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航空歴史館質問箱004 質    問13/07/13
中間報告18/03/20
中間報告18/05/15

 TO

エアスピード オックスフォードが何故新立川航空機に?
 
 
A3632-42  航空歴史館 新立川航空機株式会社  R-53 R-HM  発見の経緯など
A3632-43 航空歴史館 R-53 R-HMの取材 立飛ホールディングスの残念な姿勢
A3632-44 航空歴史館 R-53 R-HM 一般公開
このページ 航空歴史館質問箱 エアスピードオックスフォードが何故新立川航空機に?   諏訪 右さんの調査
新  大藤さんの調査
 
 
 
 

祝航空五十周年(1953年)祭の写真 発行新立川航空機株式会社  提供横川裕一  推理佐伯邦昭

オックスフォード8座旅客機なる機体  
 
 オックスフォード8座旅客機というのは、大戦中のエアスピード As10 オックスフォード練習機を戦後中型旅客機にしたものです。何かの雑誌で日本の飛行場で写された写真を見たような気もしますが、新立川航空機との関係を含めて正体不明です

 

推理1

 日本航空輸送鰍ニ大日本航空鰍フ旅客機の中にあるエアスピード エンボイ(三菱ひなづる)の写真をみて、エンジンの形状は違いますが、ひょとするとエンボイが1機残っていて、新立川が手を加えて飛ばそうとしていたのではないかなどと考えました。しかし、推理2の写真が出てくるに及んで、この仮説は崩れたと思います。


推理2

 鳳文書林刊1954年版日本飛行機全集の中にJAナンバー機に伍して堂々と載っています。

     

 航空局監修の書籍に種類飛行機、等級陸上双発として出ているのですから、日本の航空機として公認されていたとしか考えようがありません。しかし、胴体の文字はAS703(ASはAir Speedのことか?)という不思議な記号で、JAナンバーは見当たりません。おまけに、三面図には砲塔ようなものがあります。

 さすがに、まずいと気付いたのか次の1955-56年版からは消えております。

 参考までに、著名な航空史家のウイリアムグリーンが著わした1954年版のTHE OBSERVER'S BOOK OF AIRCRAFTからオックスフォードの記事と写真を付けておきます。


 とにかく、ますます分らなくなりました。

新 2018/03/20   諏訪 右さんから 諏訪

 国会図書館で新立川航空機社歴変遷史のコピー等をチェックしてみました。


・ オクスフォード・エアロンカ

 新立川航空機鰍フ生産品内訳表に、1954(昭和29)年の単年度にだけ、当時の生産品の石油コンロ、電気洗濯機等に混ざって、オクスフォード・エアロンカ機 1,107,950(円)とありました。
 理由は不明ですが、修理依頼等の話から購入して売却?したことなどが考えられます。

佐伯注 : エアロンカは↑の絵葉書の右端に写っている機体でエアロンカ65C JA3054です。

日本の初期登録航空機全集 bR から

1952/07/21 c/nC-4919 
  ヘンダーソンカンパニーが日本で販売か (日本航空機全集による)
1953/05/08 JA3054登録 東海航空 定置場藤沢飛行場
  宮田駿一 → 畑忠雄
1956/10/23 抹消登録 オーストラリアへ売却


・ タチヒ工業(株)の変遷

 また、キ-74??飛行機 1,698,840(円)というのもあります。キ74とは? プレッシャキャビン装備の試作遠距離偵察爆撃機です。コピー不良で判読不可ですが、米機のマークがついた写真があり、米軍に接収された機体が返却されて帳簿に載ったのかもしれません。

 戦後の混乱期のなか 立川飛行機鰍ヘ 「企業再建整備法」 により、第二会社「タチヒ工業梶vを設立し自らは「特別経理会社」として清算業務に邁進し、6年後の昭和34年に完遂。立飛企業(鰍ニして再建されました。

 第二会社のタチヒ工業 は、1950(昭和25)年に軽三輪自動車製造許可を得、開発し箱根の山は越えたが、規格改定等もあり生産には至らず。その間朝鮮動乱に関する作業に従事していたが、米軍に接取されている立川工場の賃貸料が入りはじめ、各工場の整備ができ、経理上も会社の運営が成立ちはじめました。

 以後、立飛工業梶A新立川航空機鰍ニ改称し、1952(昭和27)年7月20日に航空機製造事業法が公布され、R-52、R-53、R-HMを製作。R-52は宣伝を兼ねて読売新聞社へ、R-53は航空大学校使用機として、運輸省航空局へ寄贈した。R-HMは、航空局の審査に受からず。保管 ・展示 へ。
  試作研究費  R-52 3,519,197(円)  
           R-53 3,499,361(円)  
           R‐HM 2,513,952(円) 
 
