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航空歴史館 鳴尾飛行場の戦後 

 

A5624-4 兵庫県西宮市鳴尾浜
            Naruo (Japanese NAVY) Airport, Nisinomiya City, Hyogo Prefecture
 
飛行場空撮 官設鳴尾(なるお)飛行場  滑走路1200×100m 2本

@ 撮影1945/08/29 11:50米海軍 提供 杉山弘一
@-2 大量の海軍機がいる風景 
A 撮影1948/08/31 提供 TRON
B 鳴尾の思い出  吉田 武
C 武庫川学院創立70周年記念写真集に掲載
D 甲子園浜の思い出  山内秀樹
E 神戸市立博物館発行の博物館だよりに掲載
F 競馬場本館→管制塔→武庫川学院芸術館
G 競馬場本館→管制塔→武庫川学院芸術館 外壁リニューアル
H 
関西テレビ 報道ランナー 兵動大樹の今昔さんぽ 「競馬場が姿を変えたわけ」   

@ 1945年の空撮

撮影1945/08/29 11:50米海軍   提供 杉山弘一

 鳴尾飛行場は、1943年に川西航空機製作所の本工場(左上方)に隣接して建設されました。X型の滑走路で紫電改などの試験飛行に使われたものと思われます。現在は、武庫川女子大学の敷地等になり、中央に見える管制塔の建物は接収前の競馬場観覧席で、現在は付属中学校の校舎の一部になっているそうです。asahi.com巨大団地参照  Google Earthで見ると、武庫川女子大学の校舎とグランドが、エックス型滑走路の向きに沿って建造されていることがよく分ります。付近の建造物とは明らかに方角が異なります。
 甲子園球場のセンター席から計測すると、南南東約1000mの距離になります。(佐伯邦昭)

@-2 大量の海軍機がいる風景 Darryl Ford

 イーベイ(ebay.com)で昭和20年の鳴尾飛行場の写真を見付けて購入しました。私がj権利を持っているので、どうぞウェブサイト上にご利用ください。
 飛行機は三菱零戦(Zero-sen), 三菱雷電(Raiden), 横須賀彗星(Suisei)、横須賀九三式中間練習機赤とんぼ(Akatombo)、迎撃戦闘機マーキングは第332航空隊です。(ダリル フォード  日本語原文のまま掲載)

佐伯から : すべての飛行機にプロペラがないように見受けられ、人物が歩いているようでもあるので、これも大東亜戦争中の写真ではなく、占領軍に接収されて解体処分を待つ機体群の情景かと思われます。鳴尾海軍航空隊が使用していたものか、もしくは他の海軍航空基地から集められたものでしょうか。(2012/09/16)

 機体の推理 大量の海軍機がいる風景 の機名推理へ 


 


A 1948年の空撮

撮影1948/08/31 提供 TRON


 滑走路は米軍のモータープール/資材置き場になっています。鳴尾飛行場の舗装滑走路長は2本とも1200m×100mで、空中写真から分かるとおり、1本は北側に延長しようとしていたようです。(TRON)
 


B 2007/10/11 鳴尾の思い出  吉田 武

  川西航空機の記事と写真を、とても懐かしく拝読いたしました。
 と、申しますのは、私の祖母と父は、元々、鹿児島県枕崎の出身なのですが、戦前、戦中中期までこの鳴尾に住んでおり、よくこの辺りの話を聞いていたからです。

 武庫川の土手からは甲子園球場が一望できて、1943年に接収されて閉園する阪神パークの楽しかった話や、川西航空機の飛行場からは、水上飛行機が毎日のように飛び立ち、木の葉落としや、宙返り、急上昇や旋回をしていて、それはそれは勇ましく格好よくて、いつも見ていたけれども、飽きることがなかったと言っていました。

 祖母は、私が別に飛行機好きだったとという訳でもないのに、「ばあちゃんが昔父ちゃんらと住んでた鳴尾に川西の飛行機工場があってな、紫電とか紫電改は、そら強い飛行機やったんやで」と話していた事を今でも記憶しています。

 一家は、戦中中期に祖父が大病を患ったため枕崎に引き上げました。数年前に、祖母とその住まいのあった鳴尾に行きましたが、もう地形も殆ど変わり、阪神電車の支線以外、面影はまったくありませんでした。

 枕崎の山奥の道野という所は、山を越えると知覧町という場所柄、米軍機の来襲も多かったようです。山村なので銃撃や爆撃を受ける事は無かったようですが、
 昼に庭の木陰で昼寝をしていると、低高度でB-29が真上を飛んで行った話し
 知覧を空襲に向かう編隊が飛んで行く話し
 枕崎市内にB-29が低高度で飛来し、まるで一升瓶をバラバラ落とすように爆弾を落とし、市外が真っ赤に燃えているのに、妙に綺麗に見えて怖かったという爆撃を受ける様子を、高台から見ていた話し
 山に逃げたら尾根伝いに米軍の単発機が飛んできて、後ろの米兵と目が合った気がして茂みにうずくまり怖くて怖くてたまらなかった話し
 父が学校の帰りに畑の道をあるいていたら、米軍機が降下してきて脇の溝に飛び込み耳を塞いで、口を開け隠れていた話し……などをよく聞きました。

