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航空歴史館 掲載開始18/01/19
最終更新19/07/18


テーマイラスト 古谷眞之助

 

総 目 次
年表
ノースアメリカンF-86F 小史
航空自衛隊ノースアメリカンF-86Fの全機経歴と写真

その1

F-86F-25  F-86F-30  RF-86F MDAP供与  30機 うちRF-86Fに改造18機

その2

F-86F-40-227 7431〜7535番 MDAP供与  105機

その3

F-86F-40 7700〜7770番 防衛庁第一次発注ノックダウン生産機  70機 
その4 F-86F-40 7771〜7880番 防衛庁第二次発注   110機
その5 F-86F-40 7881〜7000番 防衛庁第三次発注  120機 
  航空自衛隊F-86Fの編隊飛行の基本隊形
  航空自衛隊始まって以来の大事故 訓練中の第2航空団のF-86F 4機が墜落

  合体メカの実例とシリアルナンバー変更の理由
         62-7497の場合   真の497と偽の497
         
92-7939の場合
         
参考 三菱製F-86Fの銘板
         
参考 F-86の計器盤 各型

  展示機のシリアルナンバー書替え
        
“航空ファン 955号機の怪”への答え
        
岐阜基地の92-7897(-40)が62-7427(-30)のナンバー及び実験航空隊のマークを描いている理由
        
河口湖自動車博物館と浜松広報館の同一ナンバー機
        八幡浜フェリーターミナル のF86-F シリアルナンバー書き替えの怪 

    F-86Fセイバー退役式の画像
  米返還後の在日米陸軍財産処理局(相模原市)によるアルミニュウム屑としての払下げ入札の公告
    質問箱  F-86の主翼の接続構造について 

 


協力者

飯野 明、石手隆之、伊藤憲一、 大石治生、かつお、カニキング、けんちゃん、国田雅敬、 興野博史、幸田恒弘、 杉山弘一、下郷松郎、高田和彦、田中昭典、にがうり、丹羽八十、野田、服部公清、林寿喜、古谷眞之助、山本晋介、予備三曹、A-330、Blue1、ELINT人、KUPANBA、OCC、Ogurenko、RENAT、TADY BEAR、TR、文林堂、航空自衛隊第二補給処広報室  【まとめ佐伯邦昭 】

参考文献

ヒコーキの会機関誌ヒコーキ雲、世界の航空機、航空情報、航空ファン、日本航空機全集、AIR JAPAN、別冊航空情報1998年桜井定和編集F-86F Saber、航空ジャーナル1981年臨時増刊ブルーインパルス 、丸メカニックNo.17グラフ特集F-86セイバー

 

F-86F研究の過程で生じたもろもろの感想


日替わりメモ2018/02/03  〇 泥沼ハチロク研究史

 例えば、次のような経歴が出てきます。

  c/n227-14 US55-3824
1956/05/12 航空自衛隊へ供与8号機 62-7437 第1航空団第1飛行隊配備
1980/10/21 第8航空団第6飛行隊で用途廃止 アメリカへ返還(書類上?) 
大分県別府市 リンドバーグ病院に展示
大分県別府市 日本文理大学教材

 F-86F-40のうち、未使用で木更津に保管されていた45機(航空自衛隊シリアル62-7536〜7580)が、米軍事援助調査団の申入れで、1959年にアメリカへ送り返された史実は確定していますが、下郷リストには、それ以外にも「米へ返還」という注記が無数に出てきます。しかし、実際には、↑のように別府のリンドバーグ病院の内田院長が入手して病院に展示し、その後日本文理大学航空学科の実習教材に供されている機体があります。

 こうしたことから、下郷リストの「米へ返還」というのは、次の四つの態様があったと推定されます。
  @ 実際に送り返された機体 
  A 書類上の返還のみで日本で解体された機体 
  B 書類上の返還後に自衛隊基地内展示されたもの 
  C 書類上の返還後に民間に払い下げられたもの

 次の例は、@の場合であり、1964年に返還された15機のうちの一つの例です。

  c/n227-18 US55-3833
1956/05/17 航空自衛隊へ供与10号機 62-7439 第1航空団第1飛行隊配備
1964/05 米軍事援助調査団の申入れによりアメリカへ返還リストに入る
1964/05/22 第4航空団第7飛行隊で用途廃止  
アメリカへ返還 チュニジアへ供与

 15機のリストは判明し、そのうち11機がチュニジア空軍に供与されたことも判明していますが、残り4機がどこへ行ったのか不明です。

 このように、返還機だけみても未解明の歴史が出て来る泥沼ハチロク研究史なのだあ!

