手記
1999年10月
防衛装備保存振興協会 理事 冨永泰史
私の朋友の守屋 登君が亡くなって3年半が経過いたしました。
彼は1970年航空自衛隊から全日空に入社、勤務の傍らT−6を米軍からの払い下げで入手してライフワークとして、これを復元してリノのT−6のレースにでる夢を持っていた。従って彼の新婚旅行もリノのエアーレースの見学、根っからの飛行機野郎だった。羽田勤務から仙台に転勤になったが子供さんの学校の関係で単身赴任しており、休日は専ら費用の安いウルトラライトで操縦の腕を磨きながら楽しんでいた。
1996年4月24日に三河式HA600R44L型HOME・SITEMAP・サイトマップビルト機を操縦中、ボルト切断により空中分解して墜死しました。本当に好い奴を亡くして慙愧にたえず、お通夜の時、何かあった時、飛行機のことは冨永さんに相談せよと、常日頃話していたと奥さんから聞かされ
、相談を持ちかけられました。
しかしT−6を復元して飛ばす力は無いがせめて展示機として何とかなるだろうと思い努力することを約束いたしました。米国からの引き合いもありましたが、何とか日本の博物館でと、
各地の博物館に話しましたが、何れも興味を示さず空転を続けておりました。
私は、防衛装備保存振興協会の会員になって民間の発想で会の運営の仕事を手伝って居ります。当協会は、当初航空自衛隊OBが主力で日本のスミソニアンのような博物館の設立を目標に航空宇宙科学博物館協会の名のもとに1989年に設立された
のですが、バブルの後遺症で資金のめどが付かず公益法人化を諦め、93年には名称も変更して防衛庁にターゲットを絞り、米空軍のパタアソン空軍博物館、英空軍のロイヤル
エアフォース博物館のように航空自衛隊の独自の博物館を持つべきとの提案を繰り返して働きかけておりました。その
甲斐あってか95年に予算が認められ、総額60億円がつき99年3月に航空自衛隊広報館として浜松に開館の運びとなりました。
翻って当協会の98年度の総会において、会員の老齢化と初期の目的だった広報館の完成で目的達成されたのを理由に解散の動議があり98年度末をもって解散する方向で結論がでました。 しかし協会の残余金の使途等の問題等の論議があり有意義に使う方法として、守屋機のT−6機の譲渡を受けそれを整備して、協会の顕彰事業とすることを私は理事会に提案したところ、全理事の賛同が得られました。
もっとも残余金といっても300万円たらずで、飛行機に費やす金額はせいぜい200万円、何とかこの金額で受けてくれるところは、整備学校の実習で何とか実現できないかと某航空学校にお願いしましたが、800万円以下では受けられぬとの返答に万事休す。
しかし、天は自ら助けるものを助ける、との故事の通り{立川に航空博物館を作る会}のドルニェDO−28型機の復元を手がけたボランテア団体の保存機復元協会の渋谷義夫会長に実情を説明して協力を依頼したところ、彼も航自OBで飛行機野郎、快く引き受けてくれました。問題は整備する場所だったが、幸いにも寄贈先が航自浜松広報館、その上当協会の松永貞昭代表は元中部方面航空隊司令官だったし、理事の松井滋明氏は元航空総隊司令部飛行隊司令と入間基地出身者だったのも幸いして、基地を利用する等便宜供用を得る事が出来ました。
4月の連休を利用して長野県富士見町の保管場所から搬出、全日空の同僚だった渡辺協一、石渡謙司両氏の協力を得てトラックで入間基地に搬入して準備を進めましたた。
復元機協会メンバーは、
・ 会長の渋谷義夫氏は町田市の自衛隊協力会の会長で、かつて米軍横田基地でステアマン機やパイパー機の復元を手がけたベテラン
・ 輸入自動車の修理販売業の山本達雄氏は板金,小物の製作の器用人
・ 古典機についての知識の物知り博士でステンシルの切紙作りの名人の青木秀康氏
・ 自動車会社の下請け部品メーカー勤務の渡辺峰男氏
・ 足場パイプ無償提供の工務店主の佐藤和幸氏
・ 若い時にグライダ−メ−カー出身で現在タクシー会社勤務の小山岩夫氏羽布貼りの第一人者、
・ 飛行クラブ勤務で塗装名人の進藤利朗氏、
・ ,ガソリンスタンドの定年退職者で,最後の追いこみのウイーク−デーを渋谷氏と頑張った吉田洋古氏と多士済済のメンバー、何より飛行機が好きな連中で各々が特技を持った集団でした。
各々が割り振られた仕事を休日ごとに出てきて文句を言わずに嬉々として働いている姿には頭がさがりました。特にこの機体は戦前に作られ何十回となく塗り替えられて居るのでリムーブが大変な仕事でした。1回や2回では中々塗料の剥離が出来ない、ボルト、ナットも錆びついていて、大変な苦労の多い仕事でした。
幸いなことに守屋君が復元を計画して部品、工具を買い揃えていてその整理の良さには敬服しながら、それが使用出来ておお助かりでした。また特にこの夏は異常の暑さで苦労は大変
でしたが、ほとんど雨が降らず屋外作業にも拘らず仕事は予定通り進み、塗装のカラーは米軍が使用していたFS595の13538日本のJIS Y−19Xのウレタン塗料を使用、ロゴも忠実に再現され
素晴らしい完璧の仕上がりでした。9月末には細部を除いて完了、10月10日に浜松に搬入11日に寄贈式が予定通り実施されました。
当日は、第一航空団司令兼浜松基地司令松江空将補、元航空幕僚長で日米エアーフォース友好協会会長の石塚 勳氏、協会活動を物心両面で支えてくれたパイロット〔株〕社長の坂井恒則氏,守屋未亡人、渋谷会長、当協会松永代表のテープカットがハイライト、松江司令官の感謝の言葉,や石塚氏の
ボランティアの人々に対する御礼の言葉と松永代表の答弁で寄贈式は無事終了して、司令部VIP食堂で会食、松永代表より守屋未亡人、ボランテヤに参加した方々に感謝状を授与して無事式は終了いたしました。
あんな僅かな資金で完全なまでに復元出来たことはボランテアア各位の努力の賜物と感謝の気持ちで一杯です。 当時T−6はT−6D型9機、F型11機、G型140機が米軍から貸与された、その中の1機のF型で貴重な機体です。
私はこの大任を果たせた事は無上の喜びであり、ボランテアの方々に対し心より敬意と感謝をこめてこの文を記しました。