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航空歴史館

― 広島吉島飛行場の歴史 ―   

佐伯邦昭

 

このページ 戦中史 飛行場の成り立ちと陸軍飛行場としての経緯
  1 吉島飛行場の成り立ち
   船舶飛行第中隊の訓練 萱場カ号T型観測機のYoutube映像 (参考) キ76三式指揮連絡機のテスト
   独立飛行第1中隊の訓練
   独立飛行第1中隊と陸軍空母 (参考) 陸軍三式指揮連絡機による航空母船への着艦訓練につい
   下志津陸軍飛行学校の移転
   第二総軍飛行班の基地 (下志津飛行学校 )
   原爆被災から終戦を経て第二総軍解体まで
A6401-11 質問箱 広島吉島飛行場に残された機体の 鑑定を
A6401-21 新 戦後史1 1945年  アメリカ軍工兵連隊によるクーリエ業務
戦後史2 1946年 オーストラリア空軍のレーダーサイト
A6401-31 戦後史3   1952年以降 グライダーの訓練と小型機の利用    協力者及び参考資料

 

吉島飛行場の陸軍部隊と主な使用機

1944(昭和19)年

1945(昭和20)年

6月

7月

8月

9月

10月

11月

12月

1月

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

  船舶飛行第二中隊 カ号オートジャイロ

壱岐へ移動

 
 

独立飛行第一中隊 三式指揮連絡機

鷹の巣へ移動

 

 千葉市から移動

下志津陸軍飛行学校 九八式直協など

 

   新設

第二総軍飛行班 一式双発高練など

 

A6430-Y1  広島県 広島市中区吉島埋立地 飛行場の成り立ちと陸軍飛行場
         Yoshijima Airport formation by the Japanese Imperial Army, Hiroshima City
   

 

戦中史 飛行場の成り立ちと陸軍飛行場としての経緯

 

 吉島飛行場の成り立ち

 後に飛行場となった土地は廣島県が策定した廣島工業港計画に基いて海面に造成された埋立地のひとつです。この計画は、廣島デルタの七つの川で区切られた地先海面をそれぞれ埋立てし、5工区約130万坪の臨海工業用地を新設し、各工区を臨港鉄道で結んで山陽本線に接続するという壮大なものでした。

1-01図 廣島工業港計画と鉄道計画図

    ■   1945年に実現した埋立地
    ■   未着手
        鉄道操車場(計画のみ)
    青線  鉄道(計画のみ)  
     赤線  山陽本線及び宇品線

 事業は昭和14年に着手されましたが、軍の命令で事業が重点化され、5工区のうち昭和20年8月までに完成したのは、江波町地先、南観音町地先、吉島町地先の3工区に過ぎませんでした。

1-02図 陸軍吉島飛行場区域

 
 江波町地先と観音町地先は、海軍の命令で埋立と同時並行のような形で三菱重工の造船所と機械工場が建設され、終戦までに戦時標準船が7隻も進水するという突貫工事でした。

 吉島町地先については、本来の計画によれば工業団地と鉄道の操車場を設ける予定でしたが、昭和18年末になって、陸軍航空本部が「吉島埋立地全部に軍事上重要施設を設置すること」と一方的に決定し、軍用飛行場に変更されました。計画では敷地29万坪、滑走路1300m、格納庫2棟という数字が残されています。

 これが廣島(吉島)飛行場の成り立ちであります。太平洋戦争遂行という国家の要請により緊急に生まれた飛行場でした。ただし、同じように緊急に設けられた全国各地の秘匿陸海軍飛行場とは趣を大きく異にします。
 (注 広島空港と混同するので、以下吉島飛行場と呼称する)

 昭和22年にB-29が撮影した写真を飛行場研究家のTRONさんに解析して貰ったところ、飛行場中央を南北に道路が縦断し、西側に滑走帯、東側に格納庫跡、兵舎跡、誘導路、掩体壕が確認できています。

1-03図  撮影1947/04/14 米軍 文字はTRONさんの推定による
 

注 空中写真の元写真は国土地理院ウエブサイトによります。以下同じ。

 

