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航空歴史館 エッセイ

  

我が国初の空の犠牲者・徳田金一中尉について

山口県航空史研究会 古谷眞之助

2020/6/5 

1.はじめに
2.徳田金一中尉について
  @徳田中尉の経歴
  A当時の我が国航空界
  B飛行訓練と演習
3.飛行機死亡事故の発生
  @事故の経緯 目的、機体
  A事故状況
  B事故原因
4.事故の反響
  @葬儀
  A記念塔と慰霊祭
  B家族、長男・晃一のその後
5.気になることなど
  @初の犠牲者に対する異論
  A山口県庁に保管された写真の真贋
6.おわりに
7.参考文献

徳田 金一 中尉   出典【 所沢 航空発祥 記念館】

1.はじめに

 これまで約 20 年間、山口県の航空史を調べてきたが、その中で「我が国初」という言葉を冠して間違いない人物や事象は、山口県山口市宮野出身の徳田金一中尉のみではないかと思っている。ただし、徳田中尉の「我が国初」は、残念ながら県民として手放しで誇れることではない。むしろ、少し苦しく悲しいものである。大正 2 年( 1913 )  3 月 28 日正午前、自ら搭乗する飛行機が事故に遭遇し、我が国初の空の犠牲者となったからである。そのため、少しでも航空に関心のある人であれば誰でも知っている我が国で初めて動力飛行に成功した徳川、日野両大尉ほどには知られていない。その徳田中尉はどのような人物だったのか、事故の経緯はどういうものだったのか、そして事故はどのような反響をもたらしたのか。今まで集めた資料に加え、今回所沢航空発祥記念館、所沢市立図書館で収集した新資料をベースに、我が国初の空の犠牲者となった徳田中尉について述べるとともに、過去断片的に書いたことの再検証も行ってみたい。なお、掲載写真についてはその都度【 】で出典を示し、参考文献は巻末に一括して示した。(文中敬称略)

2.徳田金一中尉について

@徳田中尉の経歴
 徳田金一は、明治 17 年( 1884 )山口県吉敷郡宮野村下恋路( 現・山口市宮野下恋路 )の徳田荘次郎の長男として生まれた。長じて地元の旧制山口中学に入り、陸上、野球の選手として鳴らしたと言われている。明治 38 年 7 月 15 日陸軍士官候補生、同 40 年 5 月 31 日陸軍士官学校を卒業。同年 12 月少尉任官、翌明治 43 年 11 月中尉に昇進、明治 45 年(1912 )5 月 9 日には多数の応募者の中から抜擢されて操縦将校となり、同年 6 月 14 日付で「臨時軍用気球研究会」に派遣された。この当時、飛行機はまだ導入間もない頃であり、決して軍の主流ではありえなかった。しかし、何と言っても航空機は最先端であり、若い士官達に大いにアピールしたのは間違いないだろう。抜擢された第一期操縦練習生は、徳田中尉の他に岡樽之助、木村鈴四郎中尉、そして坂元守吉、武田次郎少尉の合計わずか 5 名だった。当時求められた操縦士の資質は、@身体強健A視力確実B性質沈着C優れた決断力D数学、物理の才能だった。実際の操縦教育では、@ 飛行機操縦術A自動車操縦術B発動機学及びその整備術C気象学が行われたという。自動車操縦は、当時まだ 2、3 機しかなかった航空機の代わりとして基礎教育に活用されたのだろう。

A当時の我が国航空界
 ところで、この当時の我が国航空界がどのような状況だったのかについて少し述べておきたい。明治 42 年( 1909 )年 7 月 28 日、桂太郎内閣は欧米に遅れてはならじと「臨時軍用気球研究会」の発足を決めた。その勅令第 207 号の第一条には「臨時軍用気球研究会ハ陸軍大臣及海軍大臣ノ監督ニ属シ気球及び飛行機ニ関スル諸般ノ研究ヲ行フ」とあり、翌月 28 日には研究会会長、委員ら 14 名が任命さ れた。会長には山口県出身の長岡外史陸軍中将が就任し、専門家として航空工学の先駆者・田中館愛橘東大教授他 2 名、陸軍より 6 名、海軍より 4 名が選ばれている。この中には明治 42 年 (1909 )12 月、 ル・プリウール仏海軍中尉が我が国で初の滑空飛行( 自動車でグライダーを曳航 )を不忍池で成し遂げた際にこれをサポートし、自らも飛行を試みるも失敗した相原四郎海軍大尉( 第 5 章で触れる )や、明治 43 年(1903 )12 月 17 日に我が国初の動力飛行を成功させた日野熊蔵陸軍大尉もいた。しかし、もう一人の徳川好敏大尉はこの時まだ中尉であって研究会に参加資格がなく、研究会発足の翌年 3 月に大尉昇進と共に委員に任命されている。
 その徳川・日野両大尉が飛行機操縦術を学び、かつ機体を購入する使命を帯びて離日したのは明治 43 年 4 月のことだった。シベリア経由で一旦パリに入り、日野はドイツ、徳川はフランスで練習に励んだ。そして約半年後の同年 10 月 25 日、日野は「グラーデ単葉機」を、徳川は「アンリ・ファルマン複葉機」を購入して帰国した。そして、その年の 12 月 19 日、代々木練兵場で我が国初の動力飛行に成功するのである。
 徳田中尉が操縦練習を開始したのは明治 45 年(1912 ) 6 月 14 日だから、我が国での初飛行から約 1 年半の後である。そして事故に会うのが大正 2 年(1913 )3 月 28 日だから、練習開始後 9 か月のことになる。つまり、この事故は、我が国の初飛行からまだ 2 年余りの、日本の航空黎明期の事故だったと言えるのである。

