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航空歴史館

金沢区

柴漁港の引揚げプロペラ 

 

 

目 次

柴漁港のプロペラ その1

      1 柴漁港で発見したときの情報

      2 機種の推理 撮影と文  

     3 その後の経緯 

柴漁港のプロペラ その2

      4 第二次大戦米軍機のプロペラ残骸を見て 

 
 

1 柴漁港のプロペラ その1

A3713 神奈川県 Kanagawa Prefecture  横浜市金沢区柴漁港
     

◎ 第二次大戦機のプロペラ その1 4翔プロペラ 撮影05/04/04、08 出展:ota

 最近、横須賀市のニッサン追浜工場(旧海軍追浜飛行場)沖の東京湾で底引き網に掛かったものです。

日替わりメモ741番から 

米軍機のものか
 先日、新聞記者が取材に来てB-29だと言っていたそうです。

 確かに根元の形状は日本軍用機には見られないもので、ソリッドモデルや大型プラモデルを製作したかつおさんの直感では、F4UコルセアやSB2Cヘルダイバーあたりではないだろうかということです。otaさんもB-29よりは小さい飛行機だろうとみています。

▽ 根元のドーナッツ型シュラウドが日本機にはみられない
▽ 先端の黄色“危険マーク”、日本機は色は同じでも帯状に対しアメリカ機は先端塗りつぶし
▽ ブレード両面が黒なら間違いなくアメリカ機

2 機種の推理 撮影と文 05/04/09 にがうり 


 4枚ペラ ですが、1枚は吹き飛んで3枚が曲がりくねった残骸で岸壁にあります。

 まず、 外観では日本機プロペラ特有の可変ピッチのカウンタウエイトがついてなく、ブ レード・シャンクにはカフス(1種の整形材)が付いているのと、プロペラ・ シャフト先端にドームがついています。

 またブ レード両面が黒色で先端の危険標識黄色が線でなく塗りつぶしですので、米軍機とみて差し支えありません。

 米軍機の4枚プロペラは、大小数機種ありま すが、主な機種の径と金属巻尺で計測した数値を示しておきます。ただし、ブレード表面にはフジツボなどが多数付着してデコボ コで、かつ各ブレードは捻じれ曲がっているため計測といっても正確さは望め ず、あくまで多めの概略数値です。

プロペラ数値

カーチスSB2Cヘルダイバー

直径3.36m

半径1.68m

チャンボートF4Uコルセア

直径3.988m

半径1.99m

ノースアメリカンP-51ムスタング

直径3.2〜3.4m

半径1.6〜1.7m

リパブリックP-47Nサンダーボルト

直径3.9m

半径1.95m

ボーイングB-29

直径5.05m

半径2.53m

残骸プロペラ測定値

写真左

 

半径1.72m

写真上

 

半径1.69m

写真右(先端欠損)

 

半径1.40m

  およその判定で、まず、B-29というのは論外です。F4UとP-47Nもやや遠いようです。残るはSB2CとP-51となりますが、これ以上の推論は困難です。
 皆さんの判断を待ちます。

カフスの剥がれ

カフスとは

 プロペラブレードの根元は強度の関係から円形断面になっているので、これを翼型の整形材で覆ってナセル内への冷却空気の流入効果を上げるものです。

ブレード先端の裏側

ブレード先端の黄色塗装

プロペラドーム

プロペラドーム

レダクションギア

 

 

その後の経緯

柴漁港のプロペラその1を米海軍が引き取りました 2005/09/20

 太平洋戦争中の米海軍機(カーチスSB2Cヘルダイバーと推定)のプロペラは、2005/09/20、柴漁港にてU.S Naval Air Facility Atsugiへ引き渡されました。今後は関連先と調整、調査を経て扱いが決まるようですが、時間が掛かるとのことです。


柴漁港のプロペラその1が葛城 峻さん宅へ 2006/12/20 

米軍爆撃機のプロペラが岡村に!
 「磯子の戦争体験を記録する会」の葛城代表の自宅に、戦争末期根岸湾上空で撃墜され海底に眠っていた大きなプロペラが運び込まれました。横浜を空爆中に厚木海軍航空隊の戦闘機と交戦し最後を遂げたものと思われます。海面に激突した衝撃でかなり破損していますが一面に付着したフジツボが海底の60年間を物語っています。

 12月15日、空襲体験のある岡村東部自治会の会長・役員など7名が今は恩讐を越え、ウイスキーを注ぎ合掌して搭乗員たちを慰霊しました。磯子上空で再びこのような悲劇が起こらないようにしたいものです。プロペラは今後葛城代表宅の庭に保存されるのでいつでもご覧になれます。
 751-2711、090-1429-1701


柴漁港のプロペラその1を公開、慰霊 2007/03/19

       2007/03/17付け神奈川新聞記事 2007/03/19読者広報センター掲載許可済み

にがうりさんの参列記

 3月16日午前10時より葛城さん自宅庭にて引き上げペラと祭壇を作り心ばかりの慰霊をしました。ペラに各人献花とバーボンウイスキーを壜から流しました。

 参加は米海軍横須賀基地横浜支所長ロバート・L・モラン大尉と女性通訳秘書および地元市会議員、町内会長その他葛城さんの知人友人と取材は神奈川新聞記者、インターネット情報誌の磯子マガジン編集長などでした。 

 私は航空図書館から集めたP-51関係資料(機体、マリーン・エンジン、ペラ、本土のP-51戦記)の抜粋コピーの小冊子を編集し配って説明をしました。
 皆さんどれだけ分ったかは不明ですが、モラン大尉は若くヒコーキ屋ではなさそうでした。今は、私はほぼP-51に間違いないと思ってますので 、他機種の資料は作りませんでした。葛城さんはペラ全体のふじつぼその他を大分剥がしてくれてました。 

