後退翼、フライトコントロールシステム、オールフライングテイルなど数々の新開発機構の成功によって第一級戦闘機の座を獲得し、華々しいセンチュリーシリーズへの道を切り開いたノースアメリカンF-86は、まさにジェット戦闘機の基本です。
今でこそF-86に関する資料はたやすく入手できますが、1960年代には開発史とか構造とかをまとめて詳しく取り上げる日本の出版社は
ありませんでした。飛行場へ行ってもロッキードF-104やマクダネルF-4に目を奪われて、86Fも86Dも影がうすかったですから。
そんな時代に“ハチロクを知らずしてジェット戦闘機を語るなかれ”と立ち上がったのが幸田恒弘さんでした。彼が主体になってヒコーキの会機関紙ヒコーキ雲に「F-86のすべて」と題して1967年1月から1969年5月まで13回にわたって連載したものが、実は日本で初めてのまとまったF-86物語となりました。
その内容を列記してみます。
「F-86のすべて」小見出し |
筆 者 |
掲載誌 |
歴史の背景 ジェット機の誕生 |
幸田恒弘 |
ヒコーキ雲46 1967年1月 |
F-86の生い立ち |
幸田恒弘 |
ヒコーキ雲46 1967年1月 |
成功への道 後退翼の採用 |
幸田恒弘 |
ヒコーキ雲47 1967年3月 |
処女飛行 |
幸田恒弘 |
ヒコーキ雲48 1967年5月 |
最初の量産 F-86A-1(NA-161) |
幸田恒弘 |
ヒコーキ雲48 1967年5月 |
世界記録樹立 |
幸田恒弘 |
ヒコーキ雲48 1967年5月 |
F-86A-5の生産 装備 部隊配属 |
幸田恒弘 |
ヒコーキ雲49 1967年7月 |
F-86Aの朝鮮戦争投入 |
幸田恒弘 |
ヒコーキ雲49 1967年7月 |
フライイングテイル |
幸田恒弘 |
ヒコーキ雲50 1967年9月 |
E型の生産 |
幸田恒弘 |
ヒコーキ雲50 1967年9月 |
E型の部隊配属と朝鮮での戦闘 |
幸田恒弘 |
ヒコーキ雲50 1967年9月 |
F-86Fの登場 |
幸田恒弘 |
ヒコーキ雲51 1967年11月 |
F型 NA-172の生産 |
幸田恒弘 |
ヒコーキ雲51 1967年11月 |
コロンバス製セイバー |
幸田恒弘 |
ヒコーキ雲51 1967年11月 |
戦闘爆撃機 NA-191とNA-193 |
幸田恒弘 |
ヒコーキ雲51 1967年11月 |
6-3ウイング |
幸田恒弘 |
ヒコーキ雲51 1967年11月 |
F型の部隊配属 |
幸田恒弘 |
ヒコーキ雲51 1967年11月 |
Mig vs Saber 朝鮮戦争小史 |
上田新太郎 |
ヒコーキ雲53 1968年3月 |
カナデアセイバーの製造開始 |
幸田・上田 |
ヒコーキ雲54 1968年5月 |
AH-13 Mk.1〜Mk.6その他 |
幸田・上田 |
ヒコーキ雲54 1968年5月 |
AH-13の部隊配属 米英独への輸出など |
幸田・上田 |
ヒコーキ雲54 1968年5月 |
コモンウエルスCA-27 |
幸田・上田 |
ヒコーキ雲55 1968年7月 |
F-86H(NA-187)の企画 |
幸田・上田 |
ヒコーキ雲56 1968年9月 |
F-86Hの生産 作戦テストの評価など |
幸田・上田 |
ヒコーキ雲56 1968年9月 |
写真偵察機その1 RF-86A |
幸田・上田 |
ヒコーキ雲57 1968年11月 |
写真偵察機その2 RF-86F |
幸田・上田 |
ヒコーキ雲57 1968年11月 |
航空自衛隊F-86正式採用の前夜 |
佐伯邦昭 |
ヒコーキ雲58 1969年1月 |
F-86F-40の構造、生産、供与など |
幸田・上田・佐伯 |
ヒコーキ雲60 1969年5月 |
本来ならまだ続くべきところ、文林堂から航空ファン誌への連載を頼まれたことやその他多忙なども重なって、未了となっていますが、小見出しをたどればD型が欠落しているだけでF-86のほとんどすべてに及んでいることがわかります。F-86の全貌と呼んでもおかしくはありません。実際、その頃の日本ではここまで書いた雑誌記事も単行本もなかったのですから。
しかしいつの時代にも斜めにモノを見る方がいるもので、あれはレイ
ワグナーのNORTH AMERICAN SABERや当時のベストセラーであるイギリスのProfile
Publicationsシリーズの翻訳に過ぎないじゃないかといった影口がないわけではありませんでした。
