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航空人生録・論文 掲載22/12/25
更新22/12/26

                                                                          

「予科練から航空自衛隊まで 久武勇夫のヒコーキ人生」

S-hisa  / 編集・補足 イガテック
 

 S-hisaさんからお父様のアルバム写真を多数お送りいただきました。
 お父様のヒコーキ人生が判るように時代の流れに併せて掲載します。
 ヒコーキ雲で調べた範囲で補足の説明を付けさせていただきます。 
 読者の方で内容に疑問や訂正がありましたらお知らせください。  (イガテック)



予科練から航空自衛隊まで


久武勇夫のヒコーキ人生


S-hisa

 父が飛行機バカで予科練18期から神風特別攻撃隊菊水隊へ進みその生き残りです。
 その後すぐに警察予備隊に入隊しました。
 私の生まれた1960年頃は浜松基地で86の教官として現在のブルーインパルスに関わっていたと聴いています。 その後岐阜基地へ移動。その頃はT–33だったと思われます。 その後、芦屋基地へ移動してジェットの教官をしていましたがジェットをおりてからT–34メンターで教官として勤務してました。
 その後1965年頃 新田原基地へ移動。 教官を辞めて救難隊を志願してT–6、MU–2に乗っていました。 1970年に訓練中に墜落し殉職してしまいました。 私の聞くところによるとT–6は自衛隊最後の飛行納めをしたそうです。MU–2は工場から一番機を操縦して自衛隊まで運んだそうです。 本当に飛行機が大好き人でした。


第1章 予科練から復員まで

 予科練から復員までの日取りがアルバム表紙に書かれています。

  昭和17年(1942年)年5月1日〜昭和19円3月29日 予科練 
  昭和19年(1944年)3月31日〜昭和19年12月27日 飛練
  昭和19年(1944年)12月30日〜昭和20年8月23日 第一線
  昭和20年(1945年)8月23日               復員

 予科練は 乙種飛行予科練生第18期です。

アルバム表紙


撮影1942年8月16日 土浦海軍航空隊 水兵服


撮影1942年9月 土浦海軍航空隊 飛行服 後方は九〇式水上初歩練習機




撮影1944年12月 名空 挙母    海軍航空隊伊保原航空隊

 豊田市の以前は挙母市と称していました。  
 旧海軍が旧挙母町地内に存在したのは事実で、基地があったのは伊保原と称する市の北西部です。
  海軍航空隊伊保原航空隊と称していました。現在の豊田市浄水町になります。 この基地からは草薙隊として編成された特別攻撃隊が99艦爆で編成され出撃していきました。  (丹羽八十)

撮影1945年5月 国分航空基地


アルバムには特攻隊での所属が書かれていました。
海軍橘部隊 第701航空隊攻撃 第105飛行隊 神風特別攻撃隊菊水隊
上等飛行兵曹


 特攻出撃後機体トラブルで鹿児島へ引き返し終戦になったを迎える。
 終戦後実家の高知へ帰るのに無茶苦茶混んでる列車で帰るのは嫌だと考え自分の乗ってた特攻機を拝借して高知の日章飛行場まで物資を積んで帰ってきたと言う強者です。
 
 編集補足:
 「一切の日本国籍機の飛行は、8月24日午後6時をもって禁止する。これに従わない場合は撃墜する」と、米軍司令部から命令が出ており 復員日が8月23日ということから直前に飛行して戻ったと思われます。
 


2章 保安隊  1952年10月15日〜1954年7月1日まで

撮影1952年10月15日 保安庁正門 保安隊創立記念日


保安隊創立記念 観閲式  新宿 明治神宮外苑と思われます。




昭和通り



撮影時期不明 L-5 機番不明


保安隊航空学校 浜松基地と思われる


Aeronca L-16A Air National Guardが韓国で1950年代に使用していた機体


撮影1953年10月 USAF Ryan Navion L-17


撮影1954年3月12日 宇都宮飛行場 T-34 鹿空-102号機
  (当機は1954年6月1日鹿児島県古江湾沖墜落)


撮影1954年4月7日 浜松基地  B-26 8C-634号機




保安隊装備

ブローニングM1919A4軽機関銃


ブローニングM2重機関銃


 T-34A H-1101は1954年7月16日に引き渡しとなっているので、引渡し前に飛行テストを担当していたと思われます。

撮影時期 1954年6月6日 T-34A H-1101号機 翌年1955年 41-0301に変更




撮影時期 1954年6月頃? T-34A H-1101号機




3章 航空自衛隊  1954年7月1日〜

撮影1954年7月1日


撮影時期 1954年9月末〜1955年の間 T-34A H-1110 (のちに41-0310)他


撮影1955年1月1日 KAL-2 2号機 41-1555  経歴リンク


撮影1955年1月3日 USAF C-46D輸送機 0-8025号機
 のちに航空自衛隊51-1106になったと思われる。






撮影1955年1月20日頃 T-33A 35086  51-5602号機(2号機) 
 USAF番号のまま日の丸が描かれています。


撮影時期1955年2月頃? 機体番号が114**8 のちの52-0022〜64の中の1機と思われる。
 機体番号付与前に日の丸がつけられている。
 後方の機体は FT-584、TR-706のように読めるが詳細不明。


