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航空人生録・論文 掲載21/08/17

  

 故 森脇医師 遺稿                                                                                                              

「名古屋空港/小牧基地」の写真記録について 丹羽 八十


 


 名古屋空港/小牧基地での撮影記録について、丹羽 八十さんへ記事作成を依頼し、快諾いただき文面、写真の提供をいただきました。
 貴重な写真ばかりで当時からのことが紹介されています。 
 丹羽さんのご協力に感謝するとともに希少なコレクションを当ヒコーキ雲に紹介させていただけることに対し感謝します。


「名古屋空港/小牧基地」
の写真記録について

   

Nagoya Aviation Historical Society

はじめに

 「ヒコーキ雲」管理者のYS45さん、イガテックさんからの要請に従い故森脇医師の写真遺稿を使って、1960〜1972年の名古屋空港/小牧基地での様子を紹介します。
 それに先立って、当時の同空港/基地の置かれた環境について概略し、撮影された機種等の理解を深められる一助とします。

 名古屋空港/小牧基地は1945.9.30連合軍が進駐した記録があり、米空軍小牧基地として運用が始まる。その7年後1952.12.18.には三菱重工名古屋製作所小牧工場が設置された。
翌年1953.3.23.中日本航空が小型機使用事業を開始した。更に1958.6には2740mの滑走路長への拡張が完了した。この年の9月には米軍から返還され、翌1959.5.1.航空自衛隊小牧基地、第3航空団が運用を開始した。そして1960.4.1.第2種空港として正式に名古屋空港となった。

 羽田ですら2,700mと1676m各1本づつの滑走路で運用していた時代で、3,000m, 1,570m, 3,150mの3本で運用しだしたのは1965年頃になってからだった。
 本州で民間運用空港としては羽田、伊丹についで3番目に長い滑走路長を持つ名古屋空港は両空港の「代替空港」としての役目も持っていた。
 航空管制支援施設は米軍が残していったトレーラー式のGCAだったが、1967.11月にILSが運用されるようになった。

 三菱重工名古屋製作所小牧工場では米軍機のオーバーホールから始まり、固定翼ではF-86F, F-104J/DJ, F-4EJ, T-2の自衛隊機生産やYS-11,MU-2の国産機の生産のほか、シコルスキー社製の回転翼機も生産をし、それぞれの定期修理も請け負っている多忙な工場であった。
 その工場は立地条件から北側を流れる大山川沿いに機体整備用エプロンが設けられており、外部から容易に観察できる環境が1960年台後半まで続いた。

 民間機、自衛隊機、米空軍機を問わず、航法訓練、離着陸訓練に飛来する機種は多岐にわたり、観察する楽しみが増していた。やがて騒音問題や政治絡みで縮小していく事になる。
 一方で、定期路線の少ない割に余剰エプロンを保有する民間エリアではしばしば外国籍機の駐機場や羽田、伊丹のダイバード機受入れ飛行場として運用されていく。

 これらの背景で故森脇氏は主に三菱から出てくる新造機の撮影記録に力点を置かれていた様で、膨大な撮影コマ数を残された。これらを訳あって預かった経緯で、画像化した中からいくつかを随時紹介させていただく。尚経年劣化を経ており見苦しい状態の画像も混在するが、記録重視の観点からご容赦願いたい。又現物は各務原航空宇宙博物館へ収蔵保管中。

2020/10/24              

 Nagoya Aviation Historical Society
 丹羽八十

 


目次

1, 周辺状況

2,  民間機
    その1 森脇さんが捉えた民間籍ヘリコプター紹介
         レシプロエンジンヘリコプター
         タービンエンジンヘリコプター
 
    その2 民間固定翼機
         単発民間機
         双発民間機
   その3 国内エアライン
    

3,外国籍民間機

4,外国籍軍用機


2, 周辺状況
 森脇さん撮影画像から当時の空港周辺を紹介します。

 63年W-1誘導路付近からPTB(空港ビル)を眺めた写真。
 中日本航空ハンガーの南に位置している中日新聞社ハンガーは後に北側へ移設される。


 3代目の管制塔も含め64年拡張された名古屋空港ビルの完成当時の様子。
屋上や2階テラスからの撮影が出来た。


 空港ビル屋上から北を見ると定期便のバイカウントや余剰DC-3が駐機しているのが判る。さらにその奥は中日本航空のエプロン


 ビルから正面を見ると第3航空団が観察でき、そのエプロンには多数のF-86DやT-33Aが居る。左端には米軍の遺物GCAが見える。


 南に目を転じると着陸進入機と離陸順番を待つ機体がW-1誘導路へ向け移動する様子が判る。


 63年8月完成した中日本ハンガーの表記が「中田本航空」とされたが、後に「中日本航空」へ書き直された。


 空港北側を東西に流れる大山川左岸堤防から南西に目を向けるとMHI(三菱重工)の航空機の修理・生産工場を眺める事が出来た。
 63年8月時点ではハンガーの建設工事中だった。


 MHIエプロンに目を転じると63年9月時点では新造F-104Jに混じって米空軍のオリジナル塗装のF-102Aが整備を受けている。


 MHI工場周辺には旧官舎か社宅が点在していた。その狭い道路を名古屋駅から空港まで名鉄のボンネットバスが縫うように走っていた事が思い出される。


 小牧基地の一角にハンガーを設けていた「愛知県警航空隊」はJA7316, Kawasaki .Bell 47G-2 1機で運用していた。




3, 民間航空機

その1 森脇さんが捉えた民間籍ヘリコプターを紹介する。


まずはレシプロ機から

 新日本ヘリコプタ―が中部電力と書いたJA7038, K. Bell 47G-2を運用していた。


 全日空はJA7055, S-55Cを運用していた。
 背景に映るバラックは駐留米軍時代の遺物で撤去までに数年かかった。


 MHI所属のJA7068, S-55Cは同社が手掛けた名古屋市内、東山動物園のモノレール完成を知らせる懸垂幕でアッピール。


 現JCG、海上保安庁が使用していたJA7155, S-55Cで4機所有したが唯一MHI製だった機体。点検に飛来した時の試験飛行中と思われる。


 地元放送局CBCのロゴを付け、取材に活用していた朝日ヘリコプター所属のJA7301, Bell 47G


 駐機中のNAS(中日本航空)所属のJA7366, K. Bell 47G3B-KH4



次にタービンエンジンヘリコプター

 富士航空から合併後の日本国内航空所属時代のJA9000, S-62AはMHIで整備を受けにしばしば飛来していた。


 JA9002, S.E.3130アルウェットIIは「三ツ矢航空」から「東邦航空」と名を改め、NHKの取材ヘリとして飛来していた。


 NASはJA9005, S-62AをMHIから購入し、運用していた。


 朝日ヘリコプターが所有したJA9017, Bell 204Bが見られるようになり、他社の同型機も飛来し始めた。


 名古屋市消防が使用したJA9093, SA316Bは永年奉公した後、各務ヶ原航空宇宙博物館エントランス前庭に野ざらし後、撤去された。


 JCGが採用したJA9156, S-62AはMHIエプロン外のコンパスチェックエリアで調整を受けている。後に成田空港に展示されていた。


 KHI(川崎重工)で生産されたJA9501, KV107IIが民間エプロンで駐機している様子。雨降りにもかかわらず森脇さんの日々、熱心な観察が判る一枚。


 今は無きM(Mike)ヘリパッドはMHI専用だった。そこで離陸準備中のJA9506, S-61Nは後に米国へ移籍していった。背景にはPTBが見られる。


 同じく国内では短命に終わった西日本空輸所属のJA9507, S-61N


 中部日本新聞社(現 中日新聞社)が所有していた2機種の編隊飛行を65年9月12日の空港祭(毎年、空の日に近い日曜日に民間エプロンを開放していた)で披露しているJA7051, K. Bell 47JとJA7383, K Bell 47G3B-KH4


この他にJAレジのHeughs 269撮影画像もあるが不鮮明なので省略する。


民間航空機 その2 単発民間機編 へ続く

  フィルム提供者  : 森脇比佐
  参考使用フィルム  : Fuji Neopan SS
   使用フィルムスキャナー  : Nikon Super Coolscan 5000
  使用画像ソフト     : Adobe Photoshop

  編集者      : 丹羽八十 /  Yaso Niwa, President & Chief Planning Officer
                   Nagoya Aviation Historical Society

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