新立川R-HMは1965年3月10日に抹消登録され、その後東京都千代田区の交通博物館3階天井に吊り下げて展示された。
ここまではオ-ルドマニアのほとんどの方がご存知であるが、交通博物館によると1974年に所有者の新立川航空機株式会社へ返還したということで、どうもそのあたりから行方不明扱いになってしまったようである。新立川が航空機製作から撤退してしまったことも不明説の一因であろう。
私のR-HM探しのきっかけと経緯は次のとおりである。
2002年に岡山市の鷹取弘幸さんから私のホ-ムペ-ジあてに、1989年4月に新岡山空港開港一周年記念イベントに展示された時のR-HMの写真が届き、その消息を知らないかという質問が添えられていた。この岡山での展示は、交通博物館から新立川へ返されてから15年の後である。ひょっとするとその後も各地へ貸出されたりして、まだ新立川航空機社内に保管されているのではないだろうか。
一方で、会社のホ-ムペ-ジで調べると、新立川はIHI立体駐車場の下
請けと工場建物の賃貸しが主力営業で、いまや航空機とは名ばかりの企業である。失礼ながら古い機体を大切に保管してくれているかどうか疑わしいという気もする。
それでとにかく、正面から当たってみることにした。
2002年11月、所用で広島から上京する機会をとらえて、まず、新立川に電話を入れてみたのである。後から振り返るとたいへん運のいいことに、電話口にでた総務課の山本さんが理解のある方であった。
「あの-、昔お宅で作られたR-HMという飛行機が、どこにあるかご存知ないですか」
「ああ、それならうちにありますよ」
「えっ! ありますか。展示場のような所にあるのですか? 見せてもらうことはできますか」
「それは構いませんが、倉庫の中でシ-トを被せてあるから、中は見えないです」
「とにく現物を確認したいので、お邪魔して写眞を撮らせていただけますか」
「どうぞ」
というわけで、その後横浜市の茶谷昭雄さんと2人で訪問し、めでたくR-HMと対面した次第である。
機体の姿は写真で見ていただくとして、山本さんのお話しでは、岡山へ運んだ時には羽布がちょっとした衝撃でも破れる状態で、展示中の見張りが大変であったとのこと。それから10年以上経過した現在の状態は推して知るべしである。ただ、専用格納庫とも言えるような独立した建物内に胴体と主翼を分離してきちんと保存されていたことには感激であった。
山本さんの「もう1機ありますよ」というお誘いで、正門脇の車庫へ行き、R-53型練習機にも対面することができた。その昔この飛行機で練習をしたという方々が時折訪ねてくるそうであるが、自動車の後ろにブルーシートに包まれており、、翼は束ねて下に置き、胴体は骨組みだけの姿である。以前、某テレビ局が特番用にこれを撮影したときに1回だけ組み立てたのだが、残念ながら番組は放映されず、このときの写真も残っていないということだった。
いずれにせよ1機ずつしか生産されなかったR-HMとR-53の存在を曲がりなりにも確認したことで、日本航空史にささやかな貢献ができたと思っている。しかし問題は今後の保存や展示をどうするかである。
新立川には昔の事情を知る社員はほとんど居なくなり、今後の方針を協議する雰囲気もなく、放っておけば朽果てる運命にあることだけは確かである。
機体解説
第二次大戦敗戦国の日本は、1945年から1950年までは一切の航空関係が禁止された。しかし、1950年にGHQから「国内の航空運送事業の運営こ関する覚書」が発行され、まず民間航空の一部が活動を始めた。
そして1952年、航空法や航空機製造法が公布され、晴れて自前で航空機の製造ができるようになった。
戦前からの有数メーカーである「石川島飛行機製作所〜立川航空機」はこのとき「新立川航空機〜新立川航空機」として再スタ-トをした。
その新立川航空機が、戦後国産第1号機のR-52とその発展型R-53に続いて1954年9月に製作したのがR-HM「プ-」である。プ-はもともとフランス人アンリ・ミニエの設計で、原型機HM-10(17〜30HP)は1934年12月にフランスのパリで発表され、日本でも1935年に日本飛行機が25HP型(日飛NH-1「ひばり」)作ったが、特殊な形態で操縦も難しく、事故を起こして消えてしまった。
