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航空歴史館

展示機のシリアルナンバー書替え

 

1  “航空ファン 955号機の怪”への答え
2  岐阜基地の92-7897(-40)が62-7427(-30)のナンバーをつけている理由及び実験航空隊のマークを描いている理由
3 河口湖自動車博物館と浜松広報館の同一ナンバー機
4 八幡浜フェリーターミナル のF86-F シリアルナンバー書き替えの怪 
 
1 “航空ファン 995号機の怪”への答え  

 

  まずは、航空ファンイラストレイデット1996 No.86 ブルーインパルス(青い衝撃の歴史)の96ページを読んでください。(転載許可済み)

 

 本物とニセ物の#995がおり、本物の#995は下右写真のようにスクラップ場行きとなっています。

 そこで、ニセ物の正体と、こんなことをした事情を知っている方は編集部へご一報をと書いております。

 雑誌が出てから9年もたっているので、誰かが編集部へ知らせているかもしれませんし、航空史探検博物館においても、浜松基地北門の「青い衝撃」碑と共に展示してあるF-86F に書いてあるナンバーは#929であるが、機体は#995だとしているので、表面上は解決済みです。

撮影2003/11/16  Ogurenko 

 

ただ、その理由までは踏み込んでいないので、ここで推理をしておきましょう。

 

 #929#995の経歴は次のとおりです。

F-86F-40NA 92-7929の経歴

1960/02/

USAF S/N 57-6386 Japan Air Force S/N 92-7929 

 

第6航空団など遍歴

1970/

ブルーインパルス 1970〜1977 8年間

1977/10

用途廃止

 

F-86F-40NA 12-7995の経歴

1961/02/04

USAF S/N 57-6452 Japan Air Force S/N 92-7995 

 

第1航空団など遍歴

1976/

ブルーインパルス 1977〜1978 2年間

1980/08

用途廃止 

 ブルーインパルスでの使用期間と用途廃止の時期に注目してください。

 その上で、RENATさんがF-104を愛する人の掲示板(05/01/11)に書き込んだ 次の投稿を読んでください。


 #929の用途廃止は1977/10で 、#995が1980/08です。

 私の記憶では#929はかなり長期間外に放置されており、#995の用途廃止時に入れ替えは可能でした。

 では、なぜ入れ替えしたのかということになります。

 推測も含みますが、パイロットをはじめとして、当時のブルーを愛する者として#929の想いが強いです。当時の代表的ソロ機で最終リーダーでした田代三佐がソロ機時代メインに乗りこなした機体であ りました。機体としても扱い易いいい機体だったとも聞いています。

 一方#995は予備機的存在で、リーダー機を比較的多く活用したくらいでポジションがよく変わってました。

 浜松のハチロクブルーの閉幕に当たって「青い衝撃」碑を設置し、傍らにどの機体を置くかということになれば、#929を残したいとの声があがって当然だと思います。しかし#929は長期放置とパーツ取りでコックピット内も完全ではなかっと思います。やむおえず#929
#995を入れ替え機番の書き換えが行われたと考えます。

 私の知人で#995の垂直尾翼を所有している人がいますが 、995の数字の下に929の跡が残っていると言っています。

 私の追っかけ時代のメイン機番の印象はリーダー機960左翼2番機809右翼3番機812後尾4番機927ソロ5番機#929または847でしたね。

 航空ファンイラストレイテッドの編集者さん、いかがでしょうか。自分の青春はブルーインパルスとともにあったと述懐している浜松のRENATさんの話です。信頼のおける推理ではありませんか。

 

        

2 岐阜基地の92-7897(ダッシュ40)が62-7427(ダッシュ30)のナンバーをつけている理由22
    及び所属したことの無い実験航空隊のマークを描いている理由

 

 航空自衛隊のF-86Fには、供与機のダッシュ25、ダッシュ30、ダッシュ40と国産のダッシュ40があります。

 ダッシュ25、ダッシュ30とダッシュ40の大きな違いは、主翼です。

 6-3ウイングにして境界層板を取り付けた-25 -30の主翼

  F-86Fは強力なJ47GE-27エンジンでパワーアップを図ると同時に、高空戦闘で邪魔になる前縁スラットを取り払い、前縁を付根で6インチ、翼端で3インチ延長して、最高速度と旋回性能の向上を図りました。これが有名な6-3ウイングです。
 ただ、そのために失速速度があがって危険なため、Mig-15などが採用していた境界層板(7インチ×35インチ)を取り付けました。
 これが-25と-30の主翼です。

