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 グライダーの部屋 G-5

 

吉島飛行場の記憶と防府北基地でのグライダー
 

文 写真 飛松克周

 

 

吉島飛行場の記憶  G04広島吉島飛行場 の歴史2参照

 吉島飛行場の記憶は、私が小学高学年から中学生の頃に当時住んでいた広島市大手町9丁目(鷹野橋商店街)から旧明治橋を渡り延々と歩いてトンボ釣りに行った事くらいです。

 子ども心にこんな何も無いところへ1本道を作って何に使うのだろうかと疑問に思っていると、上級生がここは飛行場だった教えてくれました。「広島市の吉島飛行場について 」のページにグラベル転圧(砂利転圧)とありますが、私の記憶ではコンクリート舗装でした。あの当時、道路舗装は1間四方の板囲いの中に砂利コンクリートを流していましたが、その形ののものが続いていたように思いますが、あまり確かではありません。

 埋立地には既に結核療養所(現在は国家公務員共済の吉島病院)が建てられており、親から近づいてはいけないと怒られたものです。

 後日、雑誌丸か航空情報で原爆投下の日初めて広島の上空を飛行し、吉島飛行場へ着陸した陸軍大尉の手記を読んで納得した記憶があります。



広島空港(現広島西飛行場)の記憶

 1961(昭和36)年に新しい広島空港が開港し、その2年後の1963(昭和38)年9月に行われた空港まつりの撮影会で、私は生まれてはじめてカラー写真を撮り入賞しました。高校生がカラー写真で応募したので珍しかったのかもしれません。サクラカラーのプリントの料金はサービスサイズA判(60×81o)が70円、B判(76×114o)が90円でモノクロにくらべてものすごく高かったのを覚えています。右は、その時の1枚です。

 

はじめてのグライダー 

 1963(昭和38)年2月3日、高校2年生の春休みに小田勇氏の紹介で宮野修さん、木村人士さんに連れられ防府市の航空自衛隊基地に行き始めてグライダーに乗せてもらいました。

 はじめて搭乗したのは岩国の鈴木産業専務の鈴木氏所有「萩原式H−23C」(JA2043)ソアラーでした。後席に乗り込んでいるのが鈴木さんです。

 ウインチ曳航、高度410mで離脱しました。

 ビギナーズラックとでもいうのでしょうか、初搭乗ですばらしい上昇気流をつかみ一気に上空1050mまで駆け上りました。寒冷前線によるテルミックに乗ったのだそうです。(寒冷前線もテルミックももはや死語です) 高度を落とすため宙返り6回・急旋回等曲芸飛行を経験させてもらい約20分間の滑空は終わりました。これでグライダーのとりこになりました。

 宮野さんは桐木町(現南区松川町)の食糧会館の中にあった穀物検定協会へ勤務しておられ、木村さんは江波三菱造船構外で鮮魚店を営んでおられました。お二人は広島県立商業の先輩後輩であり戦時中滑空部でゴム索発航のプライマリー(通称パチンコ)を校庭で飛ばしていたそうです。そのとき小田勇教官の指導も受けているそうです。

 私を宮野さんに紹介してくれたのが小田勇さんです。私の厚かましい手紙に対してきちんと返事を下さいました。1月24日消印のはがきで、二十六日に出発とあるのは、世界選手権大会へ出場するために広島を経つということです。

 

 

 

小田さんにシュペールラリに乗せてもらう

  次の写真は、1964(昭和39)年7月に小田さんに防府から広島までモラン ソルニエ MS885 シュペールラリ JA3191に乗せて頂いたものです。グライダーを取材する中国新聞社のセスナ170B JA3086と一緒に飛来し、帰りに席があるからというので誘われたものです。ラリの現在の姿は広島県A6408参照

航空自衛隊防府北基地での訓練中の私 グライダーは萩原式H-23C JA2043

一緒に訓練していた田坂律明さん(学生帽)と 

ラリ搭乗 機長席が小田勇さん

取材のセスナ170B JA3086 東亜航空

 ラリから宮島の弥山(みせん)を撮影


立命館大学体育会航空部へ

 話が前後しますが、1964(昭和39年)4月立命館大学へ進学すると、迷わずに航空部に入りました。立命では、それ以前の1960(昭和35年)頃までは、大阪の木津川河川敷でプライマリー(K−14鳩)を飛ばしていたそうですが、我々の訓練はセカンダリー萩原式H22−BV JA0176 愛宕で、高松市林町にあった旧高松空港で自動車曳航を行っていました。

 入学した年の夏休みに信州霧が峰高原で日本学生航空連盟所属の全国の新入生を集めた合同合宿があり、プライマリー訓練を受けました。私たちがパチンコ訓練を受けた最後の世代です


巴式ろノ参型セコンダリーについて
巴式ろ之参型セコンダリーJA0005 中国醸造号について 参照)

 この「萩原式H22-BU」(H22)セカンダリーが巴式ろ之参型に酷似しておりビックリしました。ここからは私の推測ですが、巴式を製作していた堀川勲さんの設計を萩原滑空機製作所が受け継いだのではないでしょうか。大阪八尾空港内にあった学連の中央研究所で、堀川さんは教官あるいは技術顧問であったと記憶しています。

 学生時代には、西ドイツから輸入した最新鋭のKa.6CR JA2088 きぬがさ号により学連の大会で圧倒的な強さで優勝できたなどのたくさんの思い出がありますが、また別の機会にさせていただきます。

披露セレモニーでの立命館総長末川博博士