1(17) 京急蒲田駅は改善の要あり
3月5日月曜日 羽田の天空橋駅へ9時半までに行きたいと調べてみると、この時間帯に限り、横須賀方面からから羽田へ向う直行便はわずかしかありません。つまりは、京急蒲田駅で乗り換えなさいということです。
金沢八景から蒲田まで特急で34分、蒲田から天空橋まで7分、乗っている時間は短いですが、乗り換えの不便なことは相変わらずです。それは乗り継ぎ時間のことではなく、HOME・SITEMAP・サイトマップの不便さです。
蒲田からは、当然ながら大きなスーツケースを抱えた人や外国人旅行者ももたくさん乗りますが、通勤者に交じって古いこ線橋を上り下りし、狭いHOME・SITEMAP・サイトマップからやっとのことで乗車しなければなりません。電車がどんどん新型になっているのに、京急蒲田駅のHOME・SITEMAP・サイトマップ
の改良工事は遅々として進んでいないみたいです。
ついでに、羽田線天空橋駅での経験を書いておきます。これは私の大きな勘違いで、整備場の南端へ行くには東京モノレールに乗りなおすべきだと思いこみ、HOME・SITEMAP・サイトマップにある売り場で切符を買い、HOME・SITEMAP・サイトマップに直結している東京モノレールの自動改札へ入ってから、その必要がなかったことに気付いたのです。
京急から出ても同じことだったのです。そこで東京モノレール改札から出る前に払い戻しを受けようとしたら「京急が売った切符だから、払い戻しは京急へ行ってください」とのこと。
また、引き返して京急の切符売場で払い戻しを受け、京急の改札から出るには長い通路や階段を通らなければなりません。結局、190円分東京モノレールにただ儲けさせて出たというわけです。
ややこしいですが、それは自分のミスでもあるので我慢します。
しかし、京急天空橋駅から東京モノレール側へ出る自動改札では注意が必要です。東京モノレール切符購入の列に並んでいた間にも半数の人が通行不能になり、それを駅員に問いただそうにも切符販売の一人しか居ないので、返事もできない有様でした。両社は実態を調べて親切な対応をするように改めて貰いたいです。
(18) 整備場に置かれているYS-11は1機だけ
既に航空歴史館のYS-11でお馴染みの
アングルですが、機会があればこの目で確かめたいのがマニアの常です。
強風注意報の中、体をフェンスに押し付けられるように感じながら撮りました。この機体は自衛隊部品取り用のJA8709です。もう1機のJA8720の姿は見えませんでしたので、宇宙航空研究開発機構へ運ばれていたのかもしれません。
それにしても、金網が二重に張られて、しかも斜めに構えないと入らない構図なので、皆さんはあの素晴らしい写真をどうやって写しているのか不思議でなりません。 |
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訂正 羽田ライブカメラによると3月17日現在2機写っていますので、たまたま、この時だけ外からこの機体しか見えなかったということでした。2007/03/19記
(19) 日本航空安全啓発センター
天空橋前の羽田整備場地区南端から北へ向かってJ歩くと、目指す第2綜合ビルがあります。1階のビル受付で入館バッジを貰い、2階の日航安全啓発センターへあがります。
午前10時からの予約客は10人ほど、事前に8.12連絡会事務局長美谷島邦子女子に伝えておきましたが、お見えにはなりませんでした。
180坪ほどの展示室を説明スタッフに案内されて回ります。所要時間1時間。
撮影厳禁ですが、写して悪いものは遺品などわずかしかなく、回収された後部圧力隔壁や垂直尾翼などをなぜ写させないのか分りません。残骸には航空鉄道事故調査委員会のラベルが貼ってあり、マジックで記入した記号や番号もそのままになっているのが、何か具合がわるいのでしょうか。
スチュワーデスらしい美女が説明を聞きながらメモをとっていましたが、横目でちらっと見ると、薄暗い照明の下で何を書いているのか、後で参考になりそうな字ではなかったですな。