出典【長岡外史 他の任命書 佐伯 邦昭 氏 提供 】

B飛行訓練と演習
 徳田中尉らは 7 月 1 日から本格的な飛行訓練に入った。教官はもちろん、徳川・日野両大尉だったが、日野大尉は途中で福岡へ転勤となり、それ以降の教育を担当したのは徳川大尉とフランス帰りで豊富な飛行経験を持つ男爵・滋野清武だった。訓練の日課は、風向風力などの気象観測から始まった。風力が 2m/s を越えると訓練は中止されたというから、今では考えられないほどの静穏状態でなければ飛ばなかったことが分かる。そのため、訓練開始は早朝 6 時からだった。最初の 1 か月は係留気球に搭乗して、実際の空中感覚を養うことから始まった。その後、飛行機へと移行したが、保有機体は 5、6 機に過ぎず、しかも稼働機は 2、3 機と稼働率は低かったという。訓練は、練習生が後部座席に搭乗して教官の背後から抱き着く形で左手で機体の一部を掴み、教官が掴んでいる操縦桿の右手に自分の右手を重ねて操縦感覚を覚えるというものだった。もちろん、現在の練習機のように複式の操縦装置がなかったからである。しかも、飛行時間は 5〜7 分程度だったようだ。なお、飛行時間 5 分以上で飛行手当が支給されたという。ともあれ、練習生は気象の制約、機体の低い稼働率、飛行時間の短さという悪条件に耐え、10 月に入ると早くも各自単独飛行が許されたというからすごいものである。余談だが、適性の低い私の場合、グライダーの単独飛行が許されるまでには、約 2 年半、飛行回数 164 回、飛行時間 30 時間 20 分の訓練を要したから、彼らはやはり優秀だったと言えるだろう。
 11 月には川越で陸軍特別大演習が大正天皇臨席の下で実施されたが、この時初めて飛行機が演習に参加した。操縦したのは徳川大尉と木村中尉で、それぞれ偵察将校を同乗させて偵察任務を行っている。一回当たりの飛行は、飛行距離約 30km、飛行時間約 30 分だった。この時使用された機種は不明だが、当時の航空機の飛行速度はほぼ 60km/h 程度だったので妥当な数字と言えるだろう。徳川大尉がこの演習で操縦将校として木村中尉を指名したことは、注目すべきことではないかと思う。少なくとも 5 名の訓練生の中では技量において最高の評価と信頼を与えていればこその選択だったのだろう。しかも初めての飛行機の演習参加、天皇臨席という状況なのだから、陸軍航空の今後のことを思えば、絶対に失敗の許されぬ状況下での選任だった。また彼は飛行中にエンジンを切って滑空し、予め決められた地点に着陸する技術を持っていた。徳川大尉はなかなかこれを練習生には許さなかったと伝えられるが、練習生の中では彼が初めてこの「空中滑空」を実施したという。ただし、徳田中尉の名誉のために追記しておくと、徳川、滋野の両教官は徳田中尉の優れた操縦技術も認めていた。その証拠に、青山練兵場への往路飛行では徳田中尉が徳川式 3 号( 会式 3 号 )を単独で操縦しているのである。

3.飛行機死亡事故の発生

@事故の経緯 飛行目的・機体
 上述したように、この事故は我が国で初めて飛行機が飛んでから 2 年半後、徳田中尉にしてみれば練習開始から9か月後に発生しているが、そもそもどのような状況下で発生したのだろうか。事故当日、青山練兵場において航空思想普及を目的とする飛行機及び飛行船のデモンストレーションが実施され、これには貴族院、衆議院議員、軍・政府高官だけでなく、多数の一般市民も見学し、大変な関心を呼んだイベントだった。このイベントには、会式 2 号、3 号複葉機、ブレリオ式単葉機の合計 3 機が所沢から派遣された。往路復路の搭乗者は、以下のようになっていた。

機体 操縦 同乗 所沢 発 青山 着 操縦 同乗 青山 発 所沢 着
ブレリオ単葉機 木村中尉 坂元少尉 不明 10:23 木村中尉 徳田中尉 11:36 11:59 墜落
会式2号複葉機 岡中尉   不明 10:50 岡中尉   11:30 不明
会式3号複葉機 徳田中尉   不明 10:33 坂元少尉   11:30 不明

  ブレリオ単葉機 会式3号複葉機
全長 8.8m 11.0m
全幅 11.0m 11.0m
翼面積 19u 41u
自重 450kg 470kg
エンジン ノーム50馬力 ノーム50馬力
座席 2 2
最大速度 90km/h 72km/h
航続時間 4時間 3時間

  また、ブレリオ単葉機と会式の諸元は上図のようになっていた。( ただし、諸説あり ) ブレリオはドーバー海峡を横断したフランス製の単葉機で、会式は仏製アンリ・ファルマン機を臨時軍用気球研究会が改良したものであるため「会式」と呼ばれたが、改良の中心人物は徳川大尉であり、そのために一般的には「徳川式」と呼ばれていた。下写真右のブレリオ機は事故当日撮影されたもので、手前の人物は木村中尉。奥の人物が徳田中尉かも知れない。また、会式複葉機の写真では搭乗者はパイロットのみであるが、そのすぐ後ろにもう一つ座席が設けられているのが確認できる。

【会式3号複葉機 「日本航空機辞典・上巻」】        【ブレリオ単葉機と木村中尉「所沢航空発祥記念館」】
 

A事故状況
 さて、往路の飛行は予定通りだったが、復路において事故は発生した。この時点で、練習生は卒業まであと3ヶ月という時期だった、と記されていることから、第一期生の修業年限は 1 年間だったことが分かる。 事故機は、会 2 号、3 号機に続いて 11 時 36 分に青山練兵場を離陸し、西北西方向、約 25km にある所沢飛行場を目指した。ブレリオ機は順調に飛行して、高度約 300m、飛行場まであと 1km というところで 【青山を飛び立つブレリオ機 「東京朝日」】突然の突風に襲われた。この時、風は南南東から 6m/s、時に 7〜8m/s だった。突風は左翼先端を破損させ、実質片翼となったブレリオ機は急激に左回転を始め、やがて機体はバラバラになって落下した。当時の事故報告書と言って良い「遭難顛末」( 第一項から第五項 )には、以下のように事故の模様が詳しく書かれている。

【青山を飛び立つブレリオ機 「東京朝日」】

一 三月二十八日午前十一時三十六分、ブレリオ式飛行機は、砲兵中尉木村鈴四郎ノ操縦ニヨリ、歩兵中尉徳田金一之ニ同乗シ、青山練兵場ヲ出発セリ。当時、地上風向南南東、風速約六米突ニシテ、上層ハ方向不定の強風アリテ、操縦稍困難ナリシガ、木村中尉ノ熟練ナル操縦ニ依リ勇敢ニ之ヲ突破シ、練兵場内ヲ一周ノ後、所沢ニ向ヒ飛行セリ。
【 注・六米突とは「6m/s 以上」のことだと思われる 】

