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呉市海事歴史科学館大和ミュージアムに関する疑義   

 

目 次

第1章  零式艦上戦闘機に関する疑義

 

 第1 節 呉市職員の虚言癖  所沢を東京都内と偽る

 

 第2節  なぜ見せないのか 不親切な展示対応 エンジン整備の失敗を隠すため?

 

 第3節 この粗末な仕事 日の丸への冒涜

 

 第4節  経歴は科学的根拠に基づくものですか?

 

 第5節  説明板を書き改めたがまだ疑義がある

 

 第6節  業務委託先を小笠原臣也前市長が著書に書いてしまった
      ・ たかが模型に過ぎない大和にくらべて、冷や飯扱いの
レイセン

第2章  呉市側から仕掛けてきた戦艦大和の歴史捏造問題に関する疑義

 

第1 節   歴史を捏造する科学者戸高一成氏について

 

第2節  米軍撮影の大和写真発表の大嘘 他人の発見を横取り

 

第3節  漫画チックなちぐはぐ 艦載機を積んだままドック入り  

第3章 零戦と戦艦大和以外のもろもろ

 

第1節    でたらめな呉海軍工廠地形模型

 

第2節   科学の名が泣く大和ミュージアムの展示

 

第3節  歴史の捏造など朝飯前の館だからこそできるお笑い一席  年号の単純ミス

 

第4節  魚雷の材質のうそ

 

付  インターネット航空雑誌ヒコーキ雲の指摘を受けて改善したと思われるもの列記

第4章 呉市役所の体質など

 

第1 節 聞き捨てにできない噂もある

 

第2節 秘書広報課長や館長が姑息な対応をする

 

第3節 姑息な対応を市みずから実証

 

第4節 阿川弘之の大和ミュージアム観について

 

第5節 「大和の模型は格好よかった」という子どもの感想でいいのか  

 

第1章  零式艦上戦闘機に関する疑義


所沢へ修復に出す前の零戦 呉市海事歴史科学館準備室収納庫にて

   

第1節  呉市職員の虚言癖  所沢を東京都内と偽る        

零戦復元修復工場名を尋ねた質問状に対する回答

2003/12/18

佐伯邦昭様                                呉市企画部 海事 博物館推進室

(挨拶文省略) いつも科学館の建設につきまして、気にかけていただき誠に有難うございます。ご質問の件でありますが、現在、零戦の機体は東京都内の航空機整備業社におきまして修復中です。平成17年3月までに修復業務を完了する予定になっておりますのでよろしくお願い申し上げます 。

@  この公文書に書いてある修復工場名について

    梨のつぶて状態であった呉市海事博物館推進室が、零戦の修復先をやっと答えてくれました。しかし東京都内の「航空機整備業社」とは面妖な。後々解明しますが、呉市職員の虚言癖はここから始まりました。虚言(きょげん)とはうそつきのことです。

 妙な回答だなと思いながらも、私は東京都というのを信じて日本航空協会、国立文化財研究所、国立科学博物館その他で航空機の復元に当たった経験のある方々に東京都内の航空機整備社というのを調べてもらいました。

 ロバート ミケシュさんの影響で日本にも航空機修復の理論がありますので(図書室3参照)、呉零戦の貴重な価値からして、そういう人達に監修してもらっているに違いないと思い、その線からたどれば工場が分るだろうと考えたからです。すなわち、公共団体である呉海事歴史科学館なら機体の正しい戸籍調べを行い、過去に京都と白浜で行われていた修理が徹底的に見直され、最高とはいかないまでも今日のレベルで納得のできる産業文化遺産にしてくれるだろうとの期待をした訳です。

A  見事に騙されました 

修復業務監修者名を尋ねた質問状に対する回答

2003/12/25

    佐伯邦昭様  呉市企画部海事博物館推進室

 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)の建設につきまして、いつも気にかけていただき誠にありがとうございます。

 さて、質問がありました零式艦上戦闘機修復業務につきましては、専門家の監修を得ながら行っております。監修者名につきましては、個人情報となりますので公表することはできません。ご了承下さい。

 なお、貴ホームページ上に掲載されております当推進室収蔵庫保管中の零式艦上戦闘機写真は、当方の掲載許可を得たものではありません。掲載はご遠慮願います。以上よろしくお願いいたします。

 私の依頼に対して、或る人は、ラバウル帰りの零戦(国立科学博物館)を修理した実績のある調布市の工場まで聞きに行ってくれたりしましたが、誰からも一様に東京都内にはそれらしい工場はないとの回答が来たのでした。
 そして、かなり後になって、それは埼玉県所沢市の霊園そばの名もない小さな町工場で作業が行われているのを知りました。修復を契約した相手先は都内居住の会社のようですが、呉市に尋ねたのは修復工場の名称と所在地でした。回答からすると所沢市は東京都内と思っているようですね?

 このあたりから呉市職員の私に対する虚言癖が始まっています。だまされた私の方が悪いのでしょうか?

B  監修者名について

 この手紙には、監修者名は個人情報だから教えられない、と書いてあります。私は搭乗員に監修してもらっているというのはうすうす聞いていたのですが、その方の希望で名前を伏せているのだろうと解していました。
 ところが、大和ミュージアムがオープンしてみると零戦の前に「吾妻常雄」という名前が示され「今回の機体修復は、吾妻氏ご本人の協力を得て行われました」と個人情報が堂々と書いてあるではありませんか。
 個人情報の扱いを都合のいいように変えてしまう呉市の虚言癖がここにも現れています。佐伯ごときに吾妻氏の名前など教えられるかという意識なのかも知れません。

C  佐伯を脅したつもりか?

 都合の悪いことを隠してはいけないので、上記のなお書きの部分について説明しておきます。これは、私が、和歌山零パークのページに零戦が呉に引き取られたことを示す小さな写真を1枚だけ載せていたのを見つけられての脅しです。インターネット航空雑誌ヒコーキ雲をよく観察してくれているようです。

 しかしですね、ヒコーキ雲は商業目的じゃあるまいし、その程度のことに目くじらをたてるのなら、もともと収蔵庫に引き入れて写真撮影を黙認した職員にも責任が及ぶじゃないかと反論し、メールを出しましたら、もう応答はありませんでした。多分、大人気ないと思われたのでしょうが、しかし、争えばこちらの負けなので写真は取り消しました。

 この手紙は、たったこれだけのことをA4用紙に書いて、なんと350円も出して速達便で送りつけてきました。速達にした理由は? 文書後段の写真の件で心理的な圧力をかけたと解されますね。私は、 海事博物館準備室における或るボランティアの案内人の愚痴を忘れません。

「職員は、偉いさんや知人が来るといくらでも収蔵庫へ案内するのに、我々には見せたらいけんと言う。勝手なもんだ!」

 

ても、350円も速達料金を払って、このような虚言を送りつける都市は、そうザラにはありません。呉市の納

第2節  なぜ見せないのか 3

 呉零戦の観覧上の問題点をいくつかあげておきます。

@ これ見よがしのタラップ

 機体左側に大きなタラップが常時置いてあります。それは整備作業用であって、希望者が上がって操縦席などを見ることはできません。

 入館者の何割が操縦席内部を詳しく見たいかはさておいて、偉いさんが望めば使わせてあげるのだろうと皮肉っぽく語っていた人がいましたが、そう受取られても仕方がない置き方です。誤解を生まないように、せめてタラップを隠す工夫をしたら如何なものでしょう。

A 2階デッキから計器板などは見えない

 呉零戦の計器板は、N さんが可能な限りの考証を行い、大変な犠牲を払って実物に近いものを作って装着したことを多くのマニアが知っています。だから、つぶさに拝見したいのは人情というものです。マツモデルデザインさんが納入した照準器も同様です。

 2階デッキから、それが見えないことはないですよ。邪魔になる窓枠の風防ガラスを通して。しかし、温室の花を遠くから間接的に見せるようなもので、欲求不満が昂じて不愉快になります。

 せめて開館時間中は風防を開けておき、双眼鏡でも備え付けるサービスはいかがなものでしょう。もしくは、もう1 セット作って貰って下へ展示してはいかがでしょう。 それとも、鹿児島県の海上自衛隊鹿屋航空基地史料館へ行けば、タラップがあって操縦席をのぞきこむことができますから、零戦のコックピットを見たい奴はあっちへ行けですかね。

官僚的展示の典型の館 (呉)

お客第一を考える館 (鹿屋)

 なお、以上は観覧者としての立場から佐伯の考えであって、N さんは、相当程度のものが復元できただけで感謝、見せる見せないは問題ではない、またマツモデルザインさんも館の勝手だと、それぞれ言われているそうですから念のため付け加えておきます。

B 手で触って壊れる戦闘機か

 入館者の中には信じられない行動をする人間もいますから、要所に立札を置いて注意を喚起するのは当然で、呉零戦のそばにも立札がふたつ立ててあります。
 この注意書きをゆっくりと読んでみてください。「デリケートな構造」とか「壊れやすい資料」とは如何なものでしょう。間違いではないにしても、最強を誇った戦闘機がガラス細工みたいなものですか? 大切な産業文化遺産だからとか腐食していて危険だからとか、もっと適切な表現があるじゃないですか。

 それと、布張りと書いていますが、修復工場ではビニールを貼ったと聞きます。一般に壁クロスなどというので、クロスを訳せば布でしょうが、ポリ塩化ビニ-ルを素材とするものを羽布と混同するような表現はごまかしじゃありませんか。

 なお、2007年現在で、下のように更新されていました。ヒコーキ雲への挨拶はありません 。厳密の言うと表現にはまだ問題を残しています。

 

   開館当時の表示
   当方の指摘で改められた表示

 

 

C 何故 肝心の部分を逆光の位置に向けるのかエンジン整備の失敗を隠すため?
 