 船舶飛行第中隊の訓練     

 明治時代から軍都として発展した広島市ですが、航空部隊とは殆ど縁がなく、軍用機の離着陸も民間の興業飛行等ももっぱら東西の練兵場が使用されました。もちろん常駐機などは置いてなかったと思われます。それが、太平洋戦争の或る時期から東練兵場で萱場式カ号観測機(オートジャイロ)が目撃されるようになったといいます。

2−01図 萱場式カ号観測機(オートジャイロ) 田畑義雄軍曹オートジャイロ部隊物語から転載 関西壱岐の会許可済み

 萱場式カ号観測機は陸軍制式のキ番号がなく、着弾観測などで砲兵部隊の地上兵器と同列に扱われましたので、広島の第5砲兵連隊が持っていても不思議ではありませんが、一線部隊がほぼ前線へ出払って新兵訓練部隊しか残っていないようなところへ新型機を配備する必然性がありません。
 
 それは、広島で対潜訓練をするためのオートジャイロ部隊の先ぶれでした。
 
 県立広島商業生徒の宮野修さんは、毎日曜日に東練兵場で同校滑空部のグライダーの訓練に参加していました。
 昭和18年の中頃のこと、練兵場の東の騎兵隊の方から見慣れぬ飛行機を兵隊が押してきてエンジン試運転や慣熟飛行のようなものをしているのを目撃しました。それが吉島飛行場へ移る前のオートジャイロでした。宮野さんは液冷式と空冷式の二種類を見たということですが、カ号の発動機には液冷式は無く、量産機 のカ号1型はアルグス空冷倒立V型8気筒(240hp)で上の写真のように一見液例エンジンに見間違うのでそう思われたのでしょう。

 また、明らかに空冷に見えるヤコブス空冷星型(240hp)付きカ号2型が1機だけ試作されているので、それも広島へ運ばれていたのかもしれません。

2-02図 空冷星型エンジンの試作機 田畑義雄軍曹オートジャイロ物語から転載 関西壱岐の会許可済み

 カ号オートジャイロは 、フィリピン戦線に出動してかなり活躍したとの記述もありますが、広島における任務は、船団護衛としての対潜水艦の哨戒及び爆雷攻撃と陸軍空母への離着船訓練でした。
 吉島飛行場における部隊は、船舶飛行第2中隊と称し、熊谷や下志津で操縦訓練を受けたパイロットと、徴集兵のうちの機械知識のあるものから集められた整備兵によって編成されています。

  訓練は、昭和19年6月から12月まで、離着陸(船)訓練、三角航法(宮島→江田島→吉島など)、爆雷投下、市内天満川沿いの編隊飛行訓練などが行われました。中隊の兵舎は、安芸郡矢野村鯛尾(現広島市安芸区矢野町の六管浮標基地のあたり)に設けられ、吉島へは日々ダルマ船で通っていたということです。
 
 昭和20年1月早々、船舶飛行第2中隊に長崎県壱岐への出動命令が下り、壱岐島筒城浜を基地として朝鮮海峡関釜航路の対潜哨戒任務に就きました。以後、富山県高岡、石川県能登と転進し終戦を迎えています。従って、吉島では陸軍空母への離着船訓練も併せ行われた模様ですが、乗船して実戦に参加することはありませんでした。

実録  萱場カ号T型観測機のYoutube映像    

@ http://www.youtube.com/watch?v=pAa0dagcXkQ&feature=relmfu&hd=1

 1941年5月26日 讀賣飛行場における試験飛行
 1943年6月4日 広島における陸軍空母あきつ丸離着船テスト

A 
http://www.youtube.com/watch?v=8PUv8HThZxs&feature=relmfu

 @を短くして、冒頭に朝日新聞社が輸入したシェルバC.19Mk.4オートジャイロ の映像を加えた戦後のニュースフィルム。表題とナレーションで萱場号(旧称号)T型観測機と していますが、カ号作戦と紛らわしいために、オートジャイロの頭文字に改名した言われています。