二 所沢飛行場ヨリ観望セルニ、該飛行機ハ午前十一時五十分、所沢ノ東方三吉米突ノ所ニ現ハレ、西北方ノ針路ヲ取リテ飛行シ、午前十一時五十九分、飛行場ノ東北約一、〇〇〇米突( 本居神社ノ西方約三一〇米突 )ノ距離ニ達セリ( 時ニ地上ハ南南東風、風速約六米 )。
此時、飛行機ハ西方ヨリ風ヲ受クルニ至リ、其瞬間、左翼面ハ急激ナル突風ニ襲ハレタルノ状況ヲ呈シ、忽チ上方ニ向ヒ撓折シ、為ニ木村中尉ノ熟練ナル操縦モ施スニ由ナク、機体ハ回転シテ背部ヲ下ニシテ再転シテ前頭部ヲ下方ニ向ケテ垂直ニ降下ヲ始メ、此間左翼ノ一部離脱シ、急転直下、其速度ヲ激増シ、弾丸ノ如ク地面ニ墜落セリ。

【 注・三吉米突とは 3km のことか。撓折とはたわんで折れること 】

 この記録をもとに飛行経路を推測してみたものが上の図である。右上の墜落地点は確実に分かっている。黄色線で囲んだエリアが初期の所沢飛行場のエリアで、赤実線は滑走路( 幅、長さ=約50×400m、簡易転圧後植芝 )、青で囲ったエリアは格納庫などの諸設備である。現在の西武新宿線所沢駅の次の「航空公園」駅の東側のエリアに当たる。赤矢印は風向である。このことから、飛行場に接近してから滑走路にほぼ正対する正しいファイナルアプローチに入ろうとしていたことが分かる。また完全な左からの横風着陸である。しかし、ファイナルに入ろうとして左旋回した時に左翼が折れて墜落した。報告書は続き、さらに生々しい記述となっている。

三 飛行場ヨリハ直ニ自動車ニ依リ救護員ヲ現場ニ派遣セシモ、両中尉共既ニ絶命シアリ。致命ノ経因ト認ムベキモノハ、木村中尉ハ頭蓋骨ノ複雑骨折、徳田中尉ハ脳及肺ノ振盪ナリ。

四 飛行機ノ機体及翼ハ、数個ニ分解挫折シ其形態ヲ失シ、発動機ハ約三十珊米突地中ニ突入シアリタリ。
【 注・三十珊米突とは「30cm 以上」のことだと思われる 】

五 墜落ノ状況及地点次ノ如シ( 地点図要図ハ省略 )

 地点図は省略、とあるが、墜落地点は所沢町松井村大字下新井字柿木台で、山林の中である。現在ここには「墜落地点記念碑」が立てられている。( 5 ページ図、12 ページ写真参照 )また、墜落の状況を示したものが右図である。これによれば、11 時 59 分に突風に遭遇して、左翼先端部が上方に折れて 1 旋転し、30 秒間に高度 100m を失い、そこからは機体は空中分解して地面に叩きつけられた【墜落の模様の説明「所沢航空発祥記念館」】模様がよく分かる。また、事故の翌日の東京朝日新聞には、「悲惨を極めたる最期の有様」という
見出しの目撃者の談話が掲載されているので、少々長文となるが、以下に引用する。

 「飛行機墜落を発見したる松井村字牛沼、農業、越坂部 一、及び同人弟、弥一両氏の語る処に依れば、両人は恰も付近の畠を開墾中、約一町余【注・約 100m】東空にて異様の物音聞こえたれば、不審に思いて空中を見上げたる刹那、左翼一本折られたるブ式飛行機は、中心を失ひ二度クルクルと空中を回り、同時にプロペラを前( 即ち頭の重き方 )にて真逆倒に墜落したり。而して、機関は墜つる時迄回り居たり。操縦者木村中尉は松林の方面に向かって、操縦器【注・操縦輪】を把みたるまま、又同乗者の徳田中尉は木村中尉の膝に抱きつきたるまま墜落したり。右両人は、之を見るや直ちに駆けつけて、一は木村中尉を抱き起し、弥一は徳田中尉を抱き起したるに、其際木村中尉は鼻を加速ハンドル【注・操縦輪かスロットルと思われる】に打ち付けて顔面を滅茶滅茶に粉砕され、其肉は四辺に散乱して即死を遂げ居たり。又徳田中尉は只真蒼なる顔色をして表面に創は無けれども、軍服の釦を外し見たるに無惨や肺部を打ち砕かれ、血は皮膚に充血して暗紫色を呈し、死し居たり。其時徳田中尉の腕に嵌めたる時計は、将に正午十二時を指したるまま針は止まり居りたりと。これを以って正午十二時が両中尉の最期の時なりと推測さる。又徳田中尉の右膝のズボン破れて皮膚を現し居りしが、此は機に引掛けて破りたるものならん。二人の発見者は此椿事に驚愕するも死體を抱き起し、飛行機の翼を打ち破りて死體をその中に覆いたる後、飛行場に駆け付け急報したるを以って、同所よりは石本大尉、井門軍曹以下十数名及び青木一等軍医出張したるも、両中尉に対しては何等施す術もなく、死體は在郷軍人二十余名が担架に乗せて午後一時頃飛行場内の医務局に担ぎ込み、又飛行機の墜落したる箇所は其重量と勢ひにて地面は一間四方、一尺余の深さに掘られて、青き麦はメチャメチャとなり、其惨状目も当てられず。斯くて午後三時十五分、破壊したる飛行機は荷馬車にて格納庫に運ばれたるが、同機は修善の見込みなし」

【 墜落の模様の説明 「所沢航空発祥記念館」】

【 墜落現場の様子 「所沢航空発祥記念館」 】

【 墜落現場の様子 「日本の航空事始 」 】

【 荷馬車で運び出される残骸 「東京朝日新聞」 】

【ブレリオ機の操縦輪 「所沢航空発祥記念館」 】

【 遺品衣服と帽子 「所沢航空発祥記念館」 】

 上掲 2 枚の写真のうち、左は木村中尉が頭を打ち付けたと伝わるブレリオ機の操縦輪の写真である。また右は、所沢航空発祥記念館に残された遺品の現物である。寄贈者は越坂部 忍氏で、右隅に書かれた寄贈の経緯はおよそ以下のようなものである。