 機体の左手前に展示されている栄31発動機も重要文化財級の産業遺産です。サンディエゴにある零戦62 型のエンジンについては詳しく知りませんが、こちらは琵琶湖から引揚げた時に、減速ギアケース表面に書かれた文字によって「栄三一型甲」型であることが確認されていますので、間違いなく日本でただ1基しか残っていないエンジンです。嵐山の修復時に渡辺武氏が撮影したカラー写真に赤の甲と、サカエの浮き彫りを白エナメルでえどったと思われる文字が明瞭に見えています。

 
 その時は、恐らくそのままの状態でカウリングが取り付けられたため、約25 年間さわられることなくオリジナルで維持されてきたはずです。


 呉市に運ばれて、海事博物館備室倉庫で見たときには、減速ギアケースの表面は埃をかむって粉を吹いたような状態で甲もサカエも全く見えませんでした。右の写真のとおりです。

 
 それを、どういう意図か甲の丸い部分を残してケース全体が新品同様になり、薄緑色(青竹色?)に塗装されて展示されました。

 説明板に「エナメルで甲の文字が確認できることから〜」とあります。見物人は、どこに書いてあるのか目を凝らして探します。しかし、甲の文字が逆光側に向けてあるため、よほど注意しないと肉眼では見えません。

 レンズを望遠にして、ロープから身を乗り出して腕を一杯に伸ばしてフラッシュ撮影して、家に帰ってパソコンに取り込んでみて、なるほどこれなのかと、わかる仕組みです。

 この不親切な置き方は、単なる配慮不足なのでしょうか。
 少々うがった見方をすると、わざと逆光に置いたのか? と思えなくもありません。

 


D 非学術的保存処理の典型

 呉市はエンジンをマツダE&Tに修復させました。マツダの職員技能研修として行ったと新聞に出ていましたが、この写真を見て なにやら奇妙な感じを受けませんか?

 丸に甲の字のところだけを残して、きれいに磨いてべったりと塗装されてしまいました。はなはだ非学術的保存といわなければなりません。

 表面を注意深く洗浄して、腐食をふせぐ透明塗料を塗っておけばいいものを、痕跡を隠すみたいに厚化粧させ、甲の部分だけ証拠として残しましたとは、全くお笑いです。

 この一事を見ても、エンジン内部がどのように無茶苦茶にされたか、およその想像がつきます。日本に1台しかない栄三一型甲は、こうして価値を下げていっているのですね。


第3節  この粗末な仕事  日の丸への冒涜 2

 小さい問題のようですが、大和の模型が素晴らしいと万人がほめているそばで、零戦がなぜこんなに粗末に扱われるのか悲しいので、どうしても言わせて貰います。この写真は左主翼上面の日の丸のクローズアップです。明らかに外縁を修整しています。肉眼でも分ります。

 もともとの直径が間違っていたか、位置がずれていたかでしょう。修整は素人くさい筆遣いで、色も違います。今どき模型の無料展示会でもこんな塗装で出したら物笑いになりませんか?(大和ミュージアムはお金を取って見せています)

・ 問題点

ア  呉市は何を考証していたのかという基本的な欠陥

イ  業者に対する仕様書の欠陥、中間指導の欠陥

ウ  納品後誰かに指摘されるまで、日の丸の位置と寸法を確認しない検査の欠陥

エ   このような幼稚な修整を平気で見せている科学館感覚の欠陥

 こんなお粗末な日の丸を画かれた零戦がかわいそうです。嵐山零時代の方がはるかに鑑賞に耐えられるものでした。なお、アとイに関連することで、零戦が所沢から呉へ納入されてきたときにエンジンカウリングの艶消し黒が操縦席際まで塗られていて、これは関係者の指摘で呉市もすぐに修正させました。

 事の真相は、所沢の業者が代金を中間搾取されて半分の4千万円しかもらえないので、嫌がらせに塗ったのだと巷間言われています。


第4節   経歴は科学的根拠に基づくものか? 4

 文林堂航空ファン編集者が呉市海事歴史科学館から聞いたところでは、下記説明板の内容は学術調査の結果によるものと言っているそうです。

 「昭和53(1978)1月に引揚げられたものです。」という部分は疑いのない事実です。(京都嵐山美術館と零パークの零戦参照)   また、「明治基地第210海軍航空隊の所属機でした。」という部分も、尾翼に残っていた文字からの追跡研究により確定しています。

 問題は、「吾妻常雄海軍中尉が操縦飛行中〜不時着水し 」の部分です。そうかもしれないというニュアンスではなく、断定の書き方です。呉市は、どのような調査によって吾妻常雄海軍中尉の搭乗機と断定されたのでしょうか。科学館を名乗っている以上は、このような説明板も十分な根拠をもって作成されているものと思います。それを明らかにしていただきたいのです。

(お断り)

 以前、このことを書きましたら、お前は吾妻さんを誹謗(ひぼう)するのか、吾妻さんのような人格者を疑うのは失礼だ等々、零戦の会及びその同調者らしい人々(偽名はKoとかWaですから或る程度特定できました)から、お前はけしからん奴だという抗議が殺到しました。 また某掲示板においてもさんざん叩かれました。

 私は、吾妻搭乗機じゃないと言っているのではありません。また、吾妻常雄さん個人について書いているのでもありません。吾妻機であったか、そうでないか断定する資料を見たことがないし、少数ですが私と同じ疑問を持つ方もいるので、呉市が吾妻機と断定して書いている科学的な根拠 ー学術調査なるものの中味を問いかけているのです。

 旧日本軍機に詳しい方の説明では、搭乗員というものは自分が乗った飛行機の細部はほとんど覚えていないそうです。次は某掲示板の書き込みの一部を引用させていただきました。

○  60年も前の機体細部・形式の事を詳細に知っている搭乗員の方は少ないと思います。

○  乗員が自分の搭乗する機体の型式を細かく覚えていることは稀で、二一型と三二型のような場合を除けば、飛行隊長クラスであっても自隊の装備機が何型であったかを記憶されていない方もおられます。

○  吾妻氏のログブックや事故報告書又は行動調書等から事故当時の氏の搭乗機が210-118号機だと断定されていれば疑問を持つ必要は無かったのですが‥‥

 また、或る人は一般論として次のように言っています。

○  「いつ何処で誰が何をしたか」という基本的な事実について「関係者」の回想は決定的な証拠とはなり得ません。それらは残存する公文書等で裏打ちされて初めて事実として客観性を持つものです。歴史学的な手法とはそうしたものです。

 そうでしょうね。琵琶湖へ不時着水のご本人の記憶が一致するというだけでは状況証拠に過ぎないし、物語にはなり得ても、学問として成立するのかどうか疑問です。搭乗員は細部まで覚えていないのが普通だということになればなおさらです。

 断っておきますが、零戦マニアが信じているのをどうのと言うつもりはありません。

 公の施設が、疑問の残ることを、あたかも正しいもののごとく入場者に説明しているとしたら、人々を愚弄するのも甚だしいと言いたいのです。90%正しくても10%の疑問が残れば、それを明らかにしておくのが科学館としての良識、常識ではないでしょうか。

 しかし、呉市は吾妻常雄氏を監修者とし、「今回の機体修復は、吾妻氏ご本人の協力を得て行われました」と堂々と書いております。聞くところでは、吾妻氏の協力というのは修理現場の見学程度という人もいます。細部を覚えていない人が何を協力や!という訳です。

 また「協力を得て行われました」という三人称のような言い方も気になります。呉市には修復の責任がないみたいです。吾妻氏がどう思っておられるかは知りませんが、客寄せパンダもしくは権威付けのために呉市に名前を利用されたのでなければいいですがね。

 この点に関する興味深い質問と回答が零戦の会の掲示板に載りましたので参考までに要約して紹介しておきます。

零戦の会の掲示板に出た質問と回答の要約

2005/11/13(日)12:56 某氏

 この掲示板【零戦の会3438】で「吾妻さんの零戦」と書かれてあるとおり、同館に展示されてある機体は、本会副会 長である吾妻常雄氏が操縦中にエンジントラブルのため琵琶湖へ不時着水した機体とされているが、ネット上において同機が吾妻機であると100%断言できない、呉海事歴史科学館が断定したように表記しているのは如何なものか、という意見が出ている。これについて会はどう思っているのか。呉海事歴史科学館が復元展示に当たって吾妻氏の協力を得たというのは、飛行記録などの資料があったのか? 吾妻氏の機体と断定した経緯について存知の方がいればご教授頂きたい。

2005/11/13(日)14:22 副会長名による答え

 そのネット(インターネット航空雑誌ヒコーキ雲のこと)については当会は預かり知らない。また、当会有志が戸高館長のご案内で大和ミュージアムを見学したことはあるが、呉市と当会との間には、まったく接点がない。色々あるはずの資料の中から、呉市がどの部分まで見ているのかも知らないし、呉市がどのように断定したかなど、知る由もない。呉市が「吾妻常雄氏の協力を得た」と表現するのは呉市のいわば勝手であり、呉市がどの資料に基づいてこう表記しているのかは、当会ではわからない。

 おかしいですね。
 この副会長(吾妻恒雄氏も副会長の一人)回答にあるように吾妻副会長以下零戦の会一行が訪れて館長の案内を受け、零戦に対面していますが、「今回の機体修復は、吾妻氏ご本人の協力を得て行われました」なる説明板を誰も見ておらず、そのことが話題にもならなかったのでしょうか。

 呉市と零戦の会の接点がないのに、副会長が専門家として監修したとはどういうことでしょう。会とは関係なく吾妻個人が積極的に監修したと言われるのなら、そのようにお答えになればいいでしょう。副会長なのですから。

 なお、参考までに、呉市の対応について、私のところに実名で来ているメールの一部を紹介しておきます。

○  〜操縦席の前まで真っ黒に塗って呉市へ搬入したのは、金を十分に貰えなかった業者の嫌がらせで、わざとやったものだ〜

○  〜職員から、名前を宣伝してやるからタダで納めろといわれた〜

○  〜日の丸の位置等、塗装の間違いが随所にありました。〜はじめから厳密に考証して塗装すれば、こんなことにならなかったわけで、どうもいろいろ詰めの甘さの多い科学館です〜