 米海軍でのその後の扱いは今日は特に発言なしです。ただモラン大尉は明日の新聞報道は米軍広報の許可がいると言ってその場で広報と話し込んでOKとなりました。それで終了し残った地元の人たちと葛城さん宅に上がりこみ昼から一杯やって帰りました。中には横浜空襲の爆弾破片が足のももに多数当たってピンセットで麻酔も無く取り出したとその大きな傷跡を見せてくれました。
 

 

 

2 柴漁港のプロペラ その2

日替わりメモ878番 2005/09/04から転記 


 横浜市柴漁港にあがったに日本軍機プロペラは滋賀県の零戦モドキの機体に取り付けられることになりました。下記で報じています。(新聞サイトは既に閉鎖)

 この記事で、名古屋航空宇宙システム製作所に勤める岡野允俊史料室長により、零戦のものに間違いなく、横須賀の海軍が戦後、機体を米軍に渡す際、海に捨てたのではないかということなっておりますが、どの部分を証拠として零戦と断定されたのか知りたいところです。

A3713 神奈川県 Kanagawa Prefecture  横浜市金沢区柴漁港
     

◎ 第二次大戦機のプロペラ その2 3翔プロペラ  撮影05/08/25  にがうり

日替わりメモ2005/08/25

ORIENTさんから神奈川新聞が伝える情報として

 横浜港で3翔と4翔のプロペラが相次いで魚網にかかり、柴漁港に陸揚げされています。「三枚羽根のプロペラについて元特攻隊員の江名武彦さん(82)=川崎市麻生区=は「形状からみても、厚木海軍航空隊から敵機を迎撃するため飛来したゼロ戦のプロペラの可能性が高い」とみている。」とあります。 4翔の方は、 カーチスSB2Cヘルダイバーの可能性が濃いと推定したプロペラであり、2体が絡まるように置いてあります。(なお、これまで漁港名を伏せていましたが、神奈川新聞に写真入で報じられましたので、今日から柴漁港と明記しました)
 


 その1で推測した大戦米軍機ペラに絡まるように置かれています。

 このブレードに大曲がりはなく回転中の水没には見えませんが、エンジン側の遊星歯車(ピニオン)がついているので取り外しペラ単体の投棄にも見えません。 もしペラ単体姿がオピニオンつきならこの姿も分りますが資料がなく確認できません。この海域は終戦時に米軍が日本機(横須賀基地や工廠の機体、横浜航空隊や大日本航空の飛行艇など多機種)を海中に沈めたので昔から魚網にいろいろ掛かったらしいのです。

 外観からはまず日本機のペラだろうと思いましたが、特長は以下のとおりです。

1.3枚ペラでブレードに大きな曲がりがない。。
2.丸型カウンター・ウエイトが3個ついている
3.ペラ・シャフト先端の油圧ドーム前面が皿状でシリンダーはくの字に曲 
  がっている
4.ハブからのブレード長が概略144cm、最大巾27cm
5.遊星歯車(ピニオン)は8個。
6.裏面が茶色に見えるブレードがある

 これだけでは機種断定ができませんが、可変ピッチは油圧ハミルトン系に間違いないと思います。感覚では私も零戦(何型?)と感じました。ただ零戦以外はスピンナ内部の写真が少ないので比較ができません。

 

全姿 (ブレードが曲がっている黒いプロペラについては その1参照)

 

エッジ

ブレードサイズ

ハブ全体

カウンターウエイト(丸型)

 

遊星歯車

 

 

3 第二次大戦米軍機のプロペラ残骸を見て Shinさんの感想

 

ご無沙汰しております。

 追浜の海底から揚がったプロペラ、確かに回転径を示す黄色塗装痕がペラの先端部まであり、日本の軍用機にはあまり見られないかもしれませんね。

 参考までに、私が撮影した鍾馗のハ-109発動機のプロペラ先端部の写真を送ります。かなり痛んでいますが黄色線がペラ先端より下がった部分に引かれているのが分かります。70カットほど撮影していたのですが黄色線がはっきり写っていたのはこれ一枚です。

 ちなみにこのプロペラの根元には鋸で切断を試みた切れ目が数本ありました。

 私の祖父(兵学39期)は終戦直前まで、相模工廠の火工部長や第三火薬廠長を勤めておりました。

 祖父が亡くなってしばらく経ったころ、当時部下であった方が訪ねて来られ興味深い話をされていきました。その話によると、祖父達は当時、新型の対空砲弾の開発実験を行っていたそうです。日本の攻撃機が米艦艇の対空射撃であまりに落とされるのでこれは対空砲弾が違うと考えたそうで、さすがにVT信管の存在までに行き着かず、とにかく弾道を安定させて命中精
度が向上すると同時に破壊力を増した弾丸の開発に没頭したそうです。

 そして、開発した新型弾の試射を横須賀周辺に飛来する米艦載機に対して実施したとか。殆どの弾が射速や砲身などの関係で所謂ションベン弾になり実験結果は芳しくなかったそうですが、中には「いけるんじゃない」というような弾もあって、特に米艦爆は一列になって急降下してくるので弾道が合うと「下から順番に撃墜出来た」と、まるでインベーダーゲームの名古屋撃ちのような戦果の想い出話をされていました。

 今回のプロペラが撃墜された米艦載機だとすると、もしかしたら祖父達の弾が引導を渡した機体かもしれないと思ったりしています。当時の関係者の皆様も今はおおよそ鬼籍に入られ、もはや伝説の域ですが。