 「この遺品は、祖父・越坂部 一(初代所沢市議会議長)が墜落事故の際、真っ先に駆け付け救助に当たったとして遺族から贈られたものである。戦時中までは陸軍航空士官学校で飾られていたが、戦後当家に返還された。しかし、個人で保管し続けるよりは、多くの人に知って欲しいということで所沢市に寄贈するものである。昭和四十五年十一月三日 越坂部 忍」

  上記の越坂部 一、弥一兄弟による目撃談は公式の事故報告書と内容が酷似していることから、報告書作成の基本情報になったのは間違いないと思われる。さらに東京朝日新聞に掲載された滋野清武男爵の興味深い目撃談も記しておく。滋野男爵は別名「バロン滋野」と呼ばれ、長州藩士で奇兵隊士であった陸軍中将滋野清彦( 山口県阿武郡生雲村出身 )の三男で、若くしてフランスでパイロットライセンスを取得。一時臨時軍用気球研究会に所属していたが、事故の翌年 4 月下旬に再度渡仏し、第一次大戦中にはフランス軍に加わってドイツ機 5 機を撃墜したわが国初のエースパイロットである。またそんな生まれから、父の所有していた高杉晋作の手紙を受け継いでいたこともはっきりしているが、残念ながら彼は山口県の生まれではない。しかし、本籍は山口県阿武郡生雲村だった可能性は高いと筆者は思っているが、それを証拠立てる資料がない。いずれにせよ、山口県とは若干の関わりのある人物である。以下、目撃談である。

 「自分は今回の飛行に就いては、所沢飛行場から荻窪間の変事に備ふる任務を受けて、午前十一時四十分頃、青山をブレリオが出発したとの電話が来た其時自分は格納庫に居たが、其報を得て直ちに観測所の望楼に上ってみると、十二時少し前にブレリオの姿を認めた。然るに松井村の松林の上へ差し掛かったと見ると、急に左の方の翼が上方に反り返った。其れと同時に飛行機は忽ち墜落した。是は一大事と早速観測所を降りて気球隊備え付けの自動車に乗ろうとしたが余りに自動車が大きいので、自分の小自動車で近藤助手と共にまず医務局に駆け付けて見ると、青木一等軍医が昼食を摂りに行って不在なので青木氏宅に赴き、同氏を伴うて畠の中を滅茶滅茶に駆けて現場に急いだ。墜落した時の光景を見た時から既に到底救助の見込みはないと信じて居た。操縦者が木村中尉とは知って居たが、同乗者が誰であるかは知らなかった。かくの如き墜落の現象は従来単葉飛行機に限られることで、外国においてもかくの如き例は屡々あり、常に搭乗者が助かった例がないので、即死したであろうと道々さう信じて居た。研究会会員で現場に駆け付けたのは自分が第一で、その後数十名の在郷軍人は此の同情すべき二氏を西枕に寝せて飛行機の翼の骨を四方に立て、彼らの兵児帯を割いて縄張りとして、翼の布を以って覆いをしてゐた。その覆いを取ってみると飛行機は粉微塵となり、憐れむべし、両氏とも想像の如く既に絶命していた」

 ところで、ここで少し気になることも書いておきたい。滋野男爵は記者に対して「研究会会員で現場に駆け付けたのは自分が第一で・・・」と語っているが、公式事故記録と思われる「遭難顛末」には滋野男爵の名前は一切出て来ない。これはどういうことなのか。実はこの背後には、軍人で臨時軍用気球研究会の実質的な教育責任者を自負する徳川大尉と、徳川大尉よりは 2 歳年下だが、大尉よりははるかに豊富な飛行経験を持つ滋野男爵との間に主導権争いにともなう確執があったためのようである。滋野男爵は爵位を持つ人物とはいえ、「臨時軍用気球研究会」の「御用掛」という民間人に過ぎなかった。そして事故後二人の確執は決定的なものになり、滋野はこの年の11月6日には御用掛を辞職して独自の道を歩み、さらに翌年再度の渡仏となるのである。 閑話休題。もう一つ見逃せないことは、徳田中尉の菊枝夫人がこの事故の一部始終を目撃していたことである。その記事が 3 月 29 日付の東京朝日新聞と地元防長新聞( 3 月 30 日付、東京朝日新聞からの転載と思われる )に掲載されている。これも以下に引用しておく。

 「徳田中尉の菊枝夫人は、夫がブレリオ機に乗じて東京訪問の遠距離飛行に出るや、流石に常より心は定めながらも女心の夫の安否、心ならず、自ずから外に立ち出でて東京の空を遥かに此の大任の首尾よく終われかしと密かに神に念じ居たりしに、やがて午前十一時半頃、見慣れしブレリオ式の姿が南の空に現れ、さながら鳶の如くに帰り来たれるより胸踊らせて其無事なるを喜びつつ、なおも飛行場に向かふ其英姿を眺め居たり。然るに突如として飛行機は打ち覆りて急に墜落したれば、アナヤと息を呑みたるが、女の身の、殊に目下妊娠中なれば軽々しく駆け付くる事も能わず。心も心ならず、夫の安否を案じ居たる折しも、無惨の最期を遂げたる由の悲報あり。俄に胸潰れておさえ切れぬ悲しみの涙、雨の如く、其儘家に駆け入りて泣きくずれ、生体もなかりしとは左もあるべし。無弱なる小児は父の惨死を知る由もなければ、母を取り巻きて泣ける様、見舞いに駆け付けたる人々、いずれも面を背けざるはなかりし」

 これは推測だが、将校用の官舎は利便性のために飛行場近くにあったと思われ、菊枝夫人が爆音に夫の帰還を知って空を見上げたとしても何の不思議もない。ただ、夫がブレリオ機に搭乗していたのを知るのは事故後のことだろう。この記事は、おそらく前後関係をやや無視して、新聞記者が悲劇の遺族を強調するために書いたように思える。ただし、目の前で夫が搭乗しているかもしれない飛行機の墜落を目撃することは大変なショックであったことは間違いない。そして、やがて急報により菊枝夫人は夫の死を知るのである。
 4 月 2 日付の防長新聞には、所沢町秋田新道( 場所不明 )にあった徳田中尉宅を徳川大尉ら関係将校が弔問に訪れる写真が掲載されている。