○  〜今迄の呉の対応を見ていると、今回ボランティアで係わった多くのマニアに責任が転嫁されかねない雲行き〜

・ 本当に六二型ですか?という投稿 masaさんから 2005/11/15

 和歌山県白浜零パークで展示されていた零戦が、 六三型だと言われ続けられきたものが呉海事歴史科学館では学術調査にて六二型だと断定されています。しかし、取扱説明書には、水噴射装置を装備していない五二 型丙でも「胴体内に内袋式防弾タンク新設し不時放出弁を設ける。」とあります。

 これは防弾タンクを装備した場合、外翼と内翼の燃料タンク容量が150 リットル程減少してしまうので、胴体内に140 リットルタンクを増設しようとしたためだと思われ、通説である「六三 型では胴体タンクが水メタノール液タンクに充てられたため、後部胴体内部に、新たに140 リットル入りの燃料タンクを装備するようにした。」は、どうも間違っているように思われます。

 つまり六三 型が廃案になり、六二型の後部胴体の140 リットルタンクを装備されたのではなく、五二型丙の後期に採用されたと考えられます。機体によっては埋め込み式の爆弾架が装備されているのに胴体タンクが装備されてい機体もありますが、空襲による部品不足が影響したためでしょう。

 はっきり言って、五二 型丙と六二型の区別はデータステンシルでしか確認する術が無く、呉零戦を資料から六二 型と断定するの非常に難しいと思います。私も、科学館としての学術調査の内容を公開してもらうようお願いします。


第5節  説明板を書き改めたがまだ疑義がある 

 当方の意見を見たからでしょう。2008年9月現在で説明板の文言に変化がありました。しかし、まだ疑義があります。

上が1年前、 下が2008年9月確認

               ↓       

@ ※「胴体後部等引き揚げ時すでに失われていた部分は、資料に基づき形状を復元しています。」の箇所については、皆さん、 京都嵐山美術館と白浜ゼロパークの思い出ページの琵琶湖からの揚陸時、京都での修復時、嵐山と白浜での展示時の写真を よく見てください。
 胴体後部等が失われていますか?
 もちろん部分的には引揚げられなかったものもありますが、それらは既に京都で補修されています。あたかも大和ミュージアムが胴体後部等を復元したように受け取れる書き方はひどい欺瞞です。

 「操縦席の計器板を中村泰三氏が復元した」の部分は、第2節イの「Nさん」というのを見て悪いと思って追加記入したのか、ご本人の要求によるものかは知りません。かなりの日時が経過してから、小さな字で「なお書き」するというのも失礼なことです。
 その上、せっかくの計器板も風防が閉められたままなので、依然として確認することができません。このアンバランスは観客を馬鹿にしています。
 
 また、計器板の「復元」者を追加してまで明記しながら、機体本体の復元業者名は秘匿したままで、これまた実に奇妙な欺瞞です。もっとも、前市長小笠原氏が著書で潟Vーフイールドであると得体のしれない業者名を書いてしまったので、ばれてはいますが‥(第5節参照)

A 六三型から六二型に変更断定した学術調査の結果は未だに館から公表されず、本当に吾妻中尉機であるのかどうか、吾妻氏が修復に本当に協力したのかも未だに不明です。

 なお、「ご本人の協力を得て行われました」というのは呉市側の責任逃れみたいだと指摘した点にについては、「行いました」に改めています。せめてもの良心でしょうが、 しかし、、本人は協力などしておられないのですから、大きな欺瞞です。

B  『本人は協力などしていないのだから、大きな欺瞞だ』と指摘したら、2011年には元の「行われました」に戻してしまいました。
 
撮影2011年11月

 欺瞞を反省したのか圧力があったのかは知りませんが、三人称に戻したからと言って涼しい顔をすべきではありませんよ。
 本来、公立博物館にあるまじき嘘の記事ですから。なぜなら、吾妻常雄氏と呉市とは何の接点も無いことを吾妻氏が副会長をつとめる零戦の会が公式に表明しているからです。

 末尾の「操縦席の計器板‥」の小さな文字も当方の指摘で入ったものですが、本来、協力などしていない吾妻氏の名前よりも、苦労して計器板を復元した中村泰三氏こそ本文に大きく入れるべきだと、皆さん思いませんか。

 アメリカ公文書館で大和出撃の航空写真を自力で見つけたなどと、嘘を平気で公表する戸高一成館長の歴史捏造はまだまだ続きそうですね。 (2011年記)


第6節  業務委託先を小笠原臣也前市長が公開してしまった 6

  呉市がひた隠しにしてきた零戦修復業務の委託先を、何と呉市の前市長小笠原臣也氏が著書で明らかにしてしまいました。 2007年5月芙蓉書房刊 『戦艦「大和 」の博物館 大和ミュージアム誕生の全貌』に「零戦修復業務は(株)シーフィールドに委託した」と書いています。

 調べてみました。東京の赤坂会計事務所が紹介している企業ホームページの中に、東京都中央区日本橋兜町17 丁目1 番株式会社シーフィールド商事がありました。社長は第7節で名前をあげた元航空自衛隊員の伊藤祐彦氏、展示品に「1939年日・ソ両軍の国境紛争 ノモンハン事件に於て、実際に出撃したロシアの復葉戦闘機を所有 売却又催しの展示にも賃貸可能 」などと書いてあります。

 (株)シーフィールド商事は呉市役所から8千万円で零戦修復業務を受託したのです。

 以下は既に何度か書いている伝聞です。(株)シーフィールド商事は○千万円で所沢の町工場へ下請けさせたらしいということ。そこを見学した人の話しでは、伊藤祐彦氏が常駐しているわけではなく、かなり任された形での作業が行われていたということ。修復作業に問題ありと声を上げかけた人が何者かに脅されたため、以後沈黙したということ。修復費用をまともに貰えない町工場主が、最後にわざと塗装を変えて嫌がらせをしたということ etc。

 もし、下請けへの丸投げに近い形であれば、もちろん法律(契約)違反です。呉市役所は(株)シーフィールド商事に修復作業場や技術者がいるかどうか を確かめずに、あるいは無いことを黙認して契約したとすれば、国民的財産とも言える大切な産業文化遺産に対する冒涜も甚だしいです。仮に所沢の親父さんが零戦に愛着を持って修復に当たったとしても、それが考証に値するものであったかどうかの保証はありません。

 皆さん、呉市役所が委託先をひた隠しにしてきた理由がこれでわかるではありませんか。なにしろ、マスコミに対しては、所沢から搬出する7日前になって、光人社丸編集部だけに所沢の所在を知らせ、その他には大和ミュージアムへの到着予定日だけを教えるという徹底した報道管制を敷いていたのですから。戸高一成館長は、本当は株式会社シーフィールド商事のことを一般に知られたくはなかったでしょうが、人の好い小笠原前市長が何事も部下がちゃんとやってくれていると信じて執筆してしまったものと思います。

 琵琶湖の湖底から引き揚げられ、嵐山美術館から零パークと民間理解者の手にあった零戦が、ようやく公共博物館の手に渡って、科学的考証で見直され、その過程も公表されて零戦の謎解き、ひいては戦時科学技術の暗闇に光を当ててくれるだろうとの期待は、こうして杜撰(ずさん)な行政の手でねじ曲げられてしまったのです。

・ たかが模型に過ぎない大和にくらべて、冷や飯扱いのレイセン

このプレートは大和模型のそばにあります。館長戸高一成の売名行為だという人もいます。それはともかく、

 模型に過ぎない大和の製造業者に対してはこれだけの敬意を払うのに、実物の航空機であり、かつ大和以上の名を世界に轟かせた名機の傍らにはそのようなものは見当たりません。片手落ちではありませんか? 業者名を隠す戸高一成館長の真意は奈辺にあるのでしょう。

 零戦修復に8千万円もかけたのなら、このようなプレートに修復業者の名を掲げてもおかしくはないでしょう。学術的かどうかは別として、所沢の町工場の親父さん以下の作業者は情熱を込めて修復作業に当たったのですから。

 聞くところでは、三菱重工業関係者やマニアを含めて日本海軍機に詳しい方々多数が呉市に対して何かと資料を提供しアドバイスもしたそうですが、4階エレベーターホールにある寄付者・協力者一覧には、それらしいお名前はひとつも載っておりません。 冷や飯扱いのレイセンです。

 一歩下がって、見え透いた寄付者・協力者一覧表に掲示の必要はないとして、またどこに修復を委託しようが構いません。

 戸高館長以下が戦時最高級の科学技術文化遺産であることの認識をもって、学術考証のもと予算上可能な限りの原型復旧作業を監督したとして、その経緯が広く公開するならば、以上に掲げた疑義は解消されるのであります。

 皆さん、如何でしょうか。声をお聞かせください。

(注) 伝聞による部分については、呉市長から契約書・仕様書・下請届・納品書などの根拠を付してご意見を頂ければ、速やかに削除または訂正するにやぶさかではありません。

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第2章  呉市から仕掛けてきた戦艦大和の歴史捏造問題 に関する疑義  2-1

 

第1節  歴史を捏造する科学者 戸高一成氏について   佐伯邦昭

・ ア  中国新聞呉支局の評定

・ イ  呉市長名によるメール文

・ ウ 大和の向き をめぐる混乱

・ エ  館の職員も昭和20年2月入渠とは書かない

・ オ  戸高一成氏は歴史を捏造した

・ カ  科学者及び公務員たる館長の資格があるのか

・ ア  中国新聞呉支局の評定

 中国新聞呉支局は、右の赤線の箇所のとおり呉市海事歴史科学館の戸高一成館長を戦艦「大和」研究の第一人者として知られると書いています。

 「知られる」ということは、艦船史に関係する科学者間でそのような評価が定着しているものと思われます。

 WEBによる戸高一成氏著作の筆者紹介をみると、氏は、多摩美術大学卒業後、財団法人史料調査会主任司書、同財団理事、昭和館図書情報部長を経て、現職に就任し、専門は日本海軍史・書誌学であります。大学の時に著名な海軍艦艇研究家故福井静夫氏の薫陶を受けられたそうで、戸高氏はその遺産で名声を得ているに過ぎないという人もいます 。