 前縁スラッに戻した-40の主翼

 -40は、日本や韓国への供与を念頭において設計されたFの最終量産型で、6-3ウイングのまま再び前縁スラットに戻し 、翼端を1フィート延長して翼面積を増やしました。これで高速時と低速時の性能と安定性を維持し 、セイバーの最高傑作機となりました。 右図前縁取り外し片(ウイングチップコーン)というのは、6-3ウイングがガンベイのドアにかかるため、ドアを開閉 時に取り外す部品です。 また、F-86Fは、1960年度からTACAN(戦術戦闘航法装置)装備の改修を受けますが、RF-86Fを除く-25と-30は受けていませんので、下の写真に示すように、機首上のアンテナと右胴体後部の冷却空気取入口があるかないかも一つの識別方法です。ただし、-40にも未改修機があるので注意が必要です。

 岐阜基地における初代F-86F-30 62-7427

F-86F-30NA 62-7427の経歴

1956/03

米から供与(USAF S/N 57-6386) Japan Air Force S/N 62-7427

 

第1航空団第1飛行隊

1962

用途廃止 岐阜基地で保管 第2補給処マークで各地へ貸し出し

 

第1飛行隊マークで岐阜基地へ常設展示 

2000年頃

撤去解体 

用途廃止後に岐阜航空祭に展示 第1航空団マーク 撮影 幸田恒弘


同 撮影1974/10/10 KUPANBA


第2補給処のマークを画きいれて展示 撮影1972/10/22 丹羽八十



第1飛行隊マークで常設展示場に展示 撮影1980/06/01 KUPANBA


ナンバーを消してスクラップ処分 撮影年月不明 RENAT

 


 二代目F-86F-30 62-7427 (F-86F-40 92-7897に62-7427と画き入れて展示 )

F-86F-40NA 92-7897の経歴

1959/02/21

三菱から引渡し(USAF S/N 57-6354) Japan Air Force S/N 92-7897 

 

各航空隊遍歴 TACAN改修

1976

第1飛行隊で用途廃止 

 

62-7427のナンバー 及び第1飛行隊マークを画き入れて岐阜基地へ常設展示 

2009/03

再塗装 62-7427のナンバー 及び実験航空隊マークを画き入れ

92-7897に62-7427と画き入れ第1飛行隊マークで常設展示 撮影2004/10/19  にがうり

 化粧直し 二代目F-86F-30 62-7427のマークを実験航空隊マークに書き換え

撮影2009/04/11  杉山弘一



 

戸籍を二つも改ざんした理由 (第二補給処広報室)

@  形式を正しくF-86F-40としながら、シリアルナンバーを-30の62-7427に改ざんしたのは

 62-7427が、米国から無償供与時代の数少ない-25と-30の生き残りであ り、取り壊されることになって、当時の隊員に、そのナンバーを残しておこうという意志が働いたものとみられています。2009年の再塗装においてもそれを継続しました。

A 2009年の再塗装にあたり尾翼マーキングを第1航空団から実験航空隊に改ざんしたのは

 展示場でAPGマークを書いているのがT-34とT-2しかなく、飛行開発実験団の基地として淋しいというので変更したものです。

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3 河口湖自動車博物館と浜松広報館の同一ナンバー機 23 


 〔前段〕 ここに同ナンバーの2機のノースアメリカン(三菱製)F-86F-40があります。

 1機は河口湖自動車博物館の02-7960
 
1機は、航空自衛隊エアパーク浜松広報館の02-7960です。

    河口湖自動車博物館の02-7960 撮影2007/08/30 佐伯邦昭
     



航空自衛隊エアパーク浜松広報館の
02-7960 撮影2005/04/20 佐伯邦昭



 原因は、下郷資料によりますと、河口湖自動車博物館が02-796202-7960と書き替えているからです。下郷さんがそれをどうやって確認したのかは聞き漏らしましたが、原田さんが通常のハチロクをブルーインパルス塗装で展示したいために、実際にブルーで飛んでいた02-7960を採り入れたのだろうと推察します。


〔後段〕 計器盤のラジオコールナンバー

 AIR JAPAN誌 12(発行1982年10月)に02-7962のラジオコールナンバーの写真が載っているので拝借してきました。

 02-7962は築城基地に最後までいた86Fだそうで、分隊でその整備に当たった国田雅敬さんが投稿しているものです。(国田雅敬さん 見ていればご連絡ください)

         

 河口湖の計器版にこのプレートが残っていれば、下郷資料が正しいいことが立証されます。同様にして浜松の計器盤のプレートのラジオコールナンバーが02-7960であれば、正しいシリアルで展示されていることが立証されましょう。


〔後段追加〕 

 浜松広報館の02-7960のラジオコールナンバーの写真 。これにより正しいシリアルで展示されていることが立証されました。 撮影にがうり

              


〔後段更に追加〕  更追

 三菱重工業の製造銘板の撮影に成功

撮影2009/08/06 野田


 


〔余禄〕 両機の現役写真 

02-7960経歴 

1960/06/29

c/n256-80 US57-6417 航空自衛隊へ引渡

1982/03/30

ブルーインパルスで用途廃止

 

