山口県航空史研究会 古谷眞之助著『山口県の航空史あれこれ』から抜粋
(書評 山口県の航空史あれこれ 参照)
つるぎ号、県都山口を飛ぶ
ライト兄弟の初飛行から13年後の大正5年(1916)9月17日午前10時30分、山口市宮野のの桜島錬兵場(現陸上自衛隊山口駐屯地演習場)から井上騎兵中尉の操縦する「つるぎ号」が飛び立った。この飛行は、残念ながら県下初の動力飛行ではなく県下第三番目の飛行たったが、国民飛行会(後の帝国飛行協会)が主催したという点で、県下初の本格的飛行会だったと言ってよいだろう。
つるぎ号を製作したのは、東京で耳鼻咽喉科を開業していた岸一太博士で、彼はドイツ留学学時代に金属合金技術も学び、医師の傍ら富山県の剣山にモリブデンの鉱脈を発見し、これを事業化して熱に強いエンジンを製作した。と言っても、エンジン自体を開発したのではなく、エンジンはフランスのルノー式70馬力のコピーであり、これの部品のみを強化したのである。
当時エンジンの信頼性は非常に低く、新聞記事には「寿命は90日くらい」とある。現在のエンジンのオーバーホール間隔は飛行時間数で決められており、この90日という寿命の計算方法はいかにも漠然としたものだが、いずれにせよ極端に短いものだった。
特に摩擦の生じる部品の強度に弱点があったのは容易に推測できる。その部分に高い強度を持つモリブデン合金を使用して、一気にオーバーホール時間を延長させたものだったのだろう。機体価格は当時のお金で2万数千円、エンジン価格は1万3千円だったと言うから、エンジンがいかに高価なものであったが分かる。
ついで岸博士は機体の製作にも取り掛かり、柳井市出身の宗里悦太郎を主任設計者として、岸式第1つるぎ号を完成した。初飛行は山口での飛行のわずか2ヶ月前、大正5年(1916)7月1日だった。彼はそれ以降、第5つるぎ号まで製作するが、もちろん機体の名前は剣山に由来する。
ややゴシップめくが、岸博士の夫人はドイツ人で、彼女の存在年彼が飛行界から身を引く一因ともなっているのだが、本題とは離れるので、ここでは深くは触れない。
つるぎ号の主任設計者宗里は、その後神奈川、千葉で第一飛行学校を主宰し、多くパイロツトを育てた。特に女性パイロットを育成したことで知られている。かつてNHKのドラマに「雲のじゅうたん」という番組があったが、あの主人公は木部シゲノ、及位野衣(ノゾイヤエ)の両女性パイロットをモデルにしていると言われており、いずれも宗里の教え子である。
彼の生家と墓は、柳井市伊保庄福井に現存している。
(中略)
さて、岸博士は飛行機を完成させると、国民飛行会に機体の供与を申し出た。発足まもなく、まだ専用の機体を保有していない国民飛行会はこれに飛びついた。飛行機普及に情熱を燃やす長岡外史会長は、直ちに各地での飛行大会を計画した。その頃すでに民間のパイロットたちが有料で飛行大会を各地で開催してい
たから、彼らの開催地は、まだ普及の進んでいない山陰地方を皮切りに開始された。松江、米子、浜田で実施し、それから山口入りしている。移送は基本的に鉄道に拠ったが、浜田からは機体を分解して荷馬車12台で夜間、山口に運び込んだ。
長岡にしてみれば、県下での飛行大会は、まず県都山口、続いて自身の出身地萩、そして生誕地下松と、故郷に錦を飾る意味も当然あったと思われる。事実、県都山口での開催時には夫人を同伴してもいる。しかし、彼が切望した下松での飛行大会は滑走路の問題から断念せざるを得なかった。(佐伯注 山口市宮野のの桜島錬兵場での飛行は成功)
新聞記事、その他資料によれば、第1つるぎ号の諸元は以下の通りであるが(一部推定)、もともとこの機体は、純国産機とはいえフランスのモーリス・ファルマン機のコピーであり、これに若干の改良を加えたに過ぎない。ただし、我が国航空黎明期の飛行機は、ほとんどが直接輸入機かコピー機であった。