【 弔問を受ける菊枝夫人 「防長新聞」】

 さらに、事故 2 日後の東京朝日新聞には与謝野晶子の「木村・徳田二中尉を悼みて」という 15 首が掲載されているが、日露戦争では「君死に給ふことなかれ」と詠った晶子が、ちょっと意外にも「大君のため」と書いた歌を詠っているので以下に 3 首ほど引用しておこう。

 久方の青き空よりわがむくろ埴に投ぐるも大君のため

  吾妹子と春の朝に立ち別れ空のまひるの十二時に逝く

 青空を名残のものと大らかに見給へ親も悲しき妻も

 第一首の「埴」とは「赤土」のことらしい。また、事故後「嗚呼両中尉」というレコードと楽譜も発売されたという。

B事故原因
 事故の直接の原因は、左翼先端部破断によってバランスを喪失し、それによって機体制御が不可能となり、急激な降下と旋回によって機体が破壊されたことによると見られている。しかし、風速 6m/s、あるいは最大風速でも 8m/s とされる風力で機体が破壊するものだろうか。まず新聞記事は、現場に駆けつけた石本陸軍大尉の談話として以下のように伝えている。

 「発動機に異常なきを以って見れば、其原因は、其高空にて方向を転換せんとせし刹那の突風俄然として起こり、飛行機の左翼を強く打ちたれば、為に針金【 注・いわゆる張線 】切れ、翼折れて中心を失ひ、発動機は回れども前方に進むこと能わず、前が重き為に真逆様に墜落せしものなり」

 また当日、所沢から青山練兵場に到着した際の木村中尉の談話によれば、往路ブレリオ機の 7 個のシリンダーのうち 1 個が爆発せず、速度の低下を余儀なくされたとのことである。さらに往路を会式で飛んだ徳田中尉は、気流の状態が悪く、高度 600m 以下では不安定だったと語ったともいう。ブレリオ機が墜落した松井村牛沼西方付近は、気流の変化が激しい場所とされていた。 さらに「日本航空史 明治大正編」には、「原因となった翼面は所沢で予備品と付け替えたもので、ボルトなどはフランス製だったが、張線は日本製のものなので特に二重に張ってあり、調査の結果、空中分解の直接の原因は、その左翼の挿入点が離脱したものである、ということに一応決定した」と、恰も事故報告書らしき詳細な記述がある。これらはその他の資料には一切見られないものであるが、文末の「一応決定した」という部分が少し気にはなる。以上の情報をもとに事故原因をまとめれば、「エンジンは不調、しかも気流も安定していなかった状況の中、突然の突風にあおられて左翼先端が折れたが、翼はその日たまたま予備品と付け替えられたものであり、張線は国産のものが使用され、しかも事故原因となった左翼側の張線の取付けの挿入点が離脱してしまったこと、つまり左翼の支えを失ったこと」に起因するものだったと言えるのではないだろうか。そして、今日言うところの操縦技術に関するヒューマンエラーはちょっと考えにくいように思われる。

4.事故の反響

@葬儀
 所沢飛行場での両中尉の葬儀は、事故の3日後 3 月 31 日、午前 11 時 20 分から始まり、これには夫人や将校、さらには地元村長、区長ら約 500 名が参列した。11 時には棺は馬車に乗せられ、参列者は徒歩で所沢停車場に向かい、さらにそこから近親者、気球隊長、徳川大尉、滋野男爵、岡中尉、坂元少尉、武田少尉らは人力車で落合火葬場に移動して、そこで荼毘に付された。その後遺骨は4月1日に九段偕成社で納骨され、4月4日には青山斎場で神式による葬儀が大々的に営まれた。東京朝日新聞は、以下のように青山斎場での葬儀の模様を伝えている。

 「(前略) 朝より晴れ渡りて一翳の雲無く、春光煦々として此の光栄ある両中尉の遺骨の行に輝き渡り今日の盛儀を見、栄えある勇士の慰霊を拝せんとする市民は朝来沿道に群がり、特に九段偕成社前付近は午前十一時頃より早くも身動きすら叶はぬ迄に人を以って埋められぬ。
静かなる都大路の春光悲しき楽の音を漂はせつつ、午後二時半過ぎ霊柩車の青山斎場に到着するや、斎場入口にて二個の霊柩は葬儀委員により正面祭壇に向かって左に木村中尉、右に徳田中尉というやうに安置された。(中略) 荘厳なる祭儀は二時四十分より始まりぬ。徳田中尉の喪主・徳田利三、木村中尉の喪主・飯田良吉二氏はじめ、徳田家よりは厳父・荘次郎氏、菊枝未亡人、遺児・晃一君、義姉・永地松枝夫人・・・木村家より厳父・三行氏ら・・・いずれも暗涙にむせびつつ、霊前に玉串を捧げたり。(中略) この時まで徳田未亡人の胸に抱かれて安らかに眠りたる遺児・晃一君は、さすがに親子決別の情をや感じけむ、俄に目覚めて母の胸に泣き堰き、未亡人は遺児をかき抱きたる儘、しばしは悌泣して頭さえ上げ得ず。かくて陸海軍の将星、外国武官一般会葬者の順次礼拝を終わりたるは午後四時近くにして、華やかに黄昏るる春の夕日も此処のみは悲しみの色深く暮れ行くなり」