展示をどう見るかは、見物人によって違うと思います。 興味といっては失礼ですが、私が最も関心を抱いていたのは、後部圧力隔壁の接続不良部分から疲労亀裂が発生し、次第に広がっていったという箇所です。その肝心のところでスタッフの説明がさらっとしたものだったので、「具体的にどこですか」と質問したら、「そこです」とあっさり答えて次の展示品へ行ってしまいました。1人残って本に書いてある周辺部のスプライスプレート(継板)、スティッフナー(芯金)、リベット穴などを確認しようと覗いてみましたが、それらしいかなという程度のことしかわかりませんでした。
誰のために何の目的で、このような立派な施設を作って残骸を運び入れたのか、少々腹立たしい思いがよぎりましたね。
事故の全体状況については、部品が散らばっている山の模型をはじめ、どこが千切れて、どこが回収されたとか随分と手間暇かけて図板やビデオを作り、ボイスレコーダーから複製した会話まで流しています。
しかし、事故の原因という点において、最も強調して説明されるべき大阪事故後のボーイング社修理チームによる欠陥修理のことをさらりとかわしてしまったのでは、日本航空が一番悪かったのですという自虐展示に過ぎないと言わざるを得ません。聞くところでは、JALの整備チームが見学すると、この点がよく言われるそうです。当然です。
ボーイング社修理後の受領検査とその後の6回にわたるCチェック(飛行3千時間ごとの検査)で問題箇所を発見できなかったからと言って、
検査員たちが事故の危険性を知っていて故意に手抜きをしたなんてありえません。結果論としてマニュアル以上の注意を払えばよかったというだけのことです。
○ 日航の個々の社員に責任があるか 美谷島邦子女子は「JALの一人ひとりの社員は、すばらしい、優しい人たちです。」と手紙に書いています。そうです。現場の人たちがやるべきことをしていなかった
のかと言えばノーです。その時の教育なりマニュアルに基づいて与えられた職務を果たしていたのです。誰かが手抜きをしたなどいう立証はありません。
○ 経営者は安全対策を軽視していたのか 社会の批判は、日航という組織体に向けられます。営業優先で、安全対策をおろそかに
する企業風土があったのではないか等々。確かに、末端現場の声が上層部に伝わりにくく、発言しても仕方がないやといった風通しの悪さがあったでしょう。だから、経営者が整備へ金を出し惜しんで故意に対策をおろそかにしていたのかと言えばノーです。 他社に負けないよう新鋭機を導入し、その関連整備施設一切のお金を調達しようとすれば、経営者の顔はそちらの方に向きっぱなしで、旧来の設備に目が届かなくなってしまうのはどこの会社にもあることです。それが安全意識の希薄につながったというのは学者の結果論であって、まさか予見できる重大事故から目をそむけていたなんてあり得ないことです。
柳田邦男氏らの日本航空アドバザリーグループが「安全を確保する企業風土の創造」という提言を行っていますが、すべて学者評論家の結果論であって、ボーイング社の責任をほとんど無視し、日航がかくかく変わるべきだということに終始しています。私は、一読して、これは原因究明隠しじゃないかとさえ思いました。
その中に、残骸その他を展示して安全教育を行えという提言があり、私の見た限りでは安全啓発センターはその提言内容を忠実に実行したものであります。
見学の後で、JAL執行役員 安全推進本部副本部長 総括安全補佐の小林忍さんと会って、このような私の考えをぶつけてみました。小林さんは、保存公開については、社内で賛否の激論が交わされたけれども、やはり非常に有益なものであることを、慎重に言葉を選んでお答えになりました。その公式発言だけを記して、具体の会話の内容は私の胸の内に留めておきましょう。
○ 結論 安全啓発センターは、日航はかかる施設をつくってまで安全運航に最大限の努力をしていますよという宣伝であり、遺族や学者評論家に対する迎合(へつらい)でもあるとの感を強くしました。
無駄な施設とまでは言いませんが、その辺の博物館がうらやましがるであろうほどに金をかけていること、スタッフの人件費やビル会社に支払う家賃その他維持管理費などかなりの負担が生じているはずです。