    


日替わりメモ2018/02/16  〇 F-86Fの迷彩塗装はF-1戦闘機以降の迷彩研究のためと判明

 8日に、『実に本邦初公開超レア物の写真』と意気がって書きましたが、tamaさんの通告で、航空ジャーナル誌をひっくり返して見たら、76年12月号に浜松南基地遠望のモノクロ写真があり、77年5月号には、航空医学実験隊がテストした結果としてT-1に採用されたとして紹介されておりました。赤面です。

日替わりメモ2018/02/16  〇 泥沼ハチロク研究経歴と写真の更新から

 ダッシュ40の供与機を引き続きアップしております。
 市ヶ谷の靖国通り沿いの高台の上にに展示された62-7461は、恐らく防衛庁が全国に貸出し始めたハチロクの最初期の見本ではないかと思います。ところで航空情報の英文のキャプション↓は、Cadet Schoolとしていますね。えっ、市ヶ谷駐屯地は士官学校?
         

 陸軍士官学校、陸軍参謀本部、極東軍事裁判法廷、三島由紀夫の切腹など数奇の運命を経てきた高台、平成の今、何を考えているでしょうか。


〇 泥沼ハチロク研究経歴と写真の更新から

 1954(昭和29)年は、MSA協定が発効して米軍機の日本への供与が始まり、受け入れ側も防衛庁を発足させて、再軍備の基礎固めが始まった年でした。航空自衛隊の整備関係では浜松に整備学校が設けられ5年後の1959年に飛行教育集団隷下の第1術科学校となって今日に至ります。

 表紙絵のJ47エンジンむき出しのF-86Fは、ハチロク時代の術科学校を体現する極めて特徴的なショットです。第一級の航空歴史文化財に挙げておきます。

 

日替わりメモ2018/02/21 〇 F-86セイバー歴史年表に着手

 泥沼ハチロク研究の写真集その他を手掛けながら、常に行き当たるのが航空自衛隊はもとよりノースアメリカン社の系統的な歴史です。昨日の合体メカでも、既にお気づきと思いますが、撮影年と用途廃止年が??の表を出さざるを得ないという具合で、泥沼としか言い訳のできない発表が次々に出てきております。

 その雑多なデータを正しくしていくためには、まずは通年の歴史が必要だと気が付きまして、本末転倒の扱いになってしまいましたが、まずは、ノースアメリカン社でのフューリー、セイバーの開発からの略年史を書いていくことにしました。そして、航空自衛隊でのハチロクの歴史につなげていく予定です。

  出版社の依頼で執筆する場合なら、担当記者に”なに〜を調べてきてくれ”と命じれば、駆けずり廻ってでも調べてきてくれるのでしょうが、私自身、広島にいては目黒の防衛図書室などの利用もままなりませんし、乏しい手持ち資料からだけの年表であることを断っておきます。

 今朝は、その手始めとして、FJ-1フューリー、XP-86セイバーの開発から生産に至る歴史をピックアップしておきました。時間の取れる方は、精査して みてください。

 

2018/06/11 〇 泥沼ハチロク研究 

 国産機第一次発注の70機の経歴と写真を終えました。
 ついで手掛けなければならない第二次発注(純国産)は110機、第三次発注(純国産)は120機、合計230 〜 気が遠くなりそうです。当方の目の黒いうちに完結できるかどうか、 果てしなき泥沼の心境であります

 

2018/08/06 〇 泥沼ハチロク研究

 このところ、戸田保紀さんが1958年3月に浜松基地、翌59年3月に松島基地を訪れて写したハチロク群を紹介してきました。戸田さん(人生録61参照)の写真集には必ず俯瞰写真↓がありますので、シリアルナンバーを見付けたい歴史派・記録派マニアにとっては、バイブルみたいなもので、ありがたいです。

  
  

 様々なマーキングがおります。
 当時の浜松が、いわばハチロク ホームベースとして、整備や配属手配など引き受けていたのではないかと想像させる写真ですね。それにしても、民間人が自由に動き回って写真を撮ることができた時代、懐かしいです。

2018/08/08 〇 泥沼ハチロク研究〇 泥沼ハチロク研究

 82-7847は、ブルーインパルス→第1航空団→ブルーインパルスという経歴をたどっています。どういう事情でこういうことをしているのか、ほかにも例があるのか知りたいです。

2018/08/12 〇 泥沼ハチロク研究〇〇 F-86Dが展示されていた場所

  泥沼ハチロク研究のF型が終われば、D型が控えていますが、一足先に、#185の展示場所について問い合わせがありましたの、質問箱に追加しておきました。下郷さんが、JASDF 浜松dpyと明記しているので、浜松基地内だと思うのですが、それ以外の情報に接していません。

 航空情報に写真を提供したT.MAEKAWAさん、或いはこの方をご存知の人からの連絡があればうれしいのですが。

日替わりメモ 8月14日〇 泥沼ハチロク研究

・  国産化第二次発注の110機も終わりに近づいてきました。82-7861〜82-7870の10機について、引き渡し配備先を見ますと 9機が第4航空団第5飛行隊で、1機だけ第2航空団となっています。

