八日市近傍の裕福な呉服屋に育った荻田常三郎は、京都深草練兵場で武石浩玻の墜死を見て飛行に取りつかれ渡仏、萬国一等飛行免状とモラン
ソルニエ単葉機にリゼー飛行教官を帯同(借金取立役とも言われる)して1914年5月に帰国しました。早速、萬国飛行免状所有者のみが出場できる第一回民間飛行大会(鳴尾競馬場)に優勝し、伏見宮から「翦風 せんぷう」号という名前を賜りました。しかし、1915年1月3日に予備役少尉の資格で基地としていた深草練兵場で墜死し、奇しくも武石と同じ運命をたどったのでした。
1914年10月に荻田は郷土訪問飛行を行い、熱狂的な歓迎を受けました。祝賀会の席上興奮した町長が飛行学校と飛行場を作ろうと提案したのがきっかけで、八日市飛行場が実現しましたが、肝心の荻田飛行士の死亡で翦風飛行学校は実現せず、宝の持ち腐れになった飛行場は1920年から陸軍飛行場になり、終戦とともに消滅しました。
顕彰碑は、郷土訪問飛行11年後の1926年10月に飛行場を見渡せる延命山の麓に建立されました。荻田の死までの事績が詳しく述べられています。文章は長岡外史陸軍中将、揮毫は元帥奥保鞏陸軍大将伯爵です。
なお、モランソルニエ翦風号は、その後フランク
チャンピオンがグノームエンジンをサルムソンに換装して興業を続けましたが、1917年に高知市でクラッシュしています。A74001-5参照
● 文章は航空と文化第98号
ほかを参照した 写真は(財)日本航空協会提供
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荻田常三郎顕彰碑
荻田常三郎顕彰碑は、桜と紅葉の名所延命公園に建立されています。びっしりと彫られた銅版がかなり読みづらくなっていますが、その文章は帝国飛行協会創立者の長岡外史陸軍中将が起草し、元帥奥保鞏(おくやすかた)陸軍大将伯爵が揮毫しています。(奥元帥は、薩長が独占していた陸軍幹部にあって、幕府方小倉藩出身ながら奥だけは外されまいというので陸軍参謀長を務めたほどの高い人格識見の軍人でした)
短命な民間飛行士の碑に対して、陸軍が破格の扱いをしているように思います。それは、碑文に「長兄が国難に殉じて戦死したため、自ら志願して歩兵少尉となり云々」とありますし、フランスから帰国後は予備役少尉の資格で練兵場を飛行訓練に使っていたということ、あるいは碑の前面に陸軍爆撃隊飛行場があるというような事情から、陸軍が敬意を表したものと推察します。