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航空歴史館 技術ノート

掲載23/04/16
更新

 


 第3操縦学校〜第16飛行教育団 及び
第17飛行教育団のマークについて

文、イラスト 吉永 秀典 

 

 

 第3操縦学校〜第16飛行教育団 及び

第17飛行教育団のマークについて

吉永 秀典
  

 航空自衛隊が最新のジェット練習機T-33Aを受領し、1954年8月から福岡県の芦屋基地にて初のジェット練習機の基礎教育がはじめられ、1955年1月 築城基地に臨時築城派遣隊を編成し米空軍による本格的なジェット機の操縦教育が開始された。
 当初は旧軍人の経験者などを教官要員としての教育で実績を積み、1957年10月1日付で「第3操縦学校」が設立され、T-34からT-6を終えて戦闘機を目指す操縦学生の教育がT-33Aにより始まった。
 当初築城基地の部隊識別マークは無かったようだが、その後翼端タンクに白地に赤色の矢が流れるようなスマートなデザインとなったのは良く知られているとおり。
 そして航空自衛隊の組織が改編 (1959.6.1) されて第3操縦学校は「第16飛行教育団」と同時に同分校の「第17飛行教育団」も新田原基地に編成された。
 その頃の時代背景から輸送機や練習機などの視認性を高める塗装や蛍光オレンジ(スコッチ・テープ)を機体の一部に表示されるようになったが、保有機数の多い築城基地ではチップタンクには少な目とし水平/垂直尾翼にも翼端付近に貼り付けられた。
 「貼り付けられた」というのは当時非常に高価な「スコッチ・テープ」は入手困難で、とてもタンク全面に貼れる訳もなく最小限の量で効果を高めるように工夫して貼り付けられた。 
 今では“10均ショップ”でも買えるほど安い! 当時の米軍機は「蛍光オレンジ塗装」で羨ましくも眩しかった。 もっとも陽光の強い南国築城の列線ではスコッチ・テープでも十分眩しく冬場でもサングラスは必要であったほど。その後スコッチ・テープの面積などの変化が面白いことになる。その数年後からやっと“蛍光オレンジ塗装”に変わっていった。
 この頃の混乱ぶりが当時の築城基地/第16飛行教育団機の識別マークに現れているのを整理したのが今回の一連の写真です。



「第3操縦学校」所属機のチップ・タンクは白地に赤い矢印マーク、タンク・フィンも全面赤色



(1960.8.31)当時、機付長の責任と士気を高めるための体験飛行で同僚機と共に離陸し旧R/W07を左に見ながら阿蘇山へ向かう夏日の一コマ。まだ西側の国道や鉄道の迂回改修工事前の旧時代。
この時点の所属部隊は「第16飛行教育団」 (改編1959.6.1) から1年以上経過しているのに機体のマークは「第3操縦学校」のままである。



 
1959年6月1日以降「第16飛行教育団」に改編されて応急的にスコッチ・テープが貼られた例。
チップ・タンクの中央部分とフィン上下及び尾翼先端付近は蛍光オレンジ。タンク・フィン先端は赤。



 
「第16飛行教育団」の最終マーキングでチップ・タンクの約7割とタンク・フィンの先端まで蛍光オレンジ。水平尾翼は“先端まで”スコッチ・テープが貼付けられた。垂直尾翼に変化ない。



 「第17飛行教育団」は黄色い花に17は赤のデザインで独自のマークを制定したようです。 エアー・インテーク回りは危険を示す赤色とし、チップ・タンクは全面蛍光オレンジのスコッチ・テープが貼られ縦に3本の赤線を入れた機体もある。タンク・フィンと水平尾翼先端は赤色のペイント。



 
この一枚で「第16飛行教育団」の新マークがどのように変化したのかが分かる記録(1960.7.5.撮影) 1959年6月1日に部隊が改編されてもいきなり全機のマークが直ぐに変わる訳もなく、さらに視認性や空中衝突を防止する新目的と諸経費などの他ある意味OBの変えたくない意見なども見え隠れする事情など複雑な時代でもあったように見える。
 [SPOT-1] 1960.6.3.撮影、取り敢えずチップタンクの中央に少しだけスコッチ・テープを貼ってみた?
 [SPOT-2] 1962.3.1.撮影、チップタンクのテープの隙間から「3操校の赤線」が見えている



 
1961.6.20.撮影、チップタンクのスコッチ・テープの隙間に3操校の赤線が見える 築城基地の新滑走路R/W25側 クラッシュバリアーの制動機能試験1回目の様子



