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航空歴史館 立飛R-53とR-HMの経緯と復元 [6]  立飛ホールディングスの残念な姿勢

     

2013年6月28日記  佐伯邦昭  (これを発表することは財務広報企画部に通知してあります)

 

 R-HMとR-53の復元は、航空産業遺産の継承という意味で、航空ファンにとっては富士山の世界遺産登録にも匹敵するほどのニュースでした。 立飛企業グループが、航空機部品などの下請け生産と絶縁し、ディベロッパーとして再出発する記念の事業だということです。

 そこで立川飛行機の歴史は

1924(大正13)年

東京月島に株式会社石川島飛行機製作所創立

1926(大正15)年

立川飛行場隣地に移転

1928(昭和3)年

組立工場建設

1930(昭和5)年以降

八八式偵察機、同軽爆撃機、九一式戦闘機など生産

1934(昭和9)年以降

陸軍小型患者輸送機愛国号、九五式練習機など生産
陸軍練習機の大手メーカーとなる

1936(昭和11)年

商号を立川飛行機株式会社と改名  マークはにゃんきちさん提供

1936(昭和11)年以降

九七式輸送機、九七式戦闘機を生産

1938(昭和13)年以降

九八式直協機、九九式高等練習機を生産 一式戦隼を受託生産

1940(昭和15)年以降

A-26 長距離機製作、一式双発高等練習機など生産

1945(昭和20)年

排気タービン付き戦闘機キ-94を試作
以上全生産機数 9,827機(グライダーを除く) :日本航空機総集立川篇

 

1945(昭和20)年

終戦により事業閉鎖 工場は占領軍が接収

1949(昭和24)年

第二会社 新立川飛行機株式会社設立 旧会社は解散

1952(昭和27)年

戦後国産第一号機 R-52 JA3017を製作

1953(昭和28)年

R-53 JA3070を製作

1954(昭和29)年

R-HM JA3094を製作

1955(昭和30)年

航空機の生産から手を引き、工場建物の賃貸事業に変換

1956(昭和31)年

石川島播磨重工業と提携し、下請け開始

2012(平成24)年

立飛ホールディングス設立  会社の公式挨拶

  立飛グループの前身は 大正13年に軍用機製造の目的で設立され 終戦までの製造機数は1万機弱に上り 従業員数が4万2千人余を数えた時期もありました 製造機の中には 陸軍飛行練習機「赤トンボ」や戦闘機「隼」などの名機と称されるものも数多くありました  現在は不動産賃貸業中心のグループとなっております

 平成24年11月1日の当グループの創立88周年記念日にグループ内の経営統合が完了し不動産の一体開発(その第一弾としての多摩都市モノレール立飛駅南東側への大型商業施設の誘致)の検討 交渉を開始したことを同月13日に公表いたしました

2013(平成25)年

R-HMとR-53の復元作業実施

 ざっと、以上のような経緯ですが、不動産業やディベロッパーに変身した今も新社名に「飛」の字を残し、公式挨拶の中に必ず飛行機のことが語られているのは、同社がヒコーキと切っても切れない縁にあることを如実に示しています。

 よって、今回のR-HMとR-53の作業は、同社の濃い歴史を実機復元によって後世に引き継ぐもので、このような作業には欠かせない事前の調査や資料の収集が行われ、十分に検討されて、往時の技術者の汗と油を体現しながら行われているものと想像していました。

 しかし、その期待は裏切られました。次の質問に対する回答が端的にそれを.示しています。.

6月19日 佐伯からメール

思いつくままにR-HMへの質問を箇条書きします。作業現場のお昼休みにでも検討して頂いて、答えられるものだけ答えて頂けば結構です。

添付した写真の番号順

@    この計器の名前に「豫」とあるが、何の計器か  A    この縦のレバーは何の役目  B    電源スイッチか   C  DE それぞれの役目   F ??  G 何のレバー   H 何のレバー  I 何のノブ  J 何のレバー  K ??   L 何のノブ  M 何のノブ   N 何のノブ  O ??

  

添付写真以外で

A  操縦輪の操縦システムはどういう構造か?(主翼角変化リンクは?、ラダー・ケーブルは?)
B
  旋回するにはバンクが必要だが、バンクは如何にとるのか?
   主翼角変化とラダーによる横滑りとの関係は?
C
  燃料システムは如何に?(タンク位置とパイピングは?燃料ポンプの有無)
D
  バッテリーの電圧とバッテリー位置は?
E
  車輪ブレーキは見たところディスクブレーキか?
F
  総飛行時間は?

 驚くべき回答

上記メールに対する回答 

佐伯邦昭 様

 ご質問のありました件につきまして、確認をいたしましたが、@の質問のみ、「燃圧計」であると確認できましたので、ご連絡いたします。

 その他のご質問につきましては、回答に結びつくような資料が無く、また、スタッフは外観の修復に限定して作業を行っており、飛行機に関する専門知識を有していない状況でありますので、ご了承いただきたく、宜しくお願いいたします。

 

【結論】

 要すれば、会社としては、外観さえ60年前の状態になれば、その中身はどうでもいいという方針なのです。

 ここに至るまでに、会社が外部の見学に難色を示し、修復中の写真撮影を拒否し、担当者とのメール接触も拒否してきた理由がこの回答文ではっきりしました。中身を知られると困るのです。

 燃料タンクの位置すら答えられないというような低次元の対応では、名誉ある立飛航空機製作の歴史を継承しているという評価は差し控えざるを得ません。

 

元気なころの新立川の1ページ広告

某航空関係者から私が貰った手紙(不要部分を除いて修整)

  あの頃の新立川は、三菱や富士に遅れじと社長や望月忠夫技師らも燃えていたのですね。 また、多くの航空専門家も注目する新立川の航空機でした。

 11年前に、田舎の名も知らぬ私の電話に誠実に対応し、快く見学を許してくれた総務課の山本さんは、製作者に会いたいという私の更なる希望に応じて、望月忠夫先輩の自宅を教えてくれました。残念ながら病床にあって接触はできませんでしたが、山本さんには今でも感謝しています。

 今年、訪れた時に見せて貰ったR-HMの古い羽布の縫い目はものすごく丁寧な仕事であり、復元に当たっても苦心したというような感じを受けたので、恐らく、現場の方々は、できるだけ科学の目で見て正しく復元したいというお気持ちは抱いておられるだろうと想像します。

  知識を持っている人が手を差し伸べたなら、素直に受けるべきだし、より積極的に対応していくのが、せっかく作業を任せられた人の人生のこやしにもなるし、復元機そのものが立派な航空産業遺産として科学的価値を高めていくでしょう。

 陸軍の御用達航空会社として立川に広大な土地を持ち、今、ディベロッパーとして それらを立川市の発展のために商業施設などに活用しようとしているのは自由ですが、航空機復元についても、正しい航空史を伝承するための真摯な科学的取り組みであってほしかったのです。

 そうでないと、立川駅にあるこの立派な航空モニュメントが泣きますよ。

 言い過ぎの点は、ご容赦ください。反論があれば謙虚にお聞きします。

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