そのお金を整備工場へ回してやりなさいよ。幹部が、これがなければ社員の安全教育ができないと本気で考えているとしたら日航は危ないです。 「利益水増しが隠した5期連続赤字 処分資産尽き資金繰りの綱渡り続く」(週刊ダイヤモンド3/10号)日本航空にとくと考えて頂きたいものであります。
小 佐伯様
(20) 全日空資料室
さて
、日航安全啓発センターのある第2綜合ビルを出ると、全日空出身の茶谷さんが待っていてくれて、本日の第二の目的であるANA施設への訪問です。
まず、第1総合ビルにある全日空資料室へ入り、見たかった書籍などをじっくりと拝見しました。
ここにはANA発行の社内紙などはもちろんのこと、寄贈された多数の図書のほかに、日本ヘリコプター航空時代からの時刻表、パンフレット、絵はがきなど、好事家には垂涎の的となる資料類があります。それらは、先輩社員が個人的に持っていたものが多く、必ずしも社の業務として収蔵されてきたとは言い難く、かつ、整備関係のマニュアル類がほとんど見当たらないのが残念です。
今後は、社の公文書館としてコンセプトを確立され、資料を単純に処分されたりすることがないように運営してほしいと思います。それは全日空ひいては日本の航空史にとってきわめて大切なことであるからです。
同じビルにある社団法人日本航空技術協会についても事情は同様です。総務部長の小宮悦郎さんのお話しでは、倉庫には何十年前のものから雑然と積み上げてあ り、不要なものもたくさんあるということですが、整理される際には、どうか、微細な物件にもすごい歴史が秘められているのではないかというような観点から扱っていただくように特にお願いしておきます。
(21) 全日空機装センター 全日空原動機センター
全日空整備本部の機装センターと原動機センターは、東京モノレール整備場駅を降りたすぐ左手にあります。
○ 全日空機装センター
機装センターでは、センター長の高橋良明さんの案内で各セクションを回りました。外のほこりなどが入らないように靴にビニールカバーを掛けます。それは、顕微鏡で探すほどの異質や傷があっても、飛行に支障をきたしてしまう重要な計器を扱っているためです。
電波高度計、エンジン制御装置、与圧装置、慣性航法装置、自動操縦システム、電源制御装置、空中衝突防止システムなどが、故障あるいは定期検査のためにここへ持ち込まれて、検査と修理が行われます。要するに旅客機の頭脳を正常に保つための工場なのですが、工場というよりも各種のコンピューターが並ぶ電算室のなかに作業員のデスクが並んでいるという風景です。
メーカーにより時代により機器が違っているので、検査用コンピューターもボーイング製やフランス製というのもあり、1台何億円もするというのですから、聞いていて身が縮む思いでした。
国民型並四ラジオや五球スーパーヘテロダイン電蓄兼用ラジオなどが懐かしい昔のラジオ少年として「電装工場にしては、テスターが見えませんね」などと愚問を発したのですが、高橋さんは笑いながら「導通検査ですか、ないことはないですが、ほとんどの機器がカード式になっていて、悪ければカードごと取り換えるのであまり使いませんね」と答えてくれました。
CDケースを一回り大きくしたようなカードの中にICチップが組み込まれていて、蓋を開けたらカードがずらっと並んでいるというのが現代機器と思えばいいのでしょう。
○ 全日空原動機センター
原動機センターでは、センター長の大島秀夫さんの部屋で、まずビデオを見ながら概略の説明を受け、中島啓介業務推進室長の案内で工場を見学しました。
搬入されたエンジンは分解→洗浄→検査→修理→組立→試運転の順で工場を回っていきます。
全体の印象を言葉に表せば〔大きい〕しかし〔細かい〕とでもいいましょうか、どでかいターボファンエンジンがマイクロスコープで覗かれたりします。洗浄は水や薬液洗浄のほかに、小さなセラミックの集合体を高速回転させて汚れをとる装置もあります。カメラを持参しなかったので、セラミックを1粒だけ頂いて帰りました。
