ライト兄弟の初飛行があった同じ年に、青雲の志を抱いてアメリカへ渡った武石浩玻青年は、
ユタ州立大学予科に学び、邦字新聞を発行したりしていましたが、1910年初頭にロスアンゼルス近くで行われた飛行大会を見て飛行機のとりこになり、カーチス飛行学校で操縦を学び、1913年4月7日にカーチス複葉機を携えて帰朝しました。
1ヶ月後の5月4日に大阪朝日新聞主催の神戸〜大阪〜京都連絡飛行において、最後の京都深草練兵場へ着陸しようとして墜落し、30歳の惜しまれる生涯を閉じました。
このたいへん立派な立像は、彼が在籍した県立水戸一中(現水戸一高)に建立され、その除幕式には県知事以下水戸の名士らが勢ぞろいで参列したそうです。
● 文章は航空と文化第98号から要約 写真は(財)日本航空協会提供 図書室44参照
○ 武石浩玻銅像 水戸っぽの象徴か
水戸第一高等学校の事務室に断って木立の中にあるこの立像に接した日本航空協会文化情報室の川畑さんは、「少なくとも航空関連の人物像としては最上級の一つでしょう」と書いています。なるほど堂々たるものです。他県のものが「水戸っぽの象徴みたいな」などというと、茨城の人に叱られるかもしれませんが、そんな感じを受けます。
戦時中の金属献納を免れているのも水戸っぽ達が筋を通したのかもしれません。
本邦きっての開国反対論者であった烈公徳川斉昭を生んだ土地柄ですが、その斉昭をして西洋の文物には非常に興味を持っていたといわれますので、武石が水戸一中の卒業式を棒にふってまで横浜へ走り、外国航路の船員になったのもうなずけるところです。思い立ったら一途にというのが水戸っぽなのでしょうか。
カーチス単葉機をもって帰国し、兵庫県鳴尾で飛行した後に、日本特に関西の悪気流に触れ、「山と海からの渦のような気流に巻き込まれたため45度の角度をもって競馬場に降下云々」と、こういうことに挑戦する冒険的な意義を自ら記しています。よって、その最後も、目的の京都の練兵場まで達しながら、目撃談では何故か急降下し地面に激突したとありますので、水戸っぽが仇になったような気がしないでもありません。台座の基部に「日本最初の飛行士の碑」とあるそうですが、正しくは「日本最初の民間飛行犠牲者の碑」だと思うのですが、水戸っぽが犠牲という字を嫌ったのでしょうね。
しかし、黎明期の飛行家たちは、すべてが冒険者であったわけですから、その気概こそが航空日本の夜明けを告げたのであり、武石浩玻もその中に列する一人ということであります。