 当日の参列者は、記事に出て来る人物以外では、山本首相以下各大臣、陸軍上層部、在京の陸軍師団長、各国大使、そして徳川大尉はじめ臨時軍用気球研究会のメンバーらだった。記事は当時の新聞でよく見られる美文調で書かれていてやや鼻をつくが、気になるのは徳田家、木村家とも父親が喪主になっていない点である。これはどういうことなのだろうか。4 月 14 日、地元山口では、まだ遺骨は届いていなかったが、宮野の古刹・清水寺において厳父・荘次郎氏を喪主として追弔法会が行われた、と防長新聞 4 月 16 日付に記載されている。
 この飛行機事故は、我が国初のものであっただけに全国的に大きな反響を呼んだ。大正天皇が祭祀料として 50 円を出したことから、陸軍では上級職の者は俸給の 1/100 を弔慰金として出すことになり、その総額は 2 万円を超えたという。これに所沢町民の弔慰金や一般市民からのもの、さらには新聞各社が募った弔慰金を加えれば大変な額になったという。また、航空演習において死亡した場合は、家族に千円の一時金が支払われたようである。その詳しい総額は不明だが、一説には 4 万円とも言われている。現在価値に換算することはとても難しいが、当時の 1 円は、米価換算で現在では4,000円くらいとも言われているので1億6千万円くらいになるだろうか。
 その正確性はともかくとして、ともかく大変な額であったのは間違いないだろう。  

A記念塔と慰霊祭
 わが国初の事故のためセンセーショナルなものになったので、当然、記念碑が建てられ、その後慰霊祭も行われている。
 まず墜落地点に木村・徳田両中尉記念塔」を建てようという発議が東京京橋にあった「やまと新聞社」によって早くも葬儀当日の4月1日に為され 、ただちに義援金の募集が開始された。
 記念塔の完成を見たのは事故からちょうど 1 年後の大正 3 年 3 月 28 日で、この日に除幕式が挙行された。記念塔の高さは 11.4m、用地面積は 500 坪ほどもあり、建設費用は 4,700 円だったという。除幕式には関係高級軍人、貴衆議院議長、埼玉県知事が出席して弔辞を朗読、これに答える形で徳田中尉の実父・荘次郎氏がお礼を述べて式は終わった。この記念塔は交通の不便な地にあったため、昭和 4 年 3 月には所沢駅前に移設され、第二次大戦後は航空自衛隊入間基地他3か所を転々とし、昭和50年( 1975 )3月に現在の航空公園内に落ち着いた。2018 年に訪れた際にこの記念塔の現物を見たが、残念なことにどちらが徳田中尉なのか判断がつかなかった。今回、所沢航空発祥記念館に電話を入れて確認したところ、書類的なものは残っていないものの、以下の 2 点で徳田大尉は左側と推定してほぼ間違いないとのことだった。
 @徳田中尉は髭を生やしていない。右の人物だけに髭が確認できる。 
 A両人の服装は記念館に残る写真のままであり、それから判断すれば左が徳田中尉。また、二人が腕を組んでいるのはちょっと解せないが、銅像製作者か陸軍の「二人の強い絆を現したい」との意向が働いたのではないか、ということのようである。記念塔が所沢に移設された際、実際の墜落地点には代わりに「木村徳田両中尉殉職之處」の碑(下写真 )が建てられた。
 さらに昭和 54 年(1979 )4 月 23 日、松井郷友会主催で墜落地点において慰霊祭が営まれ、この時には、両中尉の遺児、徳田晃一( 兵庫県西宮市 )と木村竹治( 神奈川県大和市 )も列席したと記録されている。また、昭和 61 年(1986 )4 月 5 日にも航空公園内の記念塔前で慰霊祭が行われている。

【 木村・徳田両中尉記念塔 「筆者撮影 」 】
 

【墜落地点の碑 「所沢航空発祥記念館」 】

B残された家族、長男・晃一のその後
 徳田中尉は事故当時 29 歳で、家族は菊枝夫人 22 歳、長女淑子 5 歳、長男晃一 2 歳の 3 人だった。また、夫人が事故当時には第三子を妊娠中だったということはすでに述べた。事故以降、残された家族がどこに身を寄せたかは分からない。しかし、山口県宇部市出身で、当時臨時軍用気球研究会の幹事を務め、その後に初代航空本部長を務めることになる、後の陸軍大将・井上幾太郎が長男・晃一の後見人となっていることから、そのまま東京にいた可能性 が高いと思われる。晃一は井上幾太郎の庇護のもと、やがて東京帝国大学航空科を卒業し、一旦陸軍航空技術中尉となるが、その後川西航空機の設計研究係に転じて、「二式大型飛行艇」「紫電」「紫電改」の設計に携わった。戦後は神戸女学院で数学と物理を教えていたが、川西航空機の流れをくむ新明和工業の航空機部門から誘いを受けて航空機設計の道に戻り、YS-11 の開発に貢献、その後恩師・菊原静雄とともに対潜哨戒飛行艇 PS-1、救難飛行艇 US-1 の開発に主導的立場で尽力した。現在でもネット上で「波板の湾曲に就いて」「航空機設計における Man-Machine の問題」など彼の書いた論文を読むことができる。彼がパイロットの息子らしく設計者として航空界で活躍したことは何とも嬉しい話であると言えよう。しかも、彼が開発に携わった PS-1、 US-1 は父の生まれた山口県の東端の岩国基地で運航され、その発展型の US-2 は今なお岩国をベースとして救難活動に活躍中である。彼は事故当時 2 歳とあるので、明治 44 年(1911)の生まれだから、昭和 54 年の慰霊祭に出席した時は 68 歳だったことになる。新明和工業は神戸市東灘区に「甲南工場」を持つので、当時の彼の住所が兵庫県西宮市というのも納得がいく。なお、住宅地図と電話番号長で確認すると、現在山口市宮野下恋路には 5 軒の徳田姓が確認できるが、徳田中尉、徳田晃一との関係は確かめようがない。これは推測だが、徳田中尉の父は荘次郎という名前からして長男とは思えないので、おそらく分家筋と思われる。それだけに金一の長男・晃 【新明和工業時代の徳田晃一「航空ファン」】一が土地に縛られることなく東京帝国大学へと進学し、職を川西航空機に得て西宮に居住したとしても何の問題もなかったのだろう。