分解された部品の検査では、目視というのもあるのでしょうが、どちらかというと機装センターに近いコンピューター検査や、蛍光浸透液を浸けてブラックライトで微小な傷を見つけたりする手法もあります。中島さんが虎の子の(失礼)千円札をそのライトにかざしたら、肉眼で見えなかった透かしが鮮やかに浮かび上がりました。もう、どんな傷も逃れられないですね。
修理部門では、大小の溶接のほか、摩耗した部分に、溶剤をまぜた金属粉を高速で吹き付けて盛り上がらせる装置がありました。後で磨けば元通り平滑になるわけです。
溶接のところで、約8年間この仕事をしているという技師さんがスポット溶接を見せてくれました。注意されていても、しばらくは目が見なくなる強烈な光を発するので、8年間もよく続くものと思いましたが、彼は、実に誇り高く自分の責務を話してくれました。
機装センターでも原動機センターでも、遮蔽された建物のなかで、黙々と作業を続けている人々は、どちらかというと説明好きで、こんこんと作業手順などを話してくれます。それは、普段しゃべる機会がないから必然的にでてくるものだと、OBの茶谷さんの解説でした。
それと、非常に明るいですね。挨拶が徹底していて、門外漢のこっちが度々恐縮します。
○ 整備水準について
日航安全啓発センターでジャンボの修理ミスを見てきた後だけに、たいへん勉強になりました。
両センター長とも、全日空の整備は世界最高水準にあると自信を示しました。世界の主要な航空会社で、機器や原動機をここまで整備する自社工場をもっているのは、全日空と日航だけだろうということです。頂いた全日空のパンフレットに偽りはありません。
このほかに機体全体のオーバーホールを行う整備工場や日常のメンテナンスセンターもあります。大企業が次第に外注や分社化や下請け化を進めざるを得ない現代の産業構造の中にあって、全日空が今後どのような方向に向かうのかはわかりませんが、安全という旗印のもとで技術水準を維持し、向上させていくためには、絶対に手放してはならないと思います。
ひとつだけ確かなのは、原動機センターを羽田の新整備場地区に新築中とのことです。エンジンの大型化で、今の工場が手狭になったためです。もちろん最新の設備機能を備えるのでしょうから、世界一の原動機工場になることでしょう。
最後に、中島啓介業務推進室長さんは「作業が終わった時に、小さなドライバー1本でもあるべき所になかったら、発見するまで探します」と言いました。エンジンの中に取り残しでもしたら大変な事故になってしまいますから、当たり前と言えば当たり前のことですが、工場に限らず、日本のあらゆる分野で言われながら、意外に等閑視されやすいことであります。
それが徹底されてこそ、日本のクオリティが世界に冠たるものとして君臨するであろうと思いながら、両センターを後にし、余韻をかみしめながら茶谷さんと第1総合ビルのブルーコーナーで乾杯し
、別れました。
(22) 個々人の品質管理
整備場駅でビールの水分を排出しようとしたら、皮肉っぽい張り紙がありました。ああ、これが、個々人の外での品質管理の現状なのか!
そして、東京モノレールからJR浜松町駅へ降りたら「大変申し訳ありません ただいま田町駅で信号事故のため山手線は運転を中止しています」とのアナウンス。幸いにも京浜東北線は動いていた(翌日はこっちの方が停止)ので、新橋まで帰り、かなりひどくなった風雨のなかをタクシーで宿へ向かったのであります。
都市圏のJRや私鉄があれだけ過密のダイヤを組めば予見されざる事故が起きるのも当然です。ほとんどの人はまたかとあきらめ顔ですが、中には怒る方もいます。しかし、1分1秒でも速くという利用者の心理に応える形で過密ダイヤが組まれ、それをありがたく当然のこととして利用している方々が、文句をいう権利があるのでしょうか。
御巣鷹山事故にしろJR福知山線事故にしろ、犠牲となられた方には心から敬弔の誠を捧げるし、十分な補償をして差し上げるべきと思いますが、予見し得ない事故を、あたかも経営者の怠慢で起こしたがごとき追及一点張りのマスコミの姿勢がいいのかどうか、今日一日の経験から深く考えさせられたのであります。
もし道路管理者がつぎのような張り紙をしていたら、あなたは恥じらいを感じますか?
