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航空歴史館

 

自衛隊のノースアメリカンT-6/SNJテキサンの歴 史

参考  ノースアメリカンNA-16からT-6までの生産略史など 2-1

        編集エピソード

ノースアメリカン社での略史 (十分に考証していません、お気付きをお知らせください。)

1934

NA社のキンデルバーカー社長が、米陸軍向け練習機NA-16の設計製作を開始

1935/04/01

NA-16型完成 エディ アレンの操縦で初飛行 エンジンR975400HP

1935

米陸軍がBT-9として42機、BT-9Aとして40機発注 
BT=Basic Trainer エンジンR-975(400HP)

 

ロサンゼルス イングルウッドに専用工場新設 全金属製のBT-9B、BT-9D(海軍名NJ-1)を生産

1937

日本海軍が中間練習機研究のためNA-16(BT-9)を2機輸入

1939

日本海軍がNA-16をベースとする練習機を渡邊鉄工所に下命

1941/04

渡邊鉄工所が海軍二式陸上中間練習機完成 九州飛行機(渡邊)と日本飛行機を通じて150機生産  エンジン中島寿U型改

1937/02/11

引込型主脚のNA-44が初飛行

 

米陸軍がBC-1として177機発注 
 BC=Basic Combat エンジンR-1340(600HP)

米海軍がSNJ-1として16機、SNJ-2として61機発注
英空軍がHarvardとして400機発注

 

プロペラを3枚にしたBC-1を製作するも不調のため、2枚に戻してBC-1Aとする

 

米陸軍航空隊機の名称変更により、BC-1AをAT-6とする。T-6シリーズの始まり。
AT=Advanced Trainer エンジンR-1340(600HP)

1940

テキサス州ダラス近郊に工場新設 AT-6A、SNJ-3の大量生産始まる
TEXSAN (テキサス人の意) のニックネームを採用

1945まで

総生産数17067機、オーストラリア、カナダ、スクエーデンでのライセンス生産4003

1949以降

AT-6とSNJ保管機の近代化改修を開始  
T-6A〜T-6Jタイプ  SNJ-5〜SNJ-8タイプ エンジンR-1340(600HP)

三面図及び諸元 


 

 

全幅 m

全長 m

主翼面積 u

自重 kg

最高速度 km/h

巡航速度 km/h

NA-16

12.70

8.30

23.20

1281

296

272

二式陸上中間練習機

12.36

8.83

22.32

1486

282

222

T-6G SNJ-5 

12.90

8.82

23.6

1884

340

272

 

 佐

編集エピソード

2013/02/16

〇 橋本喜久男画伯でもこんな間違いを

航空情報1959年10月号69頁

                           その側面図について

            海上自衛隊機のパターン                             航空自衛隊機のパターン
  

 表題に【T-6G】とあるのに、側面図は【SNJ】を画いてしまった大きな間違いです。日の丸とアンテナ支柱を見れば一目両全です。

 恐らく海上自衛隊発行の図面(機首に支柱)に基いて作図し、航空自衛隊のT-6も同じ形だろうという思い込みがあったのではないでしょうか。 もっとも、作者はSNJのつもりで描いたのに、編集者が勝手にT-6Gと付けたのかもしれません。一般的にはSNJよりもT-6の方が通りがいいとは言えます。

 間違いは間違いです。次号以降に訂正記事もないので、当時、定評のあったコラム【自衛隊機ノート】にあるまじきミスというべきです。

 私が航空マニアの世界にのめり込むのは1962年からですが、橋本喜久男さんはもう大量の航空機図面を発表しており、図面の描き方という記事まで書いていました。しかし、当時、目の肥えたマニアからは「彼の図面は頭から信用するな」という忠告も聞こえていました。

 なるほど、こういう例を見ると多くを疑ってかからねばなりませんね。しかし、2-1に載せている各型のパターン図は、この橋本さんの側面図を加工させて頂きましたので、あまり大口は叩けないし、いろいろと確かめながらこれからも航空情報上の図面を扱っていきたいと思っています。橋本さん 失礼しました。

日替わりメモ20130215

 航空情報1959年の各冊などからノースアメリカンT-6/SNJの写真を追加しました。
 これで 空自は180機中106機 59パーセントの収録
      海自は52機中23機   44パーセントの収録 となりました。

 海自SNJに関連して大石治生さんから、とても参考になる情報を頂いています。
 1962年に日活が公開した石原裕次郎の「零戦黒雲一家」に鹿屋のSNJが零戦に扮し、You Tube「最後の丸木舟(零戦黒雲一家より)・種子島名所」http://www.youtube.com/watch?v=S4D5QaRYGSc で見ることができます。SNJ零戦だけではなく、P2V-7が米軍爆撃機に扮して南洋の島に見立てた徳之島に低空から爆弾を落とすシーンなど、第201教育航空隊などが大活躍をしているのです。

 その中の一人岡崎拓生さん(光人社NF文庫:翔べ海上自衛隊航空学生などの著者)「平和と安全ネットワーク」の中でSNJで教育を受けた模様を詳しく書いています。
http://www.jpsn.org/essay/msdf/318/
http://www.jpsn.org/essay/msdf/3160/

 1960年頃の海上自衛隊操縦学生は、まず、航空自衛隊小月基地で空自の学生と一緒にビーチクラフトT-34メンターで基礎操縦課程前期を受け、鹿屋の後期課程でSNJを使用していたとのことです。

 小月基地 (航空自衛隊の第1操縦学校分校→第11飛行教育団)が1964年に海上自衛隊に移管され、海自単独の学校になりますが、その頃の鹿屋の後期課程でやはりSNJを使っていたのかどうか不明です。

 岡崎さんも書いていますが、前輪式のメンターに馴れた体で尾輪式のテキサンに移るのは教育段階としては面白くないことですし、対潜哨戒機やヘリコプターのパイロットになるためには、前席・後席の縦列よりも、富士KM-2以降で採用されたように教官と横並びの方が都合がいいわけですから 、SNJは敬遠気味だったのではないかと想像します。

 もっとも、サイド バイ サイドだと教官の拳骨が出やすくて、下手な学生は大変です。テキサンでは後席から手が届かない代わりに操縦桿を大きく動かして学生の太もも
を叩いていたそうです。

・ 今や、 いっぱひとからげで体罰がいけないという主張が日本全土を覆っていますが、大東亜戦争帰りの気の荒い教官の暴力と暴力的叱声のお蔭で落第せずに済んだ航空学生もたくさんいたことでしょう。

・ 空に上がれば、地獄は紙一重の世界。悠長な言葉など通用しない場面が数あると思うのですが、近年はどうなんでしょうかねえ。

 

日替わりメモ20130213

〇 海上自衛隊のノースアメリカンSNJの不思議

 11日にT-6の52-0025について書きましたが、海自のSNJにも何故?と思う歴史記録があります。
 自衛隊T-6/SNJの歴史中の日本の略史表から関係分を抜き出してみます。いずれも航空情報の国内ニュースから取り上げたものです。

A 1957/08/01 海上自衛隊のSNJの訓練を第2操縦学校(宇都宮)で航空自衛隊と総合実施
B 1958/01/16 海上自衛隊のSNJ 31機を宇都宮から鹿屋航空基地に移動
T-34を2ヶ月、SNJを6ヵ月コース
C 1958/04/01 海上自衛隊SNJの老朽化により、T-34を5ヵ月、SNBを6ヵ月コースに試験変更
D 1958/07/01 海上自衛隊へ最終機引渡 SNJ-5、SNJ-6 合計52機となる
E 1968〜1970 海上自衛隊航空自衛隊が全機用途廃止

 海自がSNJの供与を受け始めたのは1954年で、当初は鹿屋で米軍から訓練を受けていたものと思われますが、1957年になってA欄のように宇都宮で空自と同じ教育を行うようにしたのは、合理的な措置だったと思われます。

 しかし、半年も立たないうちに鹿屋へ戻してしまいました(B欄)。その上、C欄のように老朽化したSNJをとりやめてメンターの初級過程からいきなりSNB(JRB ビーチクラフト18)課程へ進む試験運用を行うというのです。

 実際にそうしたのかどうかは不明で、本来SNB(JRB ビーチクラフト18)課程は岩国の担当ですから、鹿屋で実施するというのは疑わしい気もします。

 いずれにしても、海上自衛隊が中古のSNJテキサンを持て余していた気配が濃厚なのですが、D欄のように更に供与を受けて、最終的にはそれから10年以上も在籍させていた(E欄)というのも不思議です。

 海上自衛隊の全機写真集での現役時の写真はHarbyさんの1962年のものだけということで、マニアがこの古臭い単発機を相手にしなかったのか、あるいは目に触れる機会が無かったのか、まるで霧に隠れているみたいです。用途廃止になって一部がTora! Tora! Tora! の零戦に衣替えするまで、一体どこでどうしていたのでしょうかね。

 

日替わりメモ20130210

〇  臨時松島派遣隊のT-6格納庫、#025、105、112、179の写真を追加 

  防府と小月でメンターによる初級操縦訓練で合格した卵が、宇都宮、矢の目、松島の操縦学校へ入ってノースアメリカンT-6で中級課程の訓練を受けていたのが、今から55年くらい前。
 航空情報の記者が三つの学校を訪問していいレポートを1958年8月号に載せています。その中から4機の写真と松島の巨大なハンガー内を天井から写した珍しい写真を拝借しました。

 レポートの中のT-6の機数を拾い出したら次のごとし
         第2操縦学校(宇都宮)     T-6 50機 (可動率は約70%)
         第2操縦学校分校(矢の目)  T-6 60機 (可動は27機)
         臨時松島訓練隊(松島)     T-6 32機 (可動は20機)
 
宇都宮の可動機を35機とすると、平均稼働率は6割くらいか。当時の教官は日本機の稼働率の悪さを身をもって体験してきた大東亜戦争の生き残りですから、やりくりはお手のものだったでしょうな。それにしても、部品補給もままならないお古のテキサンで教育を受けていた学生は一方で幹部候補としての精神教育も受け、幸いに難関を突破した連中が、F-86Fなどで航空自衛隊の中核を形成していったのです。


・ 不思議な機体

 ところで、そのグラビアトップを飾っているこの写真、左の機体52-0025が単独飛行に向かっていますが‥
    
1956年6月に宮城県上空で52-0016と衝突して、航空自衛隊T-6による初めての犠牲者を出した機体です。遊佐さんが探し当てた平塚勝1等空尉慰霊碑のとおりです。ところが、下郷資料で用途廃止が1963年と7年後になっているので不思議に思っていたら、墜落2年後の航空情報ルポにこの明瞭な写真が載っています。

 空中衝突して墜落した機体の損傷が軽微だったのですかね。若柳町(現宮城県栗原市)の墜落現場から持ち帰って修理し、飛行可能にしたと信じるしかありません。死者が出た飛行機というのは部隊内では気味悪がるのではないかなと思ったりしますが、空自お手の物の合体メカで別機体にこのナンバーを付けたのかもしれません。      
 テキサンにまつわる話はまだまだ出てきそうです。

  文林堂は世界の傑作機にテキサンを取り上げるべきだと思います。もう、気が付いて準備に取り掛かっているかな?

 

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