 陸軍空母あきつ丸での映像は、1943年6月4日に広島湾宇品港沖で実施されたもののようで、バックに似島、能美島、厳島の島影が見えます。人物のクローズアップもあり、その中に試験操縦を行った朝日新聞の西堀善次飛行士と陸軍技術本部の戸田正鉄技師の姿もあるものと思われます。
 
 奥本剛氏の「日本の特殊空母(雑誌丸)」によれば、西堀氏らは、艦橋のデリックポストが邪魔になるので撤去してから実験をと懇願しましたが入れられず、左に急旋回して着艦する方法 を採ったとあり、映像を見ると、大きなローターの回転面からしてパイロットが危険を感じたのも無理はないようです。

3 独立飛行第1中隊の訓練   

 船舶飛行第2中隊とともに吉島を基地とした部隊は、独立飛行第1中隊でした。国際キ76三式指揮連絡機による対潜哨戒を専門とする部隊です。
 キ76は、前線でも簡単な整地で離着陸することを目的として開発され、モデルとしたドイツのシュトルヒに勝るSTOL性があったと言われ、陸軍は、これに着船フックを取り付け、対潜哨戒機(爆雷又は爆弾4個搭載)として陸軍空母に乗船させることにしました。着弾観測用のカ号を対潜哨戒機にしたのと同じ思想です。

3-01図 国際 キ76 三式指揮連絡機(STOL機) 図は着船フック未装着の状態



 戦局は、既に日本沿岸に米潜が出没し、海軍のみならず陸軍も対潜作戦を考えざるを得ない、あるいは、陸軍輸送船団の護衛を海軍だけに頼れないところまでひっ迫していました。
 
 艦載のキ76操縦要員は、陸軍特別操縦見習士官の中から選ばれ、昭和18225日から千葉県下志津陸軍飛行学校銚子分教場で訓練を開始し、186月頃兵庫県加古川飛行場へ移動しました。地面に飛行甲板を白線で描いたり播磨造船で工事中の陸軍空母あきつ丸を引き出したりして、離着陸訓練を行っています。

 独立飛行第1中隊として正式に編成されたのは同年7月25日で、同時に加古川から吉島飛行場へ移動しているものと思われます。広島ではあきつ丸を使っての本格訓練が行われ、海軍潜水学校のあった大竹の沖合では潜水艦を使っての演習も行われたということです。

(参考) キ76三式指揮連絡機のテスト

 1944年8月に会田智大尉が福生の航空審査部勤務となり、片倉少佐の下で直協の機種選定に当たりました。
 キ76三式指揮連絡機が九七戦と九八式直協を落として候補に残り、会田智大尉がテストを担当しました。

@ 7日間の耐久テスト
 1日目 福生―下田―石廊崎―浜松―明野
 2日目 古川ー瀬戸内海―新田原
 3日目 新田原―南九州ー芦屋
 4日目 芦屋―日本海―金沢
 5日目 金沢―新潟(郷土訪問飛行)
 6日目 新潟―秋田能代
 7日目 能代―陸前海岸―仙台―福生(夜間飛行)

A 爆雷試験
 水戸から50kg爆雷を2個積んで鹿島灘でテストした

B  あきつ丸テスト 下記参照

 会田大尉は、その後百式司令部偵察機のテスト要員になっています。

 独立飛行第1中隊と陸軍空母    

 以上(1)と(2)の事実によって、吉島埋立地が陸軍飛行場として供用開始されたのは、昭和19年の初夏からと推定されます。
 
 それにしても、なぜ吉島飛行場が対潜機の基地とされたのでしょうか。それは、広島市の宇品港に本拠を置く陸軍運輸部船舶司令部(通称暁部隊、司令官は中将)との関連、吉島が宇品に近いという地の利が考えらます。
 日清戦争宣戦布告とともにわずか16日間の工事で開通させた宇品線(広島駅〜宇品6km)により、宇品港は大陸や南方への陸軍兵士の出征拠点となり、かつ沿線に兵器補給廠、被服支廠、糧秣廠、糧秣支廠等が設けられて物資輸送の拠点にもなっていました。その船舶輸送を担ったのが暁部隊です。

