HOME・SITEMAP 日替わりメモ 茨城県目次
 
 
航空歴史館いしぶみ

 

武石浩玻銅像

 

A3001-03 茨城県水戸市三の丸 水戸第一高等学校内
        Takeish Monument, iMito Daiich High School, Mito City, Ibaraki Prefecture  
                 
◎ 日本最初の飛行士の碑 武石浩玻銅像

2015年

撮影2015/03/11 小規模板工房

 東日本大震災より4年目の3月11日、水戸市立博物館で行われている「あこがれの空へ−民間パイロットの先駆け・武石浩玻ー」展に行ってきました。そこで水戸第一高等学校の武石浩玻像が震災の際に破損され、修復後校内の別の場所で再建された ことを知り、早速出向いて撮影してきました。
 以前の場所よりもかなり門近くに移され、校外者が城跡見物のついでに撮影する分には楽になりました。戦時中の金属献納をも免れた武石像ですが、建立100年を前にさすがに地震にはかなわず崩壊。母校の大先輩に敬意を評してすぐに再建したんでしょうね。台座から降ろされ、校舎裏の地面に直接建てられています。台座にはまっていた銘文は像の右隣に設置されています。


 

2015/03/14日替わりメモ 
〇 日本最初の飛行士の碑 武石浩玻銅像

 東日本大震災後の混乱もさめやらぬ時期に早くも(半年後に)銅像を復旧したという水戸の人々、特に旧制水戸一中出身の人々の誇り高き気概(プライド)が波動のように伝わってきます。

 武石浩玻の青雲の志しは、吉田松蔭の狂気に通じるところがあります。
 全国を旅した松蔭は水戸にも約1ヶ月逗留しています。皇国日本を建て直すには世界の情勢を探索すべしと、自ら密偵となり亜米利加国を調べてきたいとする狂気は、藤田東湖など弘道館の尊王思想からも影響を受けていたと思います。
 
目前の卒業式を蹴って横浜へ走りアメリカへ渡った武石浩玻もやはり狂気の人ではなかったでしょうか。

 日本の歴史を都合のいいように改ざんして自国民を煽っている習だの朴だのと、これに迎合して日本を貶めようと躍起になっている村山だの鳩山だの二階だのに惑わされない精神力を水戸の人々に学びたいものであります。
 


「あこがれの空へ−民間パイロットの先駆け・武石浩玻ー」展 水戸市立博物館(展示品撮影禁止) 



 京都の飛行神社の所有する武石の白鳩号の操縦輪と前輪が、今回作ったと思しき前部フレームレプリカにセットされて展示されている他、武石家や朝日新聞の記事などで浩玻の生涯や最後の飛行、彼に続いた米国帰り飛行家たち等について説明してありました。

 

2009年

  ライト兄弟の初飛行があった同じ年に、青雲の志を抱いてアメリカへ渡った武石浩玻青年は、 ユタ州立大学予科に学び、邦字新聞を発行したりしていましたが、1910年初頭にロスアンゼルス近くで行われた飛行大会を見て飛行機のとりこになり、カーチス飛行学校で操縦を学び、1913年4月7日にカーチス複葉機を携えて帰朝しました。

 1ヶ月後の5月4日に大阪朝日新聞主催の神戸〜大阪〜京都連絡飛行において、最後の京都深草練兵場へ着陸しようとして墜落し、30歳の惜しまれる生涯を閉じました。

 このたいへん立派な立像は、彼が在籍した県立水戸一中(現水戸一高)に建立され、その除幕式には県知事以下水戸の名士らが勢ぞろいで参列したそうです。

● 文章は航空と文化第98号から要約 写真は(財)日本航空協会提供 図書室44参照

日替わりメモ2009/01/24

○ 武石浩玻銅像 水戸っぽの象徴か

 水戸第一高等学校の事務室に断って木立の中にあるこの立像に接した日本航空協会文化情報室の川畑さんは、「少なくとも航空関連の人物像としては最上級の一つでしょう」と書いています。なるほど堂々たるものです。他県のものが「水戸っぽの象徴みたいな」などというと、茨城の人に叱られるかもしれませんが、そんな感じを受けます。 戦時中の金属献納を免れているのも水戸っぽ達が筋を通したのかもしれません。

 本邦きっての開国反対論者であった烈公徳川斉昭を生んだ土地柄ですが、その斉昭をして西洋の文物には非常に興味を持っていたといわれますので、武石が水戸一中の卒業式を棒にふってまで横浜へ走り、外国航路の船員になったのもうなずけるところです。思い立ったら一途にというのが水戸っぽなのでしょうか。

 カーチス単葉機をもって帰国し、兵庫県鳴尾で飛行した後に、日本特に関西の悪気流に触れ、「山と海からの渦のような気流に巻き込まれたため45度の角度をもって競馬場に降下云々」と、こういうことに挑戦する冒険的な意義を自ら記しています。よって、その最後も、目的の京都の練兵場まで達しながら、目撃談では何故か急降下し地面に激突したとありますので、水戸っぽが仇になったような気がしないでもありません。台座の基部に「日本最初の飛行士の碑」とあるそうですが、正しくは「日本最初の民間飛行犠牲者の碑」だと思うのですが、水戸っぽが犠牲という字を嫌ったのでしょうね。

 しかし、黎明期の飛行家たちは、すべてが冒険者であったわけですから、その気概こそが航空日本の夜明けを告げたのであり、武石浩玻もその中に列する一人ということであります。