それとも平気ですか?
いつも道路を法定の制限速度内で走って頂き、ありがとうございます。
6日
(23) 田町駅事故は復旧
起きてテレビニュースを見ていると、昨日は風に吹き飛ばされて怪我した人が東京に何人もいたとか。でも今朝はおさまっているようすです。
地下鉄半蔵門駅から恵比寿へ行こうと、駅を探すのですがわからない。麹町警察署で聞いたらそこを曲がって行けばすぐですよ、あっそうとばかり行ってみるがわからない、ガソリンスタンドのお兄さんに聞くと、目の前10mほどのところに入口がありました。
そこなら、さっき大通りから見ていたのにとよくみると、地下鉄のマークが変わっているのですね。馴染みのあったシンボルマークがM型になっているのでわからなかったのです。お上りさんはつらいです。
JR渋谷は相も変わらず日本一ややこしくて歩行区間の長い駅です。でも、幸いに田町駅事故は復旧し、山手線の遅れを取り戻そうと、20秒もしないうちに後続電車がくるので待たずに乗れ、ひと駅南の恵比寿へ向かいました。
(24) 防衛研究所図書館史料室
恵比寿駅から徒歩5分と防衛研究所のホームページに書いてありますが、地図をよく確認しないと、近道を歩いたつもりがとんでもない迂回になったりしますので注意が必要です。駅付近はさすが恵比寿麦酒の本場だけあって飲み屋街の多いこと。(夜なら間違わずに歩けるか)
防衛研究所図書館史料室は、研究所正門で手続きさえすれば誰でも入れます。検索カードをあれこれ繰ってみただけの感想ですが、廃棄や焼却されずに残された明治以降の日本軍事資料
と戦後の鉛筆やペン書きの備忘録がこんなにあったのかと驚きました。もとより、欲しいと思うものがあるかといえば、肝心の資料は存在しないという場面の方が多いのでしょうが‥。
何に使うのか、出版社のアルバイトとおぼしきお姉さまが、軍用飛行場の資料を大量に借り出してコピーを頼んでおり、その中には追浜飛行場もありました。コピーといっても、1枚10円でゼロックスという例の手法はここではやっておりませんで、専門業者が常駐していて、多額の手数料を払って数週間後に届けられるという手段しかありません。追浜飛行場の図面は、見たところ畳半分くらいのわら半紙であり、そんなことで見せてくださいという勇気がでませんでした。
私がここを訪れた主目的は、南満造兵廠(陸軍第918部隊のちに関東軍第15503部隊)の歴史を調べるためです。その方も不十分ながら多少の参考資料を見ることができて一応の目的は達しました。
また、渋谷敦さんが尋ねている熊本県の海軍機墜落の詳細についても手掛かりを求めましたが、これは手に負えませんで、非常勤調査員の平吹さんに調査をお願いしておきました。結果は
残念ながら不明でした。
(2007/03/29発表)
昼食時間になったので、外で食べようとしたら、門衛のガードマンが中に食堂がありますよというので、教えられた目黒クラブで定食をとりました。値段の割にはまずかったのでご参考まで。
(25) 文華堂書店
再び渋谷から半蔵門線に乗って神保町で降り、既に東京遠征でたびたび紹介済みの文華堂書店へ寄りました。行くたびに軍事・交通関係の古本の山が高くなっている感じで、疲れた体では思うような書籍を探す気にもなりません。戦前のこれはという書籍もありますが、全部パスして、酣燈社の世界航空機年鑑06〜07年版を手にしてみました。去年秋に定価5800円で発行された新品同様のが2800円という札がついています。これは掘り出し物価格です。前の持主は幾らで手放したのか、売れ残りの放出品なのか、気の毒なような価値になり下がっています。やっぱりねえーと思いながら買い求めました。
(26) 帰広
旅の出だしはバスで11時間でしたから、帰りは飛行機で1時間と行きたかったのですが、この日の午後から一転して冷たい木枯らしが吹き始め、夕暮れも近づいて羽田や富士山の撮影は難しそうなので、航空便をあきらめ、東京駅から新幹線で帰ることにしました。
