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航空歴史館 ビッカース バイカウント研究
History of the Vickers Viscount in Japan
協 力 |
関西航空史研究会、坂口雅人、高田和彦、中井アルバム、 にばさん 、にがうり、めがただし、米田勁草、ET、T67M、Twinbeech、Gulf4 【まとめ 佐伯邦昭、酒井 収】 |
参考文献 |
月刊航空雑誌、各種航空年鑑、航空各社社史、インターネット関連サイト |
1960 | 1961 | 1962 | 1963 | 1964 | 1965 | 1966 | 1967 | 1968 | 1969 | 1970 | |
Viscount 744 G-APKJ | リース | ||||||||||
Viscount 744 G-APKK | リース | ||||||||||
Viscount 828 JA8201 | 1次発注分 | ||||||||||
Viscount 828 JA8202 | 1次発注分 | ||||||||||
更 Viscount 828 JA8203 | 1次発注分 | ||||||||||
Viscount 828 JA8205 | 2次発注分 | ||||||||||
Viscount 828 JA8206 | 2次発注分 (用途廃止後、外板を森永ミルクキャラメルの景品に提供) | ||||||||||
Viscount 828 JA8207 | 2次発注分 (用途廃止後、外板を森永ミルクキャラメルの景品に提供) | ||||||||||
Viscount 828 JA8208 | 3次発注分 | ||||||||||
Viscount 828 JA8209 | 3次発注分 | ||||||||||
Viscount 828 JA8210 | 3次発注分 | ||||||||||
番外編1 vis-の発音など |
全日空の近代化に大きく寄与したバイカウント
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Vickers Viscount 744 G-APKJ
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Vickers Viscount 744 G-APKK
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以上 Viscount 744
Viscount 700 | Viscount 800 | |
全 幅 | 28.50m | 28.50m |
全 長 | 24.4m | 25.9m |
全 高 | 8.05m | 8.15m |
全備重量 | 27,200kg | 28,220kg |
エンジン | RRダート504 1400HP×4 | RRダート510 1600HP×4 |
タラップ | なし | 内蔵 |
巡航速度 | 514km/h | 515km |
乗員/乗客 | 2-3/40-53 | 2/52-70 |
以下 Viscount 828 01
Vickers Viscount 828 JA8201
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Vickers Viscount 828 JA8202
02
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Vickers Viscount 828 JA8203 03
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Vickers Viscount 828 JA8205 05
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Vickers Viscount 828 JA8206 06
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Vickers Viscount 828 JA8207 07
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Vickers Viscount 828 JA8208 08
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Vickers Viscount 828 JA8209
09
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Vickers Viscount 828 JA8210
