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航空歴史館 掲載20/08/24

 

《追悼》  Shadowさんを偲ぶ

佐伯邦昭

 

  上の写真は、T-1Bの最終IRANを終えた35-5866が富士重工宇都宮製作所から浜松へ帰投するニュースのトップ画面です。富士T-1A/B研究のテーマイラストは、この時に随伴した35-5854のインメルマンターン前の航跡を図案化したものです。下の写真は、インターネット航空雑誌ヒコーキ雲が15万ヒットを記録した時に、下総の新年飛行初めで撮ったP-3Cの編隊飛行による記念画像です。  富士T-1A/B研究のテーマイラストは、この時に随伴した35-5854のインメルマンターン前の航跡を図案化したものです。
  いずれも、亡きShadowさんが送ってくれました。これによってヒコーキ雲の声価がぐんとアップしたは当然です。
 Shadowさんに初めて会ったのは、全日空グループの超割を利用して成田へ飛んだ時でフェアリンクのCRJで成田へ降りてみると何とYS45さんと共に出迎えてくれたのでした。彼らの案内で航空科学博物館を訪れ、一応の写真を撮り終えたところで、二人が職員専用ドアを指して「出てみますか」というので恐る恐る裏へ出てみると、同館恒例の土曜日オープンハウスの開催中でした。無断潜入でしたが、金澤さんほかボランティアの皆さんに叱られることもなく、以後、ここの資料をヒコーキ雲に数多く紹介することになるきっかけになりました。
 また、出張で広島市の東京会館に泊まっていたら、Shadowさんが「明日は時間が取れますか」と電話してきてOKを出したら、日暮里まで車で迎えに来てくれて、松戸駐屯地、下総航空基地、霞ケ浦駐屯地、市川市の大慶園などを回ってくれたのです。それが千葉県の展示保存機総覧の充実にどれほど役立ったことか。

心残りのある零戦の修復作業写真
 最後の彼との行動は、呉零の修復作業に内緒で連れて行ってくれたときでした。所沢市の木村・徳田両中尉墜落地点碑のある霊園のすぐ近くの名称看板もない町工場でした。呉市が厳重に隠し通している修復場所です。行ってみて、呉市が隠す理由の一端が理解できました。20坪くらいの小屋の中で零戦が組み立てられて嵐山での工作部分など修復され、スピンナーや羽布(ビニール)やタブなどが新造されていました。見た限りにおいては、事前に綿密に検討して詳細な作業図面を調整した形跡はなく、多くは個々の職工さんの腕に頼っての作業に見えました。8千万円の予算から受託者が中抜きして町工場には半分しか渡されなかったので手抜きされたとの噂が真実味をおびますが、そのあたりの経緯は、大和ミュージアムに関する疑義を参照してください。
 Shadowさんがここを知っていたのは、確か日大芸術学部写真科出身で、しかも木村秀政教授の講義も受講していたとかで、その両道の知識から記録撮影を頼まれていたようでした。ですから、呉市が航空雑誌社にも完全秘匿していた中で作業を見ることができたのは彼と私くらいでのものしょう。もちろん写真も写しましたが、Shadowさんから発表を禁じられたままです。Shadowさん撮影の記録も知る限りでは未だ公開されていません。大和ミュージアム側が学術的検討もない適当な工程が世に暴露されるのを恐れているためだろうと私は推測しています。
 Shadowさんの訃報を知ったのは、数日前のことです。今のところ逝去時期も病名も分かっていません。海上自衛隊退官後、行政書士事務所を開設された御父上を手伝って自衛隊基地などに出入りしているというメールを貰ったのが最後のような気がしますが、それ以後連絡が途絶えていました。
 私よりもはるかに若い人の死を知るのは実に切なく、悲しみに耐えません。同時に、呉零をはじめとする膨大な写真がどうなっているのか心配でもあり、どなたかの手によって整理公開されないものかと、それが、彼の供養にもなるのではないかと、誠に勝手ながらご冥福を祈りながら願っております。