撮影1955年2月4〜5日 調布飛行場 


撮影時期不明 T-34A 51-0354号機 (1955年3月31日納入機体)
 左の2名は海上自衛隊パイロットです。 当時の階級は3等空尉。


撮影時期不明 T-34A 51-0365号機 小月基地 (1955年11月14日納入機体)


撮影時期不明 T-34A 51-0336 胴体着陸 (1955年3月5日納入機体)




Don't forget gear down. 脚下げを忘れるな! と書かれています


撮影時期不明 T-34A 61-0391 (1956年3月27日納入機体)
 奥はT-34A 51-0359 (1955年6月30日納入機体)


撮影時期不明 松島基地 1957年12月1日〜1958年7月31日の間と思われる。
  正門右側の所属部隊に第3航空団と書かれています。



撮影時期不明 T-6 試運転場よりオーバーホール工場を見る


撮影時期不明 T-6 階級章から航空自衛隊納入直後頃と思われる。


撮影時期不明 T-6 52-0012号機 1955年2月〜1965年5月の間航空自衛隊で運用


撮影時期不明 T-6 52-0059 1955年2月〜1964年5月の間航空自衛隊で運用


1960年 米軍訓練に参加
 1959〜1960年に開催されていたようです。

撮影1960年7月 静岡県沼津  5th Air Force Sea Survival Class 60-J

上記教育終了証



T-1A練習機
 芦屋基地で教官をされていたとのことです。
 芦屋基地では1962年9月以降T-1の教育が行われています。

撮影1963年頃 芦屋基地 教官時代 T-1後席 


撮影時期不明  芦屋基地 05-5808号機 (1960年9月30日納入機体) 


撮影時期不明  15-5816号機 (1961年3月30日納入機体)


撮影時期不明  15-5822号機 (1961年6月2日納入機体)



撮影1964年頃  新田原基地 救難隊所属時代



撮影時期不明 T-6 新田原基地 52-0018 1955年2月〜1964年6月の間航空自衛隊で運用
 (新田原基地滑走路は詳しくはR/W 10、28です。)


52-0053、72-0132、52-0091


72-0132、52-0130、他1機は不明


72-0131、52-0052 (拡大無し)


T-6飛行風景


撮影時期不明 T-6G 72-0176 (1955年11月12日〜1970年3月11日の間運用) (拡大無し)



1967年12月02日 MU-2 初号機 航空自衛隊へ引渡し 記事リンク 


1970年9月2日 MU-2S 03-3207号機機体トラブルで 滋賀県彦根市に墜落 殉職 記事リンク 
 当日の足取り
  1970年9月2日 10:08 新田原基地離陸 小松基地へ航法訓練飛行開始
            11:56 八尾空港着陸 給油&休憩
            13:40  八尾空港離陸 
            13:55頃 墜落 

  その他資料 リンク
    知られざる滋賀近現代史彦根自衛隊機墜落事故 記事
    航空自衛隊 航空救難団 記事




撮影1962年頃  岐阜基地勤務のころ S-hisaさん
 

遺品 航空自衛隊幹部制帽 


撮影時期不明 新田原基地 T-6G 72-0178  最終フライトを行った機体
 のちに169と機番が書き換えられています。 (拡大無し)




編集後記

 S-hisaさんから貴重なアルバム写真を提供いただき、第二次世界大戦から航空自衛隊までヒコーキ人生を歩まれてきたことが、当アルバムからよく判ります。
 戦後 保安隊の機体が布張りで、こんな機体で国を守れるのかという疑問を持たれていたことが写真に書き込まれたコメントから伝わってきます。
 航空自衛隊になってから先頭に立って新しい機体の導入にも携わりジェットパイロットとなって、戦闘機を操り、その後教官、救難隊パイロットへと色々な機体を操縦されてきました。
  残念ながらMU-2Sの不慮のエンジン故障で帰らぬ人になってしまったことが残念です。
 S-hisaさんも10歳で父親を亡くし色々ご苦労をされたのではないかと思います。

 今回 ヒコーキ人生を公開頂き ヒコーキ雲としてもとてもありがたく思っています。
 公開まで時間が掛かってしまいましたが、一度に公開させていただきました。
 ご意見、ご感想がありましたらお知らせ頂けると幸いです。 S-hisaさんにも連絡させていただきますので宜しくお願いします。 (イガテック)
 



  編集掲載日 : 2022年12月25日 

   WEB編集  :  イガテック     

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