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航空歴史館 立飛R-53とR-HMの経緯と復元

 

目 次

このページ [1] 立飛R-53練習機の経緯  完成直後の撮影と思われる写真
[2] 立飛R-HMの経緯 
[3] 往時の姿で保管されていた立飛の2機 航空ファン2004年4月号の記事
[5]  2013/05/28   取材写真  R-HMは復元完成
一般公開におけるR-HMのクローズアップ写真を追加
[6]  立飛ホールディングスの残念な姿勢
[7] 一般公開
[8] R-53のクローズアップ

協力 : HAWK、にがうり、新立川航空機(タチヒ企業、立飛ホールディングス)、航空情報編集部、航空ファン編集部、大野芳希、RBO、T67M、横川裕一、荒木克己、藤原 洋 、Jetjun、諏訪
まとめ : 佐伯邦昭

[1] 立飛R-53練習機の経緯

◎ 立飛R-53練習機 JA3070 撮影2002/11/28  佐伯邦昭   53

R-53の経歴 イラストは航空情報1955年10月号橋本画伯筆

1953/04/01 c/n2 完成
1953/08/05 JA3070登録 新立川航空機 定置場立川市
1954/10 R-52とともに日本一周飛行
1955 主翼に上半角をつける
1955/04/13 航空大学校へ無償提供
1956/03/31 新立川航空機へ返還
1980/10/21 抹消登録 立川市 タチヒ企業が保管中
2013 復元作業

 

1953年

[1-1] 1953年 祝航空五十周年祭の写真 発行新立川航空機株式会社  提供横川裕一

@ 立飛R-53

 R-53の胴体は骨組みだけなので、用途廃止後に立飛の車庫に置かれていた状況を連想しますが、下記エアロンカと
の関連で見るならば、羽布をまとう前の状態、つまり完成前に工場から引き出されたものと考えられます。

A オックスフォード8座旅客機なる機体の経歴  
 オックスフォード8座旅客機というのは、大戦中のエアスピード As10 オックスフォード練習機を戦後中型旅客機にしたものです。何かの雑誌で日本の飛行場で写された写真を見たような気もしますが、新立川航空機との関係を含めて正体不明です。

B エアロンカ65C JA3054の経歴

1952/07/21 c/nC-4919
1953/05/08 JA3054登録 東海航空 定置場藤沢飛行場
  宮田駿一 → 畑忠雄
1956/10/23 抹消登録 オーストラリアへ売却

推理 : 航空五十周年とは下記のどちらかに間違いありません。

【 世界の航空五十周年は1953(昭和28)年 】 【 日本の航空五十周年は1960(昭和35)年 】

  後者とすると、エアロンカは既にオーストラリアへ渡っているので、ここに写ることはありません。よって、祝 航空五十周年祭とは【 1953(昭和28)年 】に行われた世界の航空五十周年行事を祝うものと断定できます。記録に残る航空五十周年の行事としては、日本航空協会が12/17〜12/20に日比谷公園で実施した航空五十周年記念大会A3601-7参照)がありますので、新立川がそれに協賛する形で配ったものかもしれません。なお、絵葉書ではなく、裏面には文字等はありません。

 [1-2] 1953年 立飛R-53の完成直後と思われる写真 提供 諏訪    

立川飛行機ノ傳統ヲ誇ル「シラス發動機ヲ装備セルR-53型練習機」

 [1-1]の撮影後に羽布を取り付けて完成させ、前へ引き出して撮影したものと推定されます。

 

1954年

第2回空の日中央大会 月島飛行場 JA3070 撮影1954/09/27 大野芳希

 

1955年 航空大学校へ無償提供

世界の航空機1955年5月号国内ニュース

 記事中、「寄贈」の文字は誤りで、無償提供が正く、よって「寄贈式」というのは、下記写真説明のとおり「引渡式」でした。
 
 同グラビア (主翼に上半角がついている)


  