筆者の一人幸田恒弘さんは、耳を痛めてパイロットをあきらめましたが、その悔しさを整備にぶっつけ米軍教官からT-33とF-86Dの構造を徹底的に教わったといいます。86のJ-47ジェットエンジンなどはお手のものです。その彼の口から出るハチロクの話は、英語の本を翻訳しただけの知識をはるかに超えるものでした。
もう一人の筆者上田新太郎さんは、新明和の伊丹工場が米海軍機の整備をしていた頃に伊丹や八尾で動き回る非常に目の肥えたグループのリーダー格で、阪大工学部に学ぶ勉強家でした。
朝鮮戦争におけるミグ15とF-86の死闘は、ジェット機の思想を大きく転換させました。そのあたりを外国文献を調べて紹介してほしいと頼み込んで書いてもらったのが上記のMig
vs Saber 朝鮮戦争小史でした。以後、彼も積極的に参加します。
かくいう佐伯は、朝鮮動乱に際して創設された警察予備隊から保安隊、自衛隊を通じてアメリカ政府と日本政府の関係、三菱重工など航空機産業の関与などいわゆる日本再軍備に興味を持ち、単純な飛行機発達史に飽き足らず、いろいろと資料を集めておりました。
ですから、「F-86のすべて」を今読んでも、単なる翻訳翻案でないことが確かめられるし、私が日本のF-86研究のはじまりと豪語するのも十分に理由があります。
逆説的に言えば文林堂が目をつけてくるほどの内容だったのです。
文林堂から幸田さんの方へ航空ファン誌へ書いてくれないかという問い合わせがきたときはうれしかったですね。
天下に認められたのかという喜びと、原稿料が入るぞという喜びです。
こういうときは、さすがに大阪人、上田さんが手紙でのやり取りはだめだ、直接会って条件を取り決めるべきだと主張し、上田さんと佐伯が上京することになったのです。神田神保町の古本屋街の裏通りにあった木造店舗の文林堂を訪ね、小笠原伝之助さんと対面しました。小笠原さんは大柄の体にふさわしく鷹揚な対応で、条件はあっという間に合意しました。
航空ファン向け原稿は、いろいろ考えて、構造技術の開発と実用化を柱に組み立ててみました。その整理と原稿は佐伯が担当し、ヒコーキ雲上の論文を取捨選択し、圧縮して書き直しましたが、誌上での筆者名はもちろんハチロク仕掛け人の幸田恒弘さんです。
表題 超音速戦闘機への長い道 F-86セイバー物語 |
筆者 幸田恒弘 |
|
1 エンジンを中心とする発達史 |
航空ファン1969年1月号、2月号掲載 |
2 後退翼を中心とする主翼の発達史 |
航空ファン1969年2月号、3月号掲載 |
3 操舵を中心とする発達史 |
航空ファン1969年3月号、4月号掲載 |
4 装備を中心とする発達史 |
航空ファン1969年4月号、5月号掲載 |
5 F型で確立した栄光の座 |
航空ファン1969年5月号、6月号掲載 |
6 資料〔シリアル及び配置〕 |
航空ファン1969年6月号、7月号掲載 |
7ヶ月にわたる連載は、送った原稿を何度も何度も修正をお願いするという苦しい作業でした。それは、個々のスペックや改造記号やシリアルリストの細かな資料の照合など、文面には表れないデータ根拠の確定に時間をとられたからだったと記憶しています。いやしくも金を払って読んでいただく記事にいい加減なことを書いてはいけないという責任感です。
(責任感を持ち合わせないプロ作家が何人かいらっしゃるのはたいへん残念ですが)
この記事がどれだけ読まれたかはわかりません。ミスを指摘されたこともないし見知らぬ読者から手紙が来るということありませんでした。文林堂からは現金書留でお金が送られてきてそれでお終いだったと思います。
私自身も人事異動で忙しい職場へ移り、ヒコーキ雲の編集を一時幸田恒弘さんへバトンタッチ
せざるを得なくなったので、日本ではじめてのF-86の系統的研究活動はそれでしぼんでしまったように思います。
☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆
幸田さんによってジェット戦闘機への目を開かれたヒコーキマニア人生録・図書室のエピソードでした。
ひとつだけ付け加えますと、書籍にしろホームページにしろ人様にお読みいただくものには、やはり文章力を磨き、辞書をかたわらに置いて何度も推敲を重ね、批判には謙虚に耳を傾ける、これを座右の銘としてきた人生であります。元原稿や資料の提供は幸田さんですが、失礼ながら彼の文章力そのままでは公開が憚られるので、すべて私が構成と文章をやり直しています。もちろん、幸田説を鵜呑みにするのでなく私自身もいろいろ当たって考証し、分からない部分は、はっきり不明と断っています。その意味で、今でも通用する文献だと信じております。