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ヒコーキマニア人生録・図書室 掲載10/12/22
 
12月14日を空の日に制定しよう 航空100年に想う

 

佐伯邦昭


人吉市主催日野熊蔵記念碑前献花式
撮影2010/12/14 熊本県人吉市 熊本日日新聞社人吉総局前 松本晋一



陸上自衛隊西部方面航空隊のヘリコプターが編隊飛行で華を添えました

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初飛行百周年記念式典 東京都渋谷区代々木公園 日本航空発始之地記念碑前  報告TSR2

 好天の12月19日(日曜日)に執り行われました代々木の式典をだれも投稿されないようなので、遅ればせながら報告します。

主催 初飛行100周年記念式典合同実行委員会
(構成団体:人吉市、日野熊蔵初飛行100周年記念事業実行委員会、日本航空発始之地保存会、徳川・日野二世会
後援 国土交通省航空局、渋谷区、(財)日本航空協会

 式は10時過ぎに始まり参加者は招待者約70人、一般見学者約30人の100人程度でした。

 人吉市市長、日本航空発始之地保存会代表/藤野満氏、渋谷区長、航空局長(監理部長が代読)、東大鈴木真二教授が挨拶されました。

 そして徳川豪英氏が挨拶し、最後に日野虎雄氏が家族に補助されて前に出てごく短く謝辞を述べました。その後は徳川、日野両大尉の胸像に参加者が順次献花して1115分頃、式典は終了しました。

 人吉市のイベントのようにどこかがフライパスをと期待しましたが、なにもありませんでした。



航空局から紹介された“ミス「空の日」”が受付や献花を手伝いました

 その他の参列は、JAA評議員の元朝日新聞航空部長鈴木明治氏、科学博物館鈴木一義氏、空自、陸自から各1。一般の見学者は航空ジャーナリスト協会と羽田航空博物館推進会議のメンバーが中心でした。航空専門誌や業界紙の取材者は見当たりませんでした。




熊本日日新聞記事
 日野の長男虎雄さん(99)=神奈川県藤沢市=は「今日は感無量だ」と感慨深げな様子。徳川の長男豪英さん(88)=同県横須賀市=は「今後も両家で交流を続けていきたい」と語り、虎雄さんと固い握手を交わした。


鹿児島空港 航空100周年展 提供松本晋一


2010/12/18 松本晋一氏講演会 鹿児島空港 提供松本晋一





2010/12/19 航空100周年記念シンポジウム 国立科学博物館講堂 提供松本晋一


重要航空遺産認定書  撮影にばさん

 シンポジュウムの項目と、にばさんの感想(記憶の範囲内)を列記しておきます。

1 科学博物館が所有するグラーデとファルマンのプロペラに対し日本航空協会から重要航空遺産認定書が贈呈された。

2 日野熊蔵と徳川好敏両大尉の御子孫の方々がそれぞれ飛行機の写真を持って記念撮影が行われた。

3 記念講演T 「初飛行」 村岡正明氏
 明治43年4月から時系列で両大尉の足跡を解説された。4月に渡欧して半年後に初飛行というのも立派なもの。飛行訓練は受けたがメンテナンスを勉強してこなかったのでエンジンで随分苦労した。特にファルマンはエンジンがかからずグラーデに先を越された。

 感想 : 初飛行は小惑星いとかわから微粒子を持ち帰った"はやぶさ”の帰還に相当するような話であったが、できあいの飛行機を買って、それも訓練を受けた人が飛ばすのと、すべてが世界初のはやぶさ帰還とは比較にならないと思う。

4 記念講演 U 「日本の航空のこれから」 鈴木真二教授
 日本の旅客機製造でボーイング機などの部分製造は限界がある。
 * 完成機を購入したユーザーの声が聞けない
 * 発展途上国の追い上げ
 * AVIOなど装備品産業が育たない
 こういったことがMRJの開発で進展する。

 感想 :確かにエアラインは運用上の不具合をメーカーに伝え、対策を要求します。この点日本航空機製造(株)レスポンスの悪さはYS−11でいやというほど経験しました。初めて旅客機を作りエアラインンに売ったので、無理もないとは思いますが・・・ カストマーサポートということが理解されていなかったのは残念でした。

 旅客機を売るためのノウハウがYS−11の経験でわかったと思われますが、会社が解散して、ノウハウを知っている社員が定年退職してしまい。MRJは果たしてうまくいくでしょうか?