 ここで陸軍空母あきつ丸(9,190t)について奥本剛氏の記述から要約しておきましょう。
 同船は上陸用舟艇大発20隻を載せる母船ですが、飛行甲板(127×21m)を備える船として建造され、昭和17年1月30日に完成し、月から南方海域への輸送任務に就いています。宇品港へは5度帰港し、回目の際にオートジャイロの離着船試験が宇品港で行われた後、更に度の航海を重ねています。

 昭和184月に上陸用舟艇母船から空母へ任務変更となり、播磨造船所で飛行甲板(116×
23m
)などの改造が施されました。その搭載機について陸軍が検討した結果キ76三式指揮連絡機が選定されたものです。
 キ76による離着船試験は昭和18年7月に播磨造船所から引き出して行われ、成功を収めました。その後艤装を経て陸軍へ引き渡され、宇品港へ戻って昭和197月から独立飛行第1中隊による本格的な訓練が開始されたものと思われます。同船の所属は当然ながら暁部隊でした。

http://www.youtube.com/watch?v=pAa0dagcXkQ&feature=relmfu&hd=1

4-01図 改造後のあきつ丸と甲板上のキ76 田畑義雄軍曹オートジャイロ物語から転載 関西壱岐の会許可済み


 一部の資料(広島原爆戦災史)に吉島の部隊名を「暁部隊航空隊(練習隊)」としているものがあり、通称的な呼び名なのか正式名かは不明ながら、暁部隊と吉島飛行場を結びつけるものとして注目に値 します。

 独立飛行第1中隊の実戦航海は、あきつ丸に8機のキ76を乗せて19年8月7日から関釜航路の対潜哨戒任務でした。しかし、さしたる戦果もあげられぬまま、11月9日にあきつ丸は南方への輸送任務を与えられて宇品へ戻り、中隊とキ76も吉島飛行場へ帰投しました。

 南方へ向けて宇品を出港したあきつ丸はその航海中に撃沈され、中隊が再び乗船することはありませんでした。あきつ丸が輸送任務についている間、中退は、福岡県雁ノ巣を基地として関釜連絡船の対潜哨戒を実施し、あきつ丸の撃沈後は、東シナ海の哨戒に従事、朝鮮大邱近くの金湖基地(海雲台説もある)にて終戦を迎えました。


(参考) 陸軍三式指揮連絡機による航空母船への着艦訓練について 古谷眞之助 

 「天翔ける青春」鈴木五郎著(2003325日発行、出版社名なし)の中に、当時陸軍特別操縦見習士官だった慶応大学出身の朝比奈貞八郎氏による「対戦哨戒用、三式指揮連絡機に乗って」と題する記事が出ています。

  三式指揮連絡機は現在で言うところのSTOL機であり、当然低速性能が良かったことから、この部隊の43名のうち18名は日本学生航空連盟出身のグライダー経験者によって占められていました。

 朝比奈貞八郎氏によれば、「昭和198月より瀬戸内海で離着艦、爆弾投下訓練を行った」とあり、「近代世界艦船辞典」にある「昭和1981日、相生沖で初着艦ら成功」という記述の裏づけになります。また、「あきつ丸」への同機搭載機数は8機としており、これは「日本航空機辞典」の8機に一致しています。興味深いのは離着艦の模様で、氏は以下のように記しています。

  「発艦はブレーキをいっぱいに踏み込んでエンジンを全開にし、ついでブレーキを離すと、向かい風だと40メートルほどの滑走で離陸できた」

 「着艦は第四旋回を終え、甲板上の誘導灯を見て操作し、8ノットで進むあきつ丸の真上100メートルでスロットルをしぼって降りてくると、船尾近くに着くことができた」

 資料では「あきつ丸」は最速21ノットとあります。通常艦載機が離艦する際には風上に向かって全速航行するはずなのに、なぜ8ノットなのか分かりません。狭い瀬戸内海での訓練なのでスピードを落としていた、あるいはそもそも最速にする必要がなかったからでしょうか。