 第5飛行隊は、1957年2月に浜松基地の第1航空団内に設けられ、翌1958年11月に松島基地へ移って第4航空団隷下に入ります。そういうことで1958年11月以降集中的に新造機が松島に送られたのでしょう。

 ところが、生産がはかどればいいっていうものでもないようで、パイロット教育のスピードとの関連や、次期戦闘機導入までに空白期間があってはならないというので、防衛庁は、既に発注していた第三次分の生産のスローダウンを検討し始めます。

 新三菱重工は、既に第三次の発注を受けて、月産10機の体制に入っていたはずですが、これを月産6機に引き下げることになります。新三菱重工にとっては寝耳に水の話しではなかったでしょうか。当面の余剰工員や売上高減少などを招くし、しわ寄せを受ける下請け中小企業の苦衷も大きかったことでしょう。


・ 空自のシリアル番号の第一数字は防衛省が領収した暦年を示し、第二数字の2はF-86Fを示します。
 ところが、1959/01/29に引き渡された7867と7868は、92-::::となるべきところ、82-7867 82-7868(写真あり)となっています。

 何かの事情で製造ラインの順番通りに完成しなかったために領収年の変更をしなかったのでしょうか。泥沼ハチロク研究の中の「分からないこと」の一つです。

 

日替わりメモ 8月16日

〇 泥沼ハチロク研究 
 国産第二次発注分の経歴と写真がひとまず 終了しました。写真掲載率は58.2%です。A-330さんほか多くの方の協力のお陰です。

 岩国航空基地に航空自衛隊の戦闘機部隊が居たことを知る人も少なくなりましたが、1964年から3年足らずですが、第82航空隊第8飛行隊として実戦任務に就いていたのです。

 表紙絵は、1967年10月第8飛行隊が小牧の第3航空団傘下となり、岩国を去る前の撮影と思われますが、11機ずつ2列に並んだハチロク列線の一番手前には第二次発注分最終号機92-7880を配し、奥の中央には海兵隊のSP-2Hと交代した新鋭のP-3B(YD VP-4)がいます。
 その構図が意図的であったかどうかは分かりませんが、岩国におけるハチロクの存在を如実に物語っておりますね。

 さて、泥沼ハチロク研究は国産第三次発注分へと移ります。#881から#000までの120機、皆さんの撮影機会も多かったと思うのですが、時は、F-104へと移ります。ハチロクなんぞの旧型機には見向きもしないというマニア心理もあって、どのくらい写真が集まりますか、このあたりも興味しんしんであります。

日替わりメモ 8月23日

〇 泥沼ハチロク研究

 最終発注分の92-7881〜の120機分に入りました。いきなり、加古川の神戸電子機械に展示してある疑問符付の機首の問題や、北宇都宮駐屯地のナンバーと塗装を変えている機体、百里基地の展示機もマークをマルヨン時代のもの変えたりと、いかがわしきハチロクの登場で、検討の時間ばかりがいたずらに過ぎていきます。

 そもそも、既に正式契約を締結しているのに、防衛庁が「三菱さんよ、生産のスピードを落としてくれないか」と頭を下げ、実際に最終納期を1年遅らせたという曰く付きの第三次発注分です。

 ロッキードかグラマンか、次の戦闘機が決まらない空白をどうやって埋めるか、生産のスローダウンだけでなく、F-86Fの戦闘能力を上げなければ防衛庁の焦りもあって、ロケットエンジンを研究してみたりしています。そのあたりのニュースも航空情報誌から拾って、添付しておきました。これからの展開がどうなることやら。


・ F-86F  赤い帯の意味 tamaさんから回答

 昨日の質問の赤い帯は、空対空戦闘訓練時に識別しやすいように塗装されたものです。当時の1空団は(臨時松島派遣隊を含む)学生訓練の最終課程(初歩的な空対空戦闘訓練も含まれる課程)であり、同じ塗装機で訓練すると誤認防止(味方機と)のため赤い塗装をしたものです。特に2vs2の訓練時は効果が有ったようです。もちろんこの様な特別に塗装された機体は一部であり、機材の回しぐりによってはシルバーの機体だけで訓練をした場合も多数ありました。

佐伯から : tamaさんのほか、仮想敵機の塗装というお答えがたくさんありました。 ありがとうございました。

 

日替わりメモ 9月06日

第4航空団の塗装の話なのですが、胴体の特別のラインを入れている機体、戸田さんが次のとおり記憶をたどってくれました。

◎ 特別塗装のF-86Fは5機で、そのうち4機が飛行展示を行いました。エプロンでの一番手前の859号機が隊長機らしく帯が黄色で、縁取りが多分黒、その隣の886号機は、帯が赤で縁取りが白だったと思います。