 フジ・ドリーム・エアラインの話で印象に残った点、"エアラインの利益以上に地域的な経済効果をもたらす。静岡の医者の不足している病院に福岡から医者が通えるようになった。"

 報告目的で聞いていませんので、以上断片的な記憶です。


日替わりメモ2010/12/14から転記

  きょうは何の日 日野熊蔵大尉による日本初飛行から100年 佐伯邦昭

 拙稿の書評渋谷敦著 改訂版 日野熊蔵伝  及び著者からの書状をぜひとも再読してください。 

      

 代々木練兵場に早朝から詰めかけた数万人の大群衆から「破れる許かりの喝采(時事新報)」を受け、「正に是れ日本国の空中に於ける最初の飛行(萬朝報)」と報じられたのは、明治43年12月14日ハンスグラーデ機が高度10メートル、距離60メートルを飛んだ歴史的事実の実況でありました。

 きょうは何の日 日野熊蔵大尉による原動機付き航空機の本邦初飛行からちょうど100年であります。

  私は徳川、日野両大尉が揃って飛んだ日の19日説を初飛行とは考えていません。

 もちろん、徳川好敏氏の飛行とその後の所沢における航空振興への功績には十分に敬意を表するものであり、徳川、日野両氏あっての航空100年の歴史であることは否定しません。しかし、本邦初飛行の栄誉はやはり日野熊蔵氏に捧げます。

・ 理 由
  臨時軍用気球研究会のスケジュールでは、15日を公式飛揚と決めていたようですが、徳川大尉のアンリファルマン機は15日も16日も滑走時のトラブルなどで浮揚せず、17、18日は風のため飛行そのものが中止され、19日になって初めてが飛び上がりました。それも2回にわたって見事な飛行ぶりであったことから、追随したハンスグラーデ機とともに初飛行日とするに至ったものと思われます。

 公式に日本初飛行と認定した資料があるのかどうかは知りませんが、多分に情緒的な流れがあるような気がしてなりません。16日までは原宿駅から練兵場まで熱狂的な観衆の行列が続いたというのに、19日の朝は数十人しかおらず、新聞社が徳川機飛行成功の号外を出したら、それを見て数万人も集まったと国民新聞が伝えています。また、同紙に「この日の花形たる徳川工兵大尉」という表現があるように、陸軍や江戸市民に徳川びいきの感情があり、新聞記者はもとより後世の航空専門家までがこれに流されてしまったきらいがあります。

 航空界に大きな影響を与えた木村秀政教授も、14日のことを滑走中の浮揚に過ぎず、飛行に非ずと断定しています。これについては教授の「飛行機の本」(昭和37年刊新潮社)の記述について、渋谷敦氏が証拠をもって克明に反論しています。日野熊蔵伝p152〜192 木村秀政教授の偏見)
 
 高さ10メートルほどにも飛び上がったのが滑走中の偶然だとすれば、グラーデ機は実に優れた飛行機ということになりますが、誰が考えておかしいです。フランスで訓練を積んできた日野大尉がうまくいけば飛んでみせようとしたこと、つまり飛行を意図して操縦をしていたのは明白です。公式・非公式に関係なく14日の飛行が本邦第1号であります。

 グラーデ機は、翌15日にも「竹田、北白川両殿下御臨場、仏国大使等も参観」する中で「20メートルの高さに飛揚し、100メートル余‥(二六新報)」「万歳歓呼の声は遠く埒外数万の群集より伝えくる(朝日新聞)」というように飛行状況が伝えられています。木村先生はこれも無視しています。

 両機とも出たとこ勝負のような初飛行の試みであるし、大観衆の興奮も新聞記者による誇張がありましょうが、100年前のきょう人々の目の前で日野大尉が飛行した事実は隠しようがありません。