戦後、アンリ・ミニエはアルゼンチンやブラジルでHM-310型(120HP)を製作。そして新立川航空機がプ-を製作するのだが、当時は米軍ジ-プが多数目につく時代でもあり、ちょうど航空再開のこの時期に、若い人たちのために手軽に飛べる空のジ-プを作りたいと当時の社長が考えていたところ、アンリ・ミニエの新聞記事を見つけたことがその発端だった。またその目的は、戦後の長い航空空白期間があって世界の技術に遅れていること、世界は空のジ-プ時代に入っていることなどだったが、もうひとつ南米の未開発地に輸出ができるかもしれないということもあったようだ。
新立川航空で作ったプ-はR-HMと呼ばれ、1954年9月に完成し10月22日、立川基地において設計者アンリ・ミニエ操縦により初飛行を無事終えた。1954年9月23日の第2回航空祭には、東京江東区月島飛行場会場で完成間もないR-HMが地上展示されている。
本機の最大の特徴は主翼とすぐ後方にある大きな水平尾翼の外観もさることながら、操縦のラダ-作動は通常機と同じだがエルロン、エレベ-タ-の作動がないことだ。操縦輪は主翼、尾翼のタブによる翼の迎え角と傾き変動でエルロン、エレベ-タ-機能を果たすという変わった方式だった。
このため当初日的のW操縦しやすい空のジ-プ”と違って離着陸が難しい機体となった。当時プ-を操縦でできた人は有名な黒江保彦氏(隼、鐘馗で活躍、このころは富士航空操縦士、その後空自)しかいないと言われた。
筆者は偶然1955年夏に独特な飛行姿を目撃してい
るが、低空を軽々と何回も旋回していたことを今も思い出す。
しかし航空局はこの機体の構造および飛行安定性問題からか遂に最後まで耐空証明を発行せず、たった1機だけの製造に終り、機体は1955年11月にはリタイヤしてしまった。
その後だいぶ経ってから東京の交通博物館に貸し出しされたが、1974年以降、同館から姿を消していた。
R-HM諸元
乗員:並列2名、エンジン:コンチネンタルA90 90HP1基、全幅8m、全長5.08m、全高2m、プロペラ直径1.84m、自重350kg、全備重量660kg、最大速度170q/h、巡航速度140q/h、離陸速度60q/h、着陸速度50q/h、離陸距離300m、着陸距離300m、航続距離700km、製造1機
R-53の前身R-52こそ、戦後の栄えある国産第1号機であり、その発展型がR-53なのである。
まずR-52から書くと、1952年7月、航空機製造法が公布されると同時に、そのときを待っていた新立川航空機は、同年7月15日、ただちにR-52の設計を開始した。
しかし戦後の空白で新しいエンジンもなく手持ち材料はすべて戦時中からの残存品ばかりであった。そこで残存材料の中古エンジン「神風」星型130hpを使い、高翼パラソル型木金混用、羽布張り機体のR-52を完成させた。設計開始からわずか約2.5カ月後の9月28日であったが、戦前に前身の立川飛行機の作ったR-38をモデルとしたことも早い完成に寄与したと思われる。このようにして、どこよりも早い戦後国産第1号機、新立川航空機のR-52は製作されたのであった(製造1機)
しかし中古の「神風」エンジンは問題が多く、その後ライカミング130HPに換装され性能も上がり読売新聞社機として全日本学生航空連盟機、グライダー曳航機として玉川飛行場で飛んでいたが、1959年7月9日、エンジントラブルにより機体は大破してしまった。
このR-52を改良した機体がR-53で、1953年8月に完成した。R-53の機体外観はエンジン換装のため機首まわりの形が変わったほかにも細かい改修がある。しかし全体はR-52に近く、最初から車輪ブレ-キも装備された本機は、玉川飛行場で学生訓練機やグライダー曳航として飛んでいた。とくに本機は完成後学生の手で日本一周飛行を行ない、国産機R-53の名を高めた。
当時筆者の自宅は玉川飛行場に近く、バス停「飛行場入口」で降りては格納庫にあるR-53を見せてもらい、時には内緒で操縦席に座らせてもらった。
本機は一時航空大学にもあったようだが訓練に使われたのだろうか?1957年3月、新立川航空様に返還されて以降、一般には消息不明だった。
R-53諸元
乗員:タンデム2名、エンジン:1基シーラス・メジャ-V倒立直列155HP、全幅10.7m、全長7.55m、全備重量950s、最大速度200km/h、着陸速度78q/h、航続距離750km、製造1機
航空情報1953年8月号
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