 また、記述にある「真上」を、あきつ丸の中央の線上とすると、高度100メートルで船尾近くに着艦できたということは、甲板長が116メートルですから、底辺58メートル、高さ100メートルの三角形の為す角度で降りてきたことになります。
 作図して分度器を当てると降下角60度になります。グライダーでもこんな降下角では降りません。三式指揮連絡機の失速速度は3640km/hと資料にありますが、いかに低速性能に優れていたかが分かります。グライダーは、現行のもので失速速度は6070km/hですから。

4−01図

    キ76の設計に当たって参考にしたドイツのシュトルヒのデモテープ

  http://jp.youtube.com/watch?v=VDcB0pSUYOI&feature=channel

 

5 下志津陸軍飛行学校の移転  

 千葉市において偵察航空の教育を行っていた下志津陸軍飛行学校は、1944年6月に下志津教導飛行師団として特攻基地化の道をたどり、菅谷忠克氏の記録(別冊一億人の昭和史 陸軍少年飛行兵)によると、1945年2月に飛行学校本部要員、軍属から女子挺身隊までが吉島飛行場へ移動しました。

 吉島では、飛行場営門に下志津陸軍飛行学校の表札が掲げられ 、正式な移転だったことを示しますが、訓練は本来の偵察教育よりも、次項の宮野修氏の目撃談にあるように特攻訓練が主体であったと思われます。
 
 そして終戦間際には学校そのものが特攻隊に組み入れられ第一、第二海燕隊が編成され、第一海燕隊は朝鮮の蔚山へ、第二海燕隊は新潟(一部は佐渡島)へ移動したということです。

6  第二総軍飛行班の基地   

 1945年4月7日、第二総軍が編成され畑俊六元帥以下の司令部が広島市二葉里 東練兵場内の騎兵隊兵舎に開設されました。第二総軍の目的は、鈴鹿山脈以西において本土決戦に備えるもので、特に敵上陸が予想される九州を重点地区としました。

 総軍の中の航空関係は、参謀部の中の「航空」と「飛行班」が 受け持ち、この段階で吉島飛行場の管轄は宇品の船舶司令部から第二総軍(もしくは第五十九軍中国軍管区司令部)に移されたと考えられます。その任務は、大本営など中央との連絡及び関西以西の飛行場への連絡飛行でした。

 飛行場営門の表札は、やはり下志津陸軍飛行学校であり、第二総軍飛行場を示す表示は無かったそうで、それは防諜のため かと思われますが、両者において指揮命令系統や訓練の実態がどのようであったかは不明です。

5-01図 第二総軍組織図 

 宮野寛治氏及び宮野修氏の記憶によりますと、1945年の9月の撤収まで吉島飛行場に常駐していた陸軍機は次の機種です。前記下志津陸軍飛行学校関係と総軍専用機の併用と思われます。

立川 キ55 一式双発高等練習機

 (任務)畑元帥又は大人数の輸送

川崎 キ61 三式戦飛燕

 (任務)畑元帥機搭乗機の護衛

立川  キ36 九八式直協偵察機

 (任務)小人数の輸送及び特攻訓練

三菱 キ15 九七式司令部偵察機

 (任務)小人数の輸送及び特攻訓練

 中央への連絡飛行では、一式双発高練と飛燕は立川か所沢へ、その他は調布を使いました。また、中央からは三笠宮殿下の視察等もあり、DC-3など各種の飛行機が吉島に飛来していたことも想像に難くありません。

 また、航空機整備は、浜松から整備員が来て行いました。

 大本営が1945年2月に策定した本土決戦作戦では、温存している陸軍機のすべてを敵艦船への特攻に充てることとしていますので、吉島の練習機も連絡飛行の合間には特攻の訓練を行っていました。宮野修氏の次の目撃談がそれを裏付けています。