10
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番外編1 visの発音 番1
若い人は、こういう書き方には馴染めないでしょうね。右書き。
もちろん、年寄だって未だに馴染めませんよ。しかし、これで通用した時代があったことを全日空発行の絵はがきが証明してくれています。viscount(子爵)を三省堂の辞書で引くと[★発音に注意]と書いてあります。vis-を接頭語とする単語の中ではこれだけがバイと読ませるみたいなので注意を呼び掛けているのでしょう。全日本空輸の右書きと同じで、馴染むまでに少々時間が掛かります。
1952年に日本のヘリコプター操縦第1号の免許を取った神田好武さんが、9年後にはイギリスへ行って4発ダーボプロップ機の免許を取りました。viscountを操縦して羽田へ凱旋するや超低空や3発停止をやって出迎えの度肝を抜いた話しは有名ですが、私は、科学朝日か何かの本で、テーブルに立てた鉛筆が倒れないという体験搭乗記を読んで、そもそも旅客機内が揺れるもの(振動)という認識すらない頃ですから、おおいに関心を抱いたものでした。
そんなことを思い出しながら、皆さんのご協力で全日空バイカウントの個別機体の歴史をまとめました。ご感想を期待しています。
番外編2 1969年8月 さよならバイカウント 番2
1969年8月31日のバイカウント最終便のダイヤ
下り 東京 大阪 高知 宮崎 鹿児島 上り 鹿児島 宮崎 高知 大阪 東京 631便 07:40 → 09:55 10::45 632便 11:20 12:25 → 14:15 615便 15:10 → 18:00 18:25 616便 18:55 19:45 → 21:50 455便 10:05 → 11:40 482便 19:05 → 20:30 あおば比呂司さんのイラストと全日空バイカウントの回顧
1969年8月31日 鹿児島〜宮崎〜羽田便の到着後さよならセレモニー
航空情報1969年月11号国内ニュース
十朱幸代さんとあおば比呂司さんがいる宮崎の行事 NHKが1968年10月29日から1969年9月30日まで放映した「あひるの学校」と、1969年8月31日のバイカウントさよなら行事とが絡み合っています。撮影T67M
JA8208 「あひる学校」に出演した十朱幸代
あおば比呂司さんによるイラストの描きいれ
あひるのパネルの準備 ノーズにJA8201と同じものが描かれている
JA8208 この写真のみ撮影は1969年7月
〇 東京〜宮崎〜鹿児島便について にばさん
バイカウント路線の時刻表にある615〜616便は懐かしい便です。
バイカウントは、エアコンの能力不足で夏場に機内温度が下がらず苦労したものです。暑くてステテコ姿になる乗客もいるとスチュワーデスがこぼしていました。苦情が出ないように、ジュースを紙コップに半分程度入れ、帰り便用に残しておくなどの工夫もしていました。
宮崎空港が停電で、新田原基地に着陸したこともあります。グランドクーリングカーなど無く、ドアを開放して外気を入れて暑さをしのいだこともあったですね。
実情を調べるために乗務し、湿度計と温度計を客室に取り付けて計測したこともあります。胴体床下のヒートイクスチェンジャーのクリーニングを、夏場の前に実施するシーズンメンテをやって多少は良くなりました。615便はその前の便の遅れから、羽田出発も遅れることが多く、折り返し616便では、宮崎の乗客を鹿児島まで車で運び、宮崎に降りずに羽田直行便にしたりするなど、いろいろと思い出の多いバイカウント615〜616便でした。
佐伯から : 1962年というと新鋭828型機がフル稼働して全日空躍進のスタートになった年ですが、いいことずくめではなく、そんな悩みもあったのですね。面白いといって笑っては失礼ですが・・・。
番外編3 バイカウント828の整備の思い出 番3
元全日本空輸社員 仁林 敬
私は、1962( 昭和37)年に全日本空輸に入社し、新入社員訓練のあと、当時の整備部定時整備課に配属されました。課名のとおり、ドック整備で機体班でした。まだダグラスDC-3(と言うより三型サンガタの方に馴染がある)が主力機の時代でした。
中古機の三型と違い、バイカウントはピカピカで、輸入耐空検査前の整備では顔が外板に映り、触るのが勿体ない感じでした。機内も新造機独特の匂いがしました。
・ 保護具など支給されない時代
機体整備班はエンジン班の整備が終って試運転の必要がある時は、エンジンを運転して確認するまで、作業は終わりません。
ロールスロイス・ダートエンジンは空気を吸い込むときの音が甲高く、4発全部のエンジンを運転している時に前に立つと、騒音で耳がおかしくなる感じでした。イアーマフなどまったく縁がなく、そのうち慣れるさと先輩に言われました。そのためか、後日人間ドックの聴力検査で周波数の高い音が聞こえにくいと判定されたものです。
