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航空歴史館
《追悼》 飛行機マニア界の巨星逝く 下郷松郎さんを悼む
佐伯邦昭 PAPPY 戸田保紀 赤塚 薫 はねぶた geta-o 古谷眞之助 高田和彦 高尾 眞
名古屋の下郷松郎さんが2010年5月14日にお亡くなりになりました。
下郷さんの飛行機マニア界における業績については、少なくとも航空情報や航空ファンを手にしたことのある人には申し上げる必要がないほど大きなものであり、その大きな財産を全国のマニアに与えた上で旅立っていかれました。
下郷さんは戦後日本の空を飛んだすべての航空機を記録して世に残すことを終生の目的とされ、それがCD版「戦後日本の航空機の記録」として結実し、病を押しながら最近まで改訂を重ねてこられました。CDに添付されたメモの一例を掲げておきます。
右上の自筆部分に彼の真骨頂が現われています。「事実に基づいて改訂」とあるように、彼は、自分の目で現場や写真を確かめてからでないと雑誌記事や友人からの指摘を鵜呑みにする行動には絶対に出ませんでした。国産旅客機YS-11の全機を克明に追ったリストが他の追従を許さないのがその典型です。
思えば、私と下郷さんの付き合いは、古く広島航空クラブ時代にさかのぼります。1963年頃からZ01やZ02に記しているように、幼稚な編集の広島航空クラブニュースによく付き合っていただきました。その頃に彼が送ってきた多数の写真の中から2枚ほど紹介しておきます。
裏面の右下隅に書かれたデータ
キャビネ判に丁寧に焼き付けた画面からは、アングルや色調から下郷さんの写真だとすぐに分かるのですが、裏面のメモにより何十年後においてその価値がますます深まってきます。その独特の書体も、皆さんにおなじみだと思います。そして写真に添えられた手紙や、岩国三軍の途次、広島に立ち寄ってご教示をいただいたことが、ヒコーキ音痴の私がなんとかここまで来れた原動力の一つです。
Z02に書いているように、1960年代後半には、各地にマニアの機関誌が生まれました。
名古屋においてもなごや航空マニアクラブがつくられ、ご覧のような機関誌が発行されました。もちろん下郷さんが主体であり、森脇啓忠さんととともに 、当時の小牧の飛来機状況はもちろんのこと、三菱でのYS-11とMU-2の製造と改造記録を克明に追っています。YS-11に至っては各社塗装の色見本が添付されているという、専門雑誌でもとても及ばない編集で、なんと緻密な頭と行動力(財力も)をもった人たちなのだろうと、広島の地から驚きの声をあげていたものです。
残念というか、当然というか、クラブも会報もいつのまにか消滅してしまいましたが、下郷さんのYS-11追求その他の業績の土台になっていることは確かだと思います。
CD版「戦後日本の航空機の記録」は、或いはご自身の死期を予測されての集大成として手掛けられたものと思います。
私がお会いしたのは、去年の夏に広島空港へターボDC-3が寄った時が最後になりました。その際、広島から発行されているJAHSの機関誌CONTRAILの編集を(好意で)痛烈に批判され、私に是正を求められました。しかし、私は今はCONTRAIL編集に全くタッチしていないので、如何ともしがたいのが申し訳ないです。
また、去年、広島の某マニアが、下郷さんのスクープ写真を雑誌に無断で売りつけた事件があり、病床の彼をひどく怒らせてしまいました。某マニアが詫びを入れて落着したと思うのですが、当地に対して悪い印象を持たれたままかどうか心残りです。
まあ、そういうことはともかく、冒頭で申し上げたように、下郷さんは、大きな大きな財産を全国のマニアに与えた上で旅立っていかれたのです。
巨星逝く! 残された我々はその財産を守り発展させなければならないと思う次第です。そしていずれは後を追っていきます。
下郷松郎さん ありがとうございました。 佐伯邦昭
追悼 PAPPY
昨日の更新を拝見し下郷さんのご逝去を知りました。広島航空クラブや昔の航空情報でお名前は存じ上げておりましたが、飛行機マニアの頂点に立たれる大先輩の死に残念至極です。
昨年9月6日、CHECKER TAIL4の出版記念会に出席する機会があり、初めてお目にかかりました。赤塚薫氏からの指名で昔の話を楽しそうに手振りを交え話されていたのが印象的です。
この後じきに入院されたのでしょうか。ご冥福をお祈りいたします。
追悼 戸田保紀
昨年9月にチェッカーテール 4 の出版記念会でお目にかかりましたが、来週手術だと言っておられて、ご病気はたいへんだというのはわかりましたが、こんなに早くお亡くなりになられるとは、全く予想外のことです。
私は1959年に東京の学校に入りましたので、文通をしていた福井正夫さんと一緒に東京スカイフォトサークルという、飛行機写真マニアのクラブを発足させました。
その時名古屋で活躍されていた下郷さんには是非入会して頂きたいと、お誘いをしたところ快諾されて、以後名古屋の情報などを送って頂きました。
1959年9月の伊勢湾台風では、名古屋は大きな被害を受けましたが、下郷さんはこの復興に働くヘリコプターの姿を、名古屋城近くの特設ヘリポートなどで撮影され、航空ファンにもその写真が掲載されました。
アルバイトをしていた航空ファンが、1959年12月小牧基地でF-86D セイバーの部隊の取材をすることになり、私が行かせてもらうことになりました。たまたま11月の終わり頃、厚木基地の桜ヶ丘側の撮影ポイントで着陸を待っていたのですが、ウイークデーなのにさっぱりフライトが無く、もう帰ろうかなと思っているところに、一人のマニアがやってきました。
何とこの方が下郷さんで、初対面のご挨拶をさせて頂きました。この日はサンクスギビングデー と言うことで、フライトはない日だとわかったのは大分後のことでした。着陸を待ちながら、今度名古屋に行くことになりました、とお話しをしたところ、うちにいらっしゃいと言うことになり、小牧取材と次の日の基地の外周からの撮影の二日間、下郷さんのお宅に泊めて頂きました。
その後の下郷さんのご活躍はご存じの方も多いでしょうから省かせて頂きますが、昨年の9月6日、チェッカーテール 4の出版記念会でお会いすることが出来たのは、幸いでした。
私が下郷さんと一緒に写っている写真は、1964年11月3日 入間基地で行われた航空自衛隊 創立10周年記念の催しの時です。私が23歳ですから、下郷さんは27歳の時だと思います。
もう一枚は上記の出版記念会の時に撮らせて頂いた写真です。
毎年頂く年賀状では、ご自分が撮られた写真にコメントを添えて送って頂きましたが、 日本国内ばかりではなく、海外の基地やショーに行かれて、精力的に撮影をされておりました。
早くに引退同然となったこちらと比べて、なんとすごい方だといつも驚嘆をしていましたが、下郷さんのお世話になったマニアも数多くいると思います。是非どなたかあとを引き継いで下郷さんの遺産を発展させて欲しいと思っています。
下郷さん、長い間お世話になり、大変ありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。
追悼 赤塚 薫
下郷さんは、私が少年マニアのころから憧れの存在でした。
カメラの持てなかった時代は、航空情報・読者投稿の「私のアルバムから」に入選された下郷さんの写真を穴の空くほど見つめ、カメラを手にして何とか飛行場に通えるようになってからは、文通、写真交換と、大変お世話になりました。
下郷さんと初めてお会いしたのは1963年の9月13日、先輩マニアのMさんと初の伊丹・小牧遠征のときです。
小牧に展開するために名古屋の駅で待ち合わせたのですが、初めてお会いした開口一番、「君たちツイてるね。MU−2の初飛行は明日だよ」と、嬉しそうに肩を叩いてくれたことを今でも鮮明に覚えております。
名古屋のご自宅に泊めていただき、基地、空港周辺案内ほか全て段取りをしてもらい何とかMU−2の初飛行を撮影できました。撮影1963/09/14
チェッカーテイル・シリーズ出版の際にも快くご協力下さり、あの名作「離陸するカットラス」のネガまで貸していただき、本当に感謝しております。
複写 佐伯
チェッカーテイル4の出版記念会には、この会だけに出席するため名古屋からお見えになり、個人としても、幹事としてもとても嬉しかったです。
今後は、下郷さんと親しかった方々が、残された貴重な写真や研究資料を、後世の人たちへきちんと残すことが大切なことだと思います。
下郷さんありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。2010/05/21日替わりメモ
○ 続 ヒコーキマニア人生録・図書室 《 追悼》 飛行機マニア界の巨星逝く 下郷松郎さんを悼む
赤塚さんから追悼の文を頂きました。 冒頭「下郷さんは、私が少年マニアのころから憧れの存在でした。カメラの持てなかった時代は、航空情報・読者投稿の「私のアルバムから」に入選された下郷さんの写真を穴の空くほど見つめ、」とあります。
航空情報を探してみました。一例を紹介しておきましょう。
1958年7月号 私のアルバムから 特選
故関川編集長の筆と思われる選評文が抜群です。そういえば下郷さんの姿がいつ見てもさわやかなメロディを奏でているようでした。脚立を抱えて走り回る猛烈マニアは、有刺鉄線を五線譜に変えてしまうこのおおらかさを学んでほしいものです。それにしても、スーパーフジカ6、フジナー75mm ネオパンSSなんて、特選の賞品に何を貰ったのか、下郷さんは今頃苦笑しているでしょうね。
追悼 はねぶた
US-1A改の初飛行がずるずると延びていた頃、新明和の対岸で撮影待機していた時に、3人ほどでやって来た年配の方に声をかけられ少し話をしたのですが、同行の方から「(エアワールド社の)YS本の著者」と伺い驚いたことを覚えています。
残念なのは、当時どのような方か知らなかったために色々聞き逃し、また自己紹介もしそこなったことです。
お話しとYSの本から相当な大先輩マニアであることは明白でしたが、どれほどの活動をされていたのか私が知ったのはそれより後のことでした。
御冥福をお祈りするとともに、遺された資料がまとまった形で保管されるよう願って止みません。
追悼 geta-o geta−o
名古屋の大先輩下郷氏がお亡くなりになり、つい最近まで成田で写真を一緒に撮っていたのにと感慨にふけっております。
何か追悼の写真はないかと探しましたがこんな一枚を見つけました。
1963年10月20日に当時の名古屋空港にて開催された航空ショー(名前は忘れました)で展示用にエプロンにトーイングされるYS-11の1号機の前にどっかりと腰をすえて写真を撮っているのが若き日の下郷氏です。
下郷氏はYS-11の記録をライフワークとしていましたのでこれにしました。
追悼 中国航空協会会員 古谷眞之助
あの膨大な資料を作成された下郷さんがお亡くなりになったと聞き驚いています。私は氏とは面識はありませんが、三度メールをいただき、長い手紙を書いたことがあります。丁寧な方で、あれだけの「仕事」をされておられながら、少しも奢ることのない態度、真摯な姿勢に感服していました。
きっかけは、グライダー専門誌「ターンポイント12」に氏の「戦後日本の航空機の記録」のうちグライダーのリストが掲載されたことでした。その中に以前私が調べた「安芸津中学校のグライダー」が出ており、その製作会社名が私の調査と異なっており、その他中国航空協会関連の機体についてTP編集長瀬尾氏に指摘したところ、氏より私宛にメールが飛び込んできました。間違いを教えて欲しいと。それで長い手紙を書きました。しばらくして、あのCDが届きました。
膨大なリストと写真に圧倒されました。下郷さんの名前は航空雑誌などで承知していましたが、このような地道な「仕事」をされているとは露知らず、正直にため息ばかりが出たものです。
送られてきたのは09/9/11。すでに私の指摘した部分は訂正済みでした。もちろんいただいたメールには、「航空局での原簿調査を行いまして、ご指摘のグライダー各機についての、JA登録リストの修正を加えました」とあり、しっかりと原簿に当たられて確認された上での修正でした。
加えて、私が調査を続けている山口県の航空史についてもアドバイスをいただきました。資料は英文のもので、いかに広範囲に勉強されておられたかがうかがい知れました。戦後山口県で始めて飛んだ国産航空機、巴式ろ-3型JA0005G041についてもコメントをいただき、感激でした。
氏の労作「戦後日本の航空機の記録」を何らかの形で世に出す方法はないものでしょうか。特定の個人だけが保有するには、あまりにもったいない話だと思います。
合掌
2014/10/23 高尾 眞さんの手紙から 下郷松郎さんを想う
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2014/05/14 5回忌に当たり下郷松郎さん作製のソリッドモデルで偲びます 三菱重工業史料館 撮影大藪 提供三点クラブ高田和彦
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