航空人生録・論文 | 掲載23/07/11 更新23/08/28 |
「富士航空〜東亜国内航空 藤村秀雄のファミリーヒストリー」
釜谷 明 / 編集・補足 イガテック
釜谷 明さんからお父様のアルバム写真を多数お送りいただきました。
ヒコーキ雲で富士航空のCV240の写真を見つけ懐かしいということでお父様の現役時代の写真や思い出の文面をお送りいただきました。 ヒコーキ以外の写真もありますが、飛行機のパイロットをしていた父親 藤村秀雄とのファミリーヒストリーとして見て頂けたらと思います。
写真は富士航空から日本国内航空までですが、父の後輩の思い出などとあわせて パイロットの父や家族の苦労や思いも綴られ、パイロットの方が大変な仕事を担ってくれていることがわかる物語です。
この記事を見て何か感じて頂けたらと思います。 (イガテック)
富士航空〜東亜国内航空
藤村秀雄のファミリーヒストリー釜谷 明
父は大正13年樺太生まれ、太平洋戦争直前にパイロット養成所に入り、陸軍航空隊に入りそのまま戦争へ。
特攻隊の偵察機として出撃を待ちながら終戦を迎え、四年のシベリア抑留の後、舞鶴港から元いた東京へと戻りました。
昭和31年に結婚、私が33年に生まれ、その直後、ローカルの小さな航空会社に入りました。 富士航空です。 鹿児島と新潟から離島便などを飛んでいましたので転勤が多く、生活も大変でした。
その後三社合併で日本国内航空となり、東亜国内航空からJASへと会社が変って行きました。 パイロット引退はJASの時、ラストフライトは北海道でした。
小さいころは飛行場のすぐ近くに住み、飛行機を毎日目にし、時にはジャンプシートに乗せてもらう生活の私にとって、父と同じくらい飛行機は親しみ深いものです。 ビーチクラフトもコンベアも本当に毎日目にし、自宅の上を飛び交っていた飛行機です。
1,富士航空 時代
撮影1959 JA5028 ビーチクラフト C18S
操縦席に座っているのが 父 藤村秀雄です。
撮影1959 JA5028 ビーチクラフト C18S
左から両津市役所広報課長、両津市長、一人おいて河崎氏、一人おいて建築課長、藤村秀雄
(注: 新潟県佐渡空港での撮影と思われます。2004年両津市は佐渡市に吸収合併しています。(編) )
撮影1960 JA5028 ビーチクラフト C18S
鹿児島空港での家族写真 左から母、本人(釜谷明さん)、父 藤村秀雄
撮影1961年10月 鹿児島空港 航空記念行事
同上 JA5028 ビーチクラフト C18S
同上 左から JA5028 C18S、JA5021 PA-23、JA6159 DH114-1B
同上 編隊飛行
同上 JA6159 De Havilland DH114-1B
同上 JA5021 PIPER PA-23から JA5028 C18Sを撮影
同上 JA5042 BEECHCRAFT E50 朝日新聞 朝雲
撮影1961年 JA5068 コンベア240-14 北日本航空
撮影1961年12月03日 JA5096 CV-240 富士航空 初号機
富士航空 CV-240 1号機鹿児島へ
右下に写り込んでいる女の子が釜谷明さんです。
同上
撮影1961年 JA5096 CV-240 前脚下
釜谷明さんです。
同上1962年 JA5028 ビーチクラフト C18S
左 父と同僚
撮影1962年 JA6159 De Havilland DH114-1B
鹿児島空港にて
撮影1962年 JA5021 PA-23
撮影1962年05月25日 JA6159 De Havilland DH114-1B
佐渡線開通? 宣伝写真の撮影 モデルさんと父(右端)
(佐渡線について調べたが記録は出てきませんでしたので詳細不明(編) )
撮影1962年夏 JA6159 De Havilland DH114-1B
父とCA
2,日本国内航空 時代
撮影1964年 JA6159 De Havilland DH114-1B
CA井出さん、栃木さん
撮影1964年 JA6159 De Havilland DH114-1B
鹿児島空港 CAと父
撮影1964年 JA6159 De Havilland DH114-1B
撮影1965年 JA8612 YS-11 聖火
撮影1965年 JA8640 YS-11 真珠
新 3,東亜国内航空時代
東亜国内航空で定年(60歳)を迎えラストフライトを行いました。
新 撮影1984年9月 JA8768 りくちゅう コックピット
新 撮影1984年9月 JA8768 りくちゅう 降機
新 撮影1984年9月 JA8768 りくちゅう 同僚と記念撮影
新 撮影1984年9月 JA8768 りくちゅう
4,高濱機長の思い出
撮影時期不明(1961年〜1964年の間) JA5096 CV-240
富士航空時代の会社の全パイロットとCA(当時はデス、と呼ばれていた)勢ぞろいのショットです。
この写真前列、右から三番目のパイロット、高濱機長です。 ご存じ日航ジャンボで御巣鷹山に墜落した時の高濱機長です。
高濱さんは富士航空時代からの父の後輩パイロットでした。 のちに日航へ出向となり、あの事故に遭われたのです。
高濱さんは九州の大きなお寺のご子息で、CAである淑子さんとの結婚を猛烈に反対され、実家から絶縁されてのご結婚だったそうです。 披露宴に誰も出席してもらえないので、私の父と母が兄夫婦という形で出席しました。
高濱さんは父をいつもアニキアニキと呼んでいて、新婚旅行から帰ってすぐ神奈川県海老名市の我が家に遊びにこられたのを懐かしく思い出します。 私は父と高濱さんが飲みながらよもやま話に花を咲かせている間、新婦の淑子さんと裏山へ散歩に出かけました。 すらり、としたとてもやさしくてエレガントな女性でした。
あの事故で一番辛い思いをされたのは機長のご家族だったのではと思います。 夜のテレビで事故のニュースが流れた時 私はちょうど初めての子供がお腹におり8か月でした。 父は仕事から帰宅すると事故の一報を聞き、すぐに会社にとんぼ返りでした。 当時父は乗員訓練所の首席教官をしており、事故があると必ず呼び出されておりました。
ジャンボの事故は自社の事故ではないとは言え、弟分の機の事故という事で我が家も騒然でした。 母は「あかりちゃん、
どうしよう、高濱さんよ!」と絶叫でした。
だいぶ後になってからNHKの特集番組でボイスレコーダーが公開され、高濱機長の最期の声を聴いたときは家族全員で泣きました。 多くの人の命を乗せて飛ぶ、ということの重さを改めて感じた瞬間でした。
あの事故についてはいろいろと検証や噂があり、いまだに本当の事故原因は?。
諸々を乗り越えてCAの道を選んだ高濱キャプテンのお嬢様には感服します。
子供の頃、「お父さんは沢山の人の命を預かって飛んでいるのだから、家に帰ったら体も心もすっかりと休ませて上げなければいけないの。 だから家でお父さんが白いものをたとえ黒いと言おうと逆らってはいけません」と母からうるさく言われて育ちました。
母は正しかったと思います。 おかげさまで父は一度も事故を起こすことなくラストフライトの日を迎えることができたのですから。
4,最後に
このサイトで一度も見ることが無かった富士航空のロゴのコンベアを見ることができました! 富士航空の頃は私は赤ん坊だったので全く覚えがありません。 そして一番慣れ親しんだ日本国内航空のコンベアにも写真で再会することができました。 この記録は一生の宝として保存させていただきます。阿波や十勝などの名前も懐かしく思い出しました。
父は2005年に他界し、母も亡くなったのでこのような想い出を分かち合う人はもうおりませんが、この記録を見つけたことでどれだけ幸せを感じられたか、本当にありがとうございます。 他の記録もこれから読ませていただこうと思っております。
編集後記
記事内で鹿児島空港と書かれているものは旧鹿児島空港 鴨池空港のことです。
掲載機体経歴等は下記リンクを参照願います。
JA5028 ビーチクラフト C18S 富士航空時代 リンク
JA5021 PIPER PA-23 リンク
JA6159 De Havilland DH114-1B リンク
JA5042 BEECHCRAFT E50 朝日新聞 朝雲 リンク
JA5068 コンベア CV-240-14 北日本航空 リンク
JA5096 コンベア CV-240-26 リンク
JA8612 YS-11 聖火 リンク
JA8640 YS-11 真珠 リンク
新JA8768 YS-11 りくちゅう リンク
編集掲載日 : 2023年07月10日
WEB編集 : イガテック
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