


 

日替わりメモ2006/07/28
防府北基地へ緊急着陸したF-4J

 「いざ往かん防府市へ」 の二日目冒頭に紹介した、ファントムUの防府北への着陸は、スターターを岩国から運ばせているところから緊急着陸に違いありませんが、以前、どなたかに見せていただいた写真とSeagullさんのホームページMCASイワクニから次のことが判明しました。

 機体は、マクダネルF-4J 157269 VMFA-235 DB-08です。DBレターのF-4は1977年から1987年までJ型とS型が岩国基地に7回駐留しています。そのうちの157269 モデックス(機首ナンバー)DB-08は1977年10月から1978年4月まで駐留した中にしかいませんので、防府北へ緊急着陸したのは、この時期だと判定できます。当時の地元紙に詳しく出ているかもしれません。

日替わりメモ2006/08/09

  弥次喜多道中記いざ往かん防府市へで推論した戦艦大和海上特攻隊の最後の遊弋海面について、六管地図展で知った六管海洋情報部海の相談室へ、あの辺りの水深を尋ねてメールを出してみました。翌日、昭和14年8月刊行の軍機海図のコピーが送られてきました。もちろん、びっしりと水深が書いてあり、沈船の位置まで示してあります。徳山湾の喉首に当る洲島と岩島の間は水深36m、岩礁も無く、入る時と出る時の速度も表示されており、或いは戦艦大和も通過したのではないかという地元の方のお話も信憑性が出てきました。(速度は入り1と1/2Kt 出1と3/4Ktで、時速数キロメートルというところで、これなら海岸が大きく波をかぶるような影響はないでしょう)

 もっといろいろな検証もやってみるつもりですが、六管海洋情報部の打てば響く対応には心から敬意を表することを伝えておきます。

 私は弥次喜多道中記いざ往かん防府市への中で防府航空祭について苦言や疑問を呈しているので、第12飛行教育団長さん当てに、お考えがあるのなら航空祭担当官から答えをいただきたいと手紙を出しました。
 一応期限とした昨日現在何の応答もございません。読んだか読まないのか、返事ができないのかしたくないのか、組織の糞詰まりでどこかに手紙が寝ているのか捨てられているのか、あるいはこれから届くのかもしれません。これ以上は言いませんので、市民を大切にする官庁と比較されないように気を付けて頂くようお願いしておきましょう。

 

2日目