  1961.6.20.撮影 クラッシュ・バリアー制動試験3回目、重いチェーンがロープのように跳ねる。
  築城基地の海側に伸びた新滑走路の完成確認試験が行われた時の一コマ。
  破損防止のため前もってキャノピーなどを取り外し搭乗員の安全を図るとともに機体側の損傷防止で脚ドアーなど全て外し、徐々に速度を上げるなどで試験3回目を表すテープが見える。
 これは誰でも見学出来る訳もなく特に許可を得て撮影する貴重な機会であったが、バリアーにヒットした後あの大きくて重く長い鉄のチェーンが引き摺られて砂煙を上げるシーンは迫力充分。
 しかしこのバリア・ヒットには幾つもの条件を守らなければ確実に停止できないのだ。
 例えばヒットする速度、接近角度などのほか機体の装備状態にも条件があり、T-33Aでは「ダイブ・フラップ」は必ず「UP」、T-1やF-86などでは「ドロップ・タンク」や「各種ランチャー」など翼下の搭載物を「投棄」していないとクラッシュバリアーを“スルー”してしまうのだ。
 これはこのバリアーの特性から「上を横切るサブ・ワイヤー」を機首/前脚で押して「下を横切るメイン・ワイヤー」を地面から浮かして持ち上げ「頑丈な主脚柱」に引掛け、そのメイン・ワイヤーに繋がる重くて長いチェーンを引きずり制動する方式である。
 だが数年前まさにこの地でT-33Aの乗員二人が亡くなっていた。これは離陸途中のエンジントラブルで離陸を中止し急制動した後にヒット・バリアーを決心したのか、バリアーのワイヤーを乗り越えて海側の堤防に突っ込んだ。
 さらに運悪く堤防で機体が反ったために「キャノピー・リムーバーは発火した」がキャノピーは射出せず、自力で出られずに火と煙に巻かれてしまった。
 原因は「ダイブ・フラップによりメイン・ワイヤー」を押し下げてしまったのだ。実際にF-86などのドロップ・タンクも「確実にバリアーのメイン・ワイヤー」を“押し下げ”てしまうだろう。
 ここに何事も基本手順の大事さが分かるというもの。 私の少し前の投稿記事でF-86Fの「強制射出式パイロンとタンク」の話(リンク)は、一瞬でも早く確実にタンクを捨てる為でもあったのを思い出して頂けたら本望と言えます。



 「第3操縦学校」から「第16飛行教育団」そして「第17飛行教育団」までの変遷記録

 第3操縦学校のマークを如何に残すかの葛藤が垣間見えるし、高価な蛍光オレンジの効果を模索する過程が読み取れて興味深い。
 「第17飛行教育団」では赤色を印象的に残したデザインと言える。

 1⃣ 「第3操縦学校」:チップ・タンクは白地に赤い矢印マーク、タンク・フィンも全面赤色の塗装。

 2⃣ 「第16飛行教育団」:改編されて応急的にスコッチ・テープが貼られた例。チップ・タンクの中央部分とフィン上下及び尾翼先端付近に蛍光オレンジ・スコッチ・テープ。タンク・フィンの先端は赤色。なお1機(61-5216)のみ最小のテープ幅で貼付けたテスト用か。前4頁の写真の「SPOT-1」で確認できる。

 3⃣ 同上:「第3操校のマーク」の上にスコッチ・テープの面積と効果を模索している状況と言えるもの

 4⃣ 同上:ここで「第3操校のマーク」が消えてスコッチ・テープの面積検証が進んでいるようだ。水平尾翼は先端まで貼り付けられたが、このように薄くて小さな曲面の処理は相当の経験が必要であった。 チップタンクの赤白の残りを最後に確認したのは1962年10月頃で16飛教団制定から3年4か月も経過してもなお形見が残るのは異例中の異例だろう。これが本稿の主題といえるもの。

 
5⃣ 「第16飛行教育団」の最終マーキングでチップ・タンクの約7割とタンク・フィンは先端まで蛍光オレンジ。水平尾翼は先端付近ではなく“先端まで”スコッチ・テープが貼付けられた。 当方が確認したのは以上であるが、他にも見逃しがあるかも知れない。

 6⃣ 「第17飛行教育団」: 黄色い花に赤で17のデザインで独自のマークを制定したもの。エアー・インテーク回りは危険を示す赤色とし、チップ・タンクは全面蛍光オレンジのスコッチ・テープが貼られ縦3本の赤線を入れた機体もあるがタンク・フィンの先端のみ赤色のペイント。水平尾翼の先端付近にスコッチ・テープが貼られ先端のみ赤色のペイント。保有機数が少なかったので他の基地で見た人は少ないと思われる。  

 なお本イラストでは機首上面の防眩塗装と「ヨー・ストリング」を全機に描いてあるが、特に「ヨー・ストリング」はラジオ室扉を閉める時は挟み込みに注意が必要だ。
 また雨に濡れた後などではドアーに張り付くなどして面倒だが、ここではある意味を持たせてあるのでズームアップし確かめて戴きたい。 (画像は全てクリックで拡大表示します。 編)


 以上、     写真/図/文責 吉永秀典



編集掲載日 : 2023年04月16日
WEB編集  :  イガテック  

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