 その真偽の程は別として、戦艦「大和」研究の第一人者という評定に沿い、以下、その前提で話を進めます。

・ イ  呉市長名によるメール文

 零戦修復問題で真相を語らない海事歴史科学館サイドの態度に業を煮やして呉市長の公式ホームページへ何度も投稿し直訴しているうちに、2005/06/25 に小笠原市長名で回答が来ました。公式なものですから、海事歴史科学館が原稿を書き、広報部門がチェックし、市長が目を通してのものであることは当然です。それが組織で すから。

呉市長からのメール (ホームページ呉市長の部屋より)

2005/06/25

 このたびは、「市長への電子メール」をお寄せいただき、誠にありがとうございました。あなた様からのご意見・ご提案について、次のとおりお答えいたします。今後とも、みなさまに信頼される市政をすすめるため、お気づきの点をお寄せくださ るようお願い申し上げます。
                                               呉市長 小笠原 臣也

 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)について

 お陰をもちまして、4月23日にオープンして以来、連日予想を遥かに上回るお客様を全国からお迎えしておりますが、佐伯様には、5月の連休中に当館にお越しいただいたとのことですが、連休中は大変混み合いまして、ゆっくりご覧いただけなかったのではないかと心苦しく思っております。

 さて、10分の1戦艦「大和」や零戦などの展示資料につきましては、当時の乗組員、パイロットを始めとする関係者の絶大なる協力や、写真や映像等の確認により、当時の状況を忠実に再現しておりますが、今後も更なる調査研究を行ってまいります。

 また、10分の1戦艦「大和」のエントランスに向っている向きにつきましては、昭和20年2月に呉海軍工廠に入渠した入船状況を再現しておりますので、ご理解の程よろしくお願いします。

 これからも、大和ミュージアムが皆様に信頼され、親しまれる科学館になるよう、努めてまいりますので、よろしくお願いいたします。

 なお、この度、市長へのメールとして初めていただいたものであり、本文をもって回答とさせていただきます。今後、展示内容等の詳細につきましては、海事歴史科学館へお問い合わせいただきますようお願いいたします。

 この回答は、当方が何度も催促した零戦のことについてはさらりとかわし、一方で冗談交じりに皮肉った戦艦大和模型の置き方については詳しく釈明をしてきました。それで、これを公表しましたら、すぐに艦船に詳しい方から大和の入渠の時期がおかしいという指摘が来ました。

 聞いてみると、昭和20年2月入渠というのは、これまでの大和行動の定説を覆すものであり、それを戸高一成氏が打ち出したは極めておかしいというもので、これは零戦問題に匹敵する重大疑義に発展したわけです。

これまでの定説は、戸高一成氏自身の著書年表 を含めて‥

 大和の行動を記載したすべての書籍において、大和は昭和16年12月16日竣工以来3年3ヶ月余の生涯で、入渠はいずれも呉海軍工廠で5回となっており、その最終は、昭和19年11月24日〜20年1月3日です。 そうとすると呉市長回答文の中の昭和20年2月に呉海軍工廠に入渠した入船状況を再現しておりますというのは上記行動年表にある最終入渠のあとにまた入渠があったということになります。

 故吉田満氏は名著「戦艦大和ノ最期」の中で、昭和20年3月の最後の出港を控えた時期に入渠という噂もあったが、実は偽装であった書いております。「戦艦大和ノ最期」はいわゆる大和モノの嚆矢(こうし)をなす本であり、氏の記憶が鮮明な時期に執筆されたものですから信じてもいいのではないでしょうか。その他の文献やヒコーキ雲への艦船関係者からの投稿でも、1月以降は呉軍港の旗艦専用26番浮標に繋留、もしくは丙錨地(2連のポンツーン)に繋留というものばかりで、入渠というものはひとつもありません。

 大和が第4船渠へ入渠するときには渠口の石垣とバルジの間が左右が1 メートルくらいしか余裕が無く、また相当の海水を出すなどの大変な作業を伴いますから、1月3日に出してから、航海もせずにまた入渠させたとすれば、 そこに重大な事態が発生していたと考えなければなりません。しかし、そのような記録は 、すくなくとも既存資料には見当たらないと言っていいようです。

 そこでこの新たな疑問への回答を求め、再び何度も催促をし結果3日後に次のメールが来ました。

呼び付け状

佐伯 邦昭 様

 メールをいただき、ありがとうございました。いろいろと話し合いたいと思いますので、ご来館くださいますようお願い申しあげます。

   平成17年6月28日
                                         呉市海事歴史科学館

 これは出頭要請です。私は公開で質問した以上は、全国の閲覧者が呉市の対応を待っておりますので、1 人で出かけて館側と話をまとめて来る気なくお断りしました。すると次のメールがきました。

お宅へ伺いますと

佐伯 邦昭 様

 現物を前にお話しをしようと思いましたが、ご希望ならこちらから佐伯様のところへ伺います。

   平成17年6月29日
                                          呉市海事歴史科学館

 来てくれと希望など言った覚えはありません。うしろめたい気持がないのなら、堂々と電子メールで答えてもらいたいので、これもお断り申し上げ、通説とは異なる大和入渠時期の根拠を、メール回答を求めました。

2005/07/01 のメール

 メールをいろいろいただきありがとうございます。

 メールだけではなかなか説明しにくいので、現物を前に説明しようと思っているだけでございました。

 ちなみに、10分の1戦艦「大和」の向きでございますが、艦尾側が海になっております。したがって模型の向きはドックに入渠する入船状態となっているものです。

                                       呉市商工観光部海事歴史科学館

2005/07/09 のメール

 メールをいろいろいただきありがとうございます。

 エントランスに向かっている10分の1戦艦大和の向きにつきましては、昭和20年2月に呉海軍工廠に入渠した入船状況を再現しておりますので、再度お答えします。

 また、零戦や海龍等につきましては、来館者の動線を考慮して、よく見ていただける位置に置いてあります。今後とも、ご意見がございましたら、直接、当海事歴史科学館へお寄せください。

                                        呉市商工観光部海事歴史科学館

時期の新説は複数証言だとする回答

 7月8日付及び7月9日付のメールについてお答えします。

 昭和20年2月に戦艦「大和」が呉海軍工廠に入渠したことにつきましては、当時の呉海軍工廠の職員及び乗組員の複数の証言によるものです。なお、改装・修理や整備で入渠するのは、「造船船渠」ではなく、「第四船渠」でありました。
 また、零戦の発注に関する業者名簿や呉市科学館資料委員会の名簿につきましては、メールではお答えできません。
                                        呉市商工観光部海事歴史科学館

更に

 昭和20年2月に戦艦大和が入渠したことを証言していただいた関係者のお名前等につきましては、個人情報でもあり控えさせていただきました。

                                        呉市商工観光部海事歴史科学館

 敢て4本のメール回答を並べてみました。

・ ウ 大和の向きをめぐる混乱

 回答中の「艦尾側が海だ」というのも苦し紛れのこじつけのように思えます。市長がわざわざ「エントランスに向かって」と前置きしている真意は、大和ミュージアムの正面玄関に向けて来館者に敬意を表しているということを言いたいのだと推察します。

 一般に、海軍(海上保安庁を含む)は正客を桟橋から迎えいれるのが慣わしです。江田島の幹部候補生学校でも正面玄関は陸地の門ではなく桟橋の方です。つまり海軍で言うエントランスは海側なのです。大和ミュージアムで言えば陸地の玄関(JR 呉駅側)ではありません。だからこの理屈もおかしいです。

 しかし、いずれにしろ逆光で写真撮影に困っている入館者にはそんなことは殆んど関係がありません。具体的な言い訳を聞かされる訳でもなく、ぶつぶつ言いながらもあきらめて艦尾側から順光で撮っておりますよね。よほど特殊な艦艇は別として特に軍艦は艦首側から観望するのと艦尾から見るのとでは印象に雲泥の差があります。

 時代錯誤かもしれませんが、軍艦マーチだって、波頭を蹴立てて向ってくる印象があるからこそ口ずさんで出てくるのではありませんか。その艦首・菊の御紋章を薄暗い奈落の方に向けた展示は決定的なミスです。

 私は、大和ミュージアムの建築設計コンセプトで省エネ等の観点から南側全面をガラス採光とした時に、大和の菊の御紋章側が物凄い逆光になるという予測がつかず、展示設計との十分な刷り合わせを怠ったのが最大の原因だと思っています。

・ ウ-1  『昭和20年2月に戦艦「大和」が呉海軍工廠に入渠したことにつきましては 、当時の呉海軍工廠の職員及び乗組員の複数の証言によるものです。』について

 私は、こういう文書を書く人間が歴史科学を扱う職員だということに唖然とします。こっちは、文献の証拠をあげて、2月入渠説の根拠を問うているのに、2週間あまりも考えた末の言い訳が『職員及び乗組員の複数の証言』ですと。定説を覆す重大な要件について、たったこれだけの文句で相手を納得させようとするのですか。もっとも艦船学界ではこの程度の論理が通用するのなら仕方がありません。

  ウ-2  『昭和20年2月に戦艦大和が入渠したことを証言していただいた関係者のお名前等につきましては、個人情報でもあり控えさせていただきました』について

 証言者の個人名を挙げてくれなどとはひとつも頼んでおりませんよ。すくなくとも20年2月入渠説を市長名で公表させた以上は、証言を取り、それらの証言を裏付けるべく研究した結果でしょうから、内容を聞かせろと言っているのです。都合よく質問をすり替えないで頂きたい。それは戸高一成氏自身の著書の内容をも覆すことなのですから。