1955年 航空大学校にて

撮影1955/09 空の日 航空大学校エプロン 提供T67M

 一説によると、川崎KAT-1の稼働状況が悪いために立飛R-53を借りて訓練に充てたといわれ、一期生と専修科が使用した模様です。A8601-4参照

1956年 新立川航空機へ返還

航空情報1956年5月号国内ニュース

 航空大学校ホームページの年譜には「立川飛行機式R53S2934)」とあり、1954年から1959まで使われたようになっていますが、上記両雑誌のニュース欄を信ずる限りでは、1955年4月〜1956年3月が正しい です。

 新立川に返還された後は「過去1年間の使用結果を調査研究するために解体される」とあり、翼と胴を切り離し、羽布もはぎ取って調査し、以後、次項のようにブルーシートに包まれて保管されたものと推定されます。

2002年

撮影2002/11/28  佐伯邦昭  航空ファン2004年4月号取材記参照



2009年

撮影2009/01/19 RBO

 

[2] 立飛R-HMの経緯

 ◎ 立飛R-HM JA3094  HM

JA3094の経歴  イラストは航空情報1955年10月号橋本画伯筆

1953/12/04 c/n3 完成
1954/09/15 JA3094登録 
1955/11/02 解体
(航空情報55年12月号国内ニュース)
1965/03/10 抹消登録 
  交通博物館へ展示
1973 立川市 タチヒ企業が保管中
2013 復元作業

経緯

1954年

1954/10/22 立川基地で設計者アンリ ミネニエ氏により飛行 世界の航空機1955年4月号



第2回航空日 月島飛行場 撮影1954/09/23 福井正夫



1955年

第3回航空日 三越百貨店に展示 航空情報1955年11月号




1960年

交通博物館 撮影1960/08/21 Twinbeech


1963年

二子玉川園航空博 撮影1963/03 geta-o


1973年

交通博物館 撮影1973/02/10 ET

1989年

岡山空港開港1周年記念イベント 撮影1989/03/12  HAWK

2002年

新立川航空機 保管倉庫のシャッター右半分を開けてもらって撮影2002/11/28  佐伯邦昭


機体右後方から2枚の翼を見る


左側胴体のエンブレムと文字
  
羽布は見た目ではきれいな塗装を残していますが、指で押しただけでも裂けてしまう状態です。

4枚の外翼は、とりはずされて木枠にきちんと保管してあります。シートは撮影のために一時はずしたものです。
  
 手前の翼の下の方が裂けていますが、部分的な修理はもう不可能であり、どこかへ動かすとしたら全面的に貼り替える必要があるでしょう。

 外翼を取り付けると、全幅は大きい方の主翼でちょうど8mです。上方に折り畳むと4mになり、農家などの小さな倉庫にも格納できるように考えられています。

[3] 航空ファン2004年2月号の記事 (イラスト画像は同誌から転記)  ファ





  新立川R-HM1965310日に抹消登録され、その後東京都千代田区の交通博物館3階天井に吊り下げて展示された。

 ここまではオ-ルドマニアのほとんどの方がご存知であるが、交通博物館によると1974年に所有者の新立川航空機株式会社へ返還したということで、どうもそのあたりから行方不明扱いになってしまったようである。新立川が航空機製作から撤退してしまったことも不明説の一因であろう。

 私のR-HM探しのきっかけと経緯は次のとおりである。

 2002年に岡山市の鷹取弘幸さんから私のホ-ムペ-ジあてに、19894月に新岡山空港開港一周年記念イベントに展示された時のR-HMの写真が届き、その消息を知らないかという質問が添えられていた。この岡山での展示は、交通博物館から新立川へ返されてから15年の後である。ひょっとするとその後も各地へ貸出されたりして、まだ新立川航空機社内に保管されているのではないだろうか。