 今後、発行される航空文献には、この辺りを可能な限り検証してより正しく記述されるように柔軟な対応を求めるものです。 皆さんはどうお考えですか。

       
 東京と熊本のヒコーキマニアの皆さん、渋谷区代々木の銅像や人吉市の生家跡に花の一つでも手向けて日野熊蔵さんを偲んでください。グラーデ機とファルマン機を飾っている博物館の皆さん、せめて機体の埃を払ってやってくださいね。

日替わりメモ2010/12/15から転記

   12月14日 きょうは何の日 日野熊蔵大尉による日本初飛行から100年

 「人吉市の生家跡に花の一つでも手向けて日野熊蔵さんを偲んでください」と書いたのは杞憂に過ぎました。日本の航空100年の昨日、人吉市に日野家の子孫を迎えて、市長、陸自代表、渋谷敦氏、人吉中学校ブラスバンドなどが出席して献花式が行われ、空からは、写真のとおり西部方面航空隊のヘリコプター全6機種が華を添えました。19日には、東京代々木の碑の前で人吉市主催の献花式を行うそうです。実行委員会の松本晋一さんの努力に敬意を表します。

初飛行についての感想

・ Aさんから

 14日の朝日新聞に、今日は日野熊蔵氏が日本で最初に動力飛行に成功した日とした記事がのりました。朝日がこのような書き方をするのは画期的なことではないでしょうか。佐伯さんの持論が支持されたようですね。

・ Bさんから

 昨日の日替わりメモの私感です。因みに、どちらの飛行を初飛行とするかについては、あまり執着していません。ライト兄弟の飛行については、その前駆者が居たかどうかよりも、そこに至った学術的な経緯が評価されていると思っています。言い換えれば、単にジャンプしただけは飛行と見なしておらず、そこに至った過程が大事であったということでしょう。

 
日野氏の飛行がジャンプだったかは、よく分かりません。距離や高度だけを見れば、ジャンプとは思いにくいです。飛ばそうという意思の下に臨まれているでしょうから、飛行なのでしょう。ただ、日野氏はヒラメキ型の方だったようでもあり、徳川氏とはそのアプローチに幾分の差があったかとも思えます。(決して、日野氏がまじめに取り組んでいなかったという意味ではありません。念のため)

 日野氏のその後の言動にも色々あったことも踏まえて、徳川氏の功績がかなり加味されて、徳川氏の飛行を以って初飛行としているのが、現状だと認識しています。

・ Cさんから

 史実で言えば、確かに日野大尉のグラーデは国民群衆公開の「公式飛揚日」の前日14日に高度10m、距離約60mを飛びました。その前に≪念のための試験飛行?またはジャンプくらいをして調子を見る?≫をしたのでしょうか?(15日の公式飛揚日は、両機の調整のため延期されましたが、16、17、18とも風が強く、ファルマン機の飛行は結局19日になりました。)

 現代でも試作1号機や量産新造機の「初飛行」前には滑走路で段々速度を上げた高速地上滑走から離陸寸前までを何回もして、ステアリングやブレーキ・チェックをやり、次に初めてジャンプ飛行で空中に短時間浮かんで空中3舵の効き具合などの確認を何回かすることから始まります。しかしこのジャンプ飛行を何回やっても初飛行とは言いませんが、当時はなんせ空中浮揚そのものがニッポン人は驚くことでしたから。 

 ただ、日野大尉の14日の事前ジャンプはちょいと高度、距離とも我々の言うジャンプより飛び過ぎですが、そこは日野大尉も思わず飛んでしまったのか?実は公式前に先手で初飛行を狙ったのか?それを上層部に見透かされて無視されたのか?怒りを買ったのか??私には分かりません。日野大尉の個性もなかなかで・・・??