当時の貧乏会社では、いわゆる保護具のようなものは殆どなく、軍手は機体班は関係なく、エンジン班がレシプロエンジンの運転後の作業で熱い部分を触る時のみ装着していました。・ きしゃな造りのイギリス製
アメリカ製の三型になじんだ整備屋として英国機は作りがきゃしゃで、簡単に破損することがありました。
それほど開け閉めしない操縦席入口扉は、扉の真ん中にヒンジが付いた二つ折れのものでしたが、修理してももちがよくなく、ハイジャックなど聞いたことがない時代のことですから、あっさりカーテンに切り替えました。今では考えられないですね。
客室後方の壁の後ろ側にギャレーがあり、配膳用の折りたたみの簡単な奥行の狭いテーブルが壁にはめ込むようにありましたが、これも不具合があり使わないようにしていました。・ アメリカ製旅客機との違い
プロペラの回転方向が米国製旅客機とは逆でした。
機体をジャッキアップするときに、ジャッキを付ける、ジャッキパッドも逆で、米国機は機体側が凸で、ジャッキ側凹でしたが英国機は反対でした。
降着装置も米国機はLanding Gearに対しUnder Carriage と呼ばれていました。
また、ボルト、ナットのサイズが違いオープンレンチを米国サイズと英国サイズの二種類を工具箱に入れておく必要があったのです。
ボルトでも細い2BA、4BAと呼ばれているものは、ちょっと締めすぎるとよく切れました。心理的に緩まないように多少強めに締めるのは、初心者によくあることで、いわゆる適正トルクなどと言う言葉も知らない新人社員でしたから。・ バイカウントの主翼
バイカウントの主翼は、金属製旅客機には珍しい単桁(モノスパー)に上下外板を取り付けた構造で、飛行中は誰が見ても、翼上面のしわは気になるものでした。更に、しわが目立つのは、整備の際、翼上面を歩くためのガイドラインがスパーに沿って黒線で描かれたこともあります。
当然ながら使用時間が長くなればリベットは緩みます。点検時に、どの程度の緩みかをリベット周囲の黒ずみで判断していたように記憶しています。主翼構造 上下をふくらませて誇張してあります 航空情報1953年8月号
・ バイカウントの燃料タンク
主翼のモノスパー構造のために、インテグラルタンクが採用できなく桁の前後にゴム製のセルタンクを片翼で6個設置し、各セルをパイプでつないでいました。
インテグラルタンクはたまにリベットなどから燃料が滲むことはあっても、漏れ箇所が一目で分かるのですが、セルタンクは主翼下面で燃料もれが見つかっても、どのセルか、どの接続部かその場所をつきとめるが大変でした。JA8205は燃料漏れの部位がなかなかわからず随分苦労した飛行機です。オーバーホール作業でセルを交換後、接続パイプにゴム製のパッキンが使用されておりその接続ボルトの締めすぎだったと記憶しています。漏れないように、締めすぎたのが返って漏れに繋がると言うことはなかなか分かりませんでした。
・
バイカウントの操縦席操縦席は他機に比べて、かなり狭く、オーバヘッドパネルのスイッチ類に頭をぶつけないように、注意しながら席に着きます。日本人でそうですから、生産国の英国の大柄なパイロットは大変だったと思います。席についてしまえば、狭い方が手がすぐ届き操作はしやすいように思いました。
通常の旅客機は、コントロール・コラムがありその上にコントロール・ホイールがあります。バイカウントはコントロール・コラムがなく、小型機のように計器盤からコントロール・ホイールのシャフトが突きだしており、すっきりした感じでした。操縦経験のあるパイロットに聞きますと、速度が速いのに、すべて人力操縦でYS−11と同様にかなり重かったそうです。
また正面の窓が小さく、機長席に座ると右方向の視界が悪かったので、副操縦士に見てもらうしかなかったようです。・ バイカウントの客室
全日空使用の客室は、通路を挟んで5列配置でした。
従来の使用機は、客室は1室でしたがバイカウントは3つの部分に分かれています。最前方はプロペラ回転面がトイレになっていましたので、その前側のいわば特別席ですが、料金は同一でした。最前列の席が後ろ向きでテーブルを挟んで向い合せの4席でした。芸能人などがよく利用したようです。
トイレの後ろはいわゆる普通の客席が後部隔壁まで続き、ギャレーの後ろ側に隠し部屋のように、カーテンで仕切られた横向きに座る二人がけのベンチシートが左右にあり。ラウンジ風の狭い部屋でした。ベンチの後ろには小ぶりの楕円の窓がついていました。胴体が細く変化する部位でベンチも真横でなくやや斜め前方向きになっていました。
満席でなければ、カーテンを開けてここに座る人はいないようで、飛行中のスチュワーデスの審査などにも使われていました。