 そして、余談ですが、戦艦大和沈没の時、当時沈没は公表されなかったと聞いた気がしますが、ここでは異なります。
 爆沈の際の爆音は、枕崎でもドロドロドロ〜ン、と数回かなりの音で響き渡ったようで、枕崎の奥の村、道野でも、その大きな音が響き、当時公民館に駐屯していた陸軍の小部隊が米軍上陸と早合点したようで、村民に「艦砲射撃が始まって、米軍が上陸するようだから山へ隠れなさい」と、兵隊と一緒に山に隠れていたのですが、夕刻頃に若い兵隊が、「さっきのは戦艦大和が沈んだ爆音がここまで聞こえていたもので、上陸じゃ無いので家に帰って大丈夫です」と教えてくれたので安心して帰ったと、祖母も父も話していました。

 戦後、親戚を尋ね鳴尾の地を訪れた祖母は、周囲はまったくの焼け野原で、家を出るときに持っていけなくて埋めて来たものも、全部無くなっていたそうで、「じぃちゃんが病気にならんかったら、田舎に帰る事も無かったから、みんな焼かれて死んでたやろうなぁ」と話していました。

 そんな祖母も今は92歳、少し痴呆の症状も出てきましたが、何とか実家で元気です。

 


C 2009/11/21 
武庫川学院創立70周年記念写真集に掲載 

      4ページ
     
     
     
               右上の小窓拡大
               

      第2表紙と資料提供者名
      
 

 

D 2009/12/13 甲子園浜の思い出  山内秀樹 

 武庫川学院創立70周年記念写真集4ページに掲載されている写真を拝見して懐かしい思い出が込み上げてきました。

 この写真は北側から南方向、つまりなる尾飛行場の先は大阪湾を望む方向に撮影されています。左側が大阪方面、右側が神戸方面です。

 甲子園球場の手前に左右に走っているのが阪神電車で、甲子園の駅は当時から高架になっていました。

 この高架の下をくぐるように直行して、甲子園球場の東側に沿ってS字にカーブしながら、鳴尾飛行場の西側を海岸近く、「浜甲子園」まで阪神電車の路面電車が走っていました。この路面電車の反対方向は国道2号線の甲子園口停留所で、ここで阪神電鉄国道線(国道2号線の中央を走る路面電車)と分岐するかたちになっていました。

 甲子園球場と阪神電車の間のやや西側にあるのが甲陽学院の校舎と運動場で、現在はダイエーとホテルになっています。

 親戚が甲陽学院の校長をしていたため、その近所に自宅があり、法事その他でしばしば連れていかれました。

 当時、私が生まれ育った豊中から、最も近い海水浴場は甲子園浜で、阪神電車本線の甲子園駅で降り、浜甲子園行きの路面電車に乗り換えて海水浴に連れて行かれたものです。

 

 1948/08/31撮影の垂直写真で、画面の左半分の砂浜が海水浴場でした。

 この垂直写真が撮影された2〜3年後からは、毎年海水浴に連れて行ってもらいました。

 海水が塩辛いことも、この海岸で、初めて知りました。

 海岸の出店で南京豆(ピーナッツ)を網袋に入れたものを買ってもらい、それを海水パンツの紐にくくりつけて一泳ぎしながら塩味を付け、後で砂浜に腰をおろして一休みしながら食べるとおいしかったことを思い出します。

 たしかに、その頃の鳴尾飛行場の場所には軍用トラックがギッシリ並んでいたのを見た記憶があります。

 ちょうど朝鮮戦争のころでしたので、さぞかし補給基地として活況を呈していたのでしょうが、海水浴に連れて行ってくれた親戚の者は興味がないようで、当時の大人から特にコメントされた記憶はありません。

 当時の大人は進駐軍の軍用車両を指差して云々することなどできない心理状態にあったのだと推察します。

 

E 2014/03/28 神戸市立博物館発行の博物館だよりに掲載  神戸博物館



出典 神戸市立博物館だより No.105 (2014・春)

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F 2017/02/24   競馬場本館→管制塔→武庫川学院芸術館   芸術館

管制塔と紫電改91号機 提供航空情報


      武庫川学院芸術館 撮影2015 濱野博司
     

     

G 武庫川学院芸術館    2018

2年前に 皇太子殿下視察のため外壁リニューアル 撮影2018/11/17 濱野博司

      

H 2019/11/08 関西テレビ 報道ランナー 兵動大樹の今昔さんぽ 「競馬場が姿を変えたわけ」 兵動