 

佐伯から : ご感想をありがとうございました。 日野熊蔵の性格がかなり災いしているという見方を私もしていますが、同時に、日本航空界の主流を歩んできた人たちの中に、徳川大尉に花を持たせたいという心理がずっと働いているのもたしかだと考えています。

 昨日あげた木村秀政教授の「飛行機の本」には、ジャンプ飛行が飛行とは言えないというのを詳しく説明しているにも拘らず、関係者以外の見物人はわずかであったというような調査不足を露呈しています。その上で日本最初の飛行も12月19日の徳川大尉のを取るべきであろう」としているのです。
 徳川・日野ではなく「徳川」だけなのです。
 明らかに徳川よいしょ!でしょう。
 裏返せば日野に対する偏見、侮蔑です。(熊本の田舎士族、生意気、変わり者といったこと)

 徳川氏と親密なお付き合いがあったのかどうかは知りませんが、この点に関する限り科学者としての目をそらせているとしか思えません。渋谷敦さんが、証拠を上げて克明に反論した長文の手紙には、遂に返事がなかったそうです。悪かった!という思いと共に墓場へ持っていかれたのでしょう。
 木村秀政教授の影響力は東大や日大関係者から出版社に至るまで広く及びますから、航空史で定説化してしまいました。学術的に客観公平な立場から更なる検証を待ちたいと思いうものです。

日替わりメモ12月16日から

  続 々 12月14日 きょうは何の日 日野熊蔵大尉による日本初飛行から100年

・ Cさんから

 Aさんが挙げている朝日新聞の記事は、インターネットでも見られます。紙面にはのっていない鍛冶信太郎氏のあとがきが付いており、その意見と中で引用されている帆足孝次氏の見解が佐伯さんの論調とほぼ同じです。https://aspara.asahi.com/blog/science/entry/Zt23Qwbf2U 

三たび佐伯から : 読みました。 帆足氏の航空の世界ではこのことについては触れてはいけないタブーのようになっている」という発言、よくぞ書いてくれました。昨日の日替わりメモの木村秀政教授云々のくだりからピント来ますね。もう多くは語りますまい。

・ Dさんから 

 人吉の日野熊蔵碑への献花式は盛大に行われたようですが、こちら東京は代々木公園はあいにくの雨模様で、寒空の下自分の他に人も無し。私も銅像にかかっている落ち葉を取り除いたくらいしかしませんでした(日本航空発始の地碑などは枯葉に埋まっている)。ただ、帰りがけに公園の関係者らしき人や清掃業者らしき人達が来ていましたし、19日の式典の下準備のため、辺りを清掃するのでしょう。 

 初飛行については、数十年前より斯界の重鎮がさんざん議論しているところですが、面白そうなので素人考えを述べてみます。私自身は日野氏の12月14日の飛行を以て初飛行とする一方で、日本人の初飛行は1910年12月に日野・徳川両大尉によって行われたという立場です。折衷的かもしれませんが。

 一時期に比べると、日野大尉のことも、少なくとも航空関係の文献では普通に見られるようになりました。一方でそれ以外の文献ではそうでもなく、ついこの間も2003年に出た子供向けの本である「日本と世界の365日なんでも事典」というポプラ社の事典で日本人の初飛行が12月19日、徳川大尉によるアンリ=ファルマン機の飛行としか載っていない記述を見つけて驚愕し、出版社に訂正を申し込んだこともあります。せめて日野氏とハンス=グラーデ機についても記述しないと正確とは言えないでしょう。

 今年に出た、代々木の初飛行をテーマとした村岡正明氏の『初飛行』という書物でもこの問題が取り上げられていますが、村岡氏は14日を初飛行とはみなしていないようです。日野贔屓の目線で読むからかもしれませんが、村岡氏は、日野氏に点が辛く、徳川氏に甘いように感じました。

四たび佐伯から : 14日現在で代々木の銅像と記念碑が掃除もされていなかったという事実には、まったく驚きました。在京の航空関係者には、日野・徳川あっての自分という意識が希薄?特に100年の今年、落ち葉を払う人も居なかったとは! ご多忙とは思いますが、たまには先達者に敬意を表してあげてください。
 (私事ですが、私は自宅近くのトンネル開通記念碑の草取りを一人で実行しています。碑に揮毫してくれた人が開通に向けて如何に苦労されたかを知っているからです。)