全日空の828型機キャビン配置図 乗員2、客室乗務員2、乗客67で運用・佐伯
参考 ビッカース社が発表した初期800型の図面
バイカウントはナイトライトと言うブルーのライトに客室照明が切り替えが可能で、夜間飛行は暗くすることがありました。最後尾の4席の部屋はナイトライトがなく真っ暗になり、よからぬことをする客がいるということでメインキャビンと同様のブルーライトが点灯するように改修されました。
・ バイカウントの客室窓客室窓は、大きい楕円形で、二枚構成の窓を外すと、そのまま非常脱出口になります。取外せるようになっていたのは、オーバーウイングの左右3枚とプロペラ回転面の前方の4人向かい合わせでテーブル付の部屋の一番前の窓だったと記憶しています。
通常客室窓は外側と内側の別々のウインドペーンになってますが、バイカウントは、内外の二枚の樹脂製のものを枠で囲んだ、一体構成でした。聞く人も居ました。
窓が大きいので、機内から見る景色も広々としていました。しかし、大きいとはいうものの楕円形の窓からの脱出は、かなり大変のようでした。実機を使ったスチュワーデスの脱出訓練では苦労したようです。当時はモックアップなど貧乏会社には無縁でしたから。
外がよく見えるので、主翼部分の席に座った人が飛行中、主翼上面の外板のしわに気づき、スチュワーデスに不具合ではないかと・ テレビジョンの装備
JA8208は世界で初めて、飛行中にTVが見られるようにハットラックにモノクロTVを試験的につけて運航しました。受信アンテナは二重窓の内側の縁に沿って楕円形のものがあったように記憶しています。
・ 改修作業
全日空では、機体メーカーが出すサービスブリテン(SB)と社内で考えて実施する”社内改修“の二種類の改修作業を実施していました。
いろいろな国の機種を採用すると違うシステムがあれば、同じシステムを付けてほしいという要望が乗員からだされて、会社も乗員の要求は比較的採用したようです。
ボーイング727操縦席のウインドペーンに豪雨時に使用する雨滴をとばす“レインリペレント”の噴射装置が導入されると、バイカウントにも取り付けてほしい要望があり、社内改修で取り付けましたが、噴射バルブと出口のノズルまでパイプが3〜4cmあり、その中にたまった液が固まり苦労しました。もっともワイパーで充分でない豪雨の時しか使用しないと言うことでしたのであまり苦情もなかったように思います。なかには、ウインドウォッシャーと勘違いしてガラスが乾いた状態で噴射して、その拭き取り作業でライン整備の人を煩わせたパイロットもいたようです。これは生産技術課の時に作業手順書を書いて実施した一例です。・ バイカウントのフライトコントロールシステム
飛行機とコントロール・ケーブルは切っても切れない関係でライト兄弟の飛行機にもケーブルがありますが、バイカウントにはケーブルが無く、フライトコントロールのみならずエンジンコントロールもプッシュプルロッドが使用されていました。
ケーブルを使わないと言うことは、ケーブルテンションと関係がなくその分整備は楽でした。ただ、ロッドの接続ボルトが脱落したら大変なことになるので、ナットに割ピンでロックするタイプだったと思います。オーバーホール等で接続の復旧時は、必ず班長が再点検して割ピンの取付けを確認していました。
変わっていたのは、エルロンコントロールで、掃除機の床に接する吸い込み部と吸い込みパイプとの関係と同じで、パイプ側を回転させると、角度が変わる機構で、なるほどと思いました。・ アンチアイス・システム
エンジンの空気取り入れ口の縁とプロペラは電熱で温めていました。バイカウントの防氷システムはエンジンのジェットガスの一部を取り込んだ高温ガスで主翼、尾翼の前縁を温めていました。ジェットガスの取り込みは内側エンジンのジェットパイプの中に、開閉式の取り入れ口があり、温度によって開口部のスクープの開き具合を調節できるようになっていました。インチング・ユニットと言われてその開閉具合の点検はジェットパイプの中にもぐりこんで実施していました。機体班で小柄な人が選ばれて、もぐりこんでいました。
勿論煙突ほどではありませんが、内面はかなりすすけておりカバーオールが真っ黒になっていました。・ バイカウントとフレンドシップのオーバーホール
全日空の整備部に新規にオーバーホール課が出来ると言うことで、希望して異動できました。マッカーサー元帥の専用機の入っていた格納庫でマッカーサーハンガーと呼ばれる、海老取川に面した旧整備場の北のはずれにあった格納庫でオーバーホール作業を始めました。対象機はF−27とVC828の二機種でこの機種では、日本で初めてのオーバーホール作業でした。
当時の課長は、ドック整備はメインディッシュの前の前菜のようなもので、オーバーホール作業こそが整備のメインディッシュだと語り、課員は誇りを持って作業したものです。
