航空歴史館いしぶみ
木村 徳田 両中尉殉職之處石碑 犠牲者記念塔
A3326-13 埼玉県所沢市 Kimura and Tokuda Monument, Tokorozawa City, Saitam Prefecture |
◎ 木村 徳田 両中尉殉職之處石碑 2019年秋のお彼岸
2019年お盆
2018年
2017年
2016年
2006年
2004年 墜落地点の石
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2018/08/18 徳田金一中尉について 古谷眞之助さんから
HSC-Mさんのような奇特な方がおられることを徳田中尉出身地の山口県民としてうれしく思います。以下は、年表・山口県航空史からの抜粋です。
1913/3/28
山口県吉敷郡宮野村( 山口市宮野 )出身、陸軍歩兵中尉徳田金一は、所沢から青山練兵場への帝都訪問飛行に参加の帰り、所沢上空付近、高度約300mで突風に遭遇し、搭乗したブレリオ機の左翼が折れ、墜落死亡した。同乗木村鈴四郎中尉とともに、わが国初の航空犠牲者、享年29歳。
氏は宮野村の平民徳田荘次郎の長男で、所沢町に菊枝夫人と一男一女があった。1905年7月15日陸軍士官候補生、1907年5月31日士官学校卒業、同年12月陸軍歩兵少尉、1910年11月30日、中尉任官、45年、抜擢されて飛行機研究隊に編入。この墜落の模様はたまたま所沢にいた滋野男爵によって目撃され、氏は東京朝日に談話を寄せている。なお、同中尉は往路は徳川式( アンリファルマン )に搭乗し、帰路ブレリオ機に乗り換えたもの。4月4日、青山墓地にて葬儀が挙行された。
なお、徳田中尉の長男晃一は、その後山口県人軍人井上幾太郎が後見人となって東京帝国大学航空科を卒業して一時航空技術中尉となり、さらに川西航空機・設計研究係に勤務。2式飛行艇、紫電、紫電改の研究に携わった。戦後はPS-1、US-1飛行艇の研究開発に尽力して新明和工業の航空機部門の技師長。1991年11月、恩師・菊原静男氏の後を追うように亡くなった。徳田中尉の経歴
山口県吉敷郡宮野村平民徳田荘次郎の長男にして妻女菊枝(22)との間に長女淑子3歳、長男晃一2歳などあり。また、確かかどうか定かではないが、菊枝夫人は同中尉の搭乗するブレリオ機が墜落する瞬間を見たと報じている。なお、墜落原因は、日本製の張線の左翼への挿入点が離脱したものと見られている。徳川好敏大尉( 最終は中将 )はこの事故の模様を遭難の顛末として、以下のようにその著書の中で語っている。冒頭は公式の記録と思われ、カタカナ交じりの報告書で、翼が折れて螺旋降下していく略図も付してある。「一、 三月二十八日午前十一時三十六分、ブレリオ式飛行機ハ、砲兵中尉木村鈴四郎ノ操縦ニヨリ、歩兵中尉徳田金一之ニ同乗シ、青山練兵場ヲ出発セリ。当時、地上風向南南東、風速約六米突ニシテ、上層ハ方向不安定ノ強風アリテ、操縦困難ナリシガ、木村中尉ノ熟練ナル操縦ニ依リ勇敢ニ之ヲ突破シ、練兵場内ヲ一周ノ後、所沢ニ向ヒ飛行セリ。
「二、 所沢飛行場ヨリ観望セルニ、該飛行機ハ午前十一時五十分、所沢ノ東方約三十米突ノ所ニ現ハレ、西北ノ方ノ針路ヲ取リテ飛行シ、午前十一時五十九分、飛行場ノ東北方約一、000米突( 本居神社の西北約三一0米突 )ノ距離ニ達セリ( 時ニ地上ハ南南東風、風速約六米 )。此時、飛行機ハ南西方ニ向ヒ、左旋回ヲナシ、全ク側方ヨリ風ヲ受クルニ至リ、其瞬間、左翼面ハ急激ナル突風ニ襲ハレタルノ状況ヲ呈シ、忽チ上方向ニ撓折シ、為ニ木村中尉ノ熟練ナル操縦モ施スニ由ナク、機体ハ回転シテ背部ヲ下ニシ再転シテ前頭部ヲ下方ニ向ケテ垂直ニ降下ヲ始メ、此間左翼ノ一部離脱シ急転直下、其速度ヲ激増シ、弾丸ノ如ク地面ニ墜落セリ。
「三、 飛行場ヨリハ直ニ自動車ニ依リ救護員ヲ現場ニ派遣セシモ両中尉共既ニ絶命シアリ。致命ノ原因ト認ムベキモノハ、木村中尉ハ頭蓋骨ノ複雑骨折、徳田中尉ハ脳及肺ノ震盪症ナリ。
「四、 飛行機ノ機体及翼ハ数個ニ分離挫折シ其形態ヲ失シ、発動機ハ約三十米突地中ニ突入シアリタリ。
「五、 墜落ノ状況及地点次ノ如シ( 図略 )
なお、3月30日付け東京朝日新聞には与謝野晶子の以下の二首が掲載されている。
この二人新しき世の死ぬ道を教ふることす誰か及ばむ
青空を名残のものと大らかに見給へ親も悲しき妻も
更 当航空機事故について「我が国初の空の犠牲者・徳田金一中尉について」というエッセイ(調査報告)を古谷眞之助氏より頂きました。とても詳しく調査されていますのでご一読いただければと思います。リンク (2020/6/6)