思い出 前輪式セスナ170B〔JA3015〕について
藤原 洋
JA3015はセスナ170Bとしては、数奇な運命をたどった1機でしょう。
前輪式へ改造した時、私は竜ヶ崎飛行場での試験を見ております。私の担当ではなくたまたまそこにいたからだったと思います。試験は許容重心位置範囲のやや後方(4人搭乗)で行いましたが、同封記事(下に掲載)にもあるように、ステアリング特性があまりよくなく、大きくステアリング角度を取ると戻りにくかった記憶があります。
ログブックを紛失してしまったので正確な試験日時は分かりませんが、1966(昭和41)年末か1967(昭和42)年初め頃と思われます。(昭和41年12月29日、ご用納めの後に竜ヶ崎飛行場でJA3211の飛行試験に立ち会っているのでこの日かも?)その後、航空情報1967年3月号へAR.Fのペンネームで「前輪式セスナ170」の記事を書きました。
(10/15追加 前輪式に改造後お目にかかったのは、1966(昭41)年12月29日に間違いないと思います。私の担当ではなかったことと、地上走行試験にバラスト代わりに乗っただけなので飛行記録がないのは当然でした)(下の写真上)
前輪式に改造後は、羽田でもっぱらNHKフライングクラブの訓練機として使われ、ステアリング特性がよくないことと、前脚シミーに悩まされたようです。(写真中)
1968(昭和43)年4月30日16:40、NHKフライングクラブ員の操縦で、東京国際空港B滑走路へ着陸の際(前脚を折って)倒立、人員の死傷はなく、機体を小破しました。これを契機に、再びもとの尾輪式にもどされたようです。(写真下)
これの改造機が好評ならば、日本在籍の170Bを前輪式への改造を商売にしようという小沢勝博氏(当時の本機のオーナーでコンサルタント、後の小型機の改造などを専門とする日本エアロテック株式会社社長)の目論みでしたが、悪評の方が多く遂に1機だけで断念したというわけです。
最初の改造は大森精工機械株式会社で行われましたが、復元はどこで、何時行ったか不明です。(日本エアロテック株式会社が設立されていれば当然ここで行ったはず)
なおアメリカでは改造型を俗にセスナ171と称したようですが、日本では前輪式の間もセスナ170Bで通しました。私は名杯を変更しなかっことのつけが回ってきたと思っています。
下の記事は、私が日本フライングサービスに在職中、同社の機関誌スカイフレンドに書いたものですが、この時の同社技術部長は、JA3015の改造当時、大森精工機械株式会社で実際に改造作業に従事しており、ご本人から聞いて記事にしたので、信頼性は高いと考えます。
前輪への改造前
日本遊覧航空時代(1956/6/2〜1961/6/11)日本フライイングサービス且謦役小森直樹氏撮影
改造後
撮影1967/1/5 東京国際空港 鈴木宣勝氏 竜ヶ崎での前輪式テストのすぐあとの撮影と思われます。主脚の位置がかわりました。
尾輪へ戻した後
撮影1968/7 東京国際空港 鈴木宣勝氏 1968/4の事故から3ヵ月後なので、事故を契機に尾輪式に戻したことは間違いないようです。
スカイフレンド No15 1980/7
飛行機今昔物語−@ セスナ171 藤原 洋
セスナ171? はてな? こんな名前は聞いたことがないぞ。誤植じゃやないのかと感じたた方が多いかもしれない。 もちろん171は正式名称ではないが,通称としては間違いなく存在していた。これを172になりそこなった飛行機と皮肉に受けとるかとうかは皆さん次第。
● 前輪式の容易さを 戦後の航空再開と同時に多数の中古機が輸入され、日本の小型機の代名詞となった多種のセスナの中でも170シリーズが最も機数が多く、昭和31年までに27機登録されている。(写真上)
その後は,これから発展した前輪式の172が大量に輸入されるようになり、多くのパイロットが前輪式の容易な離着陸特性に慣れるとともに、尾輪式の170は敬遠されはじめた。 現在、日本で尾輪式の飛行機を操縦したことのあるパイロットは、指折り数えるほどに減ってしまったが,それ迄は尾輪式が当り前、前輪式は乗りにくいという話しさえ伝わっていたぐらいだから、パイロットにとっては画期的な変化であった。
そこで、170を前輪式に改造しようという話しが小型飛行機のコンサルタント小沢博勝氏(現日本エアロテック社社長)のもとで具体化し、当時同氏所有のセスナ170B、JA3015を試験的に改造することになった。 前輪式に改造する最良で安心できる方法は、正規部品を使って脚まわりを172と全く同一にしてしまうことだが、部品と改造費が高すぎるため机上プランの域を出なかった。 次善の策としては簡単な改造で実用になる前輪型に改めることである。 このような改造に関しアメリカの状況を調査したところ、メト・コ・エアという会社がFAAの承認を得た前輪式への改造キットと図面を発売していることが判明した。 この改造プランは、胴体ステーション44〜56の間に主脚支持構造部材を取り付け、従来の主脚をこの位置まで下げる。前脚はメト・コ・エア製の完成品を支持金具でエンジン・マウントヘ取りつけるというものであった。(写真中)
この改造によっても、胴体の床下配管やケーブルの経路を変更する必要はなく、尾輪関係は撤去するだけでよかった。このキットを使った具体的な改造計画は小沢氏自身の手で進められ、改造工事は大森精工機械株式会社が実施した。完成したのは昭和41年の年末近くだったと記憶している。 改造されたJA3015は自重が約15kg増え、やや機首重となった。主脚の取り付け位置はセスナ172よりやや前進しているが、前脚もかなり前進しているので、ホイール・ベースはかえって大きくなった。前輪の分担荷重は、重心最前方時および最後方時とも172より小さく、ステアリングのペダル圧力は小さく、離着陸時の引き起こしも容易であった。
● 性能と実用性 前輪の新設により前面抵抗が増えるが、尾輪の撤去による抵抗の減少もあり、性能の劣化は少いとして巡航就性能は従来のマニュアル・データをそのまま使用することになった。 工事完成後の試験は竜ヶ崎飛行場において、タキシング、離着陸特性、操縦性、失速速度、エンジンの冷却特性などについて行なわれた。テストパイロットは当時日本飛行連盟の教官山力氏が担当Lた。 テスト結果は、空中での特性は尾輪式とほとんどかわらなかったが、重心が後方によった場合、ステアリングが軽すぎ、シミーダンバーがないので、大さくステアリングした場合中立位置にもどりにくいなどの問題点も明らかになった。 小沢氏としては本機で各地をデモフライトし、数多くの改造工事の受注を期待したが、これに追随するものがなく、JA3015も売却してしまった。
JA3015は1973/2/10損傷により廃棄された。尾輪式の使いにくさを解消するために前輪式に改造され、再び尾輪式にもどされ、着陸時のループにより損傷し、その一生を終わったJA3015は、実らなかった改造を象徴的に物語っているものといえよう。
航空ジャーナリスト協会会員
尾輪式 八尾空港 撮影1960/09/25 上田新太郎
前輪式 調布空港 撮影1967/03/26 geta-o
前輪式 東京国際空港 撮影1966年ごろ HSC-M
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