航空人生録・論文 | 掲載20/12/04 |
故 森脇医師 遺稿
「小牧基地」での撮影記録 その1 丹羽 八十
紹介 酒井 収
民間用MU-2に続き小牧基地/名古屋空港での撮影記録について、丹羽 八十さんからストーリー仕立ての記事をいただきました。本篇はその1 F-86Dです。 そのまま紹介します。
なお、紙面の都合で縮小掲載していますのでCtrlボタンを押しながらマウスのスクロールボタンを回すと拡大して見ることができます。
North American F-86D Sabre Dog
Nagoya Aviation Historical Society
はじめに
「小牧基地」は今年、開庁して50年目の節目にあたる。しかしそれより前、終戦後から米空軍が駐留してきた。 そして時はもう「ジェット戦闘機」の時代でF-84GやF-86Fが配備された。太平洋戦中に居た「飛燕」の比ではない大騒音の誕生でもある。
当時、「全天候戦闘機」と訳す日本語から受けるイメージは一般にはなじまなかったが、それまでの戦闘機とはコンセプトがちがう設計に 基づく新鋭機との紹介だった。それは機首にレーダーを装備し、エンジンにアフターバーナーを持ち、ロケット弾で敵機と昼夜の別なく戦い、 しかも着陸時にはドラッグシュートを尾部から引きだして滑走距離をセーブ出来る機体がF-86Dだった。
やがて、朝鮮半島の緊張が緩んだのを境に米軍は小牧基地を発足まもない航空自衛隊へ引き渡す事になっていく。F-86Fを装備する他の 自衛隊基地と違い、ここ小牧基地と北辺の千歳基地だけに新鋭のF-86Dが配備された。そしてもう一つ特徴的な事は滑走路を隔てて新三菱重工鰍フ 名古屋航空機製作所が米軍機修理から再スタートしていた。F-86Dのリハビリテーション工事とその後の試験飛行も1959年10月から始まった。 勢い、市民がこのF-86Dを見かけるチャンスは多かった。反面、整備の苦労も及ばず墜落してしまった機体も多く、周辺住民からの反発もあった。 特に象徴的な事故は滑走路上で羽田から夜帰ってきた全日空のDC-3とぶつかった。日本人管制官の指示ミスとして処理されたが遠因は夜間訓練も 課せられていたこの戦闘機の性能にもあったと言えよう。
高校生時代に小牧基地へ一週間体験入隊した経験を持つ自分は青白いバーナーを引きながら夜間訓練に離陸していく同機を何度も目撃している。 その当時から既に日々飛行機撮影を続けていた人が居た。彼は開業医の立場から空いた時間を空港での記録撮影に費やした。その膨大なフィルムは 故人となられた後、人を介して自分の手元に届いた。これを現代文明の利器を使い、再生、編集したのが本記録である。
日進月歩の開発力スピードと国会での「ロッキード・グラマン論争」に見られる政治判断から他機種に比べ短命で終わった同機の在りし日の姿を ここに再現し記録にとどめ、故人の熱意に寸分でも報いたい思いである。2009/12/28
Nagoya Aviation Historical Society
丹羽八十表紙写真は1963.6.22.に34endで撮影されたF-86D-50-NA, 04-8208, 製造番号190-643で1963.8.26.に墜落している。 パッチは復元されたもの。
フィルム提供者 : 森脇比佐
小林春吉
参考使用フィルム : Fuji Neopan SS
使用フィルムスキャナー : Nikon Super Coolscan 5000
使用画像ソフト : Adobe Photoshop
引用資料 : Japanese Military Aircraft Serials 2007 final version/ J.A.R.G.
Japanese Air Arms 1052-1984/ Akira Watanabe
United States Air Force Serials 1946 to 1977/ A Merseyside Aviation Society Publication
三菱重工鰹ャ牧南工場史料室刊行 「目で見る小牧南工場50年史」
編集者 : 丹羽八十 / Nagoya Aviation Historical Society
編集日 : 2009年12月28日禁無断転載