・ ウ-3  『零戦の発注に関する業者名簿や呉市科学館資料委員会の名簿につきましては、メールではお答えできません。』について

 零戦は別稿で詳しくやっていますが、あまりにもばかばかしい回答なのでちょっと触れておきましょう。検査して物品を受領し代金支出済みの事例において、呉市は業者名や支出額を公表できないのですか?  じゃあ聞きますが、大和ミュージアムの設計監理業者、工事請負業者(特定建設・空調設備・給排水設備・電気設備・昇降機設備・大和1/10 模型建造工事)の名前もメールでは教えられませんか? 何やら工事現場にも掲げてありましたし、祝開館の地元新聞広告にもでかでかと出ておったように記憶しますが。

・ ウ-4  「また、零戦や海龍等につきましては、来館者の動線を考慮して、よく見ていただける位置に置いてあります。」について

 零戦や海龍が来館者の動線を考慮して、よく見てもらえる位置に置いたのなら、なぜ大和を、ごく普通のカメラ好きの日本人が撮影に困惑するような向きにしたのですか。答えが主旨一貫していません。人々に見て貰う科学館として、あの逆光は致命的であることを、そう思っている多くの人たちの声を代弁しておきます。

・ ウ-5  『改装・修理や整備で入渠するのは 、「造船船渠」ではなく、「第四船渠」でありました』について

 はい、艦船素人の私は船台ドックと修理ドックの勘違いなどありました。だから大和問題について、本気で呉市海事歴史科学館と問答するつもりはなかったのに、呉市のほうから仕掛けられたから、新たに生じた疑問は疑問として問いかけているのです。これは、航空史と同じことで、間違った歴史記述は正さなければならないという信念です。懇切丁寧に答えたらどうですか。

 エ  館の職員も昭和20年2月入渠とは書かない

 上記やりとりのおよそ1年後、2006年5月26日発売の双葉社「大和ミュージアム徹底ガイド 戦艦大和と連合艦隊 協力 大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館) 」というムックが出ました。そのp149 に次のように書いてあります。

「1月3日呉工廠を出渠、瀬戸内海にて待機訓練2月10日第2艦隊第1航空戦隊に編入 3月19日呉付近でアメリカ艦載機と交戦」

 協力が大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)と明記され、執筆者の中に呉市海事歴史科学館職員の斉藤善朗の名が見えるので、同館の公式見解とみなされます。 ならば、斎藤氏はなぜ昭和20年2月入渠説を書かないのでしょうか。あるいは、戸高一成館長はなぜ注意しなかったのでしょうか?

・ オ  戸高一成氏は歴史を捏造した

 昭和20年2月入渠説を、小笠原市長に公言させ、その根拠は複数の証言によるものだと言いながら具体的な事実を立証できず、著書には、その説を書かせないという諸々の行動からして、昭和20年2月入渠説が歴史の捏造であることが明瞭になりました。

・ カ  科学者及び公務員たる館長の資格があるのか

 まずは、戦艦「大和」研究の第一人者という看板ですが、このような根拠のない歴史を作文する人が第一人者とは、日本の 艦船研究者も地に堕ちたものです。自分で埋めた土器破片を発掘して名をあげた偽学者と同じレベルです。

 また、呉市海事歴史科学館館長すなわち呉市職員としての資質ですが、地方公務員法第33条信用失墜行為の禁止規定に触れる可能性があります。戦艦「大和」研究の第一人者として招聘され、かつ大和ミュージアム盛況の渦の中でもてはやされ、 相当のおごりがあるものと見えます。でも、歴史を捏造する人間に地方公務員の資格はありません。呉市役所は速やかに処分を検討すべきです。

 戸高一成氏が大和ミュージアム盛り上げの功労者の1 人であることは認めますが、嘘をつく態度に対し、呉市の中にはその功労におびえて館長に直言できる人材が いないし、或いは大和ミュージアムが盛況であれば、戸高の嘘などどうでもいいという無責任主義がはびこっているのでしょう。


第2節  米軍撮影の大和写真発表の大嘘 他人の発見を横取り    2-2

・ ア  記者会見をしてまで大々的に嘘発表 追随したマスコミの誤報

・ イ これに関してコーキ雲に寄せられた2通のメール

・ ウ  報道発表のウソ 他サイトでも立証

・ エ  (財)日本博物館協会の研究誌へ偽りの上塗り

・ オ 読売新聞が戸高一成館長の嘘を間接的に裏付け

・ ア  記者会見をしてまで大々的に嘘発表 追随したマスコミの誤報

 呉市海事歴史科学館は、2006年7 月3日、沖縄特攻の五時間前徳山沖で米軍のB29偵察機が上空から撮影した戦艦大和の写真を記者発表し、同日と翌日のテレビ新聞あるいは雑誌丸などで大きく報道されました。

 しかし、これは嘘です。 既に5年前の空襲通信という冊子に、当該写真のことが発表されており、関係者には周知の事実でありました。左の記事のように大和ミュージアムが主体で見つけ出したのでは決してありません。


空襲・戦災を記録する会発行 空襲通信 第3 号 2001/08/11 発行 p39 の記載から


  〜4 月6 日の戦闘任務第121 号は瀬戸内海と関門海峡の船舶航路の写真撮影を任務としていた。4 月6 日午前1 時58 分にグアムの北飛行場を離陸したF-13 は、午前10 時頃、徳山沖の北緯33°57′-131°45′で大和を発見した。

                              筆者:徳山工業高等専門学校  工藤洋三教授

 実際には、徳山工業高等専門学校の工藤洋三教授が米軍の作戦任務報告書及び損害評価報告書の膨大な資料の中から見付けたもので あり、呉市海事歴史科学館がこの存在を知ったのは呉戦災を記録する会の 一会員が持ち込んだことによるものです。

 各社がスクープ扱いでこの誤報を一面などに大きく報じた中で、朝日新聞だけは33面の小さな記事 にとどめていました。それは、工藤教授に面識のある記者が疑問を感じて先生に問い合わせた結果だということです。

(それでも、朝日は大和ミュージアムの依頼で工藤教授が探したという誤りを犯しています。事情を正直に話すと迷惑を受ける人がでてくるというので、先生がぼかして答えたためだそうです。 )

・ イ これに関してコーキ雲に寄せられた2通のメール

 A さんから

 徳山沖の「大和」の米公文書館所蔵の米軍空中偵察写真については、実は 2005年12 月に世田谷区の日大で開催された「地図と写真で見る日本の空襲 きく・まなぶ・つたえる」にて、呉軍港在泊時の時のものや横須賀軍港沖の空母「信濃」と共に、引き伸ばし版の写真パネルで見ることができました。販売もされましたが1枚数万円〜数十万円もするので、私は断念しました。

・ イ  B さんから

 徳山工業高等専門学校の工藤洋三先生による「写真が語る 山口県の空襲 米軍が記録した偵察・攻撃・損害」のなかに既に同じ写真が公表されています。奥付による発行日は8 月25 日となっていますが、かなり前から周南市の書店で販売されており、工藤先生が米国から持ち帰り編集印刷した期間を考えると相当の日数があるとおもわれます。(190 ページにわたって各ページに詳細な考証と解説つきの写真が掲載されています)

・ ウ  報道発表のウソ 他サイトでも立証

 呉市海事歴史科学館戸高一成館長の偽りの発表については他サイトでも検証が行われています。
 岡崎鎮生さんの
「真実・戦艦大和沖縄特攻 出撃前の戦艦大和発見を伝える中央紙が波紋をひろげたhttp://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/yamato/imperialfleet/yamato.htm
をご覧ください。

 また鳥飼行博研究室サイトの 「戦艦大和天一海上特攻の真相」においても、大和ミュージアムが発見と書いたのは間違いであったとお詫びしているそうです。(新聞は,呉市海事歴史科学館の依頼を受けて探し出したと誤報(2006/7/03)。)

・ エ  (財)日本博物館協会の研究誌へ偽りの上塗り

 その後、戸高氏は日本博物館協会の機関誌へまことしやかなウソを寄稿しました。その内容を分析してみます。(財)日本博物館協会「博物館研究 3」 Vol.43. No.3 2008 から抜粋

  コレクション 呉市海事歴史科学館  戸高一成

 〜 大和に関する写真であれば、どんなに小さくとも、部分的でも集める必要がある。このような意味から、昨年春には(問題点@)アメリカ国立公文書館(ワシントンDC)に行き、B29(問題点A)に依って撮影された大和の写真を入手した。(問題点B)この公文書館には、戦時中の偵察写寡などのオリジサルネガフィルムがそのまま保存されていて閲覧出来るのであるが、驚くことにそのネガフィルムは、一コマの大きさが新聞紙を広げたほど(問題点C)あり、これが数十コマ写ってロールになっているのである。この公文書館には、私は公用私用で10 回ほど通ったが、流石に、ネガフィルムー本を台車で運んでくるのを見たときにほ驚いたものである。同時に、このような資料まで完全に整理されていて、請求すればすぐに提供される機能に、言いようのな い羨ましさを感じたものである。

問題点@  F-1 の新聞記事サンプルを見ていただきたい。各紙とも6月下旬に職員を派遣したと書いています。戸高館長自身が春に行って見付けたという発表ではありません。

問題点A  B29 で間違いではないですよ。しかし、大和を撮影した時のB-29 の正式名称はボーイングF-13A 戦略偵察機です。後にRB-29A と改称されますが、アメリカへ出かけて調査する博物館館長ならこの程度の知識は持ってもらいたいです。

問題点B  F-1 で明らかにしているように、写真は工藤教授が最初に発見したものです。仮に戸高館長が自身で入手したものとすれば、工藤教授が知人経由で入手方法を教えたことによるらしいと思われます。

