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ヒコーキマニア人生録・図書室 掲載03/12/21

 

F-86研究のはじまり

佐伯邦昭

(1)ヒコーキ雲への連載

 後退翼、フライトコントロールシステム、オールフライングテイルなど数々の新開発機構の成功によって第一級戦闘機の座を獲得し、華々しいセンチュリーシリーズへの道を切り開いたノースアメリカンF-86は、まさにジェット戦闘機の基本です。

 今でこそF-86に関する資料はたやすく入手できますが、1960年代には開発史とか構造とかをまとめて詳しく取り上げる日本の出版社は ありませんでした。飛行場へ行ってもロッキードF-104やマクダネルF-4に目を奪われて、86Fも86Dも影がうすかったですから。

 そんな時代に“ハチロクを知らずしてジェット戦闘機を語るなかれ”と立ち上がったのが幸田恒弘さんでした。彼が主体になってヒコーキの会機関紙ヒコーキ雲に「F-86のすべて」と題して1967年1月から1969年5月まで13回にわたって連載したものが、実は日本で初めてのまとまったF-86物語となりました。

 その内容を列記してみます。

   「F-86のすべて小見出し

 筆 者

      掲載誌

歴史の背景 ジェット機の誕生

幸田恒弘

ヒコーキ雲46 1967年1月

F-86の生い立ち

幸田恒弘

ヒコーキ雲46 1967年1月

成功への道 後退翼の採用

幸田恒弘

ヒコーキ雲47 1967年3月

処女飛行

幸田恒弘

ヒコーキ雲48 1967年5月

最初の量産 F-86A-1(NA-161)

幸田恒弘

ヒコーキ雲48 1967年5月

世界記録樹立

幸田恒弘

ヒコーキ雲48 1967年5月

F-86A-5の生産 装備 部隊配属

幸田恒弘

ヒコーキ雲49 1967年7月

F-86Aの朝鮮戦争投入

幸田恒弘

ヒコーキ雲49 1967年7月

フライイングテイル

幸田恒弘

ヒコーキ雲50 1967年9月

E型の生産

幸田恒弘

ヒコーキ雲50 1967年9月

E型の部隊配属と朝鮮での戦闘

幸田恒弘

ヒコーキ雲50 1967年9月

F-86Fの登場

幸田恒弘

ヒコーキ雲51 1967年11月

F型 NA-172の生産

幸田恒弘

ヒコーキ雲51 1967年11月

コロンバス製セイバー

幸田恒弘

ヒコーキ雲51 1967年11月

戦闘爆撃機 NA-191とNA-193

幸田恒弘

ヒコーキ雲51 1967年11月

6-3ウイング

幸田恒弘

ヒコーキ雲51 1967年11月

F型の部隊配属

幸田恒弘

ヒコーキ雲51 1967年11月

Mig vs Saber 朝鮮戦争小史

上田新太郎

ヒコーキ雲53 1968年3月

カナデアセイバーの製造開始

幸田・上田

ヒコーキ雲54 1968年5月

AH-13 Mk.1〜Mk.6その他 

幸田・上田

ヒコーキ雲54 1968年5月

AH-13の部隊配属 米英独への輸出など

幸田・上田

ヒコーキ雲54 1968年5月

コモンウエルスCA-27

幸田・上田

ヒコーキ雲55 1968年7月

F-86H(NA-187)の企画

幸田・上田

ヒコーキ雲56 1968年9月

F-86Hの生産 作戦テストの評価など

幸田・上田

ヒコーキ雲56 1968年9月

写真偵察機その1 RF-86A

幸田・上田

ヒコーキ雲57 1968年11月

写真偵察機その2 RF-86F

幸田・上田

ヒコーキ雲57 1968年11月

航空自衛隊F-86正式採用の前夜

佐伯邦昭

ヒコーキ雲58 1969年1月

F-86F-40の構造、生産、供与など

幸田・上田・佐伯

ヒコーキ雲60 1969年5月

 

 本来ならまだ続くべきところ、文林堂から航空ファン誌への連載を頼まれたことやその他多忙なども重なって、未了となっていますが、小見出しをたどればD型が欠落しているだけでF-86のほとんどすべてに及んでいることがわかります。F-86の全貌と呼んでもおかしくはありません。実際、その頃の日本ではここまで書いた雑誌記事も単行本もなかったのですから。

 しかしいつの時代にも斜めにモノを見る方がいるもので、あれはレイ ワグナーNORTH AMERICAN SABERや当時のベストセラーであるイギリスのProfile Publicationsシリーズの翻訳に過ぎないじゃないかといった影口がないわけではありませんでした。

 筆者の一人幸田恒弘さんは、耳を痛めてパイロットをあきらめましたが、その悔しさを整備にぶっつけ米軍教官からT-33とF-86Dの構造を徹底的に教わったといいます。86のJ-47ジェットエンジンなどはお手のものです。その彼の口から出るハチロクの話は、英語の本を翻訳しただけの知識をはるかに超えるものでした。

 もう一人の筆者上田新太郎さんは、新明和の伊丹工場が米海軍機の整備をしていた頃に伊丹や八尾で動き回る非常に目の肥えたグループのリーダー格で、阪大工学部に学ぶ勉強家でした。

 朝鮮戦争におけるミグ15とF-86の死闘は、ジェット機の思想を大きく転換させました。そのあたりを外国文献を調べて紹介してほしいと頼み込んで書いてもらったのが上記のMig vs Saber 朝鮮戦争小史でした。以後、彼も積極的に参加します。

 かくいう佐伯は、朝鮮動乱に際して創設された警察予備隊から保安隊、自衛隊を通じてアメリカ政府と日本政府の関係、三菱重工など航空機産業の関与などいわゆる日本再軍備に興味を持ち、単純な飛行機発達史に飽き足らず、いろいろと資料を集めておりました。

 ですから、「F-86のすべて」を今読んでも、単なる翻訳翻案でないことが確かめられるし、私が日本のF-86研究のはじまりと豪語するのも十分に理由があります。

 逆説的に言えば文林堂が目をつけてくるほどの内容だったのです。

 

(2)航空ファン誌への連載

 文林堂から幸田さんの方へ航空ファン誌へ書いてくれないかという問い合わせがきたときはうれしかったですね。

 天下に認められたのかという喜びと、原稿料が入るぞという喜びです。

 こういうときは、さすがに大阪人、上田さんが手紙でのやり取りはだめだ、直接会って条件を取り決めるべきだと主張し、上田さんと佐伯が上京することになったのです。神田神保町の古本屋街の裏通りにあった木造店舗の文林堂を訪ね、小笠原伝之助さんと対面しました。小笠原さんは大柄の体にふさわしく鷹揚な対応で、条件はあっという間に合意しました。

 航空ファン向け原稿は、いろいろ考えて、構造技術の開発と実用化を柱に組み立ててみました。その整理と原稿は佐伯が担当し、ヒコーキ雲上の論文を取捨選択し、圧縮して書き直しましたが、誌上での筆者名はもちろんハチロク仕掛け人の幸田恒弘さんです。

      表題  超音速戦闘機への長い道 F-86セイバー物語

      筆者  幸田恒弘

1 エンジンを中心とする発達史

航空ファン1969年1月号、2月号掲載

2 後退翼を中心とする主翼の発達史

航空ファン1969年2月号、3月号掲載

3 操舵を中心とする発達史

航空ファン1969年3月号、4月号掲載

4 装備を中心とする発達史

航空ファン1969年4月号、5月号掲載

5 F型で確立した栄光の座

航空ファン1969年5月号、6月号掲載

6 資料〔シリアル及び配置〕

航空ファン1969年6月号、7月号掲載

 7ヶ月にわたる連載は、送った原稿を何度も何度も修正をお願いするという苦しい作業でした。それは、個々のスペックや改造記号やシリアルリストの細かな資料の照合など、文面には表れないデータ根拠の確定に時間をとられたからだったと記憶しています。いやしくも金を払って読んでいただく記事にいい加減なことを書いてはいけないという責任感です。

 (責任感を持ち合わせないプロ作家が何人かいらっしゃるのはたいへん残念ですが)

 この記事がどれだけ読まれたかはわかりません。ミスを指摘されたこともないし見知らぬ読者から手紙が来るということありませんでした。文林堂からは現金書留でお金が送られてきてそれでお終いだったと思います。

 私自身も人事異動で忙しい職場へ移り、ヒコーキ雲の編集を一時幸田恒弘さんへバトンタッチ せざるを得なくなったので、日本ではじめてのF-86の系統的研究活動はそれでしぼんでしまったように思います。

                 ☆☆☆      ☆☆☆      ☆☆☆

 幸田さんによってジェット戦闘機への目を開かれたヒコーキマニア人生録・図書室のエピソードでした。

 ひとつだけ付け加えますと、書籍にしろホームページにしろ人様にお読みいただくものには、やはり文章力を磨き、辞書をかたわらに置いて何度も推敲を重ね、批判には謙虚に耳を傾ける、これを座右の銘としてきた人生であります。元原稿や資料の提供は幸田さんですが、失礼ながら彼の文章力そのままでは公開が憚られるので、すべて私が構成と文章をやり直しています。もちろん、幸田説を鵜呑みにするのでなく私自身もいろいろ当たって考証し、分からない部分は、はっきり不明と断っています。その意味で、今でも通用する文献だと信じております。

 

 

日替わりメモ2018/02/01

航空歴史館 航空自衛隊ノースアメリカンF-86F研究   全機経歴と写真

その1

F-86F-25  F-86F-30  RF-86F MDAP供与30機  62-7423、7428を追加

その2

F-86F-40 7400番台 MDAP供与 69機  供与1号機から4号機まで掲載


〇 F-86F

・ その1 RF-86Fは 、18機全機の写真が揃いました。
 入間基地の第501飛行隊は、RF-4Eファントムの導入に伴って百里基地へ移動し、残されたRF-86Fは入間分遣隊に縮小され、更に機数減とともに分遣隊も解散して偵察任務を解かれて総隊司令部飛行隊直属となりました。
 第501飛行隊のマークは、熊沢汎さんによれば、青空の中のレンズを現すもの、下郷 松郎さんによればカメラが捉えた画像の集光を現すものと表現していますが、総隊司令部飛行隊直属時代の3方面隊マークと百里RF-4Eのウッドペッカーの絵柄よりも優れていると個人的には思っています。

第501飛行隊時代   総隊司令部飛行隊属時代   百里基地の第501飛行隊
   

 

・ その2 F-86Fのダッシュ40に突入

 アメリカが極東の各国に提供していたF-86F-25とF-86F-30のお古が足りなくなり、新たに供与専用に開発したのがF-86F-40です。日本には150機供与されました。その供与期間中に新三菱重工がノースアメリカン社とライセンス生産の契約を交わして国産化したF-86F-40が300機です。

 その供与1号機の1956年から始まり、最後の機体が退役する1982年までの26年に及ぶF-86F-40の歴史は、航空自衛隊ジェット戦闘機部隊と曲技飛行部隊を確立した功績と同時に、余剰のモスボールあり、未使用のままアメリカへ返還された機体あり、胴体と主翼を取り換えた合体メカあり、更にはアメリカへ返還されてQF-86Fドローンとなって撃墜された機体ありで、まさに歴史記録派マニア泣かせの歴史でもあります。

 この泥沼にいよいよ足を踏み入れました。人生録05に書いているように、以前、ヒコーキの会機関誌「F-86のすべて」と雑誌航空ファン「超音速戦闘機への長い道 F-86セイバー物語」と二つの長編を発表していますが、あれから50年もたってしまいました。

 ネット上での再開は、下郷松郎さんのプロダクションリストCDが最大の拠り所となっています。これが無かったら泥沼へ踏み入る勇気はわいてないでしょう。

 さて、空の上から彼がどのように見ているか、多分、佐伯の奴、適当にでたらめを並べやがってと腹を立てているに違いありません。。彼が宜しいと納得するように、皆さんからの厳しい指摘や感想を待ちます。