日野大尉は、東京牛込五軒町の林田という人の全面的な協力で一号機を製作し、明治43年3月18日に戸山が原で飛行に挑戦しました。結果は失敗でしたが、次に挑戦した奈良原式1号機に先立つこと半年前でした。
日野大尉が制作したエンジンの詳細は残っていませんが、後に津田沼の伊藤飛行機研究所にあったのを中正夫さんが見ており、その記憶では水冷式25馬力、2ストロークの吸入・掃氣式で回転数は1000rpmくらいだったとのことです。航空情報1959年4月号に中さんが
エンジンのスケッチを描いています。
戸山が原のことを徳川好敏氏は「わずか200mの射撃場に大勢の見物人が出て混雑し、思うような滑走もできなかったため」とかばっています。その1年後の明治43年4月11日日野、徳川両大尉は航空知識を学ぶためにヨーロッパへ向けて出発したのです。
私は、海軍の中島知久平、陸軍の日野熊蔵を先見的航空技術者として見ていますが、飛行機一筋に突き進んだ中島に比べると、日野は
陸軍軍人でありながら孫文の革命を支援したりする自在な発想をする人物で、そのためか初飛行後もやや右往左往的なところがあって歴史家から正当に評価されていません。
一例 = 日本航空協会編纂の日本航空史年表には奈良原男爵の戸山ケ原での滑走は書いてありますが、なぜか日野式一号機については一言も触れてい
ない。
林田商会の建物などの痕跡ははもちろん無いようですが、ここに国産飛行機発祥の地の看板を目にしてわが意を得たりです。
佐伯記(関連 図書室30 日野熊蔵伝参照 )