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図書室 掲載2006/11/29

評 佐伯邦昭

 


 

 書名 改訂版 日野熊蔵伝
     日本初のパイロット


 著者 渋谷 敦

 発行 [初版発行 昭和52年1月15日]
     [再版発行 昭和53年8月20日]
     
 今回改訂版 平成18年11月3日
 
 発売 たまきな出版舎
     865-0126 熊本県玉名郡和水町前原451
     電話FAX 0986-86-4213

 定価 2000円+税

 

 まずもって、30年以上にわたって日野熊蔵氏の真実を追い求めている著者の執念に驚嘆します。

 初版と再版以降に発見した新たな史資料や、日野熊蔵氏顕彰の諸行事などを加えて、著者が「長かった日野熊蔵氏との恐らく最後のかかわりになるだろう」(改訂版後記)と言っている集大成版を手にして、心から畏敬の念を禁じを得ません。

 副題の「日本初のパイロット」という表記は、徳川好敏氏との対比で、木村秀政氏その他航空作家あたりから不当な扱いを受けていた日野熊蔵氏の初飛行を徹底的に掘り起こして、誤りを正したいという気持ちの現われだと解します。

 全339ページ中の約100ページが明治43年12月の日本初飛行前後の記述に割かれているのは、その意味で当然のことです。しかし、そこだけの観察では、実は何もわからないのであって不当な扱いを受ける背景を理解するためには、出生から死亡までの生涯を丹念に洗って行ってこそ真実に迫りうるわけです。

 筆者は、日野氏と同郷の熊本人ですから、郷土の誇りとして日野氏を世に知らしめるという目的もあるとは思いますが、細い糸を手繰っての関係者のインタビュー、厄介な文通の繰り返し、各地の図書館や旧家を訪ねての資料発掘など、驚くべきエネルギーを費やし、しかもその史資料を惜しげもなく誌面に掲載して 熊蔵の全ボーイングプを明らかにしています。います。一工業高等学校の教師として、よくもまあここまでできたものです。

 その点、航空史家との評価を受けて満足していらっしゃる平木國男先生が新聞などの二次資料を主材料とし、しかも助手に当らせて、大して確認もせずに執筆されているのとは大違いの本物の航空史(人間史)であることを保証いたします。

 

 さて、本書によって日野熊蔵氏の波乱に富んだ生涯が明らかになりました。徳川好敏氏との関係で言えば、祖父の代に恥辱があり、その汚名をそそぐという重荷を背負っていたり、臨時軍用気球研究会からヨーロッパに派遣されたこと、代々木原での初飛行に挑戦したことが同じ境遇や行動として既に知られているとおりです。

 徳川氏は、以後大東亜戦争終結まで陸軍軍人としてまっとうな道を歩んでいますが、日野氏は陸軍軍人でありながら、独自の発明に没頭したり、孫文の革命を支援したり、莫大な借金を背負ったりして、それが原因かどうか左遷されたり、予備役に編入されたりで、遂には、萱場製作所の社長に救われるといった右往左往の後半生を送ります。

 とはいうものの、航空機、銃器、自動車、内燃機関などの発明工夫の意欲は死ぬまで衰えず、大量の特許を残していますし、若い時からの日本の運命と軍事力かくあるべしという諸論文、敗戦に当って国内産業の再建策を提言するなどの先見の明は、常人に非ずの感をますます深くします。

 

 そこで私は、陸軍における日野熊蔵氏を、海軍における中島知久平氏と対比させざるを得ません。中島知久平氏についても、群馬大学で教鞭をとっていた高橋泰隆さんが「軍人、飛行機王、大臣の三つを生きた男 中島知久平」(2003年刊)を著しています。

 中島氏も臨時軍用気球研究会の委員として飛行機研究の道に入りますが、後に海軍を退職し民間人として航空機生産を志します。彼は、中島航空機株式会社オーナーとして大成し、大臣にまで登りつめました。

 海軍退職の時に、航空機を官営で作っていたら、設計-審議-予算案-帝国議会承認等々で2年もかかるが、民間なら4ヶ月だと喝破して野に下ったところの潔さが、日野氏にもあったならと非常に惜しまれます。陸軍を追われるのでなく、みずから退路を断って航空機研究の道に進んでいたらという意味においてです。

 しかし、歴史はそうなりませんでした。日野氏は自動拳銃を世界に先駆けて発明したり、バイオリン演奏や泰西名画を楽しんだり、故郷人吉の縁で尋ねてくる人物を見境なく饗応したりする、多才というのか多彩というのか、理解に苦しむところがあります。その才気煥発こそが、日本の航空発展に関して大いなる損失であったと言わざるを得ません。

 日野氏と中島氏に共通するところ
 常に金に不自由していました。日野氏は妻子のために、中島氏は弟らの学資や生活費のために。
 
 日野氏と中島氏に共通しないところ
 陸軍と海軍、片や色里にはあまり縁がなく、片や精力旺盛で晩年に至るも新宿に妾宅を持っていたこと。(
もちろんそんなことはどちらの本にも書いてはありませんよ。)

