航空人生録・論文 | 掲載20/12/05 |
故 森脇医師 遺稿
「小牧基地」での撮影記録 その2 丹羽 八十
紹介 酒井 収
民間用MU-2に続き小牧基地/名古屋空港での撮影記録について、丹羽 八十さんからストーリー仕立ての記事をいただきました。本篇はその2 F-102Aです。 そのまま紹介します。
なお、紙面の都合で縮小掲載していますのでCtrlボタンを押しながらマウスのスクロールボタンを回すと拡大して見ることができます。
Convair F-102A Delta Dagger
Nagoya Aviation Historical Society
はじめに
飛行機が好きになったきっかけがはっきりしない。けれども初めて買ってもらった航空雑誌「航空情報」1960年7月号は中学生になってからだった。その当時、公式に配信されるいわゆる「オフィシャル フォト」が主流のアートページには米空軍のセンチュリーシリーズと呼ぶ戦闘機達の白黒写真が多くの誌面を飾っていた。ノースアメリカンF-100スーパーセイバーから始まる戦闘機はどれも格好良かった。
なかでも航空自衛隊が次期主力戦闘機を選定していた当時、ロッキード・グラマン戦争とまでマスコミが騒いだ頃、有人最後の戦闘機と言われた F-104Jの採用で決着がついた。日本中で話題となったこの戦闘機は当時、唯一見る事が出来た場所が名古屋空港に隣接する新三菱重工名古屋航空機 製作所のフェンス越しと試験飛行の為に出てくる時だけだった。その時のエンジン音や斬新なスタイルには魅了された。
でもその名古屋空港ではもう一つ別のセンチュリーシリーズを見る事が出来た。それがコンベアF-102Aという米空軍が極東地区の防空任務目的で配備していた戦闘機で、そのスタイルはF-104Jにまけず劣らず特異だった。ニックネームがDelta Daggerでもある通り、至るところが三角形ずくめの機体で主翼はもちろん、垂直尾翼も操縦席の窓も三角だった。幼児が折り紙で作る飛行機のシルゥエットがそのまま現物になった印象さえ受けた。
1960年9月18日に米空軍板付基地68FISのF-102A-30-CO, 54-1379が小牧での目撃記録が残っている。その後新三菱重工が極東米軍から SRA*を請け負っていたお蔭で飛来したり、修理後の試験飛行を撮影する機会に恵まれた小牧近在の飛行機ファンは決して今ほど多くは無い。 従って残されているそれらは断片的な写真記録でしか無い。
ところがここで紹介する森脇啓忠医師の撮影記録ほど熱心に撮影に通われ、多くのF-102Aを記録し残された人は居ないと言えるだろう。配属されて居た基地周辺以外でのF-102A/TF-102A撮影記録を意義あることと信じ、託されたネガを基に整理してみた。
SRA* : Specialized Repair Activity2009/12/29
Nagoya Aviation Historical Society
丹羽八十表紙写真は1968.2.16. Runway 34でのline up & wait中に撮影されたF-102A-90-CO, 57-0780, 製造番号746
フィルム提供者 : 森脇比佐
小林春吉
参考使用フィルム : Fuji Neopan SS
使用フィルムスキャナー : Nikon Super Coolscan 5000
使用画像ソフト : Adobe Photoshop
引用資料 :Wings of Fame, the Journal of classic combat Aircraft Volume 17, Aerospace Publishing Ltd.
copy of the T.O. 1F-102A-10 "F-102A Master usable on code" Section IV
United States Air Force Serials 1946 to 1977/ A Merseyside Aviation Society Publication
「世界の傑作機」No.51 GD.コンベアF-102/F-106、文林堂
三菱重工鰹ャ牧南工場史料室刊行 「目で見る小牧南工場50年史」
編集者 : 丹羽八十 / Yaso Niwa, President & Chief Planning Officer
Nagoya Aviation Historical Society
編集日 : 2009年12月29日禁無断転載