【 徳田一家団欒 「東京朝日新聞 」】

【 新明和工業時代の徳田晃一 「航空ファン」 】

5.気になることなど

@初の犠牲者に対する異論
 村岡正明著「航空事始〜不忍池滑空機〜」は、徳川日野大尉らが日本で初めての動力飛行に成功した明治43年(1910 )のちょうど1年前に、上野不忍池近くの広場でフランス駐日海軍武官、ル・プリウール中尉が自作の滑空機を駆って自動車曳航によって我が国初の滑空飛行に成功した模様を詳しく追ったものである。この中で村岡は、滑空飛行に協力した臨時軍用気球研究会所属の相原四郎海軍大尉について触れている。大尉自身は 2 回目の飛行の際、曳航索が切れたために滑空には失敗するが、その後フランス、ドイツに留学し、明治 44 年(1911 )1 月 8 日、ドイツで搭乗していたパルセバル飛行船の墜落事故に遭遇、その時被った衝撃による「急性腹膜炎」によって死去したとしており、これをもって相原大尉こそが日本人初の空の犠牲者であるとしている。その捕捉根拠として、大尉の地元の松山の「海南新聞」には「駐露海軍武官が 1 月 8 日に海南新聞記者に掛けて来た電話によれば、『本日、飛行研究中の相原大尉が飛行中墜落したのが原因となり遂に急性腹膜炎に罹り死去した、との電話が伯林からあった』との記事( 下線筆者 )があることを紹介している。しかし、相原大尉は日本人初の空の犠牲者とは一般的に認められていない。東京朝日新聞や萬朝報でも死因は単に急性腹膜炎としており、それ以上の言及はない。
 村岡は、その背景には「海軍が後に続くパイロットたちへの影響を考慮したため」ではないかと推測しているが、事故と急性腹膜炎との因果関係が今一つはっきりしていないことと、木村・徳田両中尉は死後に叙勲されているが、相原大尉は「留学中の客死」として叙勲の対象とはなっていないことも考慮すべきではないだろうか。海軍としても、いわゆる「軍神」的存在は作りたかったに違いないが、それができなかった何らかの理由があったと思うのである。結論としては、徳田中尉は木村中尉とともに「我が国初の空の犠牲者」と言ってよいと考えている。

A山口県庁に保管された写真の真贋
 もう一つ、とても気になっていたことがある。その気になっていたことを、今回の執筆を機にすっきりさせたいと思っていた。これは 2015 年に出版した拙著「年表 山口県航空史」に記した記事と写真のことである。筆者はこの本を書くにあたって、山口県に最も古くから残っている地元新聞「防長新聞」と、それが廃刊となってからは「山口新聞」とを 1910 年から 2010 年までの 100 年間分目を通したのだが、昭和 61 年(1986 )2 月 8 日付け山口新聞に以下のような記事を見つけたのである。

「わが国初の航空犠牲者となった山口市宮野出身の徳田金一中尉の事故写真を含む3 枚が徳田中尉と同じ飛行隊所属だった野村勲氏の姪、市内大殿の野村智子さんから県政資料館に寄贈された」

 筆者はこれに色めきたって、苦労して山口県管財課に保管されていた 3 枚の写真の写しを 2014 年 9 月に入手し、それを「年表 山口県航空史」の 182 ページに掲載した。その時、この写真には何となくスッキリしないものを感じていたのだが、出所がはっきりしており、保管場所がしっかりしているので、まず大丈夫だろうと思って掲載したのである。今回、この一文を書くにあたって、新たな資料も得たので、改めて入手した 3 枚の写真を検証してみることにした。
 疑問点の第一は、徳田中尉とされる写真が、航空発祥記念館や当時の新聞に掲載された徳田中尉と同一人物と言い切れるか、ということである。第二は事故機の写真とされているものが当該のブレリオ機のものか、ということである。まず第一点の検証をしてみよう。次ページに所沢航空発祥記念館所蔵の徳田中尉の写真と山口県管財課が保管する写真を並べてみた。こうして二つを並べて見ると、まさかこれが同一人物という人はいないだろう。今となれば、執筆当時似てなくもないと思い込んだことが恥ずかしい。右の人物には徳田中尉にはないはずの髭が確認できる。

【徳田金一中尉「所沢航空発祥記念館」】        【徳田金一中尉? 「山口県管財課」】
 

 そして決定的なのは搭乗している機体である。右の機体を特定するのは難しいが、少なくとも 徳田中尉が搭乗していたブレリオ機でもアンリ・ファルマンの改良型である会式 1、2、3 号機でないのは明らかである。機体はしっかりした鋼管帆布張りの胴体を持つ機体と推定され、パイロットのヘルメット、ゴーグルや飛行服から見ても、航空揺籃期から時代的には少し下ったもの、と判断して良いと思う。
 もう一つは事故現場と事故機の写真である。まず、墜落現場の周囲の様子を見てみよう。下 2 枚が事故現場の様子で左が現場、右が、越坂部兄弟を事故現場近くで撮影したものとある。

【墜落の現場の様子「日本の航空事始」】         【越坂部兄弟「東京朝日新聞】
 

 3-Aで示した大判の事故現場写真も参考にして欲しいが、現場は「所沢町松井村大字下新井字柿木台という山林」だった。一方、山口県管財課保管の写真には背後に人家が写っている。もしこれがブレリオ機であるとすれば、新聞に「あわや人家に激突」などという見出しがあって当然であが、そんなものは出て来ない。さらにもう一つ決定的なことは、操縦席である。最下段の写真は所沢航空発祥記念館のブレリオ機の精巧な模型である。ここで注意して欲しいのは並列に、いわゆるサイドバイサイドに配置された座席である。
 一方、下 2 枚の管財課の写真では胴体部分に半円上のものが見られ、ここが操縦席と推定できる。そして、それは胴体目いっぱいの幅を取ってある。つまり、胴体内には少なくとも並列に配置されてはおらず、単座機か、あるいはタンデム配置だと思われる。また不確かだが、管財課の写真には裂けた帆布に日の丸状の ものが見えるが所沢航空発祥記念館の模型にはない。別資料でも調 べたが、揺籃期の軍の機体には日の丸は見られない。
筆者は管財課保管の写真の機体は、ニューポール 81E2 ではないかと推測している。
 ともあれ、検証を進めていくと、ここに示した 2 枚の写真は全く別の機体と考えてまず間違いないだろう。もちろん、写真提供者の野村智子に悪意があろうはずがなく、ただ叔父から託された写真の由来をそのように説明されていたか、あるいは当の野村勲の記憶違いによるものだろう。また県の管財課にしても、写真が本当に宮野の徳田中尉のものであるかどうかの詳しい検証を行ったとは思えず、単に寄付者の説明をそのまま記録して保管しただけだろう。強いて言うならば、若干の違和感を覚えながらも、新聞記事だけに頼って深く検証もせずに、この写真を徳田中尉、ブレリオ機の残骸と信じ込んだ筆者こそが慎重さに欠けていたと言うしかない。恥ずかしい限りである。