 最後に日野熊蔵伝に戻りまして、多くの史資料が掲載されている中で、画竜点睛を欠くものがあるので、ここで航空史探検博物館東京都A3670のページを付記しておきます。

◎ 国産飛行機発祥の地碑 撮影2005/06/05 出展:ogurenko

 日野大尉は、東京牛込五軒町の林田という人の全面的な協力で一号機を製作し、明治43年3月18日に戸山ケ原で飛行に挑戦しました。結果は失敗でしたが、次に挑戦した奈良原式1号機に先立つこと半年前でした。

 日野大尉が制作したエンジンの詳細は残っていませんが、後に津田沼の伊藤飛行機研究所にあったのを中正夫さんが見ており、その記憶では水冷式25馬力、2ストロークの吸入・掃氣式で回転数は1000rpmくらいだったとのことです。航空情報1959年4月号に中さんが エンジンのスケッチを描いています。

 戸山ケ原のことを徳川好敏氏は「わずか200mの射撃場に大勢の見物人が出て混雑し、思うような滑走もできなかったため」とかばっています。その1年後の明治43年4月11日日野、徳川両大尉は航空知識を学ぶためにヨーロッパへ向けて出発したのです。

 私は、海軍の中島知久平、陸軍の日野熊蔵を先見的航空技術者として見ていますが、飛行機一筋に突き進んだ中島に比べると、日野は 陸軍軍人でありながら孫文の革命を支援したりする自在な発想をする人物で、そのためか初飛行後もやや右往左往的なところがあって歴史家から正当に評価されていません。

 一例 = 日本航空協会編纂の日本航空史年表には奈良原男爵の戸山ケ原での滑走は書いてありますが、なぜか日野式一号機については一言も触れてい ない。

 林田商会の建物などの痕跡ははもちろん無いようですが、ここに国産飛行機発祥の地の看板を目にしてわが意を得たりです。                             佐伯邦昭記

 

その他の日野熊蔵大尉に関する国内の物件
・  日野熊蔵生誕の地碑 、旧宝庫蔵 熊本県人吉市 
・  日野式2号機 日本工業大学工業技術博物館 埼玉県宮代町  


 

著者 渋谷 敦さんからのお手紙

 

 突然お便りします。私は「日野熊蔵伝」の著者渋谷敦でございます。出版元の平田稔さんからインターネット航空雑誌ヒコーキ雲掲載の書評コピーが届き拝見しました。
 実に綿密なそして暖かい書評をいただき有難うございます。お陰様で勇気百倍です。こんな詳しい読み方、理解を示して下さった方は、これまで経験もなく著者冥利に尽きます。

 昭和 30〜40年ごろ、日野さんのことを語る人はほとんどなくて、わずかに稲垣足穂氏あたりが取り上げる位でした。しかし、それも変人の戯言みたいな扱いで、私もやっきに木村秀政教授に喰らいついたり、徳川閣下にも随分失礼な言動を敢えてした向きがあります。忸怩たる想いです。 

 日野・徳川両氏が挙って競って日本の空を開拓したのだと言うことで、私も納得し、世間も了解してくれたようで、これで日本航空100年を迎えられることを嬉しく存じます。

 いただいた書評末尾に新宿区指定史跡のことが出ておりますが、これはp324の昭和五十四年のところに書いております。
 実は、この指定に当たって、新宿区の文化財調査員田中一男氏から丹念な問い合わせがあり、私も日野熊蔵伝旧版や写真を送り、林田好蔵氏の孫哲夫氏とも連絡をとって林田商会の正確な資料も届けて、その結果史跡指定が実現した経緯があります。この点もどこかに書いておけばよかったなと今にして思います。お役所の田中さんは実に慎重な配慮の方でした。
(注1)

 戸山ケ原のことで徳川さんがかばって下さったという記事、これは何に書いてありましょうか,出典を教えてください。(注2)

 中正夫さんのお名前なつかしく伺いました。私も生前お目にかかって取材させてもらった覚えがあります。高橋泰隆氏の「中島知久平」は早速手配して読みたいと存じます。

 改めてご親切な暖かい書評に御礼申し上げます。次第に寒くなります。どうぞお体を大切にお励みくださいますよう念じ上げております。乱文お許しください。御礼まで

  十二月二日                                渋谷  敦

  佐伯邦昭様 侍史 

(注1)
 
大変失礼しました。付録日野熊蔵略年譜の324ページに上のとおり記載されていました。渋谷さんのお手紙で知らせていただき、気付かなかったことをお詫びします。他の顕彰碑建立などと同じ扱いで写真入で経緯等を詳説していただけば画竜点睛を欠くことにならなかったと思います。           
 なお、年譜は、昭和五十四年となっていますが、掲示板上の指定年月日は昭和六十年十二月六日であり、更にこの掲示が立てられたのは平成三年十一月となっています。

(注2)
 
徳川好敏著 日本航空事始 p44に書いておられます。一応同情的な見方ではないでしょうか。
 なお、同ページにはこの日野式飛行機が正式に臨時軍用気球研究会の事業として製作されたこと、その研究会記録「三月 戸山ケ原射撃場に於て試験を行いたる結果、機の安定及び各部の機能概ね良好なりしと雖も、未だ以って飛揚するに至らざりき」と書かれていることが紹介されています。これについて日付のあいまいなところはともかくとして、日本航空協会の公刊航空史に一行も記載してないのは大きな手落ちであると考えています。