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航空歴史館 掲載 11/12/09

 

零式艦上戦闘機32型 Y2-128の戦後史

The History of the Mitsubishi A6M3 Rei-shiki Carrier Fighter REISEN
 



 

前 史

1941年    三菱重工業名古屋製作所で製造 総製造数343機中の1機(32型唯一の現存機)

1942年9月  第252海軍航空隊編成(館山基地) 零戦60機、一式陸攻数機
         司令の柳村義種大佐のイニシャルをとってY記号を機体に付す

1942年11月 第252海軍航空隊がニューブリテン島ラバウル航空基地へ進出

         ギルバート諸島のマキン、タラワ島の玉砕に伴い、マーシャル群島タロア島に転進

1944年2月  空襲によりタロア島施設壊滅 被弾航空機がそのまま放置される


Y2-128を発見したスティーブ アイケン氏の略歴

1922年 カリフォルニア州で出生
1939年 17歳で米海軍に入隊 
1941年 大東亜戦争開戦後は、駆逐艦砲手、快速魚雷艇砲術長歴任
1945年 終戦後 南太平洋の不発弾処理に従事
     国連信託統治政府の委託によりミクロネシアの残留砲弾等の処理、サイパン島に居住
1979年 職を辞し、零戦修復に没頭
1983年 カリフォルニア州で逝去 享年61歳 遺言によりサイパン島付近の海面に散骨

 


戦後史

1978年 アイケン氏がタロア島の旧滑走路脇のジャングルでY2-128を発見 酋長から譲り受ける

アイケン氏によってジャングルから引き出さる F (以下F印は福岡航空宇宙協会会報から転載)



1979年9月 上陸用舟艇でマジェロ環礁ウリザ島に搬送  後、サイパン島の自宅に搬送 

アイケン氏により修復なったY2-128  搬出の際折れた主翼は地面にある F

 

1980年2月20日 福岡航空宇宙協会設立

1980年9月 梶原皇刀軒氏からサイパン島の零戦情報がもたらされる

1982年10月 福岡航空宇宙協会役員がサイパン島を訪れてY2-128を確認 譲渡交渉に入る

1982年12月 譲渡契約成立

1982年12月30日 日本郵船ジョビアン ブライト号に梱包資材を積み 横浜港出航 

1983年1月11日 
福岡航空宇宙協会が福岡県知事の許可を得て一般募金活動開始 目標額2000万円

1983年2月1日 機体をスティーブ アイケン氏の庭からサイパン港へ運送 梱包作業
          
          サイパン政府の大戦遺物輸出禁止方針があり、出航まで難航した 

1983年2月7日 ジョビアン ブライト号に積載 サイパン港出航

ジョビアン ブライト号に積載中のY2-128 F

1983年3月3日 ジョビアン ブライト号が横浜港経由で神戸港に入港 第三隆丸に積替

1983年3月4日 第三隆丸が博多港に入港

1983年3月5日 福岡市箱崎第五埠頭にY2-128を陸揚 零戦帰還記念祭 及びタロワ島英霊の慰霊祭挙行

Y2-128を陸揚げ F

1983年3月 タロワ島英霊の慰霊祭の縁で太宰天満宮が展示場所を引き受ける

 

1983年3月9日 太宰天満宮の大宰府園(旧童話館)へトレーラー輸送     

旧海軍第二十一航空廠(大村)OB、九大航空工学部学生らの手で修復作業実施 F


34年間風雨にさらされていた計器板 F

修復


1983年3月26日 
大宰府園 零戦特別展示館オープン

零戦特別展示館 F

 

1984年6月 名古屋空港ビル株式会社が新設の航空宇宙館館の目玉として三菱名古屋製の同機の貸与を
       要請し、10年の期限付きで許可

1984年6月21日 博多港から名古屋へ輸送

        中日本航空整備部長の指揮のもと名古屋空港同社格納庫で修復作業

1985年    修復作業完了

福岡航空宇宙協会の記念絵葉書 3枚組 




1985年7月19日 名古屋空港国内線ビル航空宇宙館で公開 A4601参照

撮影2003/11/10 佐伯邦昭

2004年10月 名古屋航空宇宙館閉館

2005年2月 福岡航空宇宙協会へ返還のため解体作業

撮影2005/02/14、16 らぶこすたー




 

2005年2月 福岡航空宇宙協会へ返還 朝倉市黒川の共生の里音楽館へ搬送一時保管 A8109参照

撮影2005/11/05 佐伯邦昭


   