東京〜広島間をのぞみで帰れば、18,550円 4時間です。
ジパング倶楽部を使ってものぞみ特急券の割引がないので、15,148円
ジパング倶楽部のひかり新大阪乗継なら、12,620円 5時間です。
土産に木久蔵ラーメンを買って、その代金と車中ビール代を浮かすためにひかり岡山行きに乗り、新大阪でひかりレイルスターに乗り換えて、21時半どうやら無事に広島駅へ帰りつきました。
岡山行きのひかり号13号車は名古屋から空席が増え、京都からは私と女性客1人だけ、19時36分に私も新大阪で降りましたので、どこまで行くのか彼女は心細かったでしょうね。ずっと以前に、広島行き最終便で私もその経験があります。何かしないと怖いので座席の下を探ったりしていたらシートの隙間から100円玉が出てきたので、よそも当たってみるとお菓子の残骸やら何やら、意地悪じいさんが掘ったみたいでしたよ。今は座席の構造が違うのでそんことはないのかもしれませんが。
今回は、乗り心地最上のひかりレイルスターで、よく寝て帰った次第であります。
お世話になった方々と、ここまで辛抱して閲覧してくださった方々に厚く御礼申し上げて終わります。
(27) 補足
○ サレジオ工業高専のダブ
の復元は極東航空塗装で
デハビランド DH104-1B ダブ
JA5011については、丸紅が中に立って輸入し、大正興業株式会社とか熊谷組の登録が文献にあり、後には海洋航空(後に東日本航空)となっています。現状では、座席がふたつしか残っていませんが、それは魚群探知とかの事業に用いられたため5席を撤去していたためと思われます。
Air BritainのThe DH104 DOVE AND DH114
HERONによると、本機については、 Sold to Far East Airlines as JA5011 handed over 1 Sep 53. Sold to Kaiyo Aviation and then to Kumasgaya Gumi 1965(1956の誤り). Sold to Higashi Nihon Koku.となっています。
極東航空
が実際に購入の契約を実行したのかどうかは不明ですが、デハビランドが極東向けに製作したことは十分に推定できるのではないでしょうか。
ダブ JA5007 極東航空九州号時代
(撮影 門上さん) |
極東航空マーク (同社発行時刻表から) |
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極東航空はJA5003山陽号と写真のJA5007九州号の2機を運用していました。
山陽号は既になく、九州号は全日空→東亜航空とわたり、今は塩原温泉に東亜航空の塗装で展示されています。
極東塗装での飛行機はダブはもちろんどの種類も残っていません。そこで、この機体を復元するに当たっては、是非とも極東航空の塗装にして、往時のロマンを感じるものにしていただきたいと依田先生にお願いしておきました。
歴史派マニアとしては、確証もないのに極東にするということに若干のためらいがないことはないのですが、判明している経緯を記録しておけば許されるものと考えます。
いずれ、資料をかき集めてサレジオ学園へ提供するつもりですが、極東を問わず、ダブの機体内外について資料をお持ちの方は是非とも協力してあげてください。
連絡先 194-01215 東京都町田市小山ケ丘4-6-8
サレジオ工業高等専門学校 応用技術センター電気工学科 依田 勝教授
電話 042-775-3249
○ 全日空機装センターについて
(21)に原動機センターを羽田の新整備場地区に新築中と書きましたが、機装センターも2009年に新整備場地区へ移設を計画しているとのことですので補足しておきます。
完
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