拙書「日野熊蔵伝」図書室30を取り上げていただいた渋谷敦です。思いがけないことで特に嬉しゅうございましたが、つきましては別件お願いしてみようとペンを執りました。
下記は、
「人吉球磨の交通史」の航空編に私が書いたものです。依頼したいのは、村に墜落した海軍機乗員の出身地と遺族についてです。
平成6年10月人吉球磨自動車協会発行 人吉球磨の交通史から
昭和二十年六月初旬、空中戦の末、海軍機が一機、球磨郡西村(現錦町) の山中に墜落して爆発、搭乗の二等空曹(24歳 姓は柴田?)が爆死した。原典孝氏(61)によると
「当時私は球磨農校の二年生。午前九時半か十時ごろ、アメリカの艦載機(カーチスP51と思われる) 二編隊十一機が高原飛行場方面から白髪岳方面に飛び去ろうとするのを目撃した。このとき突然、北方から飛来した黒味がかった翼のわが海軍戦闘機一機が、勇敢にも、最後尾の米軍機に攻撃をかけ、二
機はたちまち空中戦を始めた。一たん飛び去った敵十機が、たちまち旋回してもどって来て、十一対一の空中戦となったが、間もなくわが海軍機は、急に高度を下げ、熊の峰の三角点を避けようとして墜落、轟音がとゞろき、爆発音が続いた。
黒辺田野集落では、直ちに非常呼集をかけ、二隊を編成して現場に走った。黒田・今田の両氏は万一に備え猟銃を携帯した。現場は松の大木が二つに裂け、機体とともに肉片が散乱し、機銃弾がはじけていた。遺体は左足首と頭髪が確認され、左足首は緑色の運動靴をはいていた。普通、出撃のときは、皮の長靴をはくのが常識であろうが、この場合、とっさの出撃で平常靴の
ままであったかと、一段とあわれを感じた」
また、当時一武村(現錦町〉役場の収入役であった岡本勝氏(90)の談
「昭和二十年のある日の昼下り、裸麦のカブサの仕末をしていた頃だから、六月上旬と思われるが、一武村曲谷の右の藤の尾谷の尾根越しにドーンと二回にわたる爆発音が聞こえ、白煙が上がるのが見えた。
一武村村長原貞治氏は、収入役の自分と、書記有瀬政則、山林委員吉村友治、犬童豊吉、早田房次郎、久保田松次に現場に急行するように命じたので、墜落
機は米軍機と想定、拳銃による反抗に備えて、猟銃二丁、ほかに鉈・鎌などを携帯して現場に急行した。尾根道をのぼりつめると、眼下の谷間に、すでに四十人ほどの人々が群がっている。この谷は、右は河内谷、その左が七中谷といい、
これがまた西谷と東谷に分れていて、機体は東谷に墜落、十数メートルをへだてて、三つに分散していた。よく見ると、米軍機ではなくて友軍機であり、飛行服とともに肉片が散らばり、見るに堪えぬ惨状であった。」
当時、農校生の原典孝氏は、年長者の命令で、単身里まで走り、梨箱をかついで再び現場に上り、この梨箱に散乱している肉片を収納してかついで下山、指杉の火葬場で火葬に付した。後で、遺族と思われる人々が遺骨
受領に来られたというが、当時、高原の人吉海軍航空隊から要員が来て、現場に標柱を建てて霊を弔ったけれども、年月を経て、今ではその姓名等もまったく記憶されていない。
最後に、岡本勝氏の談
「われわれが帰途についたのは夕方で、途中雨となり危険な谷道を手さぐりで下り、黒辺田野から夜道を、みなおし黙って役場に帰りついたときは、全員疲労困懲し
ていた。」
執筆 渋谷 敦
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それから十余年を経た今頃になって村の友人たちが動き出し、週刊ひとよしの記事になりました。
週刊ひとよし 2007年2月
そして、もう一度調査に行こうと私に働きかけています。ついては、せっかく現場が確認できても、柴田二空曹?の出自が不明のままでは残念ですので、何とか探す手立てはないものかと存じます。
私の村(旧球磨郡西村)には、当時人吉海軍航空隊がありましたが、居たのは赤トンボだけで、戦闘機が飛び立ったとすれば鹿屋あたりかと思われますし、単機で十一機を追っかけて空戦を挑んだとすれば優秀な戦闘機だったのではないかと想像しています。
なお、「人吉球磨の交通史」にアメリカの艦載機(カーチスP51と思われる)と書いていますが、P-51ならノースアメリカンの間違いであるし、艦載機ならグラマンF6Fと改めるべきでしょう。
人吉海軍航空隊は、3月18日に艦載機延べ23機、5月14日に小型機16機に攻撃を受けたという記録があり、これはグラマンでしょうが、墜落事件の時の敵機はそれとは違う形だったという証言があるのでP-51となりました。
その頃、宮崎市や小倉市もP-51の攻撃を受けているので、そう書いたのですが、硫黄島や沖縄から飛んできたP-51だったかもしれません。
ともかく、ただ一機で敵編隊に挑戦して戦死した柴田二空曹?の出自を知り、ご遺族に知らせて共に供養する手だてはないものかと思います。
どうか、どんなことでも手懸かりや手段など教えていただきたくお願い申し上げます。29
防衛研究所図書館史料室 平吹通之調査員からの連絡
1 柴田二空曹?について
当時の海軍には二等空曹という階級がないので、二等飛行兵曹として「柴田」姓を探しましたが、一人だけ見つかった該当者は、硫黄島で戦死されていました。
2 基地などについて
北から南へ米軍機を追ったということですが、20年6月頃であれば、そのようなケースはたくさんあったと思われ、残念ながら特定できませんでした。急な出撃で運動靴のまま発進したとすれば近くの基地かもしれません。
防衛研究所図書館史料室については 人生録21 ’07 神奈川・東京遠征記(24)参照