36直協の1機が、高度5600で南から進入して左に180度旋回し、約45度の角度で飛行場中央に急降下するのを何日も繰り返し、それは特攻訓練のように見えた。

 また、宮野寛治氏は、飛行場西側(本川左岸)に掩体が設けられ、上部には布製のカモフラージュが被せてあり、一番北側の掩体に飛燕が格納され、北に引き出されて試運転などを行っていたと記憶しています。
 5-02図に示す無蓋掩体群と1-03図の解析による無蓋掩体の場所の相違、或いは、旧滑走路の跡と言われる5-03図の南北を貫く幹線道路の位置が航空写真よりも東に寄っていることの相違については、 よく分りません。

 質問箱広島吉島飛行場 の機体の鑑定を参照


5-02図 宮野寛治氏の記憶による1945年当時の配置            5-03図 2012年撮影の吉島地区と旧吉島地区飛行場エリア
   

 

7 原爆被災から終戦を経て第二総軍の撤収まで    

 1945年8月6日、広島市に原子爆弾が投下された際の吉島飛行場と、その後の状況について筆者が知り得た資料を列記しておきます。

安沢松夫陸軍飛行士
 8月6日、九九式高練に第5空軍司令部へ出頭する参謀を乗せて小月飛行場から到着、掩体壕に機体を格納し、ピストへ出向いて到着報告の電話機を握った途端に強い閃光と大音響に遭遇した。機体は風防ガラスが全部割れ、胴体後部が10°位曲がっていたが、目撃した惨状を報告するために飛び立つ決意をし、整備員に始動車を頼んだら発動機が動き、10時頃噴き上げる火炎をくぐって幾度も旋回しながら高度800mまで上昇し小月へ帰投した。
 12時30分輸送機(10人乗り一式双発機)に救援物資を積んで小月を出発、13時過ぎに着陸、その後参謀達を加古川に送ってから引き返し、炎上中の上空で引火の危険を感じながらも、僅かに着陸できる幅員を残して避難者があふれる中を強行着陸した。( 広島原爆戦災史から要約 以後の経緯は記述なし)


森宗寿人 紫色の閃光
 「敵の電波探知機から逃れるためとかいわれる木製の赤い翼の練習機が着火して、兵隊がシャツを振り回して消火につとめていた」(要約)


黒瀬重吉手記 
 
頭の負傷のため自宅から吉島飛行場までの記憶は全くない。営門を入ると兵隊が担架で兵舎へ運び毛布の上に寝かせてくれたそうである。数日後目覚めると週番肩章を吊るした将校や軍医らがもう駄目だろうと話していた。〜 日夜、重症者のうめき、発狂者の叫び、遺体を焼く煙に包まれた。敵機が旋回し空襲警報が鳴るが、避難する気力もなかった。爆弾投下もなかった。〜」(広島原爆戦災史 から) 


 陸軍省広島災害調査班速報第2号 
「7日21時所沢で調査班編成、8日7時所沢出発、第10飛行隊(各務原か?)到着、12時DC-3で出発、米子に到着、18時30分広島着(米子〜広島間の機体は不明)業務開始」(広島県史 原爆資料編から )


 陸軍省広島災害調査班行動表
「8日7時所沢陸軍病院出発、15時輸送機にて所沢離陸、途中大阪にて燃料補給の後18時広島飛行場着陸](広島県史 原爆資料編から ) 


 理化学研究所 仁科芳雄書簡
「軍関係 1 飛行機は異状、特徴なし。2 飛行場の飛行機、有蓋掩体又は地下」  (広島県史 原爆資料編から)  

