写真で見る東亜航空株式会社の歴史
協力者 幸田恒弘、興野博士、下郷松郎、中井潤一、平田邦久、古谷眞之助、 前田あきとし、松本秀典、宮野 修、Aoki、geta-o、PAPPY、T67M 【まとめ 佐伯邦昭】
参考文献 日本航空協会航空宇宙年鑑、航空情報、鳳文書林日本航空機全集、年表山口県の航空史ほか
1952〜1956年10月までの歴史 1952/10 日本青年飛行連盟設立 同連盟の九州地区の3人がセスナ機で飛行訓練実施 1953/08/15 福岡航空保安事務所の勧めで、3人による東亜航空設立発起人会発足 (1953/11/04) (松下俊夫氏個人所有のセスナ180 JA3075登録) 1953/11/18 セスナ170B JA3077登録 九州地区で宣伝や遊覧飛行実施(無許可) 1953/11/30 東亜航空株式会社設立
本 社 東京都
営業所 小倉市
運行所 小倉市曽根飛行場1954/01 セスナ150B購入 02/01東京から藤沢経由、曽根飛行場へフェリー 1954/02/02 使用事業免許 第23号 1954/02/06 セスナ150B JA3086登録 定置場曽根飛行場 2機体制 1955/10 本社を福岡市に移転 1956/11 松下俊夫氏が参加し、本社を広島市に移転
JA3075、JA3077、JA3086の3機体制 (主)曽根飛行場 (副)吉島飛行場本 欄 1956年 本社広島 松下体制 1957年 不定期運送事業免許 1958年 鹿児島から離島への路線開設 1959年 離島路線と小倉・吉島の使用事業 1960年 離島路線と小倉・吉島の使用事業 1961年 ヘロン配備 1962年 定期運送事業免許 コンベアCV240配備 1963年 キャッチフレーズ 西日本の空をネット 不二サッシが大株主になる 1964年 広島空港に大格納庫建設 経営が不二サッシに移り 松下氏は副社長に降格 1965年 YS-11配備 1966年 1967年 松下氏が役員からはずれる 1968年 広島空港滑走路延長工事のため運休 YS-11を全日空へ貸出し 1969年 1970年 東亜航空の終焉 東亜国内航空発
1956年 56 1956/11 広島市に本社を移す 広島空港ができるまでは、吉島飛行場を小型機の基地としていました。詳しくは参照
宮野アルバム
1956/11/22 ビーチクラフトC18S JA5029 JA5033登録 定置場鹿児島空港
19 c/n8454 US42-87195A 1956/11/22 JA5029登録 伊藤忠航空整備 1956/11/22 ▼東亜航空 定置場 鹿児島飛行場 1959/02/07 中種子島空港で着陸時 脚を折って中破 1965/08/18 抹消登録 1965 ▼広島電気大付属高校教材 ?
1944/06/22 c/n6827 US43-35937A 1956/11/22 JA5033登録 伊藤忠航空整備 定置場調布飛行場 1956 東亜航空 愛称なんぷう 定置場鹿児島空港 関西航空へリース 期間不明 1969/11/13 抹消登録 大分市 日本文理大学教材機 JA5033 版画 前田あきとし
1957年 57 1957/12/18 不定期航空運送事業免許 第17号
1958年 58 1958/03/05 初の路線営業 鹿児島〜中種子島線 不定期免許 社名が右描きであるところから、東亜航空のビーチの最も古い写真と思われます。
ビーチクラフトC18S JA5029 撮影1956頃 鹿児島鴨池空港 提供松本秀典
1959年 59 1959/08/05 鹿児島〜喜界島線 不定期免許 1959年の体制
C18Sを鹿児島に置いて離島路線を維持しながら、小倉(曽根)と広島(吉島)でセスナによる使用事業に注力していた時期です。
資本金 3000万円
本 社 広島市
社 長 松下俊夫
組 織 運行部、営業部、経理部、鹿児島支社、小倉支社
所有機 ビーチクラフトC18S(JA5029)、セスナ180(JA3075)、セスナ170(JA3077、JA3086)
不定期路線 鹿児島〜種子島、鹿児島〜鬼界島
1960年 60 1960/02/10 鹿児島〜西之表線 不定期免許 1960**/** デハビランドDH-104 JA5007登録 定置場鹿児島空港
撮影1964/07/26 広島空港 佐伯邦昭
1961年 61 1961/02/25 デハビランドDH-114 JA6156登録 定置場鹿児島空港