浜松広報館に展示

撮影1980/11/30 浜松航空祭 林寿喜


撮影1980/11/03 入間航空祭 石出隆之

02-7962の経歴 

1960/12/28

c/n256-82 US57-6419 航空自衛隊へ引渡

1980/08/29

第6飛行隊で用途廃止

 

河口湖自動車博物館に展示 02-7960と表示

撮影1970/07/21 築城基地 興野博士


撮影1980/05/05 岩国航空基地 佐伯邦昭

掲載 AIR JAPAN誌 12
 

 

4 八幡浜フェリーターミナル のF86-F シリアルナンバー書き替えの怪   八幡浜 2-4
A7304-2から転記

× 八幡浜フェリーターミナルのF-86F 02-7951

02-7951の経歴 

1960/04/28 c/n256-71 US57-6408 航空自衛隊へ引渡
1976/12/14 第3航空団第8飛行隊で用途廃止
  八幡浜 フェリーターミナルへ展示 撤去時期不明

AIR JAPAN No.10 (1982/06発行)より

 

× 八幡浜フェリーターミナルのF-86F 82-7804  (尾翼は02-7951

82-7804の経歴 

1958/05/12 c/n238/34 US56-2806 航空自衛隊へ引渡
1977/02/08 第3航空団第8飛行隊で用途廃止
  八幡浜 フェリーターミナルへ展示 撤去時期不明

撮影1996/03/17  山本晋介  

日替わりメモ2012/08/18

○ F-86Fのシリアルナンバー書き替えの怪

 下郷資料には、ノースアメリカンF-86Fの02-795182-7804が両方とも八幡浜フェリーセンターにディスプレイと記してあります。しかし、両方の機体が展示されたわけではなく、どうもシリアルナンバーに細工が施された形跡があるように思えるのですが、何やら古い数字が浮き上がってきたらしいという夏の夜の怪談ばなし、先ずは表示をご覧ください。

 確かに、1982年のAIR JAPAN誌にはキャノピー下の表示も胴体と尾翼の表示も02-7951です。

 

 また、山本晋介さんが1996年に撮影してみると、
キャノピー下の表示が妙な具合になっており、機首ナンバーが804に書き替えられています。(尾翼は02-7951のまま)

 これをどう読み取ればいいのでしょうか。八幡浜フェリーの人が、シリアルナンバーを細工したとはとても考えられませんので、自衛隊関係者か超マニアが指示したのでしょうか。1996年撮影のシリアル表示は02-7951が消えて82-7804が浮き出てきたのか、例の空自F-86Fの合体メカに関係がありそうにも思いますが、この怪談、どなたか一刀両断してくれませんか。

  なお、下郷資料は両機とも八幡浜展示ですが、山本晋介さんによると、JAPANESE MILITARY AIRCRAFT SERIALSに82-7804八幡浜展示とあったので、上の写真をもとに佐藤正孝さんに知らせたら、次の版から02-7951に修整されたということでしたが、2008年最終版では両方とも展示の記述が消えております。

2012/08/24

八幡浜フェリーターミナルのF-86Fのナンバーの怪について推測  伊藤憲一

 搬入時の状態は、804号機の胴体に951号機の尾翼を取りつけた状態であったと思います。そして、胴体と尾翼の番号がちがうのはおかしいというとで、胴体の番号と、ステンシルの番号を951と上書きしたのではないでしょうか。それが、時間経過とともに表面がはがれ、もともとの番号の804が現れてきたものと思います。

 胴体が951ではないという推測の根拠は次のとおりです。AIR JAPAN 19826月掲載の機首の「951」の「9」と「5」の書体は、現役時の書体と違うように見えます。そのため、少なくとも用途廃止後に記入の可能性大と思います。

 804を消して951を画きいれたか
 (参考) 類似番号の現役機

 F-86Fの写真集を見ると、胴体の3桁のナンバーの現役時の書体について、「3」、「6」、「8」、「9」の真ん中の横棒の上下位置は同じ位置(おそらく上下の中心)に見えるのに対して、「5」の真ん中の横棒は、わずかに高い位置に見えます。

 しかし、「5」の横棒の上下位置はちょうど上下の中心に見えます。また、「9」も、角の削ぎ寸法がわずかですが大きく見え、現役機の「9」よりも少し丸みがかって見えます。

 よって、現役を退いた後に記入されたものと思います。

 (福岡添田公園T-33A358号機の時と同じような推測です。なお、F-86Fの尾翼の「5」の書体は、胴体のものと違って、真ん中の横棒の上下位置は上下中心に見えます。)

 

佐伯の補足 :  キャノピー下の書き替えの怪は、その際に82-7804関連を消して、あらためてステンシル板を当てて02-7951関連に吹きつけたのでしょう。10年以上たって02-7951関連が剥げ落ち、元の82-7804が浮き出てきたとすると、写真の説明がつきます。ですから、八幡浜へ払い下げる前に3空団第8飛行隊(小牧)の整備員の手で合体メカにし、塗り替えたものと考えられます。

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