 一方で、会社のホ-ムペ-ジで調べると、新立川はIHI立体駐車場の下 請けと工場建物の賃貸しが主力営業で、いまや航空機とは名ばかりの企業である。失礼ながら古い機体を大切に保管してくれているかどうか疑わしいという気もする。

  それでとにかく、正面から当たってみることにした。

  200211月、所用で広島から上京する機会をとらえて、まず、新立川に電話を入れてみたのである。後から振り返るとたいへん運のいいことに、電話口にでた総務課の山本さんが理解のある方であった。

 「あの-、昔お宅で作られたR-HMという飛行機が、どこにあるかご存知ないですか」

 「ああ、それならうちにありますよ」

 「えっ! ありますか。展示場のような所にあるのですか? 見せてもらうことはできますか」

 「それは構いませんが、倉庫の中でシ-トを被せてあるから、中は見えないです」

 「とにく現物を確認したいので、お邪魔して写眞を撮らせていただけますか」

 「どうぞ」

というわけで、その後横浜市の茶谷昭雄さんと2人で訪問し、めでたくR-HMと対面した次第である。

 機体の姿は写真で見ていただくとして、山本さんのお話しでは、岡山へ運んだ時には羽布がちょっとした衝撃でも破れる状態で、展示中の見張りが大変であったとのこと。それから10年以上経過した現在の状態は推して知るべしである。ただ、専用格納庫とも言えるような独立した建物内に胴体と主翼を分離してきちんと保存されていたことには感激であった。

 山本さんの「もう1機ありますよ」というお誘いで、正門脇の車庫へ行き、R-53型練習機にも対面することができた。その昔この飛行機で練習をしたという方々が時折訪ねてくるそうであるが、自動車の後ろにブルーシートに包まれており、、翼は束ねて下に置き、胴体は骨組みだけの姿である。以前、某テレビ局が特番用にこれを撮影したときに1回だけ組み立てたのだが、残念ながら番組は放映されず、このときの写真も残っていないということだった。

  いずれにせよ1機ずつしか生産されなかったR-HMR-53の存在を曲がりなりにも確認したことで、日本航空史にささやかな貢献ができたと思っている。しかし問題は今後の保存や展示をどうするかである。

 新立川には昔の事情を知る社員はほとんど居なくなり、今後の方針を協議する雰囲気もなく、放っておけば朽果てる運命にあることだけは確かである。

 

 

機体解説

 

 第二次大戦敗戦国の日本は、1945年から1950年までは一切の航空関係が禁止された。しかし、1950年にGHQから「国内の航空運送事業の運営こ関する覚書」が発行され、まず民間航空の一部が活動を始めた。

そして1952年、航空法や航空機製造法が公布され、晴れて自前で航空機の製造ができるようになった。

 戦前からの有数メーカーである「石川島飛行機製作所〜立川航空機」はこのとき「新立川航空機〜新立川航空機」として再スタ-トをした。

 その新立川航空機が、戦後国産第1号機のR-52とその発展型R-53に続いて19549月に製作したのがR-HM「プ-」である。プ-はもともとフランス人アンリ・ミニエの設計で、原型機HM-101730HP)は193412月にフランスのパリで発表され、日本でも1935年に日本飛行機が25HP型(日飛NH-1「ひばり」)作ったが、特殊な形態で操縦も難しく、事故を起こして消えてしまった。

 戦後、アンリ・ミニエはアルゼンチンやブラジルでHM-310型(120HP)を製作。そして新立川航空機がプ-を製作するのだが、当時は米軍ジ-プが多数目につく時代でもあり、ちょうど航空再開のこの時期に、若い人たちのために手軽に飛べる空のジ-プを作りたいと当時の社長が考えていたところ、アンリ・ミニエの新聞記事を見つけたことがその発端だった。またその目的は、戦後の長い航空空白期間があって世界の技術に遅れていること、世界は空のジ-プ時代に入っていることなどだったが、もうひとつ南米の未開発地に輸出ができるかもしれないということもあったようだ。