2009年 
筑前町立大刀洗平和記念館に無償譲渡 A8106参照

2009年2月27日 大刀洗平和記念館へ運送

撮影2009/05/10 むーちん

再整備中 撮影2009/05 A6M232


2009年10月3日 筑前町立大刀洗平和記念館開館 A8106参照

     館内撮影禁止だが福岡航空宇宙協会の申し入れにより零式戦闘機のみ撮影可能  

撮影2009/11/21 HAWK

以下A8106へ引き継ぐ

参考文献

1983年3月発行 福岡航空宇宙協会会報創刊号、第2号
1984年発行   福岡航空宇宙協会会報第3号
1992年1月発行 福岡航空宇宙協会会報第4号
1995年6月発行 福岡航空宇宙協会会報第5号
2001年発行   福岡航空宇宙協会会報第6号

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日替わりメモ 2011年12月08日
 

〇  零式艦上戦闘機32型 Y2-128の 現在までの詳細な経過

 70年前の今日について、昨日の朝日新聞社説はなるほどなという主張を掲げています。ただ、あれほど国民を戦争にあおっていたのが、戦後一転して反戦思想の先頭に立った変わり身の反省があるのか無いのか、まずは、社の足元を見てから偉そうな訓示を垂れなさいと言いたい思いをこらえて読みましたけどね。

 大東亜戦争と言えば零戦、真珠湾と言えば零戦がつきまといます。今朝は、先日も補足した大刀洗平和祈念館の零式艦上戦闘機32型Y2-128について、更に福岡航空宇宙協会の会報からより詳細な情報を戴せて、年史を充実させました。

もし、救う神が居なければ!
 ・ マーシャル群島の小島で朽ち果てた ・ サイパン島の個人の庭で錆びついた ・ 福岡県で置き場所を求めて放浪していた ・ 名古屋航空宇宙館閉鎖後に放浪していた等々、大刀洗に永住の地を与えられるまでには危機的な状況が何度も生まれていました。

 それを救った神様が「福岡に航空博物館をつくろう」と熱心に活動された福岡航空宇宙協会の皆さんでした。太刀洗に恒久展示に際して手伝ったA6M232さんは「福岡航空宇宙協会の松本委員長と奥様、古賀宗之さん、朝倉音楽館館長の渕上さん等がいらっしゃったからこそ、希少な航空遺産でもある三二型が後世に残る事となった」と言っています。

 そして、元米海軍士官のアイケンさん、太宰府天満宮、名古屋空港ビルの社長、中日本航空の整備部 、それらに協力した福岡の企業と市民、日本郵船や日本通運、道路管理者と警察等々たくさんの神様が連なっているわけですね。

 こういう経過は、既に雑誌に載っているのかもしれませんが、私は、インターネット航空雑誌ヒコーキ雲でより広く知らしめたいという強い欲求を感じています。写真の許可申請が間に合わなかったので、年表のみになりましたが、お許しを貰えば、タロワからの一連の経過がわかる絵を載せたいと思っています。

 新聞が、時代に合わせて論説を書くのは、まあ、私自身もそんなことをしているので、認めざるを得ませんが、事実だけを正確に捉えてあとは読者の判断に任せるという編集も大切なのだと、今日12月8日にして思うのです。

日替わりメモ 12月09日

〇  続 零式艦上戦闘機32型 Y2-128の現在までの詳細な経過

 予告のとおり福岡航空宇宙協会の元役員さんの許可を得て、Y2-128の戦後史をまとめました。零戦の国内保存のために家業を放り投げてまで奔走される傍ら、会報を発行して周知徹底を図られたことにより、この機体にまつわる歴史や豊富なエピソードが残されました。

 博多港へ陸揚げをするまでもサイパン政府の輸出禁止などで随分苦労していますが、それ以上に協会の頭痛は、戦時戦闘機を今更なんだという無理解の為に保管場所が確保できなかったことでした。それがあっという間に解決したのは、陸揚げして零戦にまつわる英霊の慰霊祭を太宰天満宮の宮司さんに執行してもらったところ、うちで引き受けましょうと申し出てくれたからでした。

 また、ジャングルから運び出したアイケン氏の修理が溶接に頼っているために、元の姿に修復する手段に困惑していたら、大村の第21海軍工廠で零戦を手掛けていた人々が工具持参で駆けつけてくれたというのです。

 28年前というと、バブルが始まる前の安定成長期だったと思うのですが、自衛隊や自治体に頼らずに、一切を民の力で取り仕切った歴史は、高く評価できるのではないでしょうか。福岡に航空博物館をつくろうという目的は、大刀洗平和記念館へ機体と維持費を寄付することで辛うじて果たした上で、協会を解散されたようにお見受けします。

 最後は、自治体に頼ったということになりますが、博多っ子の努力の跡が消えるものでは決してありません。大刀洗平和記念館で零戦を鑑賞する人は、そのような歴史を振り返って頂きたいと望みます。

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