 906号機は予備機で、ずっとエプロンに置かれており、飛行しませんでした。

 19597月は、写真大の一年生で夏休みで宮城県古川市の実家に帰っていたので、,東北本線と仙石線を乗り継いで矢本の松島基地に行ったものです。 その数年後東北放送テレビのニュースカメラマンとして松島基地に取材に行き、整備士に尋ねたところ、航空祭のために5機を特別に塗装したものということでした。

 

日替わりメモ 8月29日

F86F7781 航空歴史館 ノースアメリカンF-86F研究 その5 防衛庁第三次発注分 92-7891〜7900


〇 泥沼ハチロク研究

 今朝掲載の10機の中に、戦闘訓練中に空中接触して墜落した2例が含まれています。
 第2航空団の92-7893は、1959年10月に三沢沖で62-7483と接触して、両機とも墜落しています。
 第1航空団の92-7900は、1960年8月に遠州灘で62-7487と接触して、航空情報のニュースによれば「両機とも海上に墜落し、一人はパラシュートで脱出救助、一人は死亡」とあります。
 ところが、92-7900は、以後1977年まで17年間使用され、最後は築城の第8航空団で用途廃止処分されているのです。海上に墜落した機体をどうやって回収し修復したのでしょうか。それとも、航空情報の記事が間違いで、92-7900は辛うじて不時着水又は不時着していたのでしょうか、それは、無人の機体の方でしょうか、有人(死亡)の機体の方でしょうか。またもや、泥沼ハチロク研究不明史のひとつとなりました。

 

日替わりメモ 9月01日

F86F7781 航空歴史館 ノースアメリカンF-86F研究 その5 防衛庁第三次発注分 92-7901〜7910


〇 9月01日に掛けて ハチロク#901号機を表紙絵に

 戸田保紀さんから 
 1965年7月の松島基地の航空祭で、文林堂の同僚と一緒に回り、6X6版のカメラでカラーを撮りました。
 ブルーインパルス4番機#901でポーズをとってくれたのは鈴木昭雄一尉、「今日はお天気が良いのでフルショーをやります」と声を掛けてくれました。
 この写真は、1年後の航空ファン1966年7月号の表紙を飾りました。後の第 二十代の航空幕僚長になられた鈴木昭雄さんの姿と共に、私の思い出の一枚です。

 

 

 という訳で、901の語呂合わせで表紙絵に採用です。航空ファン1966年7月号表紙に続いて二度目の晴れ姿。(佐伯)

 説明の中で文林堂云々は間違いでした。私は、東北放送のテレビニュースのカメラマンとして取材をしたのでした。片手にベルハウエルの16ミリカメラを持ち首にマミヤの二眼レフをぶら下げていて、スチールとムービーの両方を撮ったようです。手持ちに、ブルーインパルスのフライトが1枚もないので記憶をたどりましたら、ムービーで撮っていたためスチール写真まで手が回らなかったもののようです。  

日替わりメモ 9月04日

F86F7781 航空歴史館 ノースアメリカンF-86F研究 その5 防衛庁第三次発注分 92-7911〜7920ほか


〇 第4航空団のマーク

  松島にF-86FとT-33Aで第5飛行隊と第7飛行隊が新編成された時の幹部の張り切り方が部隊マークから伝わってきます。誰が見ても「4軍団」と分かる尾翼マークに加えて、一部の機体には胴体に数字の4とラインを入れています。尾翼上部のクローバーやスペードマークは整備班の識別でした。 かなり派手です。

 やがて、もっとおとなしくしようという意見が出たのかどうかは知りませんが、尾翼の数字の7(赤は第5飛行隊、青は第7飛行隊)だけに統一され、現在、松島基地に展示されているハチロクもそうなっています。

 今は、F-2の訓練部隊とブルーインパルスで、ハチロクがいた当時とは異なる顔を見せている松島です。大昔、こんな派手なデザインを考えた幹部が居たというのも歴史ですね。

特別塗装のF-86Fは5機で、そのうち4機が飛行展示を行いました。エプロンでの一番手前の859号機が隊長機らしく帯が黄色で、縁取りが多分黒、その隣の886号機は、帯が赤で縁取りが白だったと思います。

 906号機は予備機で、ずっとエプロンに置かれており、飛行しませんでした。

 19597月は、写真大の一年生で夏休みで宮城県古川市の実家に帰っていたので、,東北本線と仙石線を乗り継いで矢本の松島基地に行ったものです。 その数年後東北放送テレビのニュースカメラマンとして松島基地に取材に行き、整備士に尋ねたところ、航空祭のために5機を特別に塗装したものということでした。

    

日替わりメモ 9月08日

NN435 ニュースフラッシュ エクアドル大統領特別機 ファルコン7X 
F86F7781 航空歴史館 ノースアメリカンF-86F研究 その5 防衛庁第三次発注分 92-7921〜7925