いままで、誰もやったことのない作業をするわけですから人に聞くわけにいきません。英文のマニュアルを苦労して読み取りながらの作業でした。
今や航空機のオーバーホールは死語になってしまいましたが、当時は当たり前のこと。ドックイン後すべての動翼、ランディングギア、エンジンを取り外し各種点検口のパネルを外し、通常見えない部分の詳細点検をします。
また胴体のペイントを剥し、塗り替え作業も同じ格納庫で実施します。客室も座席、絨毯、床板を取り外し、床下部分の点検をします。F−27は主翼、尾翼のブーツのある前縁部分を外し構造点検と同時にブーツの修理をしました。通常取り外す部位でなく、ネジが緩まず苦労しました。事前にネジ部にWD−40(CRC556のようなもの)をスプレイしておけばもっと簡単に緩んだと思われます。
バイカウントは外翼(外側エンジンの外側)を取り外して点検する作業までありました。設計思想の違いで、昔は機体構造の点検個所が随分ありました。時には装備品の分解をやることもありました。フラップのギアボックスだと思いますが、あるグリースニップルからどうしてもグリースが入らないので、ニップルを外してみたら何とその先に穴が開いていないのには驚きました。当然、オーバーホールに入るまで、この部位は給油されていなかったことになります。
オーバーホール作業は工期が迫ってきますと、残業の連続で時に会社に泊まりこむこともありました。畳の部屋が準備されてました。風呂がなく、離れている、定時整備課の格納庫まで行かねばならず、誰かが家庭用の小判型の木製の風呂桶を運んできて、お湯をはり使用したこともあります。米軍に接収された空港地域だったためお湯はいつでも出る状態で、その点は恵まれていました。
・ JA8202の事故
つらい記憶です。昭和37年11月19日、確か会社が休みで学園祭かなにかに行っていたら、友人から全日空の飛行機が墜ちたらしいと言われました。帰宅後、夕刊に白い煙を吐いてまっさかさまに墜落する写真が掲載されて いました。機番をみて、驚きました。自分たちがドック整備をした飛行機で、ドックアウト後、最初に訓練飛行に使用されたようです。新入社員でしたが、自分が作業した部位がどこだったか気になりましたが幸い足回りで確か車輪を外し、ローラーベアリングにグリスアップする作業で、直接飛行に関係ない部位でほっとしました。フライトレコーダーも ボイスレコーダーもない時代で、結局原因不明でした。 推定として、失速後の回復訓練でフラット・スピンに入ったのではないかといわれています。
・ JA8208の着陸滑走中のギア・アップ事故 (ギブアップではありません)
昭和38年4月、いつものように格納庫(T303)で残業中に、当時は格納庫扉は解放のままで、夕闇が迫る時間で、薄暗かったと覚えています。何かいつもと違う音がしたので、滑走路の方を見ると飛行機がAランウエイを着陸滑走中で胴体下面から火花が出て少し明るくなり、垂直尾翼のダヴィンチのマークが見えました。これは大変!すぐトウイング・タグで現場に急行。消防車から泡沫消化液が放出されはじめたところで した。
厚さ5cm位の泡沫消化液の中を機体に近づきました。既に乗客は全員脱出したあとでした。ほぼ水平に近いエアステアから機内に入って、乗客の荷物を貨物室上部の床板のハッチを開けて運び出しました。米国の団体が乗っており、スーツケースが多数あり、当時は若いとは言え、かなり疲れました。
米国人の乗客は不安で男女抱き合っている人も・・・Good Landing と言うのは皮肉でなく、ギア・アップランディングを乗客に知らせずの実施したと思っている人もいました。それは一度ギアで着陸した後の滑走中に脚上げ操作をしたので、スムーズな着陸だったと思います。
原因はジャンプシートに座ったパイロット訓練生が、ペデスタルにあるプロペラをグランドファイン・ピッチにするレバーと近くのランディング・ギア・レバーを間違えて操作したためです。ランディング・ギア・レバーは地上でミス操作を防ぐため、一定の速度以上でないと操作せきないようになっていました。着陸速度で速度が速く、操作出来たようです。
復旧作業で機体を軽くするため、くねくねS字型に曲がった4基のプロペラを外し、燃料を抜き、確か座席も取り外したと思います。当時国際線を飛ぶ大型機の滑走路はAランしかなく、飛べない国際線の外人パイロットなどが、見物に来ていました。再三早く撤去するよう、当局から言われましたが、午前二時ごろやっと、滑走路をあけることが出来ました。安全靴に付着した、泡沫消化液の匂いや、身体にも匂いが残り、風呂に入ってもしばらく残 っていました。
ヴィッカース社から技術者を呼び、羽田のDC−3格納庫で、かなりの日数をかけて修理しました。