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 航空歴史館

全日空フレンドシップ機のオーバーラン

  オーバーランの状況
事故4年後 厚木飛行場にて

 

A8715  鹿児島県鹿児島市鴨池 旧鹿児島空港
     The overrun accident of F-27 at old Kagosima AP, Kagosima City,
       

写真提供杉山ひろかず  解説:佐伯邦昭

 1966年9月18日、台風を避けて福岡空港に避難していた全日空フォッカーF-27フレンドシップJA8617が路線就航のために鹿児島鴨池空港へ帰港した際に、滑走路中央に接地してオーバーランし、堤防を乗り越えてヨットハーバーへ突っ込みました。

 乗客は乗っておらず、機長も副操縦士も無事でしたので、重大事故にならなかったのが幸いでした。

 当時の全日空整備補給部次長兼装備工場長の浅倉博さんは、機体を検討した結果、修理可能と判断しました。「空へのチャレンジ」によると、副社長から「いくらかかるか」と問われ「4億円くらい、1機買うのと同じくらい」と答えたところ、「同じ金がかかるなら日本にお金が落ちる方を選ぼう」ということで修理が決定したということです。

 オランダからの技術者も加えて胴体下半分を作り変えるくらいの大修理を行った結果、翌年春には検査も通り、その後7年間 飛び続け、1973年にフランスへ売却されました。

 同じ事故でも、もとの機体の優秀性、事故の程度、それを見る目、上層部の決断力などいろいろな要素が絡み合いますが、これによって全日空の整備部門が一段と力を付けたであろうことは間違いないように思います。














 


修復4年後のJA8617 厚木にて    厚木


GO! NAVY  広江さんから

 JA8617オーバーランの記事を読み、私もJA8617を撮影していた事を思い出し、スキャンしましたので送ります。

 撮影日は1970年8月22日(土)、撮影場所は厚木基地です。たしか短期間だけANAのF-27が厚木から運行していた頃かと記憶しています。

 

 この件に関する詳細は 思い出 大阪万博時における羽田代替空港としての厚木基地使用 (厚木基地)を参照してください。


元全日空社員からの感想 2通

 

@ 茶谷昭雄さんから

 18日発表のフレンドシップのオーバーランの写真は今まで見ていないものです。

 私は、修理関係者の一人ですのでとても懐かしいです。この写真は、引き潮時ですが、満潮時には客室窓の上まで海水に浸っていたそうです。

 修理は、伊丹の新明和で行いました。鹿児島からの機体輸送は、胴体、主翼、尾翼を外して海上輸送の船倉に納めて神戸港に揚げました。

 来日したフォッカー修理チームの団長は、インドネシアで日本軍捕虜になって終戦まで収監された人で、足も不自由で、はっきりと日本人は嫌いだが仕事は一生懸命協力したいと公言していました。

  なお、全日空F-27フレンドシップについては、この事故も含めた拙稿が航空ファン2001年4月号(No.580)に載っています。

 写真は1973.5.16フランスTAT(Touraine Air Transport)に引き渡されたJA8617(F-BUFU)です。

 機体にでかくTAFとあります。全日空はTATに売却したのですが、うちJA8617TAT傘下のTAF(Fのイニシャル文字は不明)向けの機体というものでした。たしかローカル線会社?かと聞いた気がしますが不確かです。

 

A 仁林 敬さんから

  フレンドシップの鴨池の写真には驚きました。出展者は、こんな鮮明な写真をどこから手に入れたのでしょうか。主翼付け根のFRPのフェアリングが取り外されているので、既に取り外しの作業中の写真でしょうか。たしかにフレンドシップは頑丈な機体でした。もう少しYS-11が早く生産されていれば、全日空が25機も購入することは無かったのです。

 1964年12月に、25機目が羽田に到着した時、胴体に25の数字を入れてフォッカー社の駐在員と記念写真を撮りました。残念ながら、昭和41年丙午の歳に我が家が火災になり、写真は全て焼けてしまいました。我が家のみならず、このオーバーラン事故のあった1966(昭和41)年は日本の空は呪われていると言われたほど事故が続き、たくさんの犠牲者がでました。

2月4日

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3月4日

カナダ太平洋航空のDC-8が、羽田に着陸失敗で炎上

3月5日

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8月6日

KLMの機長が羽田寸前に心臓麻痺で死亡、副操縦士によって着陸

9月18日

本件事故

11月13日

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11月15日

松山事故遺体捜索中の大阪府警ヘリとANAヘリが衝突 墜落

 松山事故の時には、ついに背広のバッジをはずして通勤したという苦い思い出があります。