 水間博志(民間飛行士、後に日本航空パイロット)
 8月8日未明、突然、陸軍航空本部から密命を受けた。東京から広島飛行場へ要人の緊急空輸の任務だった。蒲田の指定旅館から軍用車で羽田飛行場へ急いだ。使用機は立川Y型旅客機
(注 立川ロッキード13Y旅客輸送機か? )だ。眼鏡をかけた丸顔の温厚そうな私服の紳士が挨拶して搭乗すると、高級参謀らが続いて入ってきた。(1人は第二総軍の兵站担当参謀平野斗作少佐と思われる)
 この紳士こそ広島新型爆弾調査団の団長仁科芳雄博士なのだ。一行8人は機内で真剣な面持ちで終始密談を重ねていた。〜
 広島上空に到着してみると 〜 「こりゃ死の街だ!」 〜 人も、電車も、生き物も何一つ動いていない 〜 これまで上空から見てきた東京、名古屋、大阪など主要都市の空襲による焼跡の様相とは一変しているのだ。
 (以下要約) 仁科博士の指示で広島上空を3度旋回し、吉島飛行場滑走帯のドラム缶が散乱する(敵かく乱作戦)中を強行着陸、これも仁科博士の機外へは出るな、すぐに飛び立って帰れという指示で、飛行前点検も燃料補給もせずに離陸し、大阪飛行場(八尾)へ飛んだ。(水間博志著 飛翔人生 ― 飛行機野郎の告白 から)

 

宮野寛治氏証言
住田恵保著 かくれた広島の小史 第二巻
ブログ第二総軍研究所等から

 第二総軍教育参謀の朝鮮王朝李(イウ)殿下が被爆し、収容先の似島で逝去、その 遺体(遺骨?)を小月から呼んだ飛行機を那須少尉が操縦して京城へ送り届けました。吉島から市内西の山を目指すと約560km先に京城があり、とにかく直線で京城まで飛行したということです。( 李殿下の葬儀は8月15日に京城で 鄭重に執り行われ ました)

 第二総軍の副官(航空参謀説もある)白石通教中佐は、畑司令官の命を受けて被爆状況報告のため上京していましたが、8月14日義兄にあたる近衛第一師団森師団長の部屋にいたところを、戦争継続派の将校クーデターに巻き込まれて惨殺されています。

 第二総軍司令官畑元帥は、8月14日に皇居御文庫で行われた元帥会議のため上京し、15日午後1時半に所沢を離陸、午後4時に広島へ帰着しています。

 8月15日の終戦から武装解除(軍隊の解散)に至る約1か月間は、なお、陸軍吉島飛行場として存続し、各地への連絡飛行が行われていました。その間、第二総軍司令部の将校が吉島に酒や肉をたびたび届けてくれたそうです。兵が復員帰郷などで居なくなると飛行機を使えなくなるからでした。

 5-02図に「海軍練習機」とあるのは、5機の赤とんぼで、それは、人吉海軍航空隊の広島出身者ら10人が帰郷のため乗ってきたものですが、間もなく米軍が来て操縦桿を抜き飛行不能にしたということです。

 吉島の西側、本川をはさんで江波漁港があり、そこの漁民が航空機部品を盗みに来ることがあり、特に九五式羅針儀が狙われたそうです。船で逃げるのを発砲して取り返したこともあるとか。

 時に、米軍機が低空飛行で威嚇することがあり、非常に怖かったそうです。


 第二総軍の撤収

 第二総軍は、原爆で二葉里の旧騎兵連隊隊舎の司令部が壊滅したため、安芸郡船越村(現広島市安芸区船越町)の日本製鋼所へ移転していましたが、そこも9月末に撤収し、大阪へ移動しました。陸軍の終戦処理に伴うものであると同時に、9月17日に広島県西部を直撃した枕崎台風によって司令部も吉島飛行場も再び被害を受けたことが間接的な理由かとも思われます。

 吉島飛行場からは、 第二総軍幹部を伊丹に輸送するとともに、残っていた飛行機もすべて伊丹飛行場で占領軍に引渡しました。飛行場の建築物は人力で倒壊させ、ここに陸軍廣島(吉島)飛行場の歴史が終りを告げました。

 残る廃材や機器の残骸は、市民によって持ち去られ、飛行場は雑草の生茂る荒地と化しました。

 一時、吉島地区には、 住吉橋以南をすべて接収してB-29の飛行場にするらしいという噂が流れたことがありました。1946年になって、オーストラリ空軍の小部隊が進駐し、レーダーサイトを設けたのも、何かそういうことと関係があったのでないかという人もいます。

 オーストラリ空軍の進駐については、次項に詳述します。

その2