〇 エクアドル大統領特別機

 本当にひさびさのVIP訪日機です。モレノ 大統領は5日間の滞在中、関西の視察も予定されていましたが、台風21号による関空の閉鎖で、本日、羽田から離日とのことです。


〇 泥沼ハチロク研究

 92-7922という機体の用途廃止後の経歴が??です。
 築城の第8航空団で用途廃止になったことは確かですが、同基地内でバラされている写真、陸上自衛隊の別府駐屯地に展示されている写真、築城基地で迷彩をまとっている写真、同基地で第6飛行隊の通常塗装で展示の写真、同基地資料館内の胴体の展示写真。これが、すべて同一機体なのかと疑いたくなる履歴です。

 まだ資料館に飾ってあるのなら、是非とも銘板を確認したいですが、築城航空祭では人出不足のためか資料館を公開しませんね。
 今年11月25日の航空祭に行かれる方、あらかじめ広報に頼んで、資料館に入れて貰って、しかも92-7922のキャノピーを開けて貰って銘板を確かめてきてもらいたいです。何でしたら、ヒコーキ雲からお願いをしてもいいので、有志を募ります。

日替わりメモ 9月11日

  表紙絵 見事な流し撮り ハチロク ブルー インパルス最後の展示飛行 1981/02/08入間基地
F86F7781 航空歴史館 ノースアメリカンF-86F研究 その5 防衛庁第三次発注分 92-7926〜7930


〇 泥沼ハチロク研究‥

 とは言いますが、スピード感あふれる写真に出会うとほっとしますね。表紙絵に採用です。
 930km/h(260m/sec)で対地高度10mを駆け抜けるハチロク、右から進入してくるのを追って目の前でシャッターを切る、現像所からあがってきたカラープリントを見た時のA-330さんの興奮の声までが聞こえてきそうです。時は1981年2月8日、ハチロク ブルーの最後の展示飛行、入間基地でした。

 その前年の1980年6月20日、築城基地の第8航空団第6飛行隊がアラート任務を解かれて、F-86Fの実戦任務が終了し、そして、このブルー インパルス最終公開展示飛行をもって、航空自衛隊ハチロクの現役生活が終わりました。

 愛称 Sabre 仏読みサーベルというにふさわしい真横の流し撮り写真は、いろいろな意味で航空文化財に指定しておきましょう。

      

日替わりメモ 9月14日

F86F7781 航空歴史館 ノースアメリカンF-86F研究 その5 防衛庁第三次発注分 新規2機 更新7機


〇 泥沼ハチロクに落ちた人間は‥‥

  ↓の右のごちゃごちゃに目が行ってしまうのであります。

 赤シャチマーク(第3航空団第8飛行隊)のF-86Fがたむろしています。小牧基地に違いありません。
 

 滑走している92-7929の経歴を調べると、1970年から1977年までブルーインパルスでした。高田さんがこれを写したのが1970年1月ですから、ノーマークの意味するところは、赤シャチマークを消してブルーメンバーの訓練機としていたのかなと。
 ブルーへの塗装替えは、三菱小牧工場でやっていたのでしょうか。IRAN機などの順番待ちで、とりあえず部隊マークだけ消しておこうということだったのか 

 なお、小牧におけるその他の機体のノーマーク写真は、IRAN後のテスト飛行中のものと推察します。 いろんな暇つぶし思考ができる泥沼ハチロク研究です。

           

日替わりメモ 9月19日

F86F7771 航空歴史館 ノースアメリカンF-86F研究 その4 防衛庁第二次発注分 新規1機 写真掲載率7割超
F86F7781 航空歴史館 ノースアメリカンF-86F研究 その5 防衛庁第三次発注分 新規2機 雫石事故機

 

〇   泥沼ハチロク研究

 第二次発注分の空白がまた1機埋まり、掲載率が7割を越えました。このように空欄や印をチェックして、ご自分のアルバムから探してくださる皆さんに、ハチロクも大いに感謝していることでしょう。

 第三次発注分に、雫石の衝突墜落事故で社会的にも政治的にも法律的にも大センセーショナルを巻き起こした松島派遣隊の92-7932が登場しました。 松島へ行く前の総隊司令部飛行隊時代の写真と、別冊航空情報から拝借した松島時代の写真がありますが、総隊では安全褒賞マークが付いているというのもやや皮肉っぽい感じをうけてしまいます。

 裁判では、自衛隊側が悪いが全日空側にも落ち度があると、なにやら世間に阿(おも)ねたような判決だったと記憶しますが、航空管制が基本から見直されることになったのは特筆に価います。

 空の危険は、今、ここにもあそこにも存在していると言っていいでしょう。しかし、雫石以後、旅客機 と軍用機のニアミスはあるものの衝突という大事故が起きていないことに、ほっとします。