【徳田金一中尉機?とする写真 2 枚 「山口県管財課」】
 

6.おわりに

 2018 年 10 月に所沢を訪れ、航空発祥記念館、市立図書館でさらに資料を集めた。そろそろ徳田金一中尉について一文にまとめねばならないと思いながら、それからとうとう 1 年半が経過してしまった。今回、新型コロナウィルスの蔓延に伴って諸活動ができない環境となり、時間的余裕もあったので、ファイリングした資料その他にゆっくり目を通して、何とか書き上げることができた。ウィルスとの戦いはまだまだ続きそうだが、いずれ「蒼い空を純粋に美しい」と思える日が一日も早く到来することを祈って、筆をおくことにしよう。 ( 2020.6.3 記 )

7.参考文献

「所沢航空発祥記念館所蔵展示物」
「所沢市史 下」 所沢市史編纂委員会 1992
「所沢市史 近代資料U」 所沢市史編纂委員会 1992
「日本の航空発祥 100 周年」 所沢市 2012
「日本航空史 明治・大正編」 日本航空協会 1956
「日本の航空 50 年」 酣燈社 1960
「航空五十年史」 仁村 俊 1943
「日本の航空事始」 徳川好敏 1964
「空の先駆者 徳川好敏」鑛浩一郎 1986
「防長新聞」1913
「東京朝日新聞」1913
「新聞記録集成 大事件史」 石田文四郎 1964
「宮野八百年史」 田村哲夫 1981
「山口市史」 山口市史編纂委員会 1981
「飛行の夢」 和田博文 2005
「航空ファン No.810」 文林堂 2020
「航空事始−不忍池滑空記−」 村岡正明 1992
「山口県庁管財課資料」 2014
「日本航空機辞典」 野沢正 1989
「バロン滋野の生涯」 平木國夫 1990

資料提供  佐伯邦昭  所沢航空発祥記念館

 

 



 井上幾太郎と徳田中尉、その遺族について 井上幾太郎傳より

 山田さんから下記の連絡があり 古谷さんが追加調査連絡を頂きましたので追記します。(編)

 山田さんからの連絡内容
  4,事故の反響  > B家族、長男・晃一のその後 >
    「事故以降、残された家族がどこに身を寄せたかは分からない。」
   此方の点についてですが、2017年3月に東京都武蔵大学内の武蔵学園記念室で開催されていた「天翔ける自調自考・航空宇宙と武蔵」展(https://www.u-presscenter.jp/article/post-36735.html) にて詳しい解説がありました。  展示にあった『時事新報』「遺児の成長にも偲ばれる空の犠牲者」(1930年6月6日)によりますと、この時点で、徳田家は東京府小石川大塚坂下町(現・文京区大塚5、6丁目付近か)に親子3人で住まわれていたようです。
   長女淑子さんは自由学園へ、晃一さんは武蔵高校へ進学しサッカー部で活躍なさっていたようです。
   <一部省略>
  その他、晃一さんについては母校である武蔵学園が写真や資料などを幾つか持っていらっしゃるので、そちらを当たればまだまだ情報が出てくるかもしれません。
  これだけのわずかな情報ですが、少しでも何かのお役に立てば幸いです。 (山田)

 古谷さんからの追加調査連絡

  以下は、山口県立図書館所蔵の「井上幾太郎傳」(1966.5.7 井上幾太郎伝刊行会 )にざっと目を通し、そこに記載されている徳田中尉とその遺族と井上幾太郎との関わりについての記述を以下に転記し、また年譜、関係者の回想録から読み取れる井上幾太郎の居住地の変遷を調べてみたものです。井上は徳田家の後見人となっているので、もしかして、邸宅に同居させていたのではないかと思ったからです。

1,徳田中尉との関わり。以下のように記してある。

 「前略・・・井上はこの栄光に輝く両注意の遺族の将来に大きな関心を寄せ、上司の同意を得て弔意の手段を講じた。両注意に対する世間の同乗もまた熱烈であった。そして、全国将校は俸給の百分の一を弔慰金として拠出することに一致したが、これに加えて一般から寄せられた義金を合し、すべて四万円に達した。
 また、やまと新聞社は読者の義金を募って、墜落の地点に両注意の記念塔を建立した。
 木村中尉は一人息子で家には父親一人が残されたが、この弔慰金によって老後の心配はなかった。気にかかるのは徳田中尉の遺族である。痛ましくも若い未亡人と二才の女の子、当歳の男の子が残されたので、遺児の成人するまでは、どんなことがあっても一家の安泰を保たねばならぬ、故人の栄誉の為にも全国民から寄せられた同乗に対しても、はたまた将来の空中勤務発展のためにも、その及ぼす反響は大きいと判断した井上大佐は、木村家の後見となって面倒を見た。
 弔慰金の主なる部分を公債に換えて保管し、嗣子が小学校、中学校、高等学校へと進み、そして大学に入り、航空学科を卒業して飛行機製作会社に入社するまで、犬馬の労を撮り続けて変わらなかった。 或る時、井上将軍は当時を追想して「嗣子は今は立派に社会の表街道に活躍している筈だ」と、責任を果たし終えた安堵の心境を率直に述べていた。」

2,居住地の変遷



3,これらから分かること

 1,から分かることは既に他文献からも分かることで、特段真新しい記述は見られません。ただし、「・・・社会の表街道に活躍している筈だ」という発言からは、ずっと最後まで井上と徳田晃一との間に熱い交流があったとは思えない、やや他人行儀な感じがうかがえるようにも思います。  

 2,を調べてみたのは、もしかすると、晃一を書生のような形で当初は面倒を見たのではないかと推測したからです。 しかし、山田氏は、「『時事新報』(1930年6月6日)によりますと、この時点で、徳田家は東京府小石川大塚坂下町(現・文京区大塚5、6丁目付近か)」と書かれています。 1930年には、おそらく井上は中野区小滝町44にいたと推測できますので、広大な邸宅の中に徳田家族を住まわせていた、という私の推測は的外れという結論になります。

 以上

2023.4.21 古谷眞之助 記