 工藤教授は、 日本空襲に関する研究の過程で米軍の沖縄作戦に至る綿密な空襲と機雷敷設行動の基になる第3 写真偵察隊の記録をすべて踏破しています。その中から数百枚のフイルムを抜き出し、奇跡的に大和艦影を見つけました。海上のゴミみたいに見える艦隊の写真は、徳山湾の地形を熟知しているものでないと絶対に発見できないそうです。また、現物フイルムは他州の保管庫からワシントンDC へ運んで貰ってチェックすることになります。ワシントンDC の公文書館には現物は常置してありません。

 戸高流にいとも簡単に「入手した」という表現は著しく誤解を与えるし、工藤教授に対する礼を失しています。

問題点C  揚げ足とりになるかもしれませんが、表現の問題です。

 戸高氏の表現 一コマが新聞紙を広げたほど  そうなら16インチ×21インチとなる
 実際には
 F-13 搭載のK-18 カメラとK-22 カメラのネガサイズ  09インチ×18インチ
 F-13 搭載のトライメトロゴン用カメラとK-17 カメラのネガサイズ  09インチ×09インチ

 実際には「新聞紙を広げたほど」よりもはるかに小さいことがおわかりでしょうか。これらのファイルムは高さが9.5インチ程度の円筒形の缶に入れてあるそうです。「新聞紙大のロールフイルムを台車で運んできた」とは、博物館の科学者にもあるまじき白髪三千丈式の誇大表現です。

 戸高館長は公用私用で10回ほど通ったと言っていますので、行ったことはあるのでしょうが、自身が言う「2007 年春」又は新聞発表の「2007 年6 月下旬」に行ったのかどうかはきわめて疑問であり、仮にそうだとしても、自身で当該写真を新発見したのでないことは確かです。

 まさか、ヒコーキ雲の指摘を受けて偽りを本物にするべく、事情を知らない博物館協会の機関誌を利用したのではあるまいか‥?と疑われても仕方がありません。 なお、この点に関して日本博物館協会へ抗議しましたが、筆者本人へ聞けとの答えがあり取り合ってくれませんでした。

・ オ 読売新聞が戸高一成館長の 嘘を間接的に裏付け

 読売新聞の10月7日付西部本社版に「米偵察機がとらえたヤマグチ@」という大塚晴司記者による5段の記事が載り、大和の写真を徳山工専の工藤洋三教授が発見したものであることを詳しく述べています。そのさわりの部分は次のとおりです。

 「これらの写真をワシントンの国立公文書館で見つけた徳山工専教授の工藤洋三さん(56)は  〜 1994年から私費で米国へ渡り 〜 国立公文書館とアラバマ州のマクスウエル空軍基地史料館などで、写真やネガフイルム、文書を一点ずつ確認。必要な資料に行き当たるとデジタルカメラで接写し、一日に2000回シャッターを切ることもある。〜」

 記事には、戸高一成館長が発見したなどとは一行も書いてありません。

 実際、佐伯が工藤教授に直接聞いた話でも、米軍戦略偵察報告書などを丹念にあたる中で、大和出撃の4月6日に四国から瀬戸内海を横断して撮影を行ったボーイングF-13の軌跡を知り、ネガフイルムをマクスウエル空軍基地史料館から取り寄せて貰い、ゴミみたいに写っている艦影を発見したということです。それも、徳山周辺海域の半島や島々の地形を知っているから特定できたものであって、他人ではまず不可能だろうということです。

 工藤教授が持ち帰った写真は、空襲・戦災を記録する会から流れ、戸高館長がウソ発表するはるか前に日本大学で展示されたり、工藤教授の著書に掲載されたりしています。

 戸高館長がウソ発表をしたり、ウソ原稿を書いたりするのは自分の売名行為以外のなにものでもないと推定せざるをえません。噂では、呉戦災を記録する会の誰かが大和ミュージアムに持ち込んだけれども、その人は非常に立腹しているとも‥ 
 こういうことには、やっかいな人間関係がつきものですから、それ以上の追及はしませんが、工藤教授の名誉を著しく毀損している戸高
館長の行為を、皆さんはどのように思いますか?


第3節 漫画チックなちぐはぐ 艦載機を積ん だままドック入り   2-3

 2006年6月、大和1/10 模型を提案しながら志半ばで逝去された艦艇模型作家の河井登喜夫さんの遺作である零式水上観測機1/10 模型が展示されました。写真のとおり長さ95cm、幅110cmの見事な作品です。

  大和も喜んでいるでしょうが、しかし、インターネット航空雑誌ヒコーキ雲としては当然ながら釈然としません。それは、呉市長と戸高一成館長が、大和の展示は昭和20年2月に第四船渠に入渠した状態を示すと公言していることと矛盾するからです。
 修理ドックに入れば艦上は資材や何かで大混雑状態になるはずで、艦載機をカタパルトに置いたまま入渠するなんてありえないことです。何も知らない観覧者を見世物で釣っているいやしい根性としか思えません。

 ついでに、艦上には何種軍装か知りませんが、士官人形が2体置いてあります。艦の大きさを示すメルクマールのためでしょう。しかし、ドック入りでごった返している時に、このようなのんびりスタイルで甲板を歩いていたら工廠監督官から嫌みの一つも出るのではないですか?

 私は、零水観の模型も人形も悪くはないと思っています。要は、艦の置き方を昭和20年2月に第四船渠に入渠した状態だなどと強弁することをやめてもらいたいのです。素直に、歴史捏造の非を認め、超逆光の位置に置いてしまって申し訳ありませんと頭を下げれば済むことです。


第3章 大和以外のもろもろ    3-1

第1節  でたらめな呉海軍工廠地形模型

 元工廠職員の 須賀雄介氏から大型資料展示室にある地形模型について投稿

 

 
この地形模型を見て驚きました。何を参考にしたのか分りませんが、ざっと記憶をたどっただけで、次のような問題点が浮かび上がりました。

@ 「工廠第1〜第3門」とされているのは「工廠」ではなく「軍港第1〜3門」です。これが工廠門とすると海兵団・鎮守府などが工廠内にあることになります。軍港門それぞれには呉警備隊の衛兵詰め所があり、終日衛兵が立っています。

第1門は眼鏡橋(JRガード)をくぐった直ぐの所で、ここから入ってまっすぐ南に行くと工廠北門、(第4船渠のすぐ北)です。その他に工廠には東門、中央門、南門と計4箇所の門があり、そこには守衛詰め所があって出入りを厳重に監視しています。私は軍港第1門〜鎮守府前〜工廠中央門という経路で通勤しました。

A 電気部と水雷部の表示位置が逆です。

B 「呉工廠本庁舎」と表示のあるところは「総務部庁舎」のことです。この庁舎位置周辺が「工廠中央」とされ、ここより北を造船方面。南を造兵方面と呼んでいました。しかしこんな呼称は所掌範囲の広い総務部・会計部(特に材料課)以外では一般的ではないかも知れません。

C 鎮守府に隣接して「海軍経理部」や練兵場東側道路沿いには「呉軍法会議」があり、海兵団南に隣接して呉警備隊・呉潜水艦基地隊などがありました。

D 造兵方面の工場名表示が寂しいです。「大和」の砲身・砲塔・弾丸を作った工場位置の表示が無いのは「大和」が売り物のミュージアムの工廠地図としては無視できない手抜かりで、隔靴掻痒の感を禁じ得ません。

E 「製鋼部」とある周辺には第1〜3製鋼・電気製鋼・甲鈑・鋳造等の各工場があり、さらには砲熕部の砲身・砲身焼入れ・鍛錬・第2・3弾丸各工場、左端の魚雷実験部右には「第2水雷組工場」があり、さらに鋼材・窯業資材の置き場(露天)などがありました。

F 工員養成所・技手(ぎて)養成所の近くには「工廠神社」がありました。

参考までに「造兵方面」の思い出せる主要工場名・所在地を番号で示しておきます。

図の建物区切り、道路状況が実際と異なるので多少の思い違いがあると思いますが、大きい間違いはないと思います。

@ 水雷部第2組立工場  A 石炭揚陸岸壁  B 第2弾丸工場(以下「工場」省略) C 砲身焼入れ  D 砲身(大和主砲製作)   E この一角に第1〜3製鋼・電気製鋼  F 鋳造 G第3弾丸(大口径砲弾専門)  H 甲鈑(大和の装甲製作?)  I 砲塔(大和のも勿論)

 J 砲架  K 筆者の所属部署  L 製鋼部庁舎   M 第3酒保(従業員用日用品・雑貨・菓子類等販売。こんなに大きくない)  N 精密兵器  O 砲熕部庁舎  P 第1弾丸  Q 二次電池(主に潜水艦用)   R 潜水艦岸壁(新造艦の電池搭載は必ずここで)  S 電気部器具工場 (21 の一帯に水雷部組立・機械・銅・メッキ・縦舵機等の工場が密集している)

 「水上機母艦日進」の文字が見えますがどう言う意味でしょうか? その下の「繋船堀」で日進の艤装はしましたが・・・。ここでは八幡丸・新田丸・シャルンホルストの3隻の空母への改装工事を行いました。

 以上の様な投稿が寄せられて発表しましたが、2007 年7月現在、水雷部と電気部の表示が入れ替えられていほかは手が加えられた形跡はありません。実際に働いていた人が、その地形模型には疑問ありと声を発しているのですから、普通の博物館なら、その人に接触してもっと詳しくと謙虚に教えを請うのではないでしょうか。

 須賀雄介氏がいい加減なことを言っていない ことは、当時の各工場ごとの職員バッジのデザインを記憶されていること等でも確かです。航空史探検博物館呉市を参照してください

多少の改善 下記参照


第2節   投稿 科学者の名が泣く大和ミュージアムの展示   或る海事専門家   3-2

@  金剛のヤーロー式罐に書いてある給水方法だと罐は壊れます

 戦艦金剛に搭載されたヤーロー式ボイラー実物の説明に『給水ポンプ水ドラム→蒸発管→蒸気ドラム→タービン』とありますが、『給水ポンプ→蒸気ドラム→降水管→水ドラム→蒸発管→蒸気ドラム→タービン』としなければ、罐が壊れてしまいます。

 つまり、蒸気ドラム→降水管→水ドラム→蒸発管→蒸気ドラムと循環させ管が重油バーナーの高温で損傷しないようにしてある訳で、これでは海事歴史科学館の科学が泣きます。

多少の改善 下記参照

A 回天10型試作艇

 ハワイの中古車センターに飾られていた魚雷がいつの間にか回天10型試作艇となって展示! ハワイで想像でハッチと潜望鏡をつけたものを、マスコミが特殊潜航艇だの回天だの報じたため、京都の湯豆腐屋が購入して展示し、2002 年に回天10型試作艇として呉市に寄贈したシロモノです。外殻を想像で付けたものらしいです。実物の10型は完成せず、かなり謎があるのですが大和ミュージアムにはそんなことは書いてないですなあ。素人細工を本物に見せる欺瞞!