    

日替わりメモ 9月20日

F86F7400 航空歴史館 ノースアメリカンF-86F研究 その2 MDAP供与分 新規2機 
F86F7781 航空歴史館 ノースアメリカンF-86F研究 その5 防衛庁第三次発注分 雫石事故 の直前の写真

 

〇   泥沼ハチロク研究

 1971年7且30日雫石衝突事故の機体写真を航空情報別冊から拝借していましたが、同じ月の松島航空祭で飛んでいる戸田さんの写真に切り替えました。衝突後パラシュートで生還した市川二曹が航空祭の日にも乗っていたのかもしれませんね。

 刑事裁判では、市川二曹は二審でおとがめなしとなり、教官の隅一尉は最高裁で見張り義務違反として禁錮3年執行猶予3年でした。二人の事故後の人生はどのようなものだったでしょうか、察するに余りあるものがあります。

    

日替わりメモ 9月23日

F86F7781 航空歴史館 ノースアメリカンF-86F研究 その5 防衛庁第三次発注分 92-7932〜7940

 

〇  泥沼ハチロク研究 今日はお彼岸

 今朝更新のハチロク#930番台を見てください。7932から7937まで7機がクラッシュし、雫石事故をはじめとして多数の人命が失われています。お彼岸とは言え暗い気持ちで編集しなければならなかったのですが、更には、ええ??と疑問符多発なのも泥沼の所以(ゆえん)であります。

 1961年に静岡県沖に墜落した7936が、1978年の築城航空祭に迷彩塗装で展示されていた??

 1976年に松島の第4航空団で用途廃止された7939が、瀬峰町に放置されていた写真までは納得できるのですが、1981年になって別府のリンドバーグ病院に展示され、その後日本文理大学の教材になっている??

 前者は、基地が適当なナンバーを書き入れた、後者は、複数の機体の合体メカであろうという解釈で逃げるしかありませんね。

 そんな泥沼ハチロクの中で、ブルーインパルスの初めての塗装をまとった7937のカラー写真を発表できたのは救いです。特別の塗装を考えたらどうかという源田空幕長のお声掛かりで1空団内で公募て採用されました。今となっては泥臭いデザインですが、サンダーバーズの写真など検討しながらの苦心の作だったのでしょう。geta-oさん撮影のこの一枚は貴重な歴史記録です。第一級航空文化財として表紙絵に採用です。

   

日替わりメモ 9月26日

F86F7771 航空歴史館 ノースアメリカンF-86F研究 その4 防衛庁第二次発注分 新規2機 追加1機

 

〇 泥沼ハチロク研究

  防衛庁第二次発注分というのは、三菱がノックダウン生産から純国産に切り替えたセクターを指します。その初号機の72-7771に墜落記事だけで画像が無かったのですが、高校生の戸田さんが横に立っている写真に辛うじて771の機首ナンバーが見える写真を入れることができました。

 戸田さんは、この写真を1957年3月としているのですが、下郷資料による72-7771の航空自衛隊への引渡しは同年12月となっているので、翌年の3月ではないでしょうか。(基地広報に申請して入場したとのことです)

 445は供与機、771は純国産1号機、ハチロクの歴史を感じさせるいい記念写真です。戸田さん、是非ネガ袋を探し出して、撮影日付の探索と尾翼が見えるショットなど、泥沼ハチロクから救いだしてくださいな! 

  57〜58年の松島基地は、F-86F要員の教育訓練を浜松から引き継いだ時期で、第1航空団と第4航空団の機体が入り混じっていたらしく、マークが写っていないと部隊の確定ができません。この時期の松島基地の部隊と機体の正確な変遷につい てもどなたか助けてくださいな!

    

日替わりメモ 10月10日

F86F7781 航空歴史館 ノースアメリカンF-86F研究 その5 防衛庁第三次発注分  7863〜7870

 

〇 泥沼ハチロク研究

  熊本のマサンド(レストラン)からスタンダード(放出品販売)に移され、翼ももがれていた02-7968が、下郷資料によれば、アメリカへ返還されて米海軍の標的機になって撃墜されているという不思議。どちらかのシリアルが違っているはずですが、真相は泥沼の底に沈殿しているのか。 

        

日替わりメモ 10月14日

F86F7781 航空歴史館 ノースアメリカンF-86F研究 その5 防衛庁第三次発注分  7871〜7880

〇 泥沼ハチロク研究に大ヒット作品

 1981年航空ジャーナル発行のブルーインパルスに「使用F-86F総覧」なるページがあります。その冒頭に3機の写真を入手できず掲載できなかったと、故藤田勝啓さんらしい律義な断りがあります。その中の1機、12-7975は、寿命が5年間と短く、ブルーの期間はもっと短かったでしょうから写真がないのも無理はありません。

 ところが、 ”何と申しましょうか‥” ソリモ資料集のために高田さんが(多分)何気なく写した機体が、墜落2か月前の貴重なショットになっていることに気付きました。藤田さん、今頃悔しがっても遅いんだよ!