 新立川航空で作ったプ-R-HMと呼ばれ、19549月に完成し1022日、立川基地において設計者アンリ・ミニエ操縦により初飛行を無事終えた。1954923日の第2回航空祭には、東京江東区月島飛行場会場で完成間もないR-HMが地上展示されている。

 本機の最大の特徴は主翼とすぐ後方にある大きな水平尾翼の外観もさることながら、操縦のラダ-作動は通常機と同じだがエルロン、エレベ--の作動がないことだ。操縦輪は主翼、尾翼のタブによる翼の迎え角と傾き変動でエルロン、エレベ--機能を果たすという変わった方式だった。

このため当初日的のW操縦しやすい空のジ-プ”と違って離着陸が難しい機体となった。当時プ-を操縦でできた人は有名な黒江保彦氏(隼、鐘馗で活躍、このころは富士航空操縦士、その後空自)しかいないと言われた。

 筆者は偶然1955年夏に独特な飛行姿を目撃してい るが、低空を軽々と何回も旋回していたことを今も思い出す。

 しかし航空局はこの機体の構造および飛行安定性問題からか遂に最後まで耐空証明を発行せず、たった1機だけの製造に終り、機体は195511月にはリタイヤしてしまった。

 その後だいぶ経ってから東京の交通博物館に貸し出しされたが、1974年以降、同館から姿を消していた。

R-HM諸元

乗員:並列2名、エンジン:コンチネンタルA90 90HP1基、全幅8m、全長5.08m、全高2m、プロペラ直径1.84m、自重350kg、全備重量660kg、最大速度170q/h、巡航速度140q/h、離陸速度60q/h、着陸速度50q/h、離陸距離300m、着陸距離300m、航続距離700km、製造1

         

 

 R-53の前身R-52こそ、戦後の栄えある国産第1号機であり、その発展型がR-53なのである。

 まずR-52から書くと、19527月、航空機製造法が公布されると同時に、そのときを待っていた新立川航空機は、同年715日、ただちにR-52の設計を開始した。

 しかし戦後の空白で新しいエンジンもなく手持ち材料はすべて戦時中からの残存品ばかりであった。そこで残存材料の中古エンジン「神風」星型130hpを使い、高翼パラソル型木金混用、羽布張り機体のR-52を完成させた。設計開始からわずか約2.5カ月後の928日であったが、戦前に前身の立川飛行機の作ったR-38をモデルとしたことも早い完成に寄与したと思われる。このようにして、どこよりも早い戦後国産第1号機、新立川航空機のR-52は製作されたのであった(製造1機)

 しかし中古の「神風」エンジンは問題が多く、その後ライカミング130HPに換装され性能も上がり読売新聞社機として全日本学生航空連盟機、グライダー曳航機として玉川飛行場で飛んでいたが、195979日、エンジントラブルにより機体は大破してしまった。

 このR-52を改良した機体がR-53で、19538月に完成した。R-53の機体外観はエンジン換装のため機首まわりの形が変わったほかにも細かい改修がある。しかし全体はR-52に近く、最初から車輪ブレ-キも装備された本機は、玉川飛行場で学生訓練機やグライダー曳航として飛んでいた。とくに本機は完成後学生の手で日本一周飛行を行ない、国産機R-53の名を高めた。

 当時筆者の自宅は玉川飛行場に近く、バス停「飛行場入口」で降りては格納庫にあるR-53を見せてもらい、時には内緒で操縦席に座らせてもらった。

 本機は一時航空大学にもあったようだが訓練に使われたのだろうか?19573月、新立川航空様に返還されて以降、一般には消息不明だった。

 R-53諸元

乗員:タンデム2名、エンジン:1基シーラス・メジャ-V倒立直列155HP、全幅10.7m、全長7.55m、全備重量950s、最大速度200km/h、着陸速度78q/h、航続距離750km、製造1

航空情報1953年8月号
 

3070                                                                      TOP

 

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