幾ら戦争末期とはいえ、海軍工廠の溶接技術はこの程度だったのかと誤解させる偽物展示

素人の板金細工に過ぎない偽物展示



B 戦艦大和の模型は海賊船か

 模型の大和には軍艦旗が掲げてないから、国際法上は海賊船とみなされても仕方がありません。国際法上の軍艦(定義)公海条約第8条2項(国防用語辞典。防衛学会編)によると

(1) 一国の海軍に属する船舶であること。

(2) その国の国籍を有する軍艦であることを示す外部標識を掲げること。(軍艦旗又は国旗)

(3) 政府によって正式に任命されてその指名が海軍名簿に記載されている士官指揮下にあること。

(4) 海軍の規律に服する乗組員が配属されていること。

ということで(2)が実施されていないので海賊船となります。ボランティアガイドは、うるさい連中が騒ぐから旗を掲げていないのだと言っておりましたが、艦首の菊のご紋章や載せてある零観の日の丸には文句をつけられないのかしら。うるさい連中もヘンな連中ですなあ。

多少の改善 下記参照


第3節  歴史の捏造など朝飯前の館だからこそできるお笑い一席  年号の単純ミス 3-3

潜水艦の説明板

そのクローズアップ

孫とおじいちゃんの会話

孫 おじいちゃん 太平洋戦争で日本が負けた1945 年は、昭和何年だったの?

祖父 昭和20 年だよ。そんななことも近頃の学校では教えないのか。

孫 教えてるよ。でも、あそこを見てよ。昭和20(1942)って書いてあるじゃないの。

祖父 ナニナニ うーん、なるほど、起工から竣工まで、ぜんぶ3年ずつずれておるのー。イ号401 潜水艦が1942 年 えーと昭和17 年に完成しとったら、晴嵐がパナマ運河を爆撃して戦況はぐんとかわっていたろうに。いや伊号は完成しても飛行機がまだ計画段階か? 待てよー 伊号も図面を書き始めた頃じゃないか‥

孫 おじいちゃん なにをごちゃごちゃ言ってるの?

祖父 ごめんごめん、科学館ともあろうものがこんな不見識な説明を出しおって、パンダみたいな大和10 分の1模型に釣られて来てみたが、ここは教育上良くないワイ。

 博物館等の開設初期にはよく見られるうっかりミスです。寅さん流に言えば「知らせてくれた人にお礼のひとつも言って直しておけば済む事よ」です。しかし、ここまで大きく馬鹿にされて取り上げられるのは、 呉市の不誠実な対応、殊に大和入渠の歴史を捏造しそれを取り消そうともしない戸高館長のもとで動きがとれない海事歴史科学館にすべての原因があります。

改善 下記参照


第4節  魚雷の材質のうそ      投稿     3-4

九三式魚雷スクリューのレプリカ

本物の九三式魚雷

  日本海軍の九三式酸素魚雷は、当時の世界最高傑作と言われています。大和ミュージアムのスクリューの写真を見ると、明らかに間違った加工をしているのが残念です。スクリューを真鍮色に塗装したように見えますが、もしそうだとするとこれは大間違いで、ホンモノは真鍮製ではなく鋼鉄(品種名不詳)の鍛造品をぴかぴかに仕上げ加工した物です。

 実物は、ブレードの縁にはカーブは殆ど無く直線的で、羽子板の板の部分のように逆テーパーで角に丸味があります 。材質は明らかに鋼鉄製です。

 艦船のスクリューは、長期使用するので耐海水性の強い真鍮(工廠にはこの名称は無く黄銅)製ですが、1回使用使い捨ての魚雷スクリューに貴重な 黄銅を使うなど断じて無く、この点は諸外国も同様と思います。その点でレプリカの真鍮は間違いです。

 参考までに、呉海軍工廠で野積み状態だった魚雷用スクリュー素材 をスケッチしてみました。このような形で色は焼き入れ地肌でチョコレート色。これを何工程かの繰り返し鍛造で原型ができますが、この鍛造時点でピッチ角は既に出来上がっています。図の対角線がブレード軸線になります。

多少の改善 下記参照

        

付   2008年秋以降    3-付
    インターネット航空雑誌ヒコーキ雲の指摘を受けて改善したと思われるもの列記

● 呉海軍工廠地形模型

 呉海軍工廠地形模型において多少の修正はあるようですが、最も肝心な工廠第1〜3門の間違いも依然として修正されていません。これらは軍港第1〜3門であって呉鎮守府の門です。工廠関係者はこの軍港門を通って呉海軍工廠と大書した看板のある中央門(表門ともいう)または東、南、北の各工廠門から(厳密には門横の調査場から)出入りしました。

 この地形模型どおりだと、鎮守府が工廠の中にあることになり、鎮守府の連中は我慢ならないことでしょう。全くお笑いの性格の違うものをいつまで放置しておくのでしょうか。

● イ号401潜水艦説明板

 下記の通り修正されていました。もちろん当方には一言も連絡はありません。

● 金剛のヤーロー式ボイラーの説明   専門家の指摘をうまく避けたような文章に変更

● 公海条約第8条による国旗と軍艦旗が大和模型にも掲げられました。

● 九三式魚雷

 魚雷のスクリューには艦船のような真鍮は使わない、鋼鉄の削出しであるという指摘を読んだからでしょう。九五式二型魚雷のスクリューが真っ黒に塗られました。随分高価な真鍮をもったいない話しですが、これを設計製作した業者や担当職員へのペナルティはあったのでしょうかね。


 付け加えるならば、同じ部屋に雑居する海龍、九三式魚雷、各種砲弾とともに零戦とそのエンジンも本物です。

 しかし、ボランティアの話では、戦艦大和の部屋からここへ入ってきた人の大半が零戦も大和と同じように模型だと思うそうです。日本最高級の傑作戦闘機も可哀想なものです。

 模型の大和と、実物の零戦や海龍のどっちの価値が高いか「科学館」を名乗る呉市に聞きたいです。大和ミュージアムのパンフレット表紙には「東洋の軍港呉が生んだ世界最大最強の戦艦大和がここに蘇る」と書いてあります。
 
 東洋の軍港呉というのもよくわかりませんが、世界最大最強の戦艦大和と映画宣伝みたいに威張っている文句も気に入りません。世界最大は当たっているのでしょうが、最強の戦艦というのは何を根拠にしているのでしょうか。大和も武蔵も海戦で敢え無く沈没してしまったのに、なお最強であると意気がっているのが見世物小屋みたいな程度の感覚にしか思えません。

科学館を名乗る資格はないと思いますね。

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第4章 呉市役所の体質      4-1

第1節  聞き捨てにできない噂もある

 呉零戦の修復業者への質問から発した呉市長ないし海事歴史科学館とのやりとりは、当方が一方的に無視される形で連絡が途絶えました。指摘を受けて館内の問題を改善をされたのかどうかもわかりませんが、全国の心ある方々には、呉市の体質、大和ミュージアム館長以下の頬かむり体質をお分かりいただいたようです。注目して見ている、負けずにがんばれと言ってくれる人もあります。逆に、そうではない、佐伯の方がおかしいのだ、佐伯とは縁を切れなどと扇動している人の情報も入ります。心の狭い人間はどこの社会にもはびこっていますから、驚くことでもありません。

 それらについて呉市関係者以外の方々とこの誌上で論争する気はありません。ひたすら呉市側の対応を促しているのであって、人々の反論や抗議を載せれば泥仕合になるだけですから、掲載もしておりません。(もっとも反論メールの殆どは公開拒否でした)

 また、呉零戦の修復や展示を否定しているわけでもありません。

 「学術調査の結果六二 型と判明した、吾妻中尉機と判明した」というから、その学術調査の内容と考証の結果とそれに基づく修理作業の内容を一般に公表するのが公的科学館の使命だろうと言っているだけです。

 予算が少なければ、その範囲内で精一杯努力した結果を示せばいいのです。 噂ではその予算の半分を誰かに持っていかれたとかという話しも聞こえます。あるいは、 展示当初にあのままでは某重要箇所がゆがんで機体が壊れるから徹夜で修理してあげたとか、非常識なまがい物をはめ込んでいて、国内はもとより外国の復元関係者には恥ずかしくて見せられない等々の話しも聞こえてきます。

 これらを聞き捨てにしますか?