航空ジャーナルが入手できなかった機体がヒコーキ雲では

  ブルーインパルスの写真 ブルーインパルス以外の写真
92-7938 × 第4航空団の写真
02-4947 × 築城基地展示場第8航空団の写真
12-7975 高田さんが1965年9月に撮影

×

 

        

日替わりメモ 11月3日

F86F研究 航空歴史館  ノースアメリカンF-86F研究 02-7985〜7990

 

〇  泥沼ハチロク研究

  今朝の掲載機には、泥沼の全機経歴と写真に突入する前に、都道府県展示機総覧で解説する必要から検討していたハチロクのひとつ、加古川市にあるぼろぼろのF-86Fの胴体からナンバーを推理した02-7989が入りました。空中接触して墜落、落下傘降下で助かった本人が光文社から回想記を出版するという、念のいった機体です。

 このようなものも再掲しながら、全機経歴と写真は残り10機を残すのみとなりました。泥沼から這い上がれる日が近づいてきましたよ。

          

日替わりメモ 11月12日

F86F研究 航空歴史館  ノースアメリカンF-86F研究 02-7991〜7998

 

〇  泥沼ハチロク研究

 生産終了間際の8機の経歴と写真をアップしました。いよいよ緞帳(どんちょう)を降ろす時間が近づいてきました。残り2機です。

 今朝のアップ分の半数、4機が墜落で失われています。中でも小牧の第3航空団12-7992の事故は、離陸直後に落下、バウンドしながら破片を散らかしながら進んだため、前途有為な青年3人を殺し、家屋一棟を全焼するという悲惨なものでした。

 この事故で周辺住民の世論は沸騰し、防衛庁は実戦部隊の第3航空団を三沢へ移動させ、小牧にはおとなしい輸送航空隊を常駐させることで納めましたが、そのトラウマは、例えば、小牧航空祭でブルーインパルスの飛行を周辺自治体が認めないなど、いまだに続いているように思います。

 また、今朝のアップの中には、入間で民家を焼いた墜落事故もあります。この基地周辺も大小の事故に見舞われているのですが、入間航空祭では派手に飛行展示が行われ、市役所が屋上をブルーインパルス見物のために開放するといった協力(便乗)がみられます。

 どっちがどうという軽々しい評論ができない難しい課題ですね。

    

日替わりメモ 11月14日

 

〇 泥沼ハチロク研究 国産最終機

 1961年2月、三菱から国産最終機の納入に当たっては、盛大なセレモニーもあったと想像するのですが、航空情報には写真も記事も出ていません。防衛省と三菱は、既にF-104J/DJの契約手続きを進めており、F-86については、サイドワインダー装備と写真偵察機への改造があって、仰々しい式典を避けたのでしょうか。少し寂しい気がしますね。


〇 泥沼ハチロク研究の経歴と写真を一応終了

経歴と写真 機数 写真掲載率
MDAP供与 F-86F-25  F-86F-30 30機 91.7%
MDAP供与 F-86F-40-227 105機 59.0%
防衛庁第一次発注ノックダウン生産機 F-86F-40 70機 71.4%
防衛庁第二次発注 F-86F-40 110機 72.7%
防衛庁第三次発注 F-86F-40 120機 66.7%
合計 435機 72.3%

 長期格納あり、アメリカ返還あり、合体メカあり、ナンバー書替えの展示あり等々の態様の複雑な航空自衛隊F-86Fについて、断片的な研究の前に、まずは全機の経歴(下郷資料)に符合する写真を集めてみようと、正月の19日から泥沼に足を踏み入れました。
 その結果、7割強の機体に写真が付加されました。全閲覧者を代表して皆さんにお礼を申し上げます。終了に当って、開始の時に表紙絵に掲げた編隊飛行の写真を再掲しました。

協力者

飯野 明、石手隆之、伊藤憲一、 大石治生、かつお、カニキング、けんちゃん、国田雅敬、 興野博史、幸田恒弘、 杉山弘一、下郷松郎、高田和彦、田中昭典、にがうり、丹羽八十、野田、服部公清、林寿喜、古谷眞之助、山本晋介、予備三曹、A330、Blue1、ELINT人、KUPANBA、OCC、Ogurenko、RENAT、TADY BEAR、TR、航空情報編集部、航空ファン編集部、航空自衛隊第二補給処広報室

 これだけの基礎資料ができましたので、これらを活用しての様々な研究が展開されることを大いに期待するところです。勿論、ミスや×印の修正補足もお願いします。

 さて、編集者としては、11か月にわたって浸かってきた泥沼から解放されて、少し遠ざかりたいのですが、次はハチロクディーですなと、写真を用意している向きもあるようで‥‥。
 でも、少し空自から離れて、P2V-7やS2F-1などの海自をやりたいのです。陸自もL-16やL-21が待っているし‥‥。