1961/03/** デハビランドDH-114 JA6153登録 定置場鹿児島空港
撮影1963/09 広島空港 佐伯邦昭
1961/04/07 デハビランドDH-114 JA6157登録 定置場鹿児島空港
1961/09/01 広島市南観音町に広島空港開港
広島空港開港後直後くらいの撮影と思われる JA5033 なんぷう 幸田恒弘
1961/11/03 デハビランドDH-114 JA6158登録 定置場広島空港
撮影1961 広島空港 佐伯邦昭
1961/10/29 デハビランドDH-114 JA6162登録 定置場広島空港
東亜航空ヘロン時代 撮影1963/03 熊本健軍飛行場 興野博士
1962年 62 1962/**/** デハビランドDH-104 JA5003 全日空からリース 東亜航空あまみ 撮影1962/11 鹿児島鴨池空港 geta-o
1962/01/31 鹿児島〜徳之島線 不定期免許
1962/02/14 鹿児島〜熊本〜小倉線 不定期免許
1962/02/23 試験飛行中にデ ハビランドDH-114ヘロンJA6158がクラッシュ
古谷眞之助著 年表山口県の航空史第3章1962年の記述からから
1962/02/24 定期航空運送事業免許 第51号
1962/03/26 広島〜松山 定期免許
1962/04/28 デハビランドDH-114 JA6163登録 定置場松山空港
1962/11/16 コンベアCV240 JA5113登録 定置場鹿児島空港
撮影日不明 広島空港 中井アルバム
1962年5月 雑誌広告
1962**/** デハビランドDH-104 JA5003登録 あまみ 定置場鹿児島空港 (全日空リース解消)
1962**/** デハビランドDH-114 JA6152登録 定置場広島空港
1962**/** デハビランドDH-114 JA6155 藤田航空からリース
1962年 後半期の発行と推定される時刻表 1962年秋東亜航空へのリース時代のイラスト 社名の文字のみを変更していた 帯は藤田航空の赤 イラスト佐伯邦昭
広島〜松山線免許の日付1962/06/26と 表紙にコンベアCV240のカットがあること、東亜航空の大型旅客機第1号となるCV240 JA5113が登録された日付1962/11/16からみて1962年後半期の発行と思われます。 路線は、8本に過ぎず、本社のある広島からは対岸の松山線しかありませんが、既に「西日本の空をネットする」なるキャッツフレーズを用いており、飛躍に向けて準備している様子が伺われます。
提供 古谷眞之助
ビジネス客への営業の傍ら、観光旅行に力点をおいている様子は、今も昔も変わらないですね。小倉はまだ北九州市になっていません。
1962/11/16 コンベアCV240 JA5113登録 定置場鹿児島空港
撮影1963/09 広島空港 佐伯邦昭
1962年の体制
資本金 4億円
本 社 広島市
社 長 松下俊夫
組 織 運行部、営業部、乗員課、鹿児島支社、松山支社、小倉支社
所有機 CV240 1機、ヘロン5機、ダブ2機、C18S1機、C50 1機、セスナ180 1機、セスナ170 2機1962年頃の鹿児島鴨池空港での列線
C18S JA5033なんぷう、ダブ JA5003あまみ、 提供松本秀典
1963年 63 1963/02/07 松山〜大分線、広島〜大分線、広島〜小倉線 定期免許
1963/04/16 デハビランドDH-104 JA5003 あまみ 種子島空港でオーバーラン大破
1963/06/27 広島〜米子、松山〜高知線 定期免許
1963/07/02 鹿児島〜屋久島〜中種子線 不定期免許
1963/08/20 広島〜防府線 不定期免許
1963/08/23 広島〜防府線、ヘロンにより就航 初便はJA6153 (1年で運休)
古谷眞之助著 年表山口県の航空史第3章1963年の記述からから
就航1番機のデ ハビランドDH-114ヘロン JA6163 山口県文書館提供
ヘロンに随伴してきたデ ハビランドDH-104ダブ JA5007 (時期不明) 山口県文書館提供
1963/09/12 コンベアCV240 JA5118登録 定置場広島空港
撮影1963年 秋頃 鹿児島鴨池空港 提供松本秀典 (前列の坊やが秀典さん)
1963/10/11 鹿児島〜福岡、福岡〜宮崎、福岡〜大村 定期免許
1963年の体制
資本金 8億円
本 社 広島市