 呉零戦が客寄せパンダであろうと、考証ミスがあろうと、作業が少々ずさんであろうと、あそこに零戦を展示してくれているだけで満足という多くの声があることは否定しません。個々の入館者がどう受け取ろうとそれは自由ですから。

 戦艦大和1/10 模型についても、その展示を否定しているわけではありません。多くの入館者が逆光状態での撮影に困っているから、それを指摘したら、戸高一成館長が 市長をして新説(うそ)を通告させ、自書にも書いていない歴史捏造をしたから問題を大きくしたのです。


第2節  秘書広報課長や館長が姑息な対応 をする    4-2

 2006年2月にちょっとした動きがありましたので、発表しておきます。或る日、呉市議会のA議員からこのホームページを見た、詳しい話しを聞きたいので会いたいというメールをいただきました。

 私は、こちらから政治的に取り上げていただく積極的な気持ちは持っていないので、A議員への回答は保留して、まず呉市秘書広報課長に対して、A議員からこのような申し出があったが、どう思うか(つまり政治問題化させてもいいのかどうか)市役所側の対応を知らせるように、その間一日待つので返事を貰いたいとメールしました。

 しかし、一日待っても返事がないので、相変わらず無視の対応と判断し、A議員に何でも聞いてくれと返事をしました。インターネット航空雑誌ヒコーキ雲は世界に向かって公開しているものですから、どこの誰がどのように活用しようと、記事の範囲内であれば全く構わない訳であります。

・ ア A議員へ先回りという姑息な対応

 そうしましたら、A議員から、この件で戸高館長ほか2 人が自宅へ来たとの連絡を頂きました。話しの内容は、佐伯の悪口と自分達の行動の正しさを吹聴し、できれば議会で取り上げてくれないようにとの頼みだったそうです。もちろん、佐伯には本日に至るまで呉市からなにもありません。

 なんとも情けない姑息な手段に出る戸高氏ではありませんか。秘書広報課長も、旧態依然たる小役人根性から抜け出せていないようですね。

 戸高館長をA議員へ走らせる前に、なぜ、このコーナーで私が発している質問に対し真正面から答えさせないのでしょうか。戸高氏の方が正しくて、佐伯の思い込みのほうが間違っていると思っているのなら、堂々と返すべきではないですか。市役所の管理部門で市長を支えるスタッフが現場に遠慮しているようでは、新しい市長さんによる改革など遠い道のりでしょう。(2005 年11月就任)

 A議員宅へ火消しに行かせてしまった今、どのような対策を立てるのか、A議員のみならず全国の地方議員とお役人さんが注目しております。

 なお、私の政治思想は、右でも左でもなく是々非々、社会のさまざまな事象を自分の頭で判断して、間違っていると思えば批判するし、正しいと思えば賛成します。各地の政治家からのアプローチにも政党の如何を問わずまじめに対応しておるつもりで す。


第3節  姑息な対応を市みずら実証    4-3

 隠す必要もないので明らかにしますが、A議員は革新政党に属します。私の政治思想は、右でも左でもなく是々非々です。呉市役所に内密で事を運んで痛くもない腹を探られるのはいやなので、まずは呉市秘書広報課長にA議員から接触があったことを連絡しました。

 そうしたら、私に何の断りもなく、呉市海事歴史科学館の戸高館長ら3 人が議会で質問をしないよう揉み消しに行き、それを書いたホームページを見て、今度は秘書広報課長までも頼みに行ったそうです。きわめて姑息な対応との見方を実証してくれているわけです。

 第一当事者である佐伯に対しては、質問にも抗議にも無視して答えず、第二当事者たる議員が質問の構えを見せた途端に現場と管理部門が揉み消しに走るという、私が、旧態依然たる小役人のやることと皮肉ったとおりの漫画的構図です。

 しかし、姑息な対応や漫画的構図は、A議員に通じませんでした。A 議員は3 月4 日の呉市議会本会議で次のことを質問したそうです。

1 本来、公開しても差し支えないと考えられる情報(零戦修復の受託者など)を開示しないのは、透明性と公共性を求められる行政施設として不適切ではないか。

2 呉海軍工廠地形模型について、元海軍工廠の人から誤りが指摘されていることに対して、修整が必要ではないか。指摘が間違っているのならそのことを返してやるべきではないか。

3 市長への電子メールは、本来担当部署の対応に納得できない者が直訴するために設けられているはずである。発信者に承諾もなしに担当部署へ振り分ける(つまり市長に見せないのは)おかしいのではないか。

 だいたい以上ですが、革新系の方ですから大和ミュージアムの軍事礼賛や戸高氏の姿勢などへの言及も当然ありました。しかし、ここでは省略します。

 これに対する、戸高商工観光部参事の答弁は次の一言だったそうです。

「すべて適切に対応してきました。」

 なんということでしょう。これは質問者に対しても、広い意味での市民一般に対しても無礼極まる、実に恥ずべき答弁と言わなければなりません。大和の歴史捏造問題と呉零戦公開質問状を読める程度の国語力のある日本人なら、いちいち解説しなくてもわかるでしょう。相手が革新系であろうが保守系であろうが問題外、ここまで侮辱されたA議員が爆発しなかったのが不思議です。

 NHK テレビなどで見せた狡猾そのものの顔が戸高氏の実態を現わしていると改めて認識させられますし、呉市全体を舐めきっている本質も現われています。

 答弁を許可した議会側に言いたい。「適切」という言葉の意味を辞書をひっくり返してでも調べてみたら如何か。戸高館長が本会議へ出席を認められているということは部長級のようです。一科学館の館長が行政職の最高位にあるというのは、兼任職は別として全国でも呉市だけではないでしょうか。同席した商工観光部長(組織上は上司にあたる)が苦虫を噛み潰した顔であったかどうか、こんな人事を発令した前市長(2005 年11月退任―落選による)を心の中であざ笑っていたかどうかは知りません。

 ある程度明瞭になったことは、大和の歴史捏造問題と呉零戦公開質問状の論調が大筋において間違っていないということを、戸高氏自身が「すべて適切に対応してきました。」というはぐらかし答弁で逆に認めた形になってしまったことです。正面から答えられないからでしょう。

 通常、議員質問に反論可能な時の理事者側は、理論的に挙証しながら答弁をするものです。しかし、苦しい時の答弁は、承知していないとか調査中とか謙虚に受け留める等々の常とう文句を連ねて逃げまくります。今回、適切に対応したと真っ赤な嘘で誤魔化すモデルが戸高氏によって作られましたが、呉市以外の議会では通用するのですかね。


第4節  阿川弘之の大和ミュージアム観について    投稿    4-4

 文藝春秋の一読者から次の投稿がありました。

 文藝春秋5月号で阿川弘之さんと半藤一利さんの対談「昭和天皇 孤独な君主の闘い」に、次のような阿川さんの言葉がありました。ご参考までにメールします。

 この7年間の侍従日記を読んで、本当にいろいろ感心することがありました。たとえば開戦前には「財政面から国が行き詰まるんじゃないか」と杉山参謀総長を問い詰められる。特に経済を勉強なさったとは思えないのに、きちんと見ておられるのです。

 呉の「大和ミュージアム」が大変な人気で、僕は名誉館長なんですが、一言申しておきたいのは、「大和」は国民の巨額な税金を使って世界一にものを造って、結局何の役にも立たないまま、特攻作戦で沈むのです。それをきちんと認識した上で、日本の誇りにしてほしいですね。

 なかなか理解が難しい言葉なのです。私なりに解釈するに、海軍出の作家として名誉館長に就いたが、大和ミュージアムの展示方法がものの本質に迫っていない、ただ単に大和が世界一と薄っぺらい展示になっていることに対する苦言に聞こえますが如何でしょうか。名誉館長をしてこのように言わせる体質が、大和ミュージアムにあるのでしょう。


第5節 「大和の模型は格好よかった」という子どもの感想でいいのか  4-5

                                平成17 年8 月15 日 佐伯邦昭

 滋賀県の一個人が寄せ集めの部品でブリキ細工のような飛行機をつくり、零式艦上戦闘機として滋賀県平和祈念館へ展示目的で寄贈し、県も受け入れたというニュースがありました。それは零戦に似て非なる物体にすぎませんが、東近江市で一般公開されたという中日新聞の記事に  「戦後60年を経て再び雄姿を見せた零戦に、見学した市民は驚きの声を上げた」  とありました。

 「雄姿」という捉え方をされることに、平和祈念館構想との整合性に複雑なものを感じざるを得ません。誤解を恐れずにいうなら、平和祈念館と称する施設は一面で戦争博物館の意味合いを持ちます。加害面としての武器等を展示せざるを得ないからです。しかし、それは「雄姿」という捉え方なのでしょうか。

 2005/08/09付中国新聞呉東広島版に、呉市の大和ミュージアムの入館者50万人目で記念品を貰った小学6年生の男児の談話が載っています。

 「びっくりした。大和の十分の一模型は大きくて、格好よかった。いい思い出になった。絵日記に描きたい」と。

 「格好よかった」という感想にすべてが言い尽くされます。武器というものは、性能を極限まで追求するあまり贅肉をそぎ落とし、結果として非常に流麗な形を生み出し、そのことが多くのファンを惹き付ける魅力でもあります。「格好よかった」という感想を聞いて関係者は狂喜していることでしょう。大和の十分の一模型が入館者呼び寄せパンダの役目を十二分に果たしてくれたからです。この記事を見て入館者はもっと増えるでしょう。

 館長は新聞に「大和が平和を学ぶ史料として見詰め直されようとしています」というコメントを発表しています。外交辞令のウソをつくなと言いたい。あれを見て平和を考える子どもがいたら、ガチガチの日教組両親に育てられた特殊児か何かです。

 滋賀県関係者も、平和祈念館構想で零戦を目玉商品にしようという魂胆が無いとは言い切れないでしょう。この零戦モドキの物件を「海軍零式艦上戦闘機52型」などという表示でそのまま展示してしまったら、平和を付加価値にすれば、何でも許される戦後日本の悪しき風潮に輪をかけてしまうであろうと憂います。

 偽物であろうが、歴史を曲げようが、科学技術を冒涜しようが、平和の名の下に割り切ってしまう戸高一成流暴力 と同じです。

 大和ミュージアムの大和十分の一模型について、多くの人が「格好よかった」「感動した」と言っていること自体については、私は否定もしないし非難もしません。それが現代日本の一断面なのですから。

 そうであるからこそ関係者は科学的良心でしっかりとした思考力を養って館の運営に当たるべきだと声を大にして言いたいのです。市長をして歴史捏造発言をさせ、それを撤回することもできないような 戸高館長の大和ミュージアムに対しては、たとえ 少数意見といわれようとも平静な眼で見続けていかなけらばならないと思うのです。

   
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