 

日替わりメモ 11月15日

F86F研究 航空歴史館  ノースアメリカンF-86F研究 サイドワインダー装着テスト機

 

〇 泥沼ハチロク研究終了への言葉

・ 高田和彦さんから

 最後の2枚を自身の写真で終わられたこと、素晴らしい完了ぶりでしたね。
 次は何か楽しみですが、そのうちのF-86Dを首を長くしてお待ちします。私が就職して小牧に来た時の象徴的な飛行機で、赤いシャチマークが何時もちらついます。今後とも先ず健康第一で、ボチボチ気長に幅広くお願いいたします。
 当方は個展に展示した製作途上の2機を完成しました。

 これでしばらくはUSN以外に精を出す予定です。


・ 古谷眞之助さんから

 すごい資料となりました。下郷さんも、よくぞよくぞと思われておられることでしょう。最後の999000に佐伯さんご自身の写真が掲載されているのも嬉しいですね。 11/11には、私の名前を出していただいてありがとうございました。まだ、在庫はたくさんありますから、これで少しでも売れてくれればと思っています。
 ところで、次の候補として、S2F-1トラッカーが上がっていました。是非お願いしたいです。海自の中では最も好きな機体ですので。写真をご提供いただければイラストを喜んで描きます。


佐伯から : ありがとうございます。最後の2機に自分の写真が入ったのは偶然です。ヒコーキの神様の仕業ということにしておきます。

 昨日も触れたサイドワインダーの装備は、F-86Fの攻撃能力を飛躍的に高めた武装だったのに、あまり触れてこなかったので、実空でのテスト機体の写真とAAM国産化などの記事を追加しておきました。また、表紙絵も、再掲写真でなく、築城ご自慢の大編隊飛行を正面から撮った濱野さんの写真に入れ替えておきました。泥沼作業の余韻です。

     

日替わりメモ 11月18日

F86F-His 航空歴史館  ノースアメリカンF-86F研究 航空自衛隊の機数の変遷
F86F-5 航空歴史館  ノースアメリカンF-86F研究 第三次発注国産機 3機の写真追加 

 

〇 泥沼ハチロク研究

 写真の追加がありましたので、併せて、28年間に亘る空自F-86Fの変遷を下郷資料からリストアップし、年別グラフも作ってみました。あくまで下郷資料からの摘出であり、検証していませんので、傾向を見る程度に理解して頂くように。でも、いろいろ興味あるケースが浮かんできますが、その一例‥‥

アメリカへ返還した機体

@  1959年返還 A 1964年返還 B 1973〜79年返還
45機 15機 130機

 @は、要員不足のため木更津に保管してあった機体を、米軍事顧問団の勧告により返還
 Aは、アメリカからチュニジア空軍へ再供与するために返還、
 Bは、チャイナレークへ送られて無人標的機となり、米海軍F-14などの訓練に使用など

 時代の背景が浮かび上がりますね。泥沼から離れたくても離れられないハチロクの醍醐味といったところでしょうか。皆さんの研究も大いに期待します。

 

日替わりメモ 11月23日

航空歴史館  ノースアメリカンF-86F研究

その1 F-86F-25  F-86F-30  RF-86F MDAP供与 更新1機
その2 F-86F-40NA 7431〜7535番 MDAP供与  更新3機 
その3 F-86F-40MIT 7700〜7770番 防衛庁第一次発注ノックダウン生産機 新規2機 更新2機
その4 F-86F-40MIT 7771〜7880番 防衛庁第二次発注 新規1機 更新1機
その5 F-86F-40MIT 7881〜7000番 防衛庁第三次発注 更新2機

 

〇 泥沼ハチロク研究

  今朝も更に3機の新規写真が加わりました。合計で300機分、全435機に対して70.0%の写真が集まりました。写真収集に関する限りにおいては多数の皆さんのご協力に感謝し、「泥沼」の冠詞をはずさなければなりません。

 ただし、その中身は、例えば、今朝発表の92-4929についての疑問‥‥
 用途廃止1977/06/29(下郷資料)の3日後の07/02に横田基地で地上滑走しているという写真が現れました。#929というナンバーは、ハチロクブルーの関係者に思い出が深いというので敢えて#995の機体に#929を書いて浜松に展示してあるので、そういうことから連想して、横田の時の正体も#995ではなかったのか‥‥
 合体メカに走らざるを得なかった当時の航空自衛隊でしたから、ナンバー書替えなど朝飯前か? てなことは無いと思いますが、F-86Fの中身の追求においてやっぱり「泥沼」の冠詞をはずすわけにはいきませんね。