国策に沿ってYS-11購入に真っ先に手を挙げた全日空ですが、1
〜3番機を4〜5年使っただけで、インドネシアのメルパチ ヌサンタラ航空へ
引渡しています。何か特別な関係があったのでしょうか、
事情を知りたいところです。
(日替わりメモ2012/09/15から)
調査結果
全日空は下表のように1969年から1970にかけて4機のビッカース
バイカウント828と4機のYS-11をメルパチ
ヌサンタラ航空に引き渡しています。両社の間には、形式的に日本リース株式会社が介在していますが、譲渡なのかリースなのか形態はよく分りません。YS-11に関してはメルパチ
ヌサンタラ航空がインドネシアでのトップユーザーとなり、後にペリタ エア
サービスからもYS-11を取得しています。
全日空とインドネシアの国営航空会社であるメルパチ
ヌサンタラ航空が友好関係にあったことは確かで、1970/4/30には、ホテルニューオータニにインドネシア大使館も呼んででメルパチ・全日空の大パーテイーを
行っています。
また、整備士を大阪全日空で教育し、100枚以上に及ぶ日本語の整備カードの英訳を全日空社員が行いました。1972/6/23-25にはインドネシア親善デモ飛行を実施しています。
1970年の全日空社報に、メルパチ航空の社長が、全日空に学びその援助を期待する烈々たる書簡が載っていました。YS-11の割愛と要員の訓練はもとより、ボーイング727を導入してその訓練を求めたり、全日空のいろいろなシステムまで学んで採り入れようと言っています。
そのこころざしの寄ってきたる根っ子には、
ナショナルフラッグの日本航空に立ち向かう全日空本空輸
ナショナルフラッグのガルーダインドネシア航空に立ち向かうメルパチ ヌサンタラ航空
という図式があるのではなかという某全日空OBのお話しです。
メルパチ
ヌサンタラ航空に貰われていったYS-11はJA8645(PK-MYN 下記写真)が、習熟訓練中に胴体着陸で失われたのを除けば、再び日本近距離航空で飛んだりしていますので、幸せな運命にあったと言えましょう。(JA機の詳細はそれぞれANA JDAの各機解説をご覧ください)
付 記
ただし、政権が変りますと、事情が一変するのも各国によくある例で、1986年にインドネシアのマンダラ航空が東亜国内航空からJA8678を買ってPK-RYZに登録したままで、同国政府の国産機育成方針によって輸入禁止となり、羽田に2年間雨ざらしした揚句解体されるという残酷な事実がありま
した。
(同じく留置されていたJA8672(PK-RYY)はMid
Pacificへ売却)