 財政的にも厳しく、以後航空機の開発を断念し、 電気洗濯機、デンタル消毒器、瓦斯コンロ、石油コンロ、車のハブキャップ、燃焼式カーヒータ、工場用暖房機、コンクリートポンプ車、駐車装置等。航空機の部品関係は  IHI田無からJ-79〜F-100等のジェットエンジン部品、           日産荻窪(現IHIエアロスペース)からH2ロケットブースター部品等を生産した。


2018/03/20日替わりメモ

〇 エアスピード オックスフォードとエアロンカが百十万円で売り出された

 諏訪さんが国立国会図書館を当たってくれて、エアスピード オックスフォードの周辺情報が集まりました。極論すれば、会社存続のために商売になると思えば何でも手掛ける中での販売?だったようであります。

 同時に売りだされたエアロンカJA3054は、ヘンダーソン カンパニーというのが関係しているみたいで、きちんと手続きをとって輸入されたか、外国人が日本で手放したものをJA登録したのか分かりません。
 
 しかし、エアスピード オックスフォードは、それ以上に正体不明です。英連邦軍の将校あたりが帰国する際に手放したのかてな推理もしてみますが、まだまだ質問箱から外せませんね。

 なお、諏訪さんによりますと、私が、朽ちゆくR-HMを発見し世に広めるきっかけとなった時にお世話になった新立川航空機総務課の山本さんは、「紫電改」のテストパイロット山本重久氏のご子息だそうです。
 山本重久氏は、石川島播磨重工瑞穂工場(ジェットエンジン整備、組立等)で、社員教育関係のトップに就いておられたそうで、そういう関係で新立川航空機がIHIのエンジンや立体駐車機の下請けをやっていたのですね。

 歴史の薄皮が少しづつはがれていく醍醐味を感じます。ありがとうございました。

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新 2018/05/15   大藤さんから   大藤

 はじめまして。エンボイについて調べ物をしていて、たまたま貴サイトの記事を読みました。立川の絵葉書に載っているオックスフォード機の素性について、解決には至っていませんが、参考情報をお知らせします。

 まず、当該機体については、日本航空協会航空遺産継承基金のギャラリーに、1953/12/05藤沢飛行場撮影の鮮明な写真が掲載されています。前の方>のページにはR-52も写っています。
 http://www.aero.or.jp/isan/gallery/takahashi-album-01/photos/07-023-001-014-03.html

 機体番号のAS703については、英空軍の機体で当該番号が存在しました。これはオーストラリア空軍に供与され、第二次世界大戦を生き延びて、1947年に民間に払い下げられたところまで、以下のページでデータを確認できます。
 http://www.adf-serials.com/2a25b.htm

 AS703はオックスフォード AS10 Mk.Iとのことで、これは日本国内で撮影された機体の写真と矛盾しません。

1950年に朝鮮戦争が始まり、東南アジア、オセアニアからは、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、タイが派兵したため、付随して(民間機として)来日した可能性は排除できません。また、日本は特需景気で沸き立ちましたから、商機とした可能性もあります。

 その後、AS703はフィリピンの登録記号 PI-C415 となったらしく、1955年3月にはマニラに所在した等の情報は、以下のリストに記されています。
 http://www.ab-ix.co.uk/pdfs/airspeed_oxford_&_consul.pdf

 PI-C415について、さらに調査しましたが、フィリピン当局が公表している登録>リストは、古い時代のデータが載っておらず、また、航空ファンの投稿サイト等でも今のところ確認できておりません。

 私の仮説では、1947年に民間放出された豪空軍機が、いったんは日本の会社が買う等の話があって1953年に来日したものの、結局、フィリピンに売られていったのではないかというものです。民間に放出されたあとも空軍の登録記号で運航していたのか確認できていないので、さらに調査を続ける必要がありますが、ここから先はかなり手間取りそうですので、中間のまとめとしてお伝えします。

 

* 鳳文書林刊1954年版日本飛行機全集航空年鑑の銃塔付きの三面図について

 AS7031942年末にNo 3 Bombing and Gunnery School(第3射爆学校)に配備され、銃塔を後付けする改造を受けています。銃塔をはずした時期は明らかでありませんが、1945年にアンセット航空に割り当てられて、改造工事およびオーバーホールを行った旨の記載がありますので、その際に元の輸送機仕様に戻したと思われます。よって、三面図はあながち誤りとは言い切れません。