社 長 会長佐野友二(不二サッシ)、社長松下俊夫
組 織 総務部、営業部、運後部、整備部、乗員課、支社(東京、鹿児島) 営業所(松山
北九州、福岡、宮崎、熊本、大分、大村、米子、高知、防府、西表、種子島、屋久
島、喜界島、徳之島)
所有機 CV240 2機、ヘロン6機、ダブ1機、C18S1機、C50 1機、セスナ180 1機、セスナ
170 2機
1964年 64 1964**/** デハビランドDH-114 JA6151登録 定置場広島空港 東亜航空 撮影日不明 広島空港 中井アルバム
1964/02/22 コンベアCV240 JA5126登録 定置場広島空港
撮影1964/09/30 広島空港東亜格納庫 佐伯邦昭 格納庫の建設は下記
1964/**/** 格納庫建設
1964/06/12 広島〜大阪、大阪〜米子、広島〜岩国、鹿児島〜奄美大島 定期路線免許
1964/06/15 格納庫完成 広島〜大阪線就航記念式典
全日空が大阪〜広島〜岩国線を東亜航空に譲渡
航空情報1964年8月号
撮影1964/06/15 人物は松本秀雄1等整備士 提供松本秀典
撮影1964 格納庫完成から間もなくの頃と思われる 提供松本秀典
1964/06/25 コンベアCV240 JA5130登録 定置場広島空港
撮影1964/09 広島空港まつり 幸田恒弘
1964/06/29資本金8億円を16億円に増強
1964/07 日米親善飛行のヘンリー 大江氏のパイパーPA28が格納庫に逗留
提供松本秀典
1964/07/16国産旅客機YS-11 試作2号機が 実用試験飛行で飛来 東亜航空社員に公開
撮影佐伯邦昭
1964/08/27 広島〜防府線運休決定 以後廃止
1964/10/28 コンベアCV240JA5131(東亜のコンベア最終号機)登録 定置場広島空港
撮影1995/09/19 広島空港まつり 佐伯邦昭
1964/11/12 デハビランドDH-114改造のDH-114-TAW タウロン初飛行 JA6157
新明和伊丹工場でエンジン換装後の姿 撮影1964 平田邦久 提供関西航空史料研究会
コンチネンタルIO-470-D水平対向6気筒 260馬力エンジンに換装
1964年の体制
資本金 16億円
本 社 広島市
社 長 会長佐野友二(不二サッシ)、社長下村弥一(不二サッシ)、副社長松下俊夫
組 織 総務部、営業部、経理部、運行部、整備部、乗員課、支社(東京、鹿児島) 営
業所(松山、北九州、大阪、福岡、宮崎、熊本、大分、大村、米子、高知、種子島、
屋久島、喜界島、徳之島、奄美大島)
所有機 CV240 6機、ヘロン7機、ダブ1機、C18S1機、C50 1機、セスナ180 1機、セスナ
170 2機
1965年 65 1965/04/10 YS11 JA8639登録 撮影1965/04/12 広島空港 佐伯邦昭
1965/04/21 YS11 JA8641登録
撮影1965/09 広島空港東亜航空格納庫 佐伯邦昭
1965/05/15 YS-11 JA8641 東亜航空機として路線初就航
航空情報1965年5月号グラビア YS-11が初就航
1965/04/23 DH-114-TAW タウロン 形式証明取得
改造された4機の写真
JA6152 撮影1967/0917 大分空港 PAPPY
JA6157 撮影日不明 広島空港 幸田恒弘
尾翼にTAWRONの文字
JA6162 (但し東亜国内航空時代) 撮影1972/08 屋久島空港 T67M
JA6163 撮影1965/04頃 平田邦久 提供関西航空史料研究会
1965年の体制
資本金 16億円
本 社 広島市
社 長 会長佐野友二(不二サッシ)、社長下村弥一(不二サッシ)、副社長松下俊夫
組 織 総務部、営業部、経理部、運行部、整備部、乗員課、支社(東京、鹿児島) 営
業所(松山、北九州、大阪、福岡、宮崎、熊本、大分、米子、高知、種子島、
屋久島、喜界島、徳之島、奄美大島)
所有機 CV240 6機、ヘロン 7機、ダブ1機、C18S1機、C50 1機、、セスナ180 1機 セス
ナ170 2機
1966年 66 1966/09/28 YS-11 JA8666登録
撮影1969 福岡空港 チャーリーマイク
1966年10月時刻表
東京への乗り継便(JAL ANA)を掲載していた(一時期のみ)
1966年の体制
資本金 16億円
本 社 広島市
社 長 会長佐野友二(不二サッシ)、社長下村弥一(不二サッシ)、副社長松下俊夫
組 織 総務部、営業部、経理部、運行部、整備部、乗員課、支社(東京、鹿児島) 営
業所(松山、北九州、大阪、福岡、宮崎、熊本、大分、米子、高知、種子島、
屋久島、喜界島、徳之島、奄美大島)
所有機 YS-11 3機、CV240 5機、ヘロン7機、ダブ1機、C18S1機、C50 1機、セスナ170
1機
1967年 67 1967/07/25 YS-11 JA8678登録 撮影1969/02/22 大阪国際空港 下郷松郎 (なごや航空マニアクラブ会報8 1969SPRINGから)
1967/09/18YS-11 JA8684 日航製造からリース (1969/12/24 東亜航空に登録)
名古屋空港 撮影1969/03/22 下郷松郎 (なごや航空マニアクラブ会報8 1969SPRINから)
最盛期の路線マップ
1967/01〜30時刻表 (高知線が196707/15時刻表から消えた)
1967年の体制
資本金 16億円
本 社 広島市
社 長 会長佐野友二(不二サッシ)、社長下村弥一(不二サッシ)
組 織 総務部、営業部、経理部、運行管理部、乗員部、整備部、支社(東京、鹿児島)
営業所(松山、大阪、福岡、宮崎、大分、米子、種子島、喜界島、徳之島、奄美大
島)
所有機 YS-11 5機、CV240 5機、ヘロン 7機、ダブ1機、C18S1機、C50 1機、セスナ170
1機
1968年 68 1968/03 大阪〜広島、大阪〜米子に臨時便運行
1968/04 YS-11 JA8672 日航製造からリース (1969/03 東亜航空に登録)
1968/04 不振の広島〜松山線の運賃を大幅値下げ
1968/06/15〜08/15 広島空港滑走路延長工事のため全便運休
1967/07/15〜08/15時刻表
11968/06/15〜08/15 YS-11を全日空へ貸出し (広島空港滑走路改修のため)
全日空へ貸出(広島空港滑走路工事による余剰) 航空情報1968年9月号国内ニュース
1968/08 YS-11 JA8686 日航製造からリース
1968年の体制
資本金 16億円
本 社 広島市
社 長 会長佐野友二(不二サッシ)、社長下村弥一(不二サッシ)
組 織 総務部、営業部、経理部、運行管理部、乗員部、整備部、支社(東京、鹿児島)
営業所(松山、大阪、福岡、宮崎、大分、米子、種子島、喜界島、徳之島、奄美大
島)
所有機 YS-11 6機、CV240 5機、ヘロン 7機、ダブ1機、C18S1機、C50 1機、セスナ170
1機
1969年69 1969/08/28 YS-11 JA8750 日航製造からリース (1970/02 東亜航空に登録)
1969年の体制
資本金 16億円
本 社 広島市
社 長 会長佐野友二(不二サッシ)、社長下村弥一(不二サッシ)
組 織 総務部、営業部、経理部、運行部、整備部、乗員課、支社(東京、大阪、福岡、
鹿島) 営業所(松山、大分、米子、種子島、喜界島、徳之島、奄美大島)
所有機 YS-11 7機、CV240 5機、ヘロン 5機
1970年 70 大阪万博(1970/03〜09)に増便
1970年4月時刻表
終期の路線マップ
1970年11月時刻表
1970年の体制
資本金 16億円
本 社 広島市
社 長 会長佐野友二(不二サッシ)、社長下村弥一(不二サッシ)
組 織 総務部、営業部、航務部 支社(東京、福岡、鹿児島、奄美大島) 営業所(松
山、宮崎、大分、米子、種子島、喜界島、徳之島)
所有機 YS11 8機、CV240 5機、ヘロン 4機
東亜航空の終焉 東亜国内航空発足 合併
1971年5月15日に 日本国内航空と合併して東亜国内航空株式会社が発足し、広島空港を拠点に活躍した東亜航空株式会社は、こ こに18年の歴史に幕を降ろしました。
1971/05/15 日本国内航空と合併 東亜国内航空株式会社発足 本社東京都 写真で見る東京国際空港の歴史 東亜国内航空発足参照 社名看板の取り外し作業 撮影1971/05/15 広島空港の東亜航空格納庫 佐伯邦昭
JA8750 間もなく消えるTAWのマーク 撮影1971/05/15 佐伯邦昭
YS-11の前のTAW主力機であったコンベアCV240 撮影1971/05/15 佐伯邦昭
同窓会
歴代スチュワーデスのユニホーム 撮影場所時期不明 提供松本秀典
スチュワーデスOB会 1990/07/28 福岡市 提供松本秀典