 
 さて、二度とこない大きな節目の100年でしたが、ブルーインパルス50年とか、何々飛行隊の10周年とかそんなものばかりが目立って、軍民含めた国内の航空機が展示乱舞する記念航空祭のような企画はひとつもありませんでした。だから、13日にミスビードル号を100年記念事業として全国で飛ばしてやれと‥と皮肉ったのです

 思い起こせば、2003年にはライト兄弟による人類初飛行100年を記念 して世界中でお祝い行事がありました。かのキティホークでは、2003/12/17にアメリカ政府による盛大な式典が行われたと記憶しています。日本でもライトフライヤーの復元飛行挑戦をはじめ多くの催しがありました。

 くらべて、日本の航空100年は‥? 歴史を大切にする国民性の違いや、現在の精神的余裕を喪失してしまった日本人という環境があるにしても、まったくさびしい限りです。

 もちろん、反論はあると思います。空の日イベントを100年記念行事としたとか、上野で展覧会をしたとか、博物館 にファルマン機やグラーデ機を飾ったとか、回顧録を出版するとか‥。まあその程度のことでした。上野の展覧会は、小惑星探査機はやぶさの人気におんぶしているようなものだし、羽田の空の日行事は富士号の頭とYS-11の3号機を出したのが目玉だというのを悪いとは言いませんが、航空100年の盛り上がりには大して役立っていません。

 国民、特に子どもたちに航空思想を広める千載一遇のチャンスを逃がした責任は、航空に携わる者すべて(マニアも含めて)が負わなければならないと思います。そこで、私論を述べてみます。

 ・ 海の日はあっても、空の日はない

 海の日 : 7月の第3月曜日、明治天皇が東北巡行で初めて船に乗られた日にあやかる国民の祝日です。

 空の日 : あるにはあります‥ 定例次官会議で決められた空の日(9月20日)と空の旬間(9月20日 〜30日)があります。国土航交通省の解説を読んでみてください。(下記)
    
  航空再開後20年くらいは、活発に空の日行事が行われていました。しかし最近は、航空局のお役人も漫然と前年度の予算を継承するだけのようで、現に、航空局の勧めで行われているらしい各地空港の空の日行事は、9月〜11月でばらばらです。秋ならいつでもいいやという印象です。要するに9月20日に万人が納得できる根拠がないのです。

 よって、海の日はあっても、空の日はないのです。

 趣旨や根拠や目的を洗いなおして、真に有意義な空の日行事にしようという熱意がないから、航空100年もだらだらと過ぎてしまいます。このようなことに気付いて声を上げなかった我々もいけませんでした。 

 

・ 国民の祝日としての空の日を制定させよう

 今や航空は日本の土台の中にしっかりと根付き、国民生活と切っても切り離せない関係になっています。運輸関係で、先行した船舶、鉄道、自動車よりもはるかに規模が大きくてグローバルであります。そろそろ国民の祝日として空の日を制定してもいいのではないでしょうか。 それは、日本初飛行の12月14日をおいてほかにありません。初飛行に公式も非公式もないからです。ライト兄弟の初飛行もいわゆる公式行事とはいえないでしょう。

 なかなか難しいとは思いますが、まずは、学校教育です。二宮忠八や日野・徳川初飛行のことから説き起こして、軍事を含む航空史の概観を教えることから始めなければなりますまい。そういう基礎知識を持つ子供たちが増えれば、例えば自衛隊の航空祭へ行っても、航空博物館へ行っても、ものの見方が各段に向上するし、その感激が一過性に終わらず、積もり積もって空の日制定につながっていくと思うのです。

 航空局と各大学の航空学科の先生は、文部科学省にどんどん資料を送って強硬に談判をしてください。経済産業省航空機武器宇宙産業課という長ったらしい名前の課長さんも後押ししてくださいね。その前に、木村秀政幻影におびえてタブー視されているらしいばかげた風潮を一掃しなければなりますまいね。でないと宇宙の日に先を越されますぞ!

航空局ホームページより

「空の日」の起源は今から約60年前の昭和15年(1940年)に制定された「航空日」に遡ります。

 この年は、日野・徳川両陸軍大尉が代々木練兵場にて我が国で最初の動力飛行を披露した明治43年(1910年)からちょうど30周年に当たるとともに、紀元2600年の祝典諸行事の計画が国を挙げて進められていた時期でもありました。このような時に、我が国航空の歴史を記念し航空思想の高揚と航空技術の振興を図り、航空日本の将来の発展に努めるための国家的行事を実施すべきとの意向が航空関係者の間で強く要望されました。そこで、政府は、同年6月13日の各省次官会議において「航空日」の制定を決定し、毎年1回官民合同の各種航空関連行事を開催することにしました。

 第1回の「航空日」は同年9月28日と決定され、学校、民間団体、新聞通信社等の挙国一致的協力の下、航空大会、グライダー大会、航空功労者表彰式、講演会、論文募集、標語募集、展覧会、演劇、演奏会等様々な行事が実施されました。第2回の「航空日」は航空関係省庁間協議において、9月20日と決定され、平成4年には「空の日」と名を変え、現在では9月20日として定着しているところです。

 「航空日」の諸行事は、第2回目以降、昭和19年まで毎年行われた後、第2次世界大戦終戦に伴い、連合軍による航空活動の禁止命令のため一時休止されましたが、昭和25年(1950年)には、航空行政権の一部が日本政府に移り、昭和27年(1952年)には、現在の航空法の原型が公布・施行されました。そして、翌年の昭和28年(1953年)8月10日の定例次官会議において、このように我が国の民間航空が再建途上の段階であることを踏まえ、航空思想の普及に努めるため、「航空日」の復活が了解されました。それを受け、内閣総理大臣を総裁とした政府関係者、民間団体や新聞通信社等の関係者が復活第1回航空日大会役員となり、羽田空港においては9月20日に保安隊機や民間機による上空飛来や曲技、グライダーのデモンストレーションや曲技、機体展示、模型飛行等が行われ、その他の会場においても展覧会、航空神社祭、航空映画祭等、復活第1回航空日大会が盛大に開催されました。

 この復活第1回「航空日」以降、「航空日」は再び多くの人々に親しまれてきたわけですが、平成4年(1992年)、民間航空再開40周年を記念すると同時に民間航空の意義と役割について広く国民の理解を得ていくこととし、国民にとってより親しみやすいソフトなネーミングをということで「空の日」に改称されました。さらに、より多くの国民に航空への理解と関心を高めていただくという趣旨で、9月20日の「空の日」とともに「空の旬間」(9月20日から30日)が設けられ、この期間には、全国各地の空港等で航空に関する様々な催し物が実施されるようになりました。


日替わりメモ20110106から転記

〇 航空100年 人吉市主体の初飛行100周年記念式典

  天下の代々木公園で行われた初飛行100周年記念式典の主体が熊本県人吉市で、主催者であるべき国土交通省と財団法人日本航空協会が後援者に名を貸しているだけとは!!
 ライト初飛行100年や神風号訪欧飛行とニッポン号世界一周70年やブルーインパルス50年には一大特集を組んで盛り上げる航空雑誌が、我が国の原点に知らん顔とは!!

 12/19のレポートがなかなか来ないかった理由がわかりました。投稿する気にもならない訳ですよ。これが日本の航空の実情かと涙が出ますね。

 熊本で、早くから一生懸命に準備をしてこられた関係者の皆さんはどんな思いでしょうか。14日に固執せず、徳川・日野と平等に扱おうとしておられる広いお心(日野熊蔵伝著者の渋谷さんは、12月14日〜19日を一連の初飛行と捉えればよろしいと書いています)と実行力に感動します。14日を空の日に制定しろとわめいている当方の主張など恥ずかしい限り。

 せめてインターネット航空雑誌ヒコーキ雲からのお礼と感謝の気持ちを受け取ってください。

 

文献記事発見 2011/02/08

航空情報1968年8月号 晴天乱流 青山と代々木と飛行機 斉藤茂太

〜 さて代々木練兵場の方は、明治43年12月14日に日野大尉のグラーデ単葉が高度10mで約60mを飛び、日本最初の飛行に成功、続いて19日に徳川大尉がアンリイ・ファルマン1910年型で高度70m、滞空時間4分という本格的な大飛行に成功した。〜 

 

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解析