A6418 広島県
広島市東区 鶴羽根神社
A3521 千葉県 習志野市 山縣飛行士殉空乃地碑
The man who made loop the loop successful for the first time in Japan.
The genius pilot Toyotaro Yamagata
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1 鶴羽根神社山縣豊太郎飛行士の像 撮影2002/01/09 佐伯邦昭
この像が建立されている鶴羽根神社(広島市東区二葉里)の名称は、明治元年広島藩主の命名によります。その当時の広島には鶴がたくさん舞い降りており、鶴見町とか鶴見橋などという名も残っているところから、神社名もそのあたりの由来によるものと思われます。
広島市出身の山縣飛行士が愛機を鶴羽1号、鶴羽2号と命名したのは、優雅に空中を飛翔する鶴にあやかり、氏神様の守護を祈念したいという気持からだったでしょうか。
亡くなった妹の名前にちなんだという説もあります。(薄田太郎:續がんす横丁)
銅像は山縣飛行士の没後1年目の1921(大正10)年に建立されました。
広島市出身の彫刻家山田直次氏の政策です。長く市民の誇りでしたが、戦時中に供出され、訪れる人もない荒れた台座のみとなっていました。しかし2001年に有志の努力で、再び立派な等身大の石像がつくられたのです。
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2 山縣飛行士殉空乃地碑
撮影2003/04/07 小規模板工房
山縣豊太郎飛行士が恵美号の空中分解により墜落死した地点に、恩師の伊藤音次郎氏が没後20年に建立しました。高さ2mほどの石碑で、津田沼の高台に広がる畑の真ん中にあり、遠くの幕張のビル街を見守っているように見えます。碑の前にはスイセンが植えられ、地元の人にも大事にされているようです。市役所が付近の土地に建築規制をかけていると聞きました。
戸別詳細図には、すぐ近くの袖ヶ浦5丁目にある袖ヶ浦第2号児童遊園が旧伊藤飛行機研究所滑走路跡と書いてあります。
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更碑文のみ撮影2020/05/01
YS45 |
碑 文
山縣豊太郎君は 明治32年9月百太郎氏の三男として広島に生まれ 資性温健謙譲 然も豪毅果断16歳志を立てて東京に出 叔父鳥飼繁三郎氏に寄り 身を航空界に投ず 大正4年2月伊藤飛行機研究所創設されるや所長伊藤音次郎氏に師事して飛行機の操縦及び製作を習得し 大正6年第1回卒業生首席として飛行士免状を授与せらる
爾来技愈々熟し 出藍の誉高く 東京大阪間最初の郵便飛行 同区間周航の630哩飛行等の競技に優勝し 又民間最初の曲技飛行家としてその天才的技量を発揮し 後輩を指導して多数の優秀な飛行士を養成す
大正9年8月29日の曲技飛行中空中分解の為愛機恵美号とともに玉砕す 我が航空界の第一人者として称賛を受けたる君は航空界に幾多の大功績を残して遂に逝けり 享年僅23官民間人今猶ほ惜しまざるはなし 建碑に当って其昔を偲ぶ
嗚呼
昭和15年8月29日 男爵奈良原三次
紀元二千六百年八月二十九日 伊藤音次郎建立
1969年 没後50年祭を挙行 向かって左は伊藤音次郎氏、右は豊太郎の実弟山縣直次氏
伊藤音次郎氏についてはA3522-7参照
雑草も無くよく手入れが届いていると不思議に思い、ふと碑の脇に乗せられたファイルを見ますと。これは師である伊藤音次郎氏の末子の井上和子さんがこの町内に住んでおられ、おそらく書いて置かれたのだろうと想像する文面でした。天より伊藤氏と山懸氏が見て微笑まれていることでしょう。
新 撮影 2020/05/01 YS45
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3 ブロマイド 提供神奈川県吉田様
愛媛県今治市に住んでいた方の遺品にあった未使用の絵葉書です。同じアルバムの中に大正9年2月11日市制施行記念というスタンプの絵葉書がはさんであるそうなので、山縣飛行士が大活躍していた時期に発行されたものではないかと想像されます。鶴羽2号の大変めずらしい写真です。
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4 伊藤音次郎作 鶴羽2号の模型 所有:広島市南区京橋町山縣直次様 撮影2003/02 佐伯邦昭
伊藤氏はこの50年祭にあたり、民間飛行士としてはじめて宙返りに成功した鶴羽2号の模型を100機自作して出席者に配りました
。模型は、縦横10cmくらいの小さな無骨な木製ですが、翼型もノーム50馬力エンジンのシリンダーなども丁寧に工作され、伊藤飛行機研究所所長として機体製作と操縦訓練を行ったころの開拓精神を想起しながら1機1機つくられたことが伺えます。鶴のデザインと機体の塗色も確実な資料として残ることになりました。
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5 薄田太郎氏による
広島西練兵場での鶴羽号の宙返り飛行の思い出 1919年
中国新聞SELECT 2017/04/16付け がんす横丁復刻
* 半身銅像とありますが、全身の記憶違いと思われます
福井芳郎画伯の挿絵
中国新聞SELECT 2019/12/15付け がんす横丁復刻
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6 参考 山縣豊太郎没後の記録
◎ 東京青山斎場の告別式に数百人参列
◎ 広島市慈仙寺の本葬に3千人の会葬者
◎ 航空局が遺族特別弔慰金5千円を交付
◎ 没後に帝国飛行協会が飛行士奨励規則を制定し、さかのぼって奨励金半額500円を交付
◎ 航空局が航空奨励規則を制定し、山縣飛行士遭難機の伊藤飛行機研究所ゴルハム式複葉機に対して7千円を交付
◎ 慈仙寺に伊藤式恵美号のプロペラを保存 原爆で焼失
◎ 広島市立段原尋常小学校にプロペラ(機種不明)を保存 原爆で焼失
◎ 鶴羽根神社に銅像建立 金属回収により供出
◎ 中正夫氏の執筆による記録集「第二征空史」を刊行
◎ 当時最大級のリバティ450馬力伊藤式22号を「山縣記念号」と命名
◎ 金属回収令により銅像部分を供出
◎ 2001年 台座上に新しい銅像を設置
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7 神話時代の日本機(一) つるはね号 中 正夫
Mach AHub機関誌 AOZORA No.9.10 1954年10月1日発行より 提供大野芳希
1960年版航空年鑑の名簿より
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