昨日の末松さんと会話で、20年位前に米海兵隊のファントムUが防府北基地に降りたのを覚えているというお話しがありました。喜多さんも、誰かが写した証拠写真(157269)を見たことがあります。岩国からスターターエンジンを運んできて離陸させたとのことですが、防府〜岩国基地間は直線距離で約65q、海上迂回コースでも約100qで、F-4ならひとっ飛びの距離でしょうが、わずか1480mの防府北基地滑走路へ降りなければならなかったのは、余程緊急事態だったものと思われます。
日替わりメモ2006/07/28から転記
「いざ往かん防府市へ」
の二日目冒頭に紹介した、ファントムUの防府北への着陸は、スターターを岩国から運ばせているところから緊急着陸に違いありませんが、以前、どなたかに見せていただいた写真とSeagullさんのホームページMCASイワクニから次のことが判明しました。
機体は、マクダネルF-4J 157269 VMFA-235 DB-08です。DBレターのF-4は1977年から1987年までJ型とS型が岩国基地に7回駐留しています。そのうちの157269 モデックス(機首ナンバー)DB-08は1977年10月から1978年4月まで駐留した中にしかいませんので、防府北へ緊急着陸したのは、この時期だと判定できます。当時の地元紙に詳しく出ているかもしれません。
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その防府北基地は、自衛隊山口地連の説明によると「1944(昭和19)年4月、旧陸軍の防府飛行場として発足し、戦後英豪連合軍の進駐を経て返還され1955(昭和30年)11月に航空自衛隊操縦学校が新設され1959(昭和34)年6月、第12飛行教育団、防府管制隊及び防府気象隊が所在する防府北基地
」として誕生しました。
太平洋戦争中に日本陸海軍が建設する飛行場の多くはメインと横風の2本滑走路を設けようとしていましたが、戦後、再び飛行場として復活したときには殆どが1本滑走路に縮小され、2本
の滑走路をもつ防府北飛行場は珍しい部類に入ります。
もともと、米作地だったそうですが、農地返還や開拓団への払下げ要求が強くなかったのでしょうか、すぐ南にある防府南基地(1943(昭和18)年海軍通信隊)とともに広大な土地が国有地として残りました。
さて、いよいよ防府航空祭2006の当日の朝がやってきました。7時半に防府駅みなと口側から専用バス第1便が出るので、弥次さん喜多さん、早起きでサン防府ホテルのおいしい和朝食600円を済ませました。その時感じた雰囲気では、富士重工業の人が多いようでしたが、T-7やUH-1Jが常駐する防府ならではで、聞いてみるとやはり定宿にしているそうです。
実際、基地内の格納庫には、こんな表示の出入り口がありますから、ちょっと「ご免下さい」と入ってみたい誘惑にかられますよね。
ただし、この写真は3年前のものであって、今年もあるかどうかは見落としました。
防長交通のバスは、400円で基地内まで直行です。同じ山口県内なので、どうしても岩国フレンドシップデーと比較してしまいますが、岩国市営交通の配車はもとより係員の大量動員、岩国警察のバス優先誘導による見事な交通整理と、どれをとっても岩国がはるかに上手で、悪いけど防府は非常に泥臭い感じです。帰りの駅行き直行便が、こともあろうに防府警察署の前から動かなくなり、600メートル先の終点まで20分もかかったので尚更でしたな。
航空祭の展示機や展示飛行についてはニュースフラッシュ316にある諸画像が雄弁に語ってくれますので、ここでは省略します。
その全体的な感想としては、
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今年の防府航空祭は、ここ数年の行事からみるとかなり圧縮して計画された感じ
です。どういう訳か基地に同居する陸上自衛隊第13飛行隊の消極ぶりが目立ちました。
@-ア 陸上自衛隊の去年あって、ことしなかったものを列挙すると、明野のOH-1とUH-60JAが不参加、OH-6、UH-1、AH-1によるオープニング、機動飛行や消火訓練、山口駐屯地の戦車・高機動車の展示と体験搭乗がすべて無しという具合で、静かなる陸上自衛隊の体でした。
@-イ 航空自衛隊も去年あって、ことしなかったものを列挙すると、三沢のE-2Cが不参加、新田原のF-15の機動飛行無しで、ブルーインパルスが築城基地離陸直前の雷雨のため中止ということで、やや肩透かしの航空自衛隊でした。
@-ウ 海上自衛隊は岩国のUS-1の航過飛行も無く、徳島と小月の練習機を1機づつ見せるだけです。そういえば、海上自衛隊岩国航空祭には防府のT-3もT-7も出していませんね。やっぱり仲が悪いのか。
@-エ 米軍関係は、三沢のF-16はやはり岩国から飛んできて華麗なアクロバットを披露してくれました。
そのアナウンスたるや全部英語でした。闘いすんで会場内を歩いている3人のうちの誰かがマイクを持ったものと思いますが、英語はわからなくともやっぱりかっこいいですね。ちなみに、つなぎ服の背中の文字は、
F-16の正面形をはさんで、
上が PACIFIC AIR FORCE
下が DEMONSTRATION TEAM です。
なお、岩国駐留部隊は、去年はハリアーの昼間型と夜間型を展示して度肝を抜きましたが、今年は何もありませんでした。
その他の感想も書いておきます。
A エアロック
復活エアロックは、熱心な追っかけファンに支えられて単機飛びました。運悪く雨が降り出しましたが、精一杯の演技のようでした。ただ、喜多さんは事故前の一昨年のロック岩崎の極限に近い飛行を網膜に焼き付けているので、女性アナウンスの叫び声が少し空しく聞こえたのでした。少しニュアンスを変えてみるとか一工夫ほしいですね。
B 史資料展示
基地内に教育学生教育本部という看板を掲げた建物があります。その1室が2003年のチラシでは「戦史展示」、2004年には無記入、2005年には「歴史資料室」、2006年つまり今年は無記入で現地も立入禁止でした。名称がころころ変ったり、見せたり見せなかったりするのは教育上はなはだ宜しくないです。航空史探検博物館の防府北基地に一部紹介しているとおり貴重な史資料が展示してあり、ここを卒業したロック岩崎が贈ったものもあるのですから、公開日には開放すべきです。
C 困ったBGMの音量
スピーカーは、通常業務において行き届くように配置され音量も決めてあるのだと思います。航空祭における案内や紹介アナウンスはそれでいいのですが、BGMの音量まで行き届くようにしてあるのは閉口です。特に、ラジコン・グライダー展示場のところでは、すぐ後ろに拡声器があるため説明者も質問者も大声でやり取り。来年からは、心地よいBGMにしていただきたい。
D 教育的配慮?
去年指摘しておいたF-104Jの腹びれですが、まだ修理してありませんでした。左が一昨年の状態、右が去年と今年の状態です。誰かが腹立ち紛れに蹴り上げた姿を保存しておく学校当局の配慮か?
E T-1A その1
正門通りのところにある常設展示機のうち、T-1Aにはコックピットが見られるように架台がつけてあり、そこを通る子どもさんの9割まで登っています。が、マイカー座席のような見慣れた風景があるわけではなく、なんじゃこれという顔で、訳も分からず降りていきます。そのT-1Aのそばに来賓受付テントがあって10人くらいの男女隊員がたむろし、あまり忙しそうにはありませんでした。1人でも架台の上で、質問に答えてあげたらなと思いました。もっとも、みだりに持ち場を変えてはいけないのでしょうけど。
F T-1A その2
富士T-1A/B研究の書評のところで話題になったT-1の12.7ミリ機銃の銃座ですが、島田商工会前の展示機は機銃に替わる109.3LBSのバラストを残しています。オーバーホールのたびに変化する左右の重量のバランスをとるために、金属の重しや時には新聞紙の束を積んだりするそうです。そこで防府北のT-1Aの前脚室にもぐってみました。
向かって左上の黄色(エアダクト)が見える空間が機銃座ですが、残念ながらバラスとは取り除いてありました。ご報告まで。
風 景
毎年、炎熱の防府航空祭でしたが、ことしは、晴れたり降ったりで風もありました。航空祭での主翼下は絶好の日陰や雨宿りになりますが、T-33Aでの雨宿りは初めて見ましたね。低翼でなんと窮屈そうな。
暑かったのはパラシュート係りの隊員さんでした。ブランコのようにひっぱるのですから。
既発表の日替わりメモ164番165番 弥次喜多道中記のサワリ から転記
中国航空協会のグライダー展示会場にて
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左 : 戦時中は中等学校のグライダー訓練が必須科目に近いものでしたが、喜多さんは間に合わず、本日始めてグライダーなるものに搭乗し
ました。足がフットペダルに届かず赤面状態。
右 : 弥次さんは、重量オーバーの危険性を無視して乗り込みましたが、古谷眞之助さんから「55kg以上、110kg以下なら許可される」と聞いて、やや安心の面持ちで
した。古谷さんが握っているのが、主翼スピードブレーキのハンドル、着陸降下の時に使います。
航空祭で日米国旗を緑テントの両側に掲げて、本物の自衛隊グッズですよと売っている店を見つけたら、写真の大柄なおっさんに声をかけてみてください。気さくに応じてもらえます。
「ブルーインパルスの飛行は、築城基地が雷雨のため中止となりました」
いとも簡単に放送があったところで、本年の防府航空祭の終幕となりました。外来の帰投まで粘ったマニアも居るでしょうが、遠来の弥次さん喜多さんはここで見切りをつけ、すぐにバス乗車場へ向かいました。幸いにあまり待たずに乗れたのですが、前述のように、駅へ着く寸前から大渋滞に遭遇したのが玉にキズ。
でも、ブルーインパルスは、5月5日快晴の岩国で十分に堪能していましたし、展示機が少なくとも、普段近寄ることのできない飛行機を間近で見れたのですし、また、人出もあまり多くなく、こじんまりとした航空祭として満足しなければならないでしょう。喜多さんの苦言に賛同するところがあれば、次から改善してもらえばいいということです。
防府駅構内のうどん屋さんで、一杯500円也の中ジョッキを数杯ずつ傾けて、2階HOMEから弥次さんは下り新山口へ、喜多さんは上り広島へと普通電車に乗り、それぞれ帰路につきました。
二日間の旅は、大和の最後の停泊地を確認したことを含めて、大変に充実したものでした。敢えて旅行記を書こうと思い立ったのもそのためです。
終わりに、お世話になった方々にお礼を申し上げ、全国の皆様にどうぞ「